コンクール②

「ごちそうさまでした」


あんなに綺麗に盛り付けられていたのが遠い昔のように、二人の皿の上は食べ終わったソース以外は何も残ってはいない。


「じゃあ、学校行ってくるね」


もう一度口をナフキンで拭うと、リアンは席を立ち、鞄を取りに自室へと戻って行く。


そして鞄を掴むと、自室を出て、玄関へと続く長い廊下の上を歩いた。


「リアン、もう行くのか?」


朝からトンカチを手に、廊下の壁の修繕をしていたジョルノは、近付いてきたリアンに右手を挙げた。


「おはよう、ジョルノ。もう、学校に行く時間だよ」


リアンは爽やかに右手を挙げ返した。


「…本当だ。時間が経つのは早いもんだな」


一時間前から作業を始めていたジョルノは、額に滲んだ汗を、首に掛けているタオルで拭った。


ジョルノという男は、集中して物事を行うと、時間を忘れる癖があるのだ。


「ジョルノは、もう朝ご飯食べたの?」


時間にゆとりを持って通学しているリアンは、ジョルノとの会話を始める。


「食べた食べた!今日もビスコの飯は美味かったな!」


食べた料理を思い出しているのだろう、ジョルノは溢れてきた涎を啜った。


「美味しかったね。ジョルノ、作業は進んでる?」


リアンの言う作業とは、家の修繕の事である。


約二年、ジョルノ一人で作業しているが、まだまだ終わりそうにないのだ。


皆が知らない事だが、ジョルジョバは家を買う時に、至る所に修繕が必要なこの家を選んだのだ。


それは偏に、元大工のジョルノに、仕事を用意する為である。


「お坊ちゃん、お時間です」


二人が楽しげに話していると、声が聞こえた。


ジョルノはどう見ても、お坊ちゃんと呼ばれる程、若作りをしていない。


このお坊ちゃんはリアンに向けられているのだ。


そしてこの家で、リアンの事をお坊ちゃんと呼ぶのは、一人しかいない。


くるりと声がした方へと顔を向けたリアンの先には、やはりショルスキが立っていた。


「うん、行ってくるね」


リアンはいたずらをして叱られた子供のように、ぺろっと舌を出すと、二人に手を挙げ、玄関へと急いだ。


いつもそうだが、ジョルノと話す時は時間を忘れてしまう。


機関銃のような、ジョルノの矢継ぎ早に繰り出すお喋りも原因なのだが、年齢こそ大きくかけ離れいるものの、リアンはジョルノを親友だと思っているのだ。


親友とのお喋りは、時間を忘れがちになるもの。


リアンにも、それが当てはまるのだろう。


そして親友だと思っているのは、リアンだけではない。


ジョルノもそう思っている。


この二年という月日の中で、二人はより親密になったのだ。


玄関のドアを開けると、目の前に一台の黒い車が停まっていた。


光沢があり、傷一つ付いていないところから見て、大事に乗られている事が分かる。


助手席のドアを開けたリアンは、挨拶をしながら、車に乗り込んだ。


「おはよう」


「おはよう、今日はゆっくりなんだな」


ハンドルから手を離し、左腕へと視線を落としたスワリは、嵌めている黒い腕時計を眺めた。


「ジョルノとお喋りしちゃった」


てへっと言いそうな顔をしたリアンは、いつも通りシートベルトを嵌める。


「ジョルノとお喋りか、いつも通りだな」


スワリは鍵穴に差し込んでいる鍵を右手で摘まむと、右方向へと回した。


毎日、スワリの手により整備されている車は、軽やかな音を立て、エンジンが掛かった。


「よし、行くか」


ハンドルを握り、フロントガラスへと視線を向けたスワリは、彼の仕事を全う為べく、車を走らせる。


スワリは運転手として、ジョルジョバに雇われているのだ。


この家からリアンが通う学校までは、徒歩で行くには距離があり過ぎる為、スワリが送り迎えをしているのである。



ジョルノ、ビスコ、スワリ、ショルスキ。


雇っているとはいえ、リアンとジョルジョバは昔と変わらず、皆と共に生活している。


それは偏に、ジョルジョバが世界的に有名なピアニストだから出来ている事だ。


仲間と暮らせる事を、リアンは幸せに思っていた。


その幸せな日々の中、リアンは毎日欠かさずにピアノを弾き続けている。


そんなある日、いつものようにリアンのピアノ演奏を聴き終えたジョルジョバが、リアンにある事を告げた。


「リアン、コンクールにエントリーしといたからな」


「え?僕が出るの?」


突然の告白に、リアンは驚いている様子だ。


「あぁ、そうじゃ。みんなにリアンのピアノを聴いてもらってこい」


既に誰かと競わせるレベルではない事は、ジョルジョバは分かっている。


だからこそ、そんな言葉が出たのかもしれない。


コンクールを目指して、リアンは今までピアノを弾いてきた訳ではない。


心がピアノを求めている。


指先が鍵盤に触れたがっている。


リアンはそんな理由でピアノを毎日弾いてきた。


しかしそんな理由でも、目指していたものがある。


それがプロのピアニストなのだ。


リアンはコンクールよりも先にある、プロのピアニストになる事を見据え、元気良く返事をした。


「うん!」


そして月日は流れ、リアンが演奏するコンクール当日となった。


「リアン!皆にお前のピアノを聴かせてくるんだぞ!」


玄関から身を乗り出し、ジョルノは大袈裟に手を振り、車に乗り込むリアンに声援を送る。


「うん!行ってくるね!」


元気良く返事をしたリアンは、高鳴る胸を抱えながら、車の助手席に乗り込んだ。


勿論、その車の運転席にはスワリが座っている。


「スワリ、よろしくね!」


「あぁ、教授は一緒に行かないのか?」


一緒に行かないとは聞いているが、スワリは確認の為に、聞いているようだ。


「うん!後から来るんだって!」


元気良く答えたリアンは、少し興奮している様子だ。


「そうか、じゃあ行くか」


ハンドルを握り、アクセルが踏まれた車は、ゆっくりと玄関の前から離れて行く。


そして公道へと出た車は、真っ直ぐに続く道を走り続ける。


それから約二十分後、二人を乗せた車は目的地に着いた。


スワリにとっては、通い慣れた会場。


リアンにとっても、お馴染みの会場だ。


車を降りたリアンは、会場を見上げた。


この場所は、尊敬する父であり、憧れるピアニストでもあるジョルジョバが、定期的にコンサートを開いている会場である。


そんな憧れの場所を見上げているリアンの目には、大きく聳え立つ山のように写っているかもしれない。


「リアン、頑張れよ。俺も後でもう一度来るからな」


会場前のスペースに車を停めているスワリは、運転席の窓からリアンの背中に向け手を上げた。


「…うん、送ってくれてありがとう」


会場から目が離せないリアンは、目をキラキラと輝かせながら、スワリに背を向けたままお礼を口にした。


背後から、車が遠離る音がする。


スワリが帰って行ったのだろう。


リアンはようやく会場から目を離すと、振り返った。


やはりそこには、乗ってきた車の影はない。


今まで歩んで来た人生が、走馬灯のようにリアンの頭を一瞬にして駆け巡る。


悲しみも喜びも、様々な感情を経験してきた人生。


人生を語るには、まだ若すぎるが、リアンの周りにはいつもピアノがあった。


リアンは未来を見据える為に、会場へと視線を戻した。


その会場前は、人集りができている。


その人集りの中には、コンクールの出場者もいるかもしれない。


リアンは襟を正し、真っ直ぐに頭を下げた。


そして心の中で、憧れのこの会場でピアノを弾ける事への感謝を、誰に言うでもなく、呟いた。


頭を上げたリアンは、喜びを噛み締める。


そして会場へと向け、第一歩を踏み出した。


踏み出せば、踏み出す度、思い出が頭を駆け巡る。


初めてピアノに触れた、幼き日の自分。


そこには父が居た。


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