懐かしの街

懐かしの街①

リアンは揺れる列車の中から、移り行く景色を眺める。


しかし遠くを見るような目をして見ているリアンの頭には、視界に広がる美しい自然とは別に、ジャンと暮らした楽しかった懐かしの酒場が浮かんでいる。


リアンが様々な思いを抱き、車窓の景色を眺めながら列車に揺られていると、懐かしの駅へと到着した。


この駅のホームに降り立つのは、マドルスと旅立った日から一度もない。


リアンは懐かしむ気持ちで、夕焼けに染まるホームからの景色を眺めた。


改札を出たリアンは、真っ先にジャンの酒場がある商店街へと向かう。


しかし商店街を歩いていても、見知った顔に誰一人出会わない。


それもそのはずだ。


商店街に入ってからは、見知った人は疎か、人の姿さえ見ていない。


商店街は道を挟むようにして店が連なっている。


しかしその店の多くが、シャッターが閉められている。


まだ店を閉めるには、時間は早過ぎる。


きっと元から営業していないのだろう。


リアンが最後に見たこの商店街の風景より、明らかに寂れているようだ。


リアンの足がぴたりと止まった。


目の前に佇む、古びた酒場の看板を見上げ、リアンは物思いに耽る。


そしてリアンは酒場のドアの前に歩み寄った。


木製のドアは、昔よりも古びて見える。


ただ握り、引くだけ。


そんか簡単な動作で開くドアを、リアンは躊躇したまま触れられずにいる。


マドルスの家に居る時に、ジャンに出した手紙は、一度も返事がなかった。


ジャンの最後の言葉が、頭を過ぎる。


「お前は、邪魔なんだ」


病室で聞いたこの時の言葉は、自分を思い遣る為の優しい嘘だと分かっている。


しかし酒場のドアの前で、このジャンの言葉が頭を過ぎり、リアンは店に入る事を躊躇っているのだ。


視線はドアの隣の窓に移った。


中から青いカーテンが閉められている窓からは、店の様子は分からない。


視線が再びドアへと移る。


ただじっとドアノブを見詰め、リアンは時を止められたように動かなくなった。


しかし、不意にリアンの右手が動いた。


僅かに震えるその手は、見詰めるドアノブへと近付く。


そして辿り着いた右手が、ドアノブを掴んだ。


溜め息を一つ。


深く息を吐いたリアンは、ドアノブを回した。


しかしリアンの決意とは裏腹に、鍵の掛けられたドアは、開くことはなかった。


今日は日曜日ではない。


ジャンは定休日である日曜日以外は、どんなに体調の優れない日でも、必ず店を開けていた。


力無くドアノブを離したリアンは、再び視線を窓へと移す。


先程は気付かなかったが、店を開けているのならば、カーテンは開かれている筈だ。


あの日、店を閉めて旅に出ると言ったジャンの言葉が頭を駆け巡る。


本当にジャンは旅に出てしまったのかもしれない。


そう考えると、手紙の返事が来なかったのも、辻褄が合う。


リアンの中で、それが答えとなった。


空は夕暮れから夜へと変わろうとしている。


途方に暮れたリアンは、ドアを背にしゃがみ込んだ。


もう二度とジャンに会えない気がした。


空の色が移り変わるのを、ただ呆然と眺めていると、頭上から声が聞こえてきた。


「…リアンじゃないか?」


リアンは声のする方へと視線を向ける。


その視線の先には、数年ぶりに見る、酒場の常連客のジョアンが立っていた。


「…いや…でかくなったな!」


ジョアンはリアンに近付き、うっすらと涙を浮かべると、昔のようにリアンの頭を優しく撫でた。


「おじさん…おじさん元気だった?」


リアンは懐かしい顔を見れて、心の暗がりが少しずつ晴れていった。


「俺はいつでも元気だぞ!」


ジョアンは服の裾を捲り、力こぶを作って、にっこりと笑いながらリアンに見せ付けた。


「おじさん、元気そうだね」


「あぁ、元気だぞ…リアン、店を見に来たのか?」


「…ジャンに会いに来たんだ」


リアンは潤んだ瞳でそう言うと、ジョアンから視線を外した。


「…お前知らないのか?」


そう言ったジョアンは、とても悲しそうな表情を浮かべている。


「えっ?…何が?」


その悲しげな表情に、リアンは心が張り裂けそうな程、不安になった。


「…ジャンは……亡くなったよ」


「…えっ!?……何て言ったの?」


リアンは、聞き間違えであって欲しいと願った。


「…ジャンは崖から落ちて…二年前に亡くなったんだ」


ジョアンは悲しそうに呟いた。


「……嘘だよね?」


リアンは嘘であって欲しいと願った。


「…本当だよ」


ジョアンはリアンを抱き締めながら呟いた。


「…………」


言葉を失ったリアンの思考は、受け入れられない現実から逃避するように、止まってしまった。


ジョアンは優しくリアンを包み込んだまま、語り始める。


「…二年前に山に登ったジャンは、崖から落ちて亡くなったんだ…ジャンの墓はリアンの両親の墓の隣に立ってるよ」


ジョアンの温もりが、これが現実である事を思い出させる。


リアンはジョアンの言葉を聞きながら、楽しかったジャンとの日々を思い出した。


その楽しかった日々を共に過ごしたジャンに、二度と会う事が出来ないと気付くと、リアンの瞳から大粒の涙が流れ落ちた。


余程、受け入れ難い事実なのだろう。


リアンは咽び泣き、体を震わせる。


長い時間、ジョアンに抱かれ泣いていたリアンは、ようやく顔を上げ、ジョアンから離れた。


「…おじさん…ありがとう」


涙を拭きながら、リアンはお礼を言った。


「…あぁ」


ジョアンの瞳からも、涙が流れている。


「…お墓に行ってみるね」


リアンはそう言い残し、重くなった足を無理矢理に動かし、歩いた。


「リアン、一緒に行くか?」


ジョアンは歩き出したリアンの腕を掴み、呼び止める。


「大丈夫、一人で行けるよ」


強がりではない。


何故か分からないが、一人で墓に行きたいと思ったのだ。


「今日は何処に泊まるんだ?じいちゃんと来たのか?」


「…うん、駅で待ってるんだ。墓に寄ったら一緒に帰るんだ…じゃあ、行くね」


マドルスは死んだ。


そしてスタルスの家から家出した。


それを言えば、スタルスの家に連絡されるかもしれない。


リアンはそんな思いに駆られ、嘘を付いた。


ジョアンと別れたリアンは、商店街の終わりにある坂道に来ていた。


この坂道は、親友のドニーと学校へと向かう為に使った道。


しかし共に歩いたドニーは、横には居ない。


リアンは夜に包まれた坂道を、悲しみに包まれながら登って行く。


登り切った坂道を振り返る。


頂上からは、夜の街並みが見渡せた。


リアンが暮らしていた時よりも、一目見て分かる程、電気の点いている家が少なくなっている。


悲しみがより一層強まってしまった。


リアンは寂しすぎる街並みと別れを告げ、目的の場所へと向う為、再び歩き出す。


ほどなくして三つの墓標が立つ、小高い丘に辿り着いた。


灯り一つ無く、月明かりの光だけが墓を照らしている。


一つ増えた墓に、ジャンの死が改めて真実である事を知らされたリアンの瞳からは、再び涙が零れ落ちた。


昔は無かった墓の前に跪く。


墓標には、間違いであって欲しい、ジャンの名前が刻まれている。


「…ジャン」


夜を色濃くしていく丘の上で、リアンは泣き崩れた。


ジャンとの語らいも終わったのだろう、リアンは服の裾で涙を拭くと、ゆっくりと立ち上がる。


そして隣に立つ両親の墓に手を合わせると、暫くの間目を閉じ、丘を降りた。


行き宛を失ったリアンは、宛もなく歩く。


すると、昔ドニーと作った秘密基地の近くまで来ている事に気が付いた。


リアンの足は、秘密基地へと向きを変えた。


薄暗い街灯に照らされている、街外れにある秘密基地。


雨風に曝され、手直しもされていないのだろう、すっかりと傷んでいる。


壁には穴が開いており、台風のせいだろうか、屋根はなくなってしまっていた。


リアンは悲しい目をしながら、秘密基地へと足を踏み入れた。


窓はその役割を放棄したように、一片のガラスの欠片も無い。


屋根が吹き飛ばされているせいで、薄暗い街灯の光が、最早室内とは呼べない、建物の中に薄らと届いている。


建物の中は暗くはっきりとはしないが、それでもかなり汚れているのが分かる程だ。


そして、昔リアンが弾いていたピアノは、何処にも見当たらない。


それほど広くはない、建物の中。


この建物の何処かに、誰かがピアノを移動していたとしても、リアンの立つ位置からならば、それは分かる筈だ。。


思い出のピアノは無いが、枠だけとなった窓から入り込む風に、ドニーと作った思い出のブランコが揺れている。


リアンはそっとブランコに腰掛けた。


そしてゆったりとした動作で、ブランコを漕ぎ出した。


一定のリズムで揺れるブランコ。


心を宥めるようなそのリズムが、楽しかった日々を思い出させる。


リアンは足でブランコを止め、俯いて、瞳を力強く閉じた。


そうしても流れる続ける涙は、そうしなければ、止まらないと思ったのだろう。


「…リアン」


誰かの声が聞こえた。


聞き覚えのあるその声に、リアンは顔を上げる。


涙で滲んだその目に、悲しそうに見詰めるジュリエの姿が写る。


「…なんで、ジュリエがここに?」


リアンは服の裾で、涙を拭きながら尋ねた。

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