第4話不思議な能力とモデル美少女④
この高校の美術室は、僕がまだ訪れたことのない未開の地であった。芸術科目の選択で音楽を選んでいた僕は、高校で美術の授業を受けることがなかったのだ。だから、教室に入ったときに顔を合わせた人物も、僕が初めて顔を合わせる先生だった。
「こんにちは」
と声をかけると、三十歳手前くらいに見える女性教師は、僕を見て目をはちくりさせていた。
「
僕が確認すると、その女性教師はうんと頷いた。
「ちょっと、相談があるんですけど」
「どうした?」
生徒の絵をチェックしていた先生は、その絵の束を机に置いて立ち上がった。
僕は自己紹介をした後、クラス演劇の背景画について尋ねた。
「演劇の背景ね。それなら、大きな白い布に描いて、ステージの後ろに貼る方法が手っ取り早いかな。でも、それだと場面転換できないけど、背景の種類っていくつかあるの?」
見知らぬ生徒である僕の相談にも、町本先生は親身になってくれた。
「七枚ほど」
「七枚! 文化祭までにそんなに背景を描くってこと?」
「そうらしいです」
「それ、結構大変だと思うけど。君、絵に関しては素人なんでしょ?」
「はい」
僕が真剣な表情でうなずくと、先生は大声で笑った。
「君、結構おもしろいね。てか、なんでそんな役割任されたのよ」
「なりゆきで」
そう言うと、さらに、けらけら笑われた。ツボにはまったようだ。
「そっか、そっか。じゃあ、七枚の背景画を完成させるとして。場面転換の方法だよね。ちょっと、安っぽく見えちゃうけど、段ボールに布を張り付けるって手があるよ」
「段ボール?」
去年、僕が散々集めたアイテムだ。
「段ボールを布の大きさまでつなぎ合わせて、それに背景になる布を張り付けるの。そうしたら、それをステージの後ろに立てかけるだけ背景として固定されるし、七枚重ねて立てかければ、紙芝居みたいにめくるだけで、場面転換もできる。これで、いけばいいんじゃない」
先生のアドバイスにより、やることはわかった。
まずは、段ボール、布、絵を描く道具を揃えなくてはいけない。
今年もまた段ボールを集めるのか、と思うと、ちょっと笑いが漏れてしまった。
「ちなみに、予算はいくらなの?」
僕は首を傾げた。
確かに、必要なものを集めるのにはお金がかかる。しかし、それについては何も知らされていない。
「わかりません。そもそも、台本もできてないんで」
「マジ? それ、大丈夫なの?」
心配されてしまった。やはり、台本が未完成というのは、準備をするうえで致命的であるなようだ。
「とりあえず、台本も含めて、これからしっかり決めていくみたいなんで。お金がなくても、今できることってありませんか?」
先生は、うーんと唸って腕を組んだ。
「段ボールなら集められます」
それに関しては、経験者ゆえ、かなりの自信がある。
「わかった。それなら、ステージの光が反射しないように、段ボールを黒のペンキで塗るところから始めよっか。段ボールがあれば、ペンキなら、ここにあるから」
どうやら、黒のペンキを無料で提供してくれるらしい。ありがとうございます、と頭を下げると、また笑われた。
「君、ちょっとおもしろいからね。また、何かあったら相談して」
「はい」
「あと、もう一回ちゃんとクラス会議した方がいいかもしれないね。このままだと、たぶん、空中分解するよ」
「空中分解?」
「企画がなくなる、つまり、クラスの連携がとれなくて文化祭で演劇ができなくなるってこと」
それは、僕も心配していた。ちゃんとしたものを形にするなら、このままではいけない。
「わかりました」
町本先生は、段ボール集め頑張って、と手を振ってくれた。
「関係ないことなのですが、もう一つ、お尋ねしてもいいですか?」
「うん」
僕は、先生の頭の上を一瞥してから、口を開く。
「町本
僕が、その名前を口にしたとたんに、先生の表情はみるみる赤くなった。
「修の知り合い?」
「いえ」
先生の頭の上には、先ほどの横山さんと同じように、人の名前が浮かんでいた。しかし、町本先生の頭上に浮かぶ文字は『三島晴信』ではなく『町本修』という人物の名前だった。僕はその人を知らない。
「うちの旦那だけど」
「旦那さん?」
先生は、旦那さんの名前を頭上に浮かべているのだ。
それを知った僕は、ありがとうございました、と言ってそこを後にしようとした。しかし、初対面の僕がいきなり旦那さんの名前を口にしたので、案の定、引き止められてしまった。
「ちょっと、福本くん。私、旦那のことは学校の誰にも話してないんだけど、なんで修のこと知ってるのよ」
「それは……」
説明が難しい。あなたの頭の上にその名前が浮かんでいるのです、とは言えなさそうだ。
「先生、やっとできましたよ!」
この場に、もう一人、生徒がやってきた。
「
「これ、コンクールに間に合いますよね?」
緑川と呼ばれた女子生徒は、両手に油絵を持っていた。
僕は、そのどさくさに紛れて美術室を去ろうとした。しかし、緑川さんの頭の上を見て、足を止めてしまった。
「
そう言うと、緑川さんは、僕のことをぎろりと睨んできた。
「福本くん、緑川さんの知り合い?」
「いえ。違います」
「でも、屋島くんって、緑川さんの彼氏だよ」
彼氏?
緑川さんはお付き合いしている人の名前を、頭の上に浮かべているのか。
「先生、私の前で、健人の話題はもうやめてください」
僕を睨んでいた緑川さんは、先生に向きなおった。
「どうして?」
「昨日、別れたんです」
「別れたって、あんなに仲良かったのに?」
「突然、好きな人ができたから別れようって」
どうやら、緑川さんは付き合っていた屋島健人に、昨日、フラれたらしい。
「じゃあ、僕はこれで。また、よろしくお願いします」
先生の注意が緑川さんに移ったタイミングで、僕は逃げるように美術室を去っていった。
横山さんと町本先生、緑川さんの頭上に人の名前が見えた日の翌日。
朝、教室に入ると、目の前の景色に思わず足を止めてしまった。そこはもう昨日までと同じ空間ではなくなっていた。
教室にいるクラスメートの半分以上の頭上に、横山さんたちと同じような文字が浮かんでいるのだ。それは歩いたり首を動かすだけで、ゆらゆらと揺れている。
そこにいる人たちは普段と変わりない日常を送っていた。頭上に浮かぶ文字は、恐らく僕にしか見えないのだろう。
僕は、それぞれの文字に視線をなぞりながら席に着いた。僕のそんな様子が不審だったのか、数人の生徒から訝しげな目を向けられた。
それでも、僕はその異様な光景に目を見張ったままだった。一日中、みんなの頭上以外のことにちっとも集中できなかった。
そんな奇妙な一日は、僕の大道具係としての活動初日でもあった。僕には、今日より段ボールを集めるという仕事があった。
帰りのホームルームが終わると、僕は急いで教室を出て行った。
午後三時半。できれば、下校時間である五時までにある程度の段ボールを集めたかった。
僕は駆け足で階段を降り、地下にある駐輪場に向かう。いつも徒歩で通学している僕だが、今日のために司から自転車を借りる約束をしていた。段ボールを短時間である程度集めるには自転車は必須だ。それで、下校時間には返すことを約束に、今日の昼、彼から自転車の鍵を預かった。
ピロンッ。
自転車を目前にして、スマートホンが着信を告げた。司からだった。
「もしもし、真人。ごめん、渡したのロッカーの鍵だった」
僕は、ポケットから借りた鍵を取り出した。
ペンギンのストラップがついた、小柄な鍵。それは、自転車のものではなかったようだ。
「まだ、教室にいる?」
「うん。取りに来て」
昔から、司には抜けたところがある。わかった、と電話を切ると、僕は教室へ引き返した。
「ちょっと、どういうこと?」
教室に入る手前のところで、中から瑞希の声が聞こえてきた。
僕は、そこで足を止めた。その瑞希の声の調子は、どこか怒っているというか、いら立っているようだった。
中の人に存在を気づかれないように、恐るおそる教室を覗き見る。そこには、役者に決まった人たちが集まっていた。
「どうしたの、瑞希」
「この台本」
瑞希は、コピー用紙の束を、みんなに見えるように掲げた。
それは、演劇の台本だった。完成が遅れ気味だった台本は、今朝、横山さんから新垣くんに渡ったみたいだった。
「登場人物表、見て。人数、明らかに多くない?」
瑞希は、ページをめくって見せた。
「確かに、これじゃあ、決まってる役じゃ足りないじゃん」
そこにいた司が言った。
司以外のみんなも、瑞希が開いた台本に集まる。そして、司と同じような声を漏らした。
どうやら、横山さんの作った台本の登場人物と、会議で決まった役者の数が合わないようだ。
「横山さん、役の数が決まってるの、知ってたんだよね?」
「それは、横山だけじゃなくて、クラスみんなが知ってただろ」
「じゃあ、なんで、こんな台本書いてきたんだろう」
みんな言葉が出ないようで、しーんとなってしまった。
扉の外からその様子を見ていた僕が、とても中に入っていけるような雰囲気ではない。
「あいつ、協力する気ないんじゃないの?」
誰かから、そんな声があがった。
「どういうこと?」
瑞希が聞く。
「横山って、俺話したことないけど、なんか他人のこと見下してるような感じじゃん。だから、クラス演劇やることも実は馬鹿にしてて、こんなの寄こしてきたんだよ」
心無い言葉だ。
でも、本当に既に決まっていた役者の数と登場人物の数とが食い違っているのなら、そう言われてしまうのも無理はないのかもしれない。
「しかもさ。これ、あきらかに長くない?」
他の誰かが言う。
「そうだね。この台本をまともにやったら、たぶん一時間半くらいかかるんじゃないの」
「予定では、一回三十分って話だったのに?」
またも、沈黙になってしまった。
尺も予定時間とかけ離れているみたいだ。
「一回、横山さんと話し合う必要がありそうだね」
瑞希が、ため息交じりにそう言った。
僕は、一歩、後ろに引いて、教室のドアに身を隠す。
横山さんは、本当にクラスへの嫌がらせのために、登場人物を多く設定して、予定の尺では足りないほどの物語をつくったのだろうか。
もし、それが本当なら、どうしてそんなことをするのだろうか。
僕は、横山さんの頭上に浮かんだ名前を思いだした。
――三島晴信。
それは、国語科教師の名前だ。
頭上に浮かぶ名前は、人によって様々だった。例えば、町本先生は『町本修』であり、緑川さんは『屋島健人』であった。クラスメートの頭上にも、それぞれ違った名前が浮かんでいた。
その名前は何を意味するのか。僕はそれもわかっていた。
町本先生は旦那さんの名前。緑川さんはお付き合いしていた人の名前。つまり、頭上に浮かぶ文字は、その人の恋愛対象であるのだ。それは、僕が知っているクラスのカップルなどを見ても、明らかだった。
でも、そうすると横山さんが三島先生のことを好きだということになる。
三島先生は、横山さんの所属する文芸部の顧問だ。だから、そういうことがあっても不思議ではない。
しかし、この事実は僕を悩ませた。
三島先生は、三十代後半でしかも奥さんと子供がいる。だから、横山さんの気持ちは決していい結末を迎えない。
横山さんは叶わない恋心を抱いている。そして、自作の小説や脚本は、コンクールに落とされ続けているらしい。教室では、誰とも話をしない。
そんな彼女が、クラスでの取り決めをまるで無視したような台本を書いて来た。
横山さんは、どういう気持ちでいるのか。それを考えれば考えるほど、僕は苦しくなってくる。
僕には関係ない。
ひとまず、そう思うことにした。横山さんがどうであれ、僕に何ができるわけでもないし、考えてもしょうがない。
教室の中には、まだ重たい空気が漂っていた。とても、中にいる司と話ができる雰囲気ではない。自転車は、諦めるしかなさそうだ。
僕は踵を返すと、やらなくてはいけない段ボール集めへと走った。
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