コンクール③
初めて聴いたピアノの音も、初めて覚えたピアノの曲も、弾いていたのは全て父親のフェルドだった。
フェルドと暮らした幼き日の記憶。
そして愛するフェルドが死んでしまった時の、悲しみの記憶。
その記憶の側らには、ピアノがあった。
ジャンと暮らすようになってからもそうだ。
リアンは日々の生活の中で、毎日ピアノを弾いていた。
それはマドルスと暮らすようになってからも、何ら変わる事はなかった。
しかし、共に暮らした愛する者達は、今はもういない。
その者達に、今日のピアノを聴かせたい。
そう強く願った時に、会場内の受付と書かれた看板が立てられている場所で、リアンは立ち止まった。
受付の机の前には、二人の男が立っている。
「…参加者の方ですか?」
眼鏡を掛けた方の男が、リアンに気付き、そう尋ねた。
「はい」
少し緊張している様子で、リアンは答えた。
「お、お、お名前よろしいでしょうか?」
「リアン.フィレンチです」
ジョルジョバと同じフィレンチの姓を告げたリアンは、すっかりその名前に慣れ親しんでいるようだ。
「…か、か、確認できました。あ、あちらの矢印に従い、控え室にお進みください」
名簿の中からリアンの名を見付けた眼鏡の男は、興奮した様子で顔を上げると、壁に貼られている控え室と書かれた紙に向け、手を差し向けた。
その紙には、道順を表す矢印も書かれている。
「こちらをどうぞ」
眼鏡の男の隣の、寝癖が目立つ男が、時間進行の書かれた紙をリアンに手渡した。
お礼を言ったリアンは、矢印に従い、控え室に向け歩き出した。
その遠離るリアンの背中を、興奮気味に、眼鏡の男が見詰めている。
「…なぁ」
リアンの背中が視界から消えた眼鏡の男が呟いた。
「ん?どうした?」
その問い掛けは、自分に向けられていると思った寝癖の男は、返事をする。
「あの子、ジョルジョバの息子だぞ」
「ジョルジョバ?…ジョルジョバ.フィレンチか?」
寝癖の男は、少し興奮気味に尋ねた。
「他に誰がいるんだよ。ジョルジョバって言ったら、ジョルジョバ.フィレンチしかいないだろう」
「まじか!」
そう言った寝癖の男は、目をキラキラと輝かせ驚いている。
寝癖の男が驚いているのも、無理はないだろう。
彼は大が付く程、ジョルジョバのファンなのだ。
そんな憧れの大ファンの息子と知り、寝癖の男の興奮は、収まる事を知らなかった。
その彼より驚きを隠せず、興奮しているのは、何を隠そう眼鏡の男である。
眼鏡の男は、寝癖の男を凌ぐ程の、ジョルジョバのファンなのだ。
人は彼の事を、ジョルジョバの熱狂的ファンと呼んでいる。
そして眼鏡の男は、ジョルジョバ以外にもう一人、熱烈に応援しているピアニストがいた。
その名は、マドルス.ソーヤー。
今は亡き、リアンの実の祖父である。
もし、眼鏡の男がその事実を知ったならば、彼は興奮のあまり、気絶してしまうのではなかろうか。
いや、もしではなく、気絶してしまうだろう。
眼鏡の男は、ジョルジョバの息子のリアンがコンクールに出場するというだけで、それ程に興奮しているのだ。
何故、眼鏡の男が、リアンとジョルジョバの関係を知っているのか不思議に思う者もいるだろう。
それはこの男が、ジョルジョバの熱狂的ファンだから、知り得た情報なのだ。
眼鏡の男こと、ミッシランは、ジョルジョバが開くコンサートには、欠かさず訪れている。
そしてジョルジョバが帰りの車に乗り込むまで見送る事をルーティンとしている彼は、運転手のスワリと話すようになったのだ。
しかしスワリもお喋りな性格ではない。
普段あまり喋らない、寡黙な男だ。
そしてジョルジョバを見送るのは、ミッシランだけではない。
多くの者が、車が会場から離れて行くのを見送っている。
しかしミッシランだけが、大雨の日だろうが、強風の日だろうが、毎回欠かさず車の近くで、ジョルジョバを見送っていた。
その姿を目の当たりにし、スワリから話し掛け始めたのだ。
「たまに見掛ける、あの子は誰なんですか?」
その日ミッシランは、昨日ジョルジョバと一緒に乗り込んだリアンの事を、スワリに尋ねた。
「あの子?」
仕事を始めてから吸い出した煙草の煙を吐き出しながら、スワリは尋ね返す。
「昨日、ジョルジョバさんと一緒に帰って行った、男の子ですよ」
「あぁ、リアンだよ。教授の息子さ」
「やっぱり!リアンさんは、ピアノを弾かれるのですか?」
「あぁ、もの凄い上手いよ」
「や、や、やっぱり!聴いてみたいな、リアンさんのピアノ!」
こうしてミッシランは、リアンがジョルジョバの息子だという事実を知ったのだ。
しかしこのミッシラン、未だジョルジョバと話した事がない。
勿論、リアンとも先程までは話した事がなかった。
ミッシランは、いつも車から数十メートル離れた場所から見送っていたのだ。
それは崇拝するジョルジョバとは、同じ場所に立ってはいけないという、彼なりの敬意であった。
矢印に従い進んでいると、リアンは控え室と書かれた紙がドアに貼られている部屋に辿り着いた。
ドアの前には、黒いスーツを着た男が一人立っている。
「参加者の方ですか?」
リアンに気付いたスーツの男が、柔やかな笑顔を浮かべている。
「はい」
「では、こちらでお待ちください」
スーツの男はそう言うと、リアンの為にドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言ったリアンは頭を下げると、部屋に入った。
部屋の中は、その小さなドアからは想像できぬ程に広かった。
部屋の広さは、バスケットコート二面分は優にあるだろう。
その部屋の中には、二十人程の人が居る。
おそらく、全員がコンクールの参加者なのだろう。
部屋の中には、椅子やテーブルが壁際や中央にいくつも置かれている。
そのテーブルの上に、各々荷物を載せているようだ。
リアンは誰もいない壁際のテーブルを見付けると、そこに手荷物を置き、近くの椅子に腰掛けた。
そして気持ちを落ち着かせるように、目の前の真っ白い壁を見詰める。
部屋の中はリアンと同世代の者しかいない。
はしゃぐような幼子がいない部屋の中からは、騒がしい声など聞こえてはこない。
白は癒しの効果があるのだろう、リアンの心は直ぐに落ち着いた。
そして徐に立ち上がると、くるりと振り返る。
遠慮無しに、ライバル達に視線を注ぐ者。
緊張の余り、体をガタガタと震わせている者。
部屋の中の者達は、様々な性格なようだ。
ライバルを意識するというよりも、リアンはどんな者達が、この憧れの会場でピアノを弾くのか気になり、周りの者達へ遠慮気味に視線を送っている。
そのリアンの視線が、一人の少女とぶつかった。
直ぐに視線を逸らしたリアンは、天井を見上げた後、もう一度少女に視線を送った。
少女は真っ直ぐな目でリアンを見ている。
偶然視線が合ったのではなく、少女は明らかにリアンを見詰めているのだ。
リアンは戸惑いながらも、何故少女が自分を見詰めているのか、考えようとした。
しかしそれを、ある声に邪魔されたのだ。
「…リアン!」
自分を見詰めている少女が、叫びながら駆け寄って来た。
「…ジュリエ!」
共に暮らした時間はそれ程長くはないが、リアンの記憶に残る、従妹の少女と重なった。
「リアン!」
ずっと心配してきたリアンが、目の前に現れたジュリエは、思わず抱き付いてしまった。
音といえば、静かな話し声しか聞こえていなかった部屋の中。
大きな声を出せば、誰もが気付く。
まだ若い男女が抱き合う姿を、皆、目を丸くして見ている。
「…元気だった?」
リアンから体を離したジュリエは、目に涙を浮かべそう言うと、リアンの目を見詰めた。
「元気だったよ…ジュリエこそ元気だった?」
従妹という、血の繋がり以上の感情で想い合う二人の目には、再会の涙の粒が浮かんでいる。
「…静かにしてくれませんか?」
近くの席に座る、眼鏡を掛けたおさげの少女が、顔を赤らめながら、二人を注意した。
この少女の赤面は、憤慨しているからではないようだ。
男女が抱き締め合う姿を見るには、まだ早過ぎたようだ。
「すいません」
二人は少女に謝った。
「リアン、行こう」
ジュリエはリアンの手を取ると、ドアへと駆け出した。
そして手を繋いだまま部屋を出た二人は、廊下の先にある、階段へと辿り着いた。
「ここなら話してても、迷惑にならないね」
手を握り締めたまま、ジュリエは潤んだ瞳をリアンに向ける。
「…うん」
二度と会う事はないと思っていた初恋の人が、目の前に居る。
リアンの胸は張り裂けそうだった。
「リアンは、今何処に住んでるの?」
ずっと気掛かりだった事を、ジュリエは尋ねた。
「この街に住んでるよ」
リアンは躊躇う事なく、ありのままを答える。
「…一人で住んでるの?」
そう聞いたジュリエは、どこか苦しそうだ。
まだ働くには若すぎるリアンが、どのような生活を送っているのか心配で堪らないのだろう。
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