壊れた心②
ピアニストにとって両手とは、命と並ぶ程、大事なもの。
ピアニストになれなかったスタルスの両手には、その手を守るように、未だ真っ白な手袋が常に嵌められている。
その真っ白な手袋が、薄らと赤く染まり始めた。
短く手入れされているにも関わらず、手袋の中の爪は、柔らかな手の平を傷付けている。
スタルスは手袋越しに爪が食い込む程、拳を強く握り締めているのだ。
そして血走って見える、その両目が見詰める先は、ピアノだけが置いてある、今は誰も居ないステージ。
そのステージの袖から、誰かが現れた。
「…なっ!」
スタルスは我が目を疑った。
その視線の先に、自分と血の繋がりのある、一人の少年が歩いていたのだ。
リアンである。
共に過ごした期間は短く、顔付きも変わっているものの、スタルスはその少年がリアンであると、直ぐに分かった。
ピアノへと一歩一歩近付いて行くリアンの顔は、緊張しているように見える。
そして、軽く握ったリアンの指先は、微かに震えている。
無理もないだろう。
客席には大勢の人が座っている。
リアンはこれまでに、こんなに大勢の前で、ピアノを演奏した事がないのだ。
ピアノの前に着いた。
ピアノの前には、黒い背もたれの付いた椅子が置かれている。
静まり返った会場に、椅子が引かれていく音が木霊した。
椅子に腰掛けたリアンは、目の前のピアノの鍵盤を見詰める。
艶やかな白と、光沢のある黒。
それ以外の色は、そこには存在しない。
物心付いた時から、いつでも近くにはピアノがあった。
初めてピアノで音を出した時の事は覚えてはいないが、初めて弾いた曲は覚えている。
鍵盤を見詰めるリアンは、求めるように指先を近付けて行く。
その顔は、先程の緊張が嘘のように、穏やかな表情をしている。
そして、冷たくとも温もりを感じる鍵盤に、指先が辿り着いた。
その瞬間、リアンの顔付きが変わった。
指先がしなやかに動き出す。
踊るように鍵盤の上を動き回る指先が、生み出す、悲しげなメロディー。
まだ始まったばかりの演奏だが、会場は既に、悲しげな雰囲気に包まれている。
「…なっ!」
スタルスは、血走った目を、この悲しげなメロディーを作り出しているリアンに向けたまま、ただ一言、そう発した。
懐かしい景色が、頭の中に、一瞬にして広がった。
ピアノの前に座る、一人の少年。
その近くには、幼い男の子が座っている。
ピアノの前に座る少年が、ピアノを弾き始めた。
部屋の中に、悲しげなメロディーが広がっていく。
男の子は、憧れの眼差しで、ピアノを弾く少年の背中を見詰めている。
そしてやがて、演奏が終わりを迎えた。
部屋の中には、感動という名の余韻がまだ残っている。
男の子は、立ち上がると、駆け出した。
そしてやけに広く感じる、ピアノの前に座る少年の背中に飛び付いた。
男の子は、温かく感じるその背中に、自分の頬をあてがい、うっとりとした表情を浮かべている。
「にいにー。今の曲、何て曲?」
おそらく兄なのだろう、男の子は、背中から頬を離さずに、甘えた声を出した。
「兄ちゃんが作った、別れ、旅立ちっていう曲だよ」
少年は、にっこりと微笑みながら、腕を背中に回し、抱き付く弟の体を優しく撫でた。
自分の頭に浮かぶ、この仲慎ましい兄弟を、スタルスは知っている。
それは当然だろう。
何故なら、自分の頭の中に映し出されている、少年の背中に抱き付く男の子は、紛れもなく、幼き日の自分なのだ。
そして幼き日の自分が抱き付く、この温かく、広く感じる背中も、スタルスは知っている。
それは決して振り返る事はなかった、記憶の奥底に眠っていた、自分もそうなりたいと憧れた、兄フェルドの背中。
今耳に届いている曲が、頭の中で鳴り止まないピアノの音と重なる。
そしてスタルスは、呆然とした視線で、『別れ、旅立ち』を弾く、リアンを見詰める。
写真の中でしか知らない、愛しい母。
その横には、いつでも愛を注いでくれた、父の姿があった。
ピアノを弾くリアンは、今、目の前で微笑む両親を見ている。
写真でしか知らない母、ソフィアの透き通るような白い肌が、リアンの顔にゆっくりと近付いていく。
そして我が子の顔に行き着いた指先が、心の底から湧き上がる愛しさを現すかのように、リアンの顔を優しく撫でた。
赤児の頃に触れられた、思い出せなかった母の温もりが、今触れられている温もりと重なる。
その瞬間、リアンの瞳から、溢れ出す涙が零れ落ちた。
泣きながら、リアンの指先は、白黒の鍵盤の上を動き続けている。
そして白黒の思い出と化した昔の事が、今目の前に広がっているのだ。
愛しそうに自分の顔に触れていた、母の温もりが消えた。
そして、気付けば、目の前から母の姿が消えていた。
探し求めるように彷徨う視線が、全てを包み込んでくれる優しげな笑顔を浮かべる父の前で止まった。
にっこりと頬笑みかけたフェルドは、いつの間にか持っていた筆を顔の前に掲げ、腕を伸ばした。
リアンはその仕草を覚えている。
フェルドが絵を描く時に、構図を決める為に必ずやる仕草なのだ。
真っ白なキャンバスに、躊躇いなくフェルドは筆を降ろした。
リアンを優しく見詰めたまま、筆を動かす様は、昔となんら変わらない。
ピアノを弾くリアンと、キャンバスに向かい絵を描き続けるフェルドは、向かい合っている。
幼き日の記憶の光景が、今目の前で広がっている。
手を伸ばせば届きそうな距離に、もう二度と会えないと思っていた、父親が存在している。
ピアノを弾く手を止め、リアンはフェルドに向け、手を伸ばそうとした。
しかし、鍵盤から、指先が離れる事はなかった。
触れたいのに、触れられない。
リアンはフェルドを見詰めたまま、ピアノを弾き続けた。
その表情は、悲しみに染まっている。
気付いているのだろう。
これが現実ではない事を。
フェルドが筆を持つ手を止め、額を腕で拭いながら、にっこりと微笑んだ。
リアンは、その仕草も覚えている。
フェルドは絵を描き終えると、必ずその仕草をしていた。
フェルドは目の前のスタンドから、キャンバスを持ち上げた。
そして、今描き上げたばかりの絵を、対面するリアンに見せるように、くるりと回す。
そこには、悲しそうな顔でピアノを弾く、少年の姿が描かれていた。
それが誰なのかは、その絵を見詰めるリアンには直ぐに分かった。
それは、今の自分を描いたもの。
キャンバスの中には、今のリアンの姿が描かれている。
視線をキャンバスから上へと移す。
しかしそこには、居るはずの父の姿はなかった。
コトン。
宙に浮いたキャンバスが、床に落ち、そんな音を立てた。
悲しみに染まる瞳で、父親が立っていた場所を見詰める。
見詰める事しか出来ないその場所に、朧気な人影が浮き上がってきた。
そこに立っているのは、懐かしい顔。
その懐かしの少年は、服の裾で鼻を拭くのが癖だった。
今、目の前に立っている少年も、服の裾で鼻を拭いている。
そして少年はにっこりと微笑むと、くるりとリアンに背中を向け、目の前にある、どこまでも続く坂道を、全力で駆け出して行った。
その光景をリアンは覚えている。
幼き日から、共に笑い、共に泣いた、親友であるドニーと共に駆けた坂道。
いつも目の前を走るのは、足の速いドニーだった。
リアンはいつも、ドニーの背中を追い掛けるように、走っていた。
その親友の背中が遠離って行く。
リアンは悲しみに染まる瞳で、遠離る親友の背中を見詰める事しか出来なかった。
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