コンクール④
「家族と住んでるよ」
「家族?」
ジュリエは驚いている様子だ。
「うん。僕を養子として迎えてくれた父さんと、ジョルノとビスコとスワリ、それにショルスキの六人で暮らしてるんだ」
「いっぱい家族が居るんだね…お父さんは優しいの?」
そう尋ねたジュリエは、不安そうな表情をしている。
「凄く優しいよ。父さんだけじゃなくて、皆も凄く優しいんだ」
「よかった」
ほっと息を付いたジュリエは、その言葉通り、安堵している。
「…リアンは今でもずっと、ピアノを弾いててくれたんだね」
未だ握り締めたままのリアンの手を見詰め、ジュリエは凄く嬉しそうに言った。
「うん、毎日弾いてるよ。ジュリエも毎日、弾いているみたいだね」
ピアノを愛している二人だからこそ、指を見れば、毎日ピアノに触れているかどうかが、分かるようだ。
話したい事はいっぱいある。
しかし二人には時間がなかった。
「…後十五分ぐらいで、集合時間だね」
壁に掛けられている時計に視線を送ったリアンは、淋しそうに言った。
「…本当だ…コンクールが終わったら、いっぱいお話しよう」
ジュリエもまた、淋しそうである。
「うん」
集合時間までの間、二人は会わなかった期間を埋めるように、お互いの話をした。
その中で、リアンの父親がジョルジョバだという事を聞いたジュリエは、驚きを隠せない様子だった。
ピアノを志す者ならば、ジョルジョバの名を知らない者はいないと言っても過言でない。
ジュリエが驚くのも無理はないだろう。
「…もう、行かなくちゃだね」
階段に腰掛けていたリアンは、立ち上がると、淋しそうに呟いた。
「…うん、また後で話そうね」
淋しそうなジュリエの言葉にリアンが静かに頷くと、どちらからともなく手を繋ぎ、二人は控え室へと戻って行った。
それから一時間。
トップバッターが演奏を始めた。
今日演奏するのは、二十二人の若者達。
その中で、会場があるこの街に住む者は、リアンしかいない。
他の者は、少し離れた場所や、遠くから来ているようだ。
年に一回、決まってこの会場で開かれるこのコンクールは、今年で二十回目を迎えている。
そして、このコンクールで演奏した者達の中で、ピアニストになった者は、数多くいる。
プロになれる事自体が、狭き門だと言えるピアニストという名の職業。
その中でも、このコンクールで優勝した者達の殆どが、ピアニストとして成功している。
この国でピアノを弾く者達にとっては、大きな目標となるコンクールなのだ。
控え室で口を閉ざして待っているリアンの耳にも、小さいながらもピアノの演奏する音が聴こえている。
そんなリアンの横には、ジュリエが座っていた。
控え室に入ってから、二人は時折目を合わせはするものの、会話らしい会話はしていない。
それは、お互いが演奏に向け、心を落ち着かせているせいかもしれない。
ジュリエはこれまで幾度も他のコンテストで演奏し、輝かしい成績を残している。
しかし、このコンクールには初参加だ。
幾度も大勢の前でピアノを演奏してきたジュリエ。
そんな彼女でさえ、これ程の広さがある会場で演奏した事がなかった。
そしてジュリエは知っている。
毎年、このコンクールの客席は、全て埋め尽くされ、立ち見客まで出る事を。
それ故だろう、コンクールに慣れているジュリエでも、緊張している様子だ。
二人の耳に聴こえていた、小さなピアノの音が止まった。
どうやら一人目の演奏が終わったようだ。
「ジュリエ.ソーヤーさん、前室に移動してください」
控え室に居る係員の男が、手元の名簿を見ながら、ジュリエに呼び掛けた。
「はい」
静かに立ち上がったジュリエは、横に座るリアンへと視線を送る。
「頑張って」
小さな声で声援を送りながら、リアンは胸の前で作った拳を小さく振った。
「ありがとう」
緊張した面持ちの中に、笑顔を作ったジュリエは、軽く握った拳を振り返すと、控え室から出て行った。
今、控え室の中には、係員の男と、十九人の少年少女が居る。
今日の演奏者は、二十二人。
三人が控え室に居ない。
今、一人目が演奏を終えたばかりなので、前室には今から演奏を行う者が居るはずだ。
そして今、その次に演奏するジュリエが前室へと向かっている。
どうやら前室では、一人で待機するようだ。
リアンが前室へと向かうのは、一番最後。
つまりは、演奏も一番最後に行うという事になる。
この演奏する順番は、予め決められていたものではない。
今から一時間程前に、くじ引きにより決められたのだ。
一番最後となったリアンは、未だ何の曲を演奏するか決めかねている。
このコンクールには課題曲がなく、自分が弾く曲を自分自身が決め、演奏する事になっているのだ。
演奏時間は十二分以内。
全員が十二分間を丸々使ったとすると、四時間を越えるコンクールとなってしまうだろう。
しかし例年通りならば、四時間を越える事なく終わるだろう。
毎年、丸々十二分間を使って曲を弾く者は、極めて少ないのだ。
そしてこのコンクールでは、既存の曲だけでなく、自身が作った曲を弾いても構わないと定めている。
しかし、このコンクールが開かれてから二十年、誰一人として自分が作った曲を演奏する者は現れてはいない。
二人目の演奏が終わったようだ。
ピアノの音が終わると、拍手をする音が聞こえてきた。
そして拍手の音が消えて暫くすると、再び小さく聴こえるピアノの音がリアンの耳を擽った。
それは見なくても、直ぐに分かった。
これはジュリエが演奏するピアノの音。
技術は格段に上がっているが、その聴く者を惹きつける優しげなピアノの音色は、昔となんら変わってはいない。
目を閉じ、静かに聴いているリアンは、まるで昔に戻ったような錯覚に陥っている。
共に暮らした期間は長くはないが、二人の間には、何時でもピアノがあった。
「…ドビュッシーの喜びの島」
誰かの呟く声が聞こえた。
ジュリエが今弾いている曲は、その呟き通り、ドビュッシーが作曲した喜びの島という曲だ。
ドビュッシーは、六分半程のこの曲の中に、愛の喜びを詰め込んでいる。
そして難易度は高めな曲として知られている曲だ。
ピアノを趣味程度で弾いている者では、完璧に弾く事はできないだろう。
そのピアノの音を聞けば、客席は見えなくとも、どれ程会場に居る者が魅力されているのかは、ピアノに触れた事のある者ならば、直ぐに分かるだろう。
とても十六歳の少女が、愛の喜びを表現しているとは思えない素晴らしい演奏が、会場の中に流れている。
リアンの耳に届くピアノの音は、喋り声を出せば、掻き消されてしまいそうな程の小さな音。
それでも目を閉じるリアンの瞼の裏には、ピアノを弾くジュリエの姿が映っている。
この曲を知っている者ならば、間もなく終演する事は分かっているだろう。
そしてその素晴らし演奏が終わってしまう事を、惜しんでいるかもしれない。
しかし、ジュリエの演奏するピアノの世界に入り込んでいるリアンは、惜しむ事はなかった。
頭の中に広がる情景は、まるで初めて見た映画のように、次へと進むストーリーを予期してはいない。
それ故に、終わる事に気付いていないのだ。
六分半続いた演奏が終わった。
瞼を閉じるリアンの目尻からは、透き通る涙が零れ落ちている。
演奏を終えたジュリエは、鍵盤からゆっくりと指先を離し、静かに息を整えた。
ピアノの音が止んだ会場は、静けさに包まれている。
その静けさを破るように、誰かが拍手をした。
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