壊れた心③
どこまでも続く永遠の坂道。
しかし、掛け替えのない親友の背中が、不意に消えた。
白と黒に染まる坂道。
そして坂道は、静寂という音を奏でながら、崩れるように目の前から消えた。
残ったのは、砂煙だけ。
しかし砂煙も徐々に消えていき、中から人影が現れた。
徐々に人影が浮き彫りになっていく。
プロレスラーのようにがたいの良いその男は、俯き歩いている。
「ジャン!」
大切な人の名を口にしたリアンだが、その口からは、何の音も発してはいない。
いくら叫んでも、周りの空気を震わす事も出来ないリアンは、その叫びを伝えるように、鍵盤を弾く指先を叫ばせる。
そのメロディーが、自分を呼ぶ声だと気付いたジャンは、顔を上げる。
そして、必死にピアノを弾くリアンを見詰め、顔をくしゃくしゃにし、泣き出した。
そこから動かずに、その場で跪く。
そしてジャンは、何かを見上げるように、涙でくしゃくしゃな顔で天を仰いだ。
不意にジャンの体が浮き上がった。
ジャンはこの地に残ろうと、必死に藻掻いている。
しかしそれは叶わぬ事なのだろう。
ジャンの体はゆっくりと確実に、この地から離れて行っている。
くしゃくしゃな顔で見詰めるリアンに向け、その手を伸ばす。
しかし、ジャンの指先が、リアンに触れる事は叶わない。
リアンとジャン。
二人の間には、距離があり過ぎるのだ。
いつまでも届かぬ指先を、必死に伸ばす。
しかし、ジャンの指先が掴むのは、周りの空気だけ。
そして、どんなに藻掻いても、触れる事は叶わないと悟ったのだろう。
ジャンの泣き顔が、優しげな笑顔に変わった。
泣き虫なジャンは、いつでもリアンの前で笑っていた。
その笑顔は、心底笑っている時もあれば、そうでない時もあった。
今ジャンの顔にある笑顔は、間違いなく心底笑っているものではない。
必死に愛する者を掴もうと藻掻いた。
しかし、その願いは叶わぬもの。
最後に笑顔で別れたいという思いが、顔に出たのだろう。
誰よりも優しい笑顔。
誰よりも安心する笑顔。
そして誰よりも、心配してしまう笑顔。
リアンが見上げるジャンの顔には、共に暮らしていた頃の笑顔が浮かんでいる。
天に登って行くジャンの唇が、ゆっくりと開いた。
耳には声は届いていないものの、確かにその声は、リアンに聞こえた。
「ありがとう」
たった一言ではあるが、その短い言葉の中には、ありったけの思いが詰まっている。
その溢れんばかりの言葉を残し、ジャンは空高く舞い上がり、不意に消えた。
涙で前が見えない。
リアンの瞳は、涙で溺れている。
その涙は、大切な者が消えてしまった悲しみばかりではなく、言葉では伝えられない程の感謝の気持ちも入り混じっている。
消えてしまった空に別れを告げ、視線を下へと移す。
涙で滲んだ瞳が、白黒の鍵盤を捉えた。
その鍵盤の上では、自分の両手の指先が、悲しそうに踊っている。
自分でピアノを弾いているという意識はない。
勝手に指先が動き回る鍵盤を、ただ黙って見詰めていた。
リアンの両手の指先は、全部で十本。
だが、鍵盤の上を動き回る指先は、明らかにそれよりも多い。
自分の指先と寄り添うように踊る指先。
リアンの視線は、その指先の上を、ゆっくりと辿った。
そしてリアンの瞳に、優しく笑っているマドルスの姿が写り込む。
マドルスはリアンの横に座り、同じピアノを弾いている。
それは決して邪魔するものではなく、無意識で弾いているリアンの演奏に、素晴らしい色を加えている。
初めからそこに居たのかもしれない。
初めから共に演奏していたのかもしれない。
リアンとマドルスは見詰め合い、ピアノを引き続ける。
曲もいよいよ終わりを迎える。
意識せずに弾いているとはいえ、ピアノの音は、リアンにも聴こえている。
そして何百回、いや、何千回とこの曲を弾いてきたリアンには、もう少しで終わりを迎える事も分かっていた。
涙を流し、自分の顔を見詰めるリアンを、優しい笑顔で見詰めるマドルス。
曲調が変わった。
それまで悲しみに包まれていたメロディーが、安らぎを感じるようなものへと変化したのだ。
マドルスの包み込むような笑顔。
安らぎさえ感じるメロディー。
その二つに包まれたリアンの涙は、いつの間にか止まっていた。
それを確認したかのように、マドルスは静かに頷くと、蜃気楼のように霞んで消えた。
緩やかなリズムが力強いものへと変わっていく。
そのメロディーは、愛する者との別れを乗り越えた旅人を表現しているように感じる。
そう感じているのは、一人二人ではないはずだ。
加速する指先の動きが、不意に止まった。
そして立ち止まり、深呼吸をした旅人は、ゆっくりと歩き出す。
指先を止めたリアンは、目を開いた。
その顔には、先程までの悲しいものはない。
何かを振り切りったような、清々しい顔があるだけだ。
演奏の終わった会場は、息を飲んだような静寂に包まれている。
誰も居ないのではないかと、錯覚してしまう程だ。
息を吐き出したリアンは、静か過ぎる事を不思議に思い、客席へと顔を向けた。
そして、未だかつて見た事がなかったその光景に、目を丸くする。
客席に座る多くの者が、悲しげに泣いている。
薄暗い客席に座る者を、ライトの照らされたステージから見ても分かる程、多くの者が悲しげに顔をくしゃくしゃにしているのだ。
しかし、誰一人として、啜り泣いている者はいない。
皆、音を立てずに泣いているのである。
それはリアンの演奏を邪魔しないようにと、声を洩らす事を我慢した結果。
中には、リアンが演奏中に見たものと、同じような光景を見た者もいるかもしれない。
その光景にリアンは戸惑っている。
そしてリアンは、その不思議な光景から、目が離せなかった。
最前列に座る、一人の少年と目があった。
自分が流している涙の理由を作ったリアンと目が合った少年は、未だ感動に包まれている。
その少年の両手が、無意識に動き出した。
「…パチ、…パチパチ」
弱々しい拍手だが、その音を聴いた少年の周りに座る者の手も、無意識に動き出す。
そしてそれはやがて、会場を揺れ動かす程の拍手の渦へと生まれ変わっていく。
白いブラウスを着た婦人が、椅子から立ち上がり、自分が今伝えたい気持ちを表すかのように、懸命に拍手を送っている。
紺色のスーツを着た初老の男性も、立ち上がり、ありったけの拍手を送っている。
客席に座る全ての者が、その場で立ち上がり、リアンに向け、何時までも止まない拍手を送っていた。
しかし、その拍手の渦の中には、スタルスは含まれていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます