狂わしのメロディー③
その兄は、父親譲りのピアノの才能がありながら、ピアニストにならなかった。
その事を今でも恨んでいると、ジェニファに洩らした事もある。
フェルドがいたから自分は、ピアニストになれなかったのだと本気で思い、そのやり切れない思いをジェニファにぶつけた事もあった。
そんなひねくれた考えを持つスタルスを、ジェニファはほおっておけなかったのかもしれない。
そして音楽学校を卒業した次の年、ジェニファはスタルスと結婚した。
それから二年後、二人の間にジュリエが生まれたのだ。
スタルスは自分の元にジュリエが生まれてきてくれた事を、心から神に感謝した。
そしてこの子だけには、夢を諦めさせたくないと強く思ったのだ。
ジュリエが物心ついた時に、スタルスはジュリエに夢を聞いた。
ジュリエはスタルスの問いに、「ママみたいにピアノが弾きたい」と答えた。
その言葉を聞き、スタルスは涙が出る程喜んだのだ。
自分がなれなかったピアニストの夢を、ジュリエには叶えて欲しかった。
ピアノを弾くジェニファの横には、いつもジュリエがいた。
そして自分から望んで、ジェニファにピアノを学ぶようになったのだ。
成長していくジュリエと共に、上達していくピアノの音。
スタルスは神に跪き、感謝した。
ジュリエには、自分にはないピアノの才能があると思ったのだ。
この瞬間スタルスの夢は、ジュリエが世界一のピアニストになる事に変わった。
リアンがスタルス家の家族となり、五日が経った。
リアンとジュリエはいつものように、ジェニファにピアノを習っている。
家に居たスタルスは、ジュリエのピアノを聴きに、三人がいる部屋を訪れた。
そこで初めてリアンのピアノを聴いたのだ。
リアンの奏でるピアノの音は、かつて憎んでいたフェルドのピアノに似ていた。
いや、似ているどころではない。
スタルスは、まるでフェルドが弾いていると錯覚したのだ。
スタルスの目にはピアノを弾くリアンの姿が、フェルドと重なっている。
そしてスタルスは、リアンの演奏の途中で何も言わずに部屋を出た。
誰もいない廊下。
スタルスは自分の両手に嵌めている白い手袋を見詰める。
フェルドに対する憎しみが、昨日の事のように甦ってきた。
その日の夜、夫婦二人きりになる寝室で、スタルスはジェニファに、リアンにピアノを弾かせる事を禁じさせた。
困惑しながらも、ジェニファには何故スタルスがそのような事を言うのか、理由を分かっていた。
フェルドのピアノの才能を、今も尚、憎んでいるからだ。
リアンのピアノは、フェルドのピアノそのもの。
それは間近で聴いているジェニファが、一番分かっている事だ。
しかしジェニファは、スタルスの願いを拒んだ。
リアンにピアノを教える事は、死んでいったマドルスのたっての願い。
それだけではない。
このまま才能溢れるリアンのピアノを廃れさせる事も、ピアノを愛する者としてできなかったのだ。
それ故に、ジェニファはリアンにピアノを教え続けた。
それをスタルスが許すはずがない。
ジェニファのその懇願する思いも、時に罵倒し、スタルスは頑なに受け入れなかった。
その頑なに受け入れられない願いを拒み続けるスタルスは、言う事を聞かないジェニファに対し、次第に暴力を振るうようになってしまった。
それは直に、リアンとジュリエの知るところとなる。
自分がピアノを弾く事で争っている二人に気付いたリアンは、ジェニファにピアノを辞めると告げた。
しかしジェニファは優しく微笑み、拒むリアンにピアノを教え続けた。
何の罪もないリアンにピアノを弾かせる事は、至極当たり前な事。
愛する夫との絆が壊れようとも、その考えは変わらなかった。
ジェニファは毎日罵倒されながらも、スタルスに、リアンには何の罪もないという事を訴え続ける。
そんな生活が続く中、リアンはこの家から出て行く事を決めた。
自分がいなくなれば、争いが無くなると思ったのだ。
そして両手に持てるだけの荷物を鞄に詰め、夜が開ける前に、リアンは誰にも気付かれないようにスタルス家を後にした。
歩いて駅に辿り着いたリアンは、ホームに置かれたベンチに腰を降ろす。
始発列車がくるまでにはまだ早い。
そしてリアンは、これからの事を考えた。
しかし考えても、身寄りのないリアンには、この先どうすればいいのか答えがでない。
「…ジャンは元気かな」
毎日、思い出さない事がないジャンの顔が浮かんだ。
スタルス家に来てからは、手紙を出す事はなくなってしまったが、行く宛のないリアンは、ジャンに会いに行く事を決めた。
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