指揮者スタルス

指揮者スタルス

スタルスは幼い頃、父親のマドルスのようなピアニストになる事を夢見ていた。


そんなスタルスは、世界を飛び回っている為、普段あまり家にいないマドルスが、家にいる時だけは甘えたかった。


しかし、マドルスが家にいる時は、二つ歳上の兄のフェルドにつきっきりでピアノを教えていたせいで、相手にしてもらえなかったのだ。


スタルスもピアノをマドルスに習いたかった。


しかしマドルスは、スタルスにピアノを教える事はなかった。


マドルスは、スタルスに教える気などなかったのだ。


フェルドの方がスタルスに比べ、遥かにピアノの才能があるとマドルスは感じていた。


そう感じたからこそ、フェルドにしかピアノを教えなかったのだ。


スタルスは専属のピアノ教師にピアノをずっと習っていた。


そして小学校に上がる頃には、フェルドに対して憎悪にも近い嫉妬心を抱き始めるようになった。


それを感じながらも、フェルドはスタルスを何かと気にかけていた。


二人は幼い頃に母親を亡くしている。


父親は留守がちで、周りの世話をしてくれる執事はいたが、フェルドは弟を気にかけていたのだ。


しかしスタルスは、それを煙たがっていた。


スタルスは学校以外の時間は、自分の部屋に引き籠もり、睡眠時間を削ってまでもピアノを弾き続けた。


フェルドを追い越して、マドルスに認めてもらいたかったのだ。


しかし、その血の滲むような努力も実らなかった。


スタルスが十五才の時、部屋でピアノを弾いていると、それはおきた。


家に居たマドルスが、スタルスの部屋の前を通り掛かったのだ。


部屋から漏れ聞こえてくるピアノのメロディー。


マドルスは部屋の前で足を止めると、スタルスのピアノに耳を傾ける。


そして暫くすると、スタルスの部屋へと入って行った。


スタルスは入ってきた人物に驚き、ピアノを弾く手を止めた。


部屋にマドルスが入った事は、スタルスに物心ついた時から、一度もない。


ノックも無しに入ってきた、予期せぬ人物の訪問に、戸惑いよりも、喜びがスタルスの体を支配していく。


そしてスタルスは、マドルスに聴かせるように、心を込めて、再びピアノを弾き始めた。


『父さん聴いて…こんなに上達したんだよ』


スタルスはそんな思いを込め、目を閉じ、ピアノを弾いている。


しかしマドルスは直ぐに、ピアニストらしからぬ行動を取り始めた。


演奏を遮るように、喋りだしたのである。


「…お前は明日からピアノのレッスンをしなくていい」


スタルスの軽やかに動いていた指先が、ぴたりと止まった。


「…なんで?…なんでだよ!?」


わなわなと震えるスタルスは、それを確かめるように叫んだ。


「お前には才能がない」


そう言ったマドルスは、冷たい目をしている。


スタルスは、ピアノの鍵盤を叩き付けた。


部屋の中に、メロディーにならないピアノの音が響き渡る。


「明日からバイオリンのレッスンでも始めるか?…いや、お前には楽器を演奏する才能がないんだな…指揮者のレッスンを始めるんだ」


マドルスはそう言い残し、直ぐに部屋から出て行った。


怒り、悲しみ、悔しさ。


様々な感情に体を支配されていくスタルスは、豆ができ、それが潰れ、固くなるまで練習した指先を見詰める。


誰よりも認めてもらいたい者に、努力した全てを否定された。


スタルスの心は、その瞬間から壊れ始めた。


それからのスタルスは、ピアノに触れる事はしなくなった。


そして父親の言い付け通りに、指揮者のレッスンを開始する。


しかし、時たま微かに聞こえてくる、フェルドのピアノの音を聞く度、スタルスは発狂しそうになっていた。


自分は認めてもらえなかったピアノの才能が、フェルドにはある。


その事実に、スタルスの心は大きくねじ曲がってしまった。


そして、フェルドの事を兄としてではなく、歪んだ感情で見るようになってしまったのだ。


フェルドが家を出ていってからも、スタルスはピアノに触れる事はなかった。


ただマドルスの言い付け通りに、指揮者としてのレッスンを、一生懸命励んでいた。


自分の才能を認めてくれなかったという、恨み以上の気持ちを持ちながらも、スタルスは休む暇もなく、日々レッスンに明け暮れる。


全ては、自分の全てを否定したマドルスに、自分という存在を認めさせる為だけに。


しかしそんなスタルスの指揮者のレッスンを、マドルスは一度も見ることはなかった。


フェルドが出ていってからのマドルスは、家にいる間は、自分の部屋に篭もっていた。


まるでスタルスには、興味を示さなかったのだ。


スタルスはマドルスに認めてもらいたい一身で、タクトを振り続ける。


しかしマドルスはやはり、スタルスに興味をもたなかったようだ。


指揮者としてスタルスは、マドルスの手を借りる事なく、自分だけの力で、二十五才の時に初めて舞台に立った。


しかしそんな門出の日さえ、我が子の初ステージを、マドルスは見ようとはしなかった。


スタルスの初舞台は観客を沸かせた。


皮肉にもスタルスには、指揮者としての才能があったようだ。


そしてスタルスはその後、世界的に有名な指揮者へと変貌して行く。


しかしマドルスは、未だ一度もスタルスの舞台を見たことがない。


スタルスはピアノを辞めてから今までずっと、白い手袋を付けている。


それはピアニストにとって手は命が故。


ピアニストになる夢を捨てさせられたマドルスに対する、せめてもの反抗心なのかもしれない。

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