コンクール

コンクール①

鏡の前で身支度をするリアンの顔は、まだあどけなさはあるものの、あの頃よりも大人になっている。


ホームレスとして生活していた頃から、約二年。


二年の歳月が、リアンの顔立ちを変えたのだ。


変わったのは顔立ちだけではない。


無論、背も伸びたし、声だって変わっている。


十六歳になったばかりのリアンは、成長期真っ只中なのである。


しかし変わったのは、見た目だけではない。


路上に建てた小屋で暮らしていたリアンは、今はすきま風など吹き込んではこない、立派な家で暮らしている。


この家の主は、リアンの父親である、教授と呼ばれているジョルジョバ・フィレンチである。


そして、変わったのはリアンだけではない。


教授こと、ジョルジョバも変わった。


身成が綺麗になった事もそうだが、大きく変わった事がある。


ジョルジョバは、仕事をしているのだ。


人の親になるという事は、その子供の手本にならねばならない。


それをジョルジョバはちゃんと理解した上で、リアンを我が子にする事を望んだのだ。


気になるのは仕事の内容だが、ジョルジョバは彼にしか出来ない事をしている。


人に癒しと感動、その他にも様々な感情を抱かせるような仕事をしているのだ。


察しがいい者ならば、もう彼の仕事が分かったのではないだろうか。


ジョルジョバは、彼の天職である、ピアニストに戻ったのだ。


仕事を始めるにあたり、ジョルジョバにはピアニスト以外の選択肢はなかった。


ピアノ教師ではなく、ピアニストに拘ったのだ。


それはピアニストという職業を間近で見せる事で、それがどんなに素晴らしい職業であるかを、ピアニストになる事を望んでいるリアンに伝えたかったのだ。


ジョルジョバの復帰に、彼を知る世代の大人達は歓喜に震えた。


熱狂的なファンも多かったジョルジョバの演奏を聴きに、世界中から様々な人種が、定期的に開かれるジョルジョバが住む街にあるコンサート会場へと押し寄せている。


復帰したジョルジョバは、そのコンサート会場でしか、演奏をしていない。


それは少しでもリアンと過ごせる時間を増やしたかったからだ。


しかし、我が子を溺愛する気持ちだけで、そんな風に過ごしている訳ではない。


勿論、血の繋がる本当の子供のように愛情を注いでいるが、教授はリアンにピアノを教える事に、仕事以上の生き甲斐を感じていたのだ。


そしてジョルジョバは感じていた。


急速に腕前を上げていくリアンのピアノを聴く内に、自分も感化され、自身の腕前も上がってきている事を。


お互いがお互いを認め合い、二人は共に成長しているのだ。


「おはよう」


部屋を出て、リビングへと入ったリアンは、テーブルの前に座っているジョルジョバに、朝の挨拶を交わした。


「おはよう。今日から新学期じゃな」


白く伸びた顎髭を触りながら、ジョルジョバは笑顔でリアンを出迎える。


「うん。でも、早く卒業したいな」


そう言いながら、リアンはジョルジョバの対面に座った。


「何故じゃ?学校は楽しくはないのか?」


ジョルジョバは心配そうに我が子を見詰めた。


「いや、楽しいよ。でも、早くピアニストになりたいんだ」


ピアニストとしてのジョルジョバの姿を間近で見てきたリアンは、学友と過ごす楽しい青春時代よりも、いち早く感動を与えるピアニストになりたいと、強い憧れを抱いている。


それは憧れだけでは留まらないだろう。


リアンは既に、復帰前のジョルジョバと比べても、遜色のない腕前を持っている。


リアンは、間違いなくピアニストとして成功するだろう。


「まあ、そう焦るな。学生時代は生涯の友ができる時でもあるんじゃぞ。ピアニストは卒業してからでもできるが、学生時代は卒業してからは、できないんじゃぞ」


「それは分かってるんだけど…あーあ、早くピアニストになりたいな」


リアンは将来の自分を見据えるように、リビングに置かれたピアノへと視線を移した。


「…さっき弾いたばかりなのに、ピアノを弾きたくてうずうずしとるのか?」


ジョルジョバの言うとおり、ずっとピアノを見詰めていたリアンの顔は、弾きたさに満ちている。 


そしてジョルジョバの言うとおり、先程までリアンは、自分の部屋でピアノを弾いていたのだ。


余程ピアノを弾くのが好きなのだろう。


「…だめ?」


「…約束じゃろ?学校に行く前は、決めた時間にしか弾かないと。また遅刻してしまうぞ?」


ジョルジョバは誰にも負けぬ程ピアノが好きだが、自分以上にピアノが好きなリアンに、苦笑いを浮かべた。


「飯が出来たぞ」


リアンはその声に聞き覚えがあった。


それもそのはずだ。


彼はこの家で料理をする為に雇われているコックなのだから。


「おはよう、ビスコ」


そう、彼の名はビスコ。


かつてリアンがホームレスとして暮らしていた時にできた仲間である。


「ビスコらしく、いつもの時間通りじゃな」


ジョルジョバ家では、朝飯の時間は決まっている。


その時間通りに、毎朝ビスコは出来たての料理を運んでくるのだ。


そして運んでくるのはジョルジョバだけではない。


いつものように直ぐ後から、彼がやってくるはずだ。


「おはよう、ショルスキ」


執事が着るような黒いスーツに身を纏い、料理を運んで来たショルスキに、リアンは挨拶をした。


「おはようございます」


かつて無口で名を馳せた男は、とても聞き取りやすい声で挨拶を返した。


「旦那様、今日はお昼に市長と会食が入っています。それなりの格好でお出掛けください」


ショルスキは、昔の彼を知る者からは信じられない程の長文を喋った。


「おお、そうじゃったな、ありがとう…それからショルスキ、昔のように教授と呼んでくれんか?旦那様と呼ばれると、むず痒くてたまらん」


ジョルジョバは小鼻をぽりぽりと掻きながら、照れ臭そうである。


しかし、誇りを持ちながら執事の仕事をしているショルスキは、いくら雇い主である旦那様の頼みでも、聞くことはなかった。


「駄目です。旦那様は私の雇い主。そして私はこの家に仕える身。私はこの家に仕えている限り、旦那様を旦那様と呼び続けます」


「ショルスキはお堅いのー」


ジョルジョバは口を尖らせて、笑顔を浮かべた。


朝からしっかり食べるをコンセプトに作られた朝食が載った皿は、食べるのがもったいない程に美しく盛り付けてある。


そしておかずの品数も多く、どれから食べるか迷う程、全てが美味そうである。


「いただきます」


リアンとジョルジョバはきっちりと手を合わせ、食する事への感謝の気持ちを口にする。


その時には、ビスコとショルスキの姿はそこにはもうなかった。


仲間ではあるが、二人とも雇われの身。


ショルスキだけではなく、ビスコもそれをちゃんと弁え、昔のように一緒には食事を取る事は少なくなったのだ。


ジョルジョバは皆と食事をする事を望んでいるのだが、致し方がないだろう。

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