第19話僕に能力がなければ④
筆に絵の具をつけて、白いところを消していく。
緑色はこれで最後だ。
僕は、ようやく四枚目の完成品である、森の背景画を仕上げた。
梨々香が三枚目を仕上げて、三日が過ぎていた。
そして、梨々香が国語科準備室に姿を現さなくなってからも、三日が経っていた。僕が一方的に彼女を責めて以来、梨々香の担当だった背景画は手を付けられていない。
梨々香は、もうここには来ないのだろうか。
そう思うと、どうしようもない後悔に襲われる。梨々香が傷ついたのであれば、それはすべて僕のせいだ。
僕は、スマートホンを手に取ると、梨々香の作成したスライドショーを流した。川村さんとで行った水族館のときのものだ。
そこでの梨々香は、僕に笑顔を見せている。できることなら、このときに戻りたい。
梨々香が姿を見せなくなってから、このスライドショーをかれこれ数十回は再生している。
思い出は、いつでもキラキラ輝いている。
国語科準備室の扉が開かれた。
僕は、梨々香が来たのかと期待して扉に目をやった。しかし、そこに彼女の姿は無かった。
代わりに、そこには男の人が立っていた。
鼻の下に少し髭を生やした、長身の男。それは、三島晴信先生だった。
「やってるか」
三島先生は、ためらいなく教室に入ってきた。
「どうしたんですか?」
「資料を取りに来た」
ここは国語科準備室だ。だから、国語科の三島先生が来ることに不審なところは何もない。
三島先生は、僕の後ろを通り抜けると、ロッカーの中を物色し始めた。
僕は、作業に戻る。
「台本、変えたみたいだな」
三島先生が、ロッカーの中から何かを探している状態で、声をかけてきた。
「台本?」
「文化祭、オズやるんだろ?」
「はい」
「その台本だよ」
僕は、三島先生がこんなことを話題に挙げる理由がわからなかった。彼は、二年三組とは関わりのない先生だし、だから二年生のクラスの出し物にも興味がないと思っていた。
「はい、変えましたけど」
そう言った後で、横山さんのことが脳裏に浮かんだ。
横山さんは文芸部の部員で、三島先生はその顧問だ。もしかしたら、横山さんは台本について先生と何か話したのかもしれない。それで先生は、僕たち二年三組の演劇を知ったのだ。
「横山さんに聞いたんですか?」
「いや、他の人から。あの台本は俺が書いたものだったから」
思わず、作業の手が止まってしまった。
台本を、横山さん以外の人が書いた。そんなことは、考えもしなかったことだった。
「あの、クラス演劇では再現不可能な台本をですか?」
「そうだ。横山が、物語を描けなくなったって言うから、俺が見本として書いたんだよ」
三島先生は、とんでもないことを平然として言う。別に、隠す気はないのだろう。
「じゃあ、なんで、再現できないものを見本なんかにしたんですか?」
そう言うと、三島先生は声を上げて笑った。
「あくまで見本だからだよ。完成形を渡したら、あいつのためにならないだろ。あくまで、お前らのクラス演劇の台本担当は横山だったんだから」
「でも、横山さんはその見本を、完成品として出してきましたけど」
「どうしても書けなかったんだな」
横山さんは、スランプに陥っていたようだ。彼女は、中学生のときから小説や戯曲を書き始め、コンクールに出品していたようだが、最初の作品こそ三次選考に進んだものの、それ以降すべての作品が一次選考にすら通らなかったらしい。
「今年の五月だったかな。五作目の長編小説が、また一次選考で落選したって話を聞いてから、あいつは書けなくなった」
三島先生は、ロッカーを物色する手を止めて、横山さんとのことを思い出すように、宙を見上げていた。
「じゃあ、なんで台本の役なんて引き受けたんだろう」
「変わるきっかけが欲しかったんだろ」
三島先生は、またロッカーに手を付けた。
「三島先生、文芸部の顧問ですよね。手助けはしなかったんですか?」
「見本を作っただろ」
「横山さんが、また物語が書けるようになるように、何かしなかったんですか? いい小説を書くアドバイスとか」
「俺は小説家じゃない。そんなことはできないよ」
三島先生は、ロッカーを閉めた。彼は、分厚い資料を三冊、手にしていた。
「じゃあ、がんばれよ」
そう言って、彼は教室から出て行こうとする。
「ちょっと、待ってください」
僕は、あることも思い出していた。
「横山さん。その三島先生が作った見本をアレンジしたいって、先生に相談しませんでしたか?」
水島くんが言っていた。台本をパンク調にアレンジすればおもしろくなるという話しで、横山さんと盛り上がったって。
「してきたよ」
「許可しなかったんですか?」
「何もないところから物語を作れないと、物書きとは言えない。でも、あいつ。結局、あれをアレンジしたんだろ?」
三島先生は、横山さんが台本を直したと思っているのか。
「違います」
僕がそう言うと、三島先生は目を丸くした。
「あの台本じゃ、クラス演劇は出来ないだろ」
「台本を直したのは、クラスのみんなです。横山さんは、自分では直せないと言って、台本の役から降りました。それ以降、クラス演劇には関わっていません」
三島先生はその事実を知らなかったようだ。
「そうか」
彼は、つぶやくように、そう言った。
「あいつ、最近、文芸部にも顔見せてないんだよな。何かあったと思ったら、そういう事情があったのか」
三島先生は、心配そうな顔をしていた。
そんな彼から、僕は目を逸らした。ずっと俯いて、黙っていた。
「横山を、よろしくな」
三島先生は、そう言って国語科準備室を去っていった。先生が遠ざかっていく足音が聞こえなくなってから、僕は大きく息を吐いた。
横山さんを助けてください。
先生が出て行く直前。そんな言葉が出かかった。
でも、ぐっと堪えた。
横山さんは、コンクールに落ち続け物語が書けなくなった上に、クラスからの信用も失った。そして、部活にも顔を見せていない。
彼女は、今、どん底にいるのかもしれない。だから、誰かが彼女を救ってあげなくてはいけない。
しかし、それは三島先生ではいけない。
横山さんは、三島先生のことが好きだ。そんな人から、慰められたら彼女は救われるかもしれない。
でも、その後に何が待っている?
三島先生は、既婚者だ。だから、横山さんが三島先生と一緒にいることは許されない。好きな人から優しくされて、一層先生への気持ちが強くなってしまえば、その後にやってくる宿命的な別れがさらに辛いものになる。その傷は、これからずっと癒えないかもしれない。
だから、三島先生と横山さんは、今後、関わらないほうがいい。
僕は、完成した背景画を段ボールに取り付けた。
作業に集中しようとしてが、どうしても、横山さんのことが頭から離れない。
誰が、彼女を救えるのだろうか。
横山さんと接点のある水島くんは、自分の家庭のことで忙しそうだ。それ以外、横山さんと親しい人を知らない。もしかしたら、彼女を救おうと思ってくれる人は、クラスの中にはいないのかもしれない。
ふと、教室の角にあった姿見に、目をやった。そこには、力ない僕の顔が写っていた。
こういうとき。僕は何もできない。
今まで、誰とも仲よくなれなかった僕は、人ひとり慰めてあげることができない。
こんなとき、梨々香がいれば。彼女なら、考えることなく、すぐに行動に移しただろう。みんなを幸せにしなきゃとか言って、すぐに他人の懐に入り込み、みんなを笑顔にする梨々香なら、きっと横山さんの力になれるはずだ。
僕ひとりではなにもできない。それが、むずむずしてもどかしく感じる。
こんな感覚、今まで一度も感じたことがなかった。
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