壊れた心

壊れた心①

スタルスの耳にも、ピアノの音は届いている。


そして、周りの者の視線は、そのピアノの音を奏でる一人の少女へと向けられている。


しかしスタルスの視線は、少女が演奏するステージへと向けられているものの、その目は少女を見ていない。


そして少女が奏でるピアノの音は聞こえているものの、周りの者達とは違い、演奏を聴いてはいないのだ。


スタルスは今、ピアノコンクールの審査をしている。


そして少女は、そのコンクールの参加者。


当たり前の事だが、審査される為に、今ピアノを弾いている。


しかし審査長を務めるスタルスは、ピアノの演奏を審査するどころではなかった。


ジョルジョバの息子がこのコンクールに出場するという事実が、スタルスの心を職務を全うできない程、ざわつかせているのだ。


スタルスは自分では気付いていないが、誰と比べても負けぬ程に、ピアノを愛している。


そしてそのピアノへの愛情は、彼が成長するに連れ、歪んだものになってしまったのだ。


誰よりもなりたいと願った、父親のようなピアニスト。


そして誰よりも越えたいと思った、世界一のピアニストの父親を。


尊敬して止まない父親から打たれた、ピアニストになるという夢の終止符。


誰よりも認めている父親から才能がないと言われたからこそ、スタルスはピアノを弾く事を辞めたのだ。


それからのスタルスは、ピアノを弾く者を憎んだ事はあっても、ピアノ自体を憎んだ事は一度もない。


それは物に当たる事がある、気丈の激しいスタルスが、一度たりともピアノを傷付けた事がない事から見ても分かるだろう。


自分がなりたかった、世界一のピアニスト。


その夢はジュリエが産まれた瞬間から、彼女に託された。


しかしスタルスは、溺愛するジュリエにピアノを無理強いした事はない。


ジュリエは、ジェニファのお腹の中にいる時からピアノの音を聴いている。


それは産声を上げ、スタルスとジェニファからありったけの愛情を注がれ成長していく中でも、変わりはなかった。


ジュリエは日々、ピアノの音に包まれながら、成長していったのだ。


そんな彼女がピアニストになる夢を持ったのは、必然かもしれない。


その小さな体と共に、日に日に成長していくジュリエのピアノ演奏。


それは親馬鹿ではなく、誰が聴いても、同世代でライバルと呼べる者がいない程、彼女のピアノの腕前は誰よりも抜きん出ていた。


その事実が、スタルスは堪らなく嬉しかったのだ。


しかし、それはリアンのピアノの音を聴くまでの話。


リアンのピアノは、スタルスが初めて敗北を知った、兄のフェルドの奏でる音そのもの。


初めてリアンのピアノを聴いた時、スタルスはそう感じたのだ。


ジュリエは世界一のピアニストにならなければならない。


その真っ直ぐで純粋過ぎる思いが、スタルスの心を歪めているのだろう。


ジュリエのピアノを凌ぐ可能性がある者が、このコンクールに出場している。


その事実が、スタルスの心をさらに壊し始めていた。


代わる代わる披露されていくピアノ演奏。


皆が静かに耳を傾け演奏を聴いている中、スタルスだけは、未だ演奏に耳を傾けてはいなかった。


「あれ、ジョルジョバじゃないか?」


苛立った指先を、忙しなくテーブルにぶつけているスタルスの耳に、そんな声が届いた。


その声は、隣に座るヤコップにも聞こえていたようだ。


「息子さんを見に来たんですかね?」


スタルスの気持ちなど知る由もないヤコップは、何の気なしに、そんな言葉を口にした。


しかしスタルスが、その問い掛けに答える事はなかった。


スタルスは食いしばった歯を軋ませながら、その声が聞こえてきた後方へと顔を向ける。


そしてざわつく客席の中心に、スーツを着た白髪の老人を発見した。


そこに座っているのは、紛れもなく、あのジョルジョバ.フィレンチであった。


今はステージの上で演奏する者は誰もいない。


だからだろう、多くの観客はステージを見ずに、ピアノの神と称されるジョルジョバの姿をその目に焼き付けようと、彼を見詰めている。


しかしそれは、直ぐにジョルジョバの一つの動作で変わった。


笑顔のジョルジョバは、突き立てた人差し指を、ステージに向けている。


ジョルジョバを見詰めていた観客達は、彼の指先を辿り、指し示すステージ上へと視線を移した。


そこには、ステージ中央に置かれたピアノへと向かう少年の姿があった。


言わずもがな、少年はコンクールの出場者である。


客席に座る者達は、出場者の応援で来ている者もいるだろうが、それ以外の者達は、ピアノ演奏を聴く事が好きな者達なのだろう。


そうでなければ、長丁場となるこのコンクールの観客席には座らない筈だ。


これから少年がピアノを演奏する事は、今までの流れから考えて、皆分かっている。


一度ステージへと向けた視線を再びジョルジョバへと戻す不躾な者は、この会場にはいないようだ。


一人を除いては。


「どうかしましたか?」


ステージ上の少年がピアノの前の椅子に座り、演奏が始まりそうな雰囲気の中、未だ後方へと顔を向けているスタルスに、ヤコップが声を掛けた。


しかし、ジョルジョバを睨み付けるスタルスには、その声は届いていない。


間もなく演奏が始まる。


ヤコップは審査員の長である、スタルスの肩に手を置き、その名を呼んだ。


「…スタルスさん」


そこでようやく気付いたスタルスは、険しい顔付きを整え、肩に手を置くヤコップを一瞥した後、視線をステージへと戻した。


ステージ上の少年が、緊張した面持ちのまま、ピアノを弾き始めた。


その緊張感が指先を伝い、ピアノの音にも微かに入り混じっている。


演奏など聴いていないスタルスだが、直ぐにその音に気付いたスタルスの表情が、またしても険しくなった。


由緒あるこのコンクールに、人前で緊張しながら演奏する者が出場している事に、スタルスは怒りを覚えたのだ。


しかし、普段のスタルスならば、これ程の怒りは感じなかっただろう。


その正体に未だ気付いてはいないが、ジョルジョバの息子の存在が、スタルスをおかしくしているのだ。


少年の奏でる曲が終盤に入った。


先程の緊張が嘘のように、少年の奏でるピアノの音は、その曲の持ち味である躍動感を見事に表している。


しかし、それを評価できぬ程に、心が捻れてしまったスタルスは、少年を睨み付けたままだ。


一度の失敗さえ許せないスタルスは、その怒りを、握り締めたペンで、審査用紙に捻り付けた。


スタルスの持つ審査用紙が真っ黒に染まる頃、少年の演奏が終わった。


一人、また一人と、ステージ中央に置かれたピアノを弾いていく。


途中休憩を挟みながらの長丁場となったこのコンクールも、もう直ぐ終わりを迎えそうだ。


リアンは今、ステージ横にある控え室で、ピアノ演奏を聴いている。


そしてリアンの耳に届いていたピアノの音が止んだ。


聞こえてくる拍手の音。


そして、その拍手の音も暫くして消えた。


係員の男が、ステージ袖から顔を出し、リアンを呼ぶ。


「リアン.フィレンツェさん、こちらへどうぞ」


閉じていた瞳をゆっくりと開いたリアンは椅子から立ち上がると、ステージへ向かい歩き出した。

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