ハムスター奇譚

小川薫

第1話

「ねえねえ」小さな女の子の声だ。

わたしは枯野に座り込んでいた。確かわたしは病院のベッドにいたはず。強風に巻き込まれ、頬を細い枯れ草がはたいていった。痛みを感じ、頬に触れると指が血で染まる。寒い。

「ねえねえ」日本人形みたいなおかっぱ頭の幼女はわたしの腕を引っ張る。仕方なく立ち上がると、少女は走り出し身を翻し、わたしを呼んだ。

「こっちこっち」

わたしは歩き出す。

少しすると黒い蝶が群れ、舞っているのを見つけた。魅せられるように近づく。

「ここだよ、入るの」黒い穴から中から白い小さな手が突き出た。

「ここだよ、入るの」白い小さな手が足を引っ張り、転げ落ちる。

「1名さまご案内ー」

幼女はひらりとわたしをかわし、三日月のような細い目と口で笑った。

わたしはそのまま勢いのある風の塊に吸い込まれた。掃除機を思い出した。

掃除機のチューブの内側のような場所をゴミのように翻弄されていった。

わたしのような人間がゴミ扱いされている。どす黒い怒りがわたしの中に生じ満たしていくのを感じる。と、向こうから得体のしれない、巨大だということだけはわかる物体が押し寄せ、吸い込まれ身体中が軋んだ。



入れておくれ、ボケた母親を雪の日土間に放置し次の日冷たくなっていて警察も夜中勝手に出て行った事件性なしと判断した。妻はバカだったからわたしの言うことを守れず挙句何も反応がなくなり首をくくった。上司も部下も役立たずでいつも割りを食ったから妻のどうでもいい話はさえぎってやつらがどんなに無能なのか一晩中訴えた。妻はわたしの嫌いなスーパーの惣菜を並べたりくつろいだ後に温かい食事が冷めていたり時間通り家事をしなかたっり付き合いをやめるように諭した友人と隠れてあっていたりで幾度となく数時間に渡り反省させたが結局泣きながら謝るだけで改まらなかった。妻は本当にダメな人間でわたしの人生に多大な損害を与えた。若い頃は綺麗でどこへでも連れて行って自慢し帰ったら至らないところを指導した。わたしは天才で周りは馬鹿ばかりでそれら全てが人生を台無しにしたのだ。ああ苦しい、孤独だ、誰にも理解されない。自分がすばらしいばかりに。何も知らなかった万能感でいっぱいだったあの頃に戻りたい。


意識が薄れた。


白い塔の上で赤ちゃんたちがポンポンと飛び出してくる。子供たちがわれさきに駆け寄っていって世話をし服を着せてやりコウノトリがきてどこかへ連れて行った。次の生を生きるのだろう。

時々くすくす笑う子供たちに取り囲まれるだけの赤ちゃんがいる。

「ゴキブリって共食いするんだ」「そうなの」くすくす

その赤ちゃんはたちまち黒い無数の虫に分解し、消えて行った。


「新しい子が来たね」残酷な瞳の子供たちに囲まれた私は悲鳴をあげた。

「心がりっぱでえらくて肥大しているね」「痩せてもらわなくちゃ」

「ダイエット、ダイエット」かけ声と共に放り投げられた。


気がつくと格子の中、必死に走っている自分がいた。ピンク色の輪の中を走り続ける。後ろから例の黒い塊が近づいてくる。どんどん近づき巻き込まれ、わたしの心を削っていく。


飛び起きた。なんてひどい夢だ。冷たい汗をびっしょりかいて震えていた。大きく息をつく。


「ねえねえ」

ぎくっとした。蝶が舞い暗い穴から白い幼い手が伸びている。これは夢の続きに違いない。が、足が勝手に穴へ向かう。

「はい、お一人さまご案内ー」


悲鳴をあげて飛び起きた。もう何度目だろう、いや何百回、何千回。

もう嫌だ。なぜなんだ。夢なら早く覚めてほしい。


「ねえねえ」

‥‥‥


ぽん

「またまた来たねえ」いつもの残酷な瞳に取り囲まれている

「震えてる、元気だね」

「もう一回だね」

「ねえハムスターってたくさんいれとくと共食いするんだって」


ああ、まだこの悪夢は続くのか。わたしはこんなに尊敬されるべき人間だというのに。


ハムスターが元気よくピンクの回し車を回す。

くるくるくるくる。

ずっと回す。

死んじゃったらまた新しいのを買ってもらえばいい。

今、何匹目?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハムスター奇譚 小川薫 @yosami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ