新しい暮らし⑧

元から医者には永くはないと言われていた程、病魔に巣くわれているマドルスは、寝たきりの生活を始めってしまった。


医者は入院する事を強く勧めたが、マドルスはリアンと少しでも一緒に居たくて、頑なに拒み続けた。


そんなマドルスを心配して、リアンは学校以外の時間の殆どを、マドルスの部屋で過ごしている。


そんなリアンの優しさに触れ、マドルスは自分の愚かさに、嫌という程気付かされた。


しかしジャンへの手紙は、引き出しの中にあるとは、いくら勇気を振り絞っても、言う事が出来なかった。


リアンに嫌われるのが辛かったのだ。


マドルスは心労のせいか、日に日に弱まっていく。


そして、自分の死期を感じた。


自分が死んだ後、リアンはどうなるのか?


寝た切りのマドルスの頭は、その事でいっぱいだった。


残してやれる財産は山ほどある。


しかし、リアンはまだ、学校に通わなければならない子供だ。


金があっても、一人で生きていける訳がない。


そこでマドルスは、ジャンに電報を打った。


虫の良い話かもしれないが、再びリアンを育てて欲しい旨を伝える為に、電報を打ったのだ。


しかし、その願いも虚しく、ジャンに電報が届くことはなかった。


電報を打った住所である酒場には、今は誰も住んでいなかったのだ。


マドルスは、リアンが育った街に執事を行かせ、ジャンを探させた。


しかし、数日後に帰ってきた執事の口から、聞きたくない言葉を聞かされる事となった。


「一ヶ月程前に、事故に遭い、亡くなったそうです」


マドルスは自分の愚かさに泣き、リアンに対して、取り返しのつかないことをしていたと、深く後悔した。


そしてジャンが死んだ事を、リアンに何度も告げようとする。


しかしマドルスは、自分の犯した過ちのせいか、リアンに言えないままでいる。


『手紙は出してなかった』


こんな簡単な言葉が、口から出せない。


『ジャンは死んだ』


伝えなければならないその事実さえも、口からは出せなかった。


リアンに嫌われたくなかったのだ。


寝たきり生活を始めて、半年が過ぎた。


耳を近付けなければその声が聞こえない程、マドルスは衰弱している。


そして、未だにリアンに真実を言えずにいる。


そんなある日、リアンが学校に行っている間に、フェルドの弟のスタルスが、妻と娘を連れて見舞い来ていた。


「おじいちゃん!」


「…お義父様」


スタルスの妻のジェニファと娘のジュリエは、心配そうに寝そべるマドルスを見詰めている。


しかし、実の息子であるスタルスは、部屋の片隅に立ち、マドルスを遠くから、物思いな顔を浮かべ見詰めているだけだった。


マドルスは聞き取りにくいほどの小さな声で、スタルスの名を呼んだ。


しかし、スタルスには聞こえていないようだ。


「あなた、お義父様が呼んでいますよ」


ジェニファはマドルスの代わりに、スタルスを呼んだ。


スタルスはゆっくりと、マドルスが横たわるベッドへと近付く。


そしてどこか冷たい顔をして、マドルスを見下ろした。


「…大丈夫ですか、父さん?」


スタルスは冷たい顔をしたまま、感情を込めていないかのように、圧し殺したような低い声で尋ねた。


「…スタルス…お前に頼みがある」


マドルスは小さな声で、苦しそうに喋った。


「…なんですか?」


スタルスはマドルスから視線を外し、自分の両手に嵌めている白い手袋を見詰めながら言った。


「おじいちゃん」


その時、学校を終えたリアンが、マドルスの部屋に入ってきた。


マドルスを除く他の者は、リアンのことを不思議そうな顔をして見ている。


「スタルス…フェルドの息子のリアンだ」


そう言ったマドルスは、起き上がろうとした。


「えっ!?」


それまで冷たい表情を浮かべていたスタルスの顔が、見る間に、どこか怒りのこもった表情へと変わっていく。


「…兄さんの子供?」


確かめるようにそう呟いたスタルスの目は、明らかにリアンを睨み付けている。


「…お義兄樣に子供がいらっしゃったのですか?」


ジェニファは戸惑いながら、マドルスに尋ねた。


どうやら皆、知らなかった様子だ。


「…わたし、ジュリエよろしくね」


ジュリエはにこやかな顔で、リアンの前に右手を差し出した。


「…うん」


リアンは戸惑いながらも、ジュリエと握手を交わす。


戸惑うのも当然だ。


リアンはこの娘が誰なのか分からなかったのだ。


「…リアン」


マドルスがリアンを呼んだ。


リアンはマドルスの元へ駆け寄った。


マドルスはベッドから体を起こし、リアンの頭を優しく撫でる。


「…リアン…お前には言ってなかったが、フェルドには弟がいる…そこにいるスタルスだ…そしてスタルスの妻の…ジェニファと娘の…ジュリエだ」


マドルスはスタルス達に優しげな視線を送りながら、リアンに教えた。


リアンはスタルス達を見て、未だ戸惑っている様子だ。


初めて親戚がいると聞かされたこともそうだが、特にスタルスの自分を睨み付けている目を見て、困惑しているのだ。


「…はじめまして」


リアンはスタルス達に頭を下げた。


「はじめまして」


ジェニファとジュリエは柔やかに挨拶を返した。


しかしスタルスだけは、まだリアンを睨み付けている。


「…リアン…スタルス達に話があるから…自分の部屋で待ってて…くれるか」


マドルスは苦しそうにして、言葉を詰まらせながら言った。


「…うん」


リアンはマドルスに言われた通りに、自分の部屋へと向かった。


リアンが出て行くと、部屋の中は静まり返った。


しかし、その沈黙を破るように、マドルスは喋り始めた。


「…フェルドはもう…この世にはいない」


マドルスの言葉を聞いて、スタルス達は驚いている様子だ。


ただスタルスだけは、悲しむ二人を余所に、どこか嬉しそうな表情に変わっている。


「…兄さん、死んだんだ」


スタルスは、どこか嬉しそうに言った。


「…あぁ…リアンは母親も幼い頃亡くしていて、今までずっと…フェルドの親友の方に…育てて頂いてもらっていたんだ」


そう言ったマドルスは、どこか苦しそうだ。


「…まぁ」


ジェニファとジュリエは、悲しそうにマドルスの話を聞いている。


「…わしが死んだら…リアンを育ててくれんか?」


マドルスは許しを請うような弱り切った視線を、スタルスへと向ける。


「…兄さんの親友の方に返せばいいじゃないですか」


スタルスは冷たい視線をぶつけ、物を返すような軽々とした言葉を吐く。


「…その親友の方も、お亡くなりになった」


マドルスの苦しそうな表情の中に、涙が混じり始めた。


「…困りましたね、育てると言われましても」


冷たい視線を送り続けているスタルスは、とても困っているようには見えない。


マドルスは両手を付いて、ベッドから降りようとした。


しかし、マドルスはベッドから転がり落ち、床に体を叩き付けてしまった。


「お義父様!」


ジェニファとジュリエはマドルスに駆け寄った。


「…ありがとう」


マドルスは、体を支えてくれている、ジェニファとジュリエにお礼を言った。


そして二人に支えられながら、スタルスの前で跪く。


「…この通りだ…リアンにはもう…身内は…お前しかいないんだ」


マドルスは支える二人の体を振り払い、頭を床に付け、スタルスの前で土下座をした。


スタルスはその姿を見ながら、口角を歪めるようにしてあげた。


そんなスタルスの口から、微かに笑い声が聞こえてくる。


「あなた!」


ジェニファは非難するような視線を、スタルスへと向ける。


「…まぁいいでしょう…父さんから頼み事されるのは初めてですからね」


スタルスはマドルスを見下ろしながら言った。


「ありがとう」


マドルスはスタルスの足にしがみつき、心からお礼を言った。


自分の足に纏わり付く父親を見下ろし、スタルスはたまらずに笑い声を上げる。


ジェニファとジュリエは、その光景を困惑した表情で見詰めている。


「…もう1つ…頼みがある」


「…なんですか?」


スタルスは足にしがみつくマドルスを、見下ろしながら尋ねた。


「…リアンに…ピアノを教えてあげてくれんか?」


「…ピアノ!?」


スタルスは声を荒げ、足にしがみつくマドルスを振り払った。


マドルスは床に体を打ち付けてしまった。


「あなた!」


たまらずジェニファが叫んだ。


「ピアノですか!?…あなたが、私にピアノを教えろと言うんですか!?」


眉間に浮き彫りになる皺をより深くしながら、スタルスは叫んだ。


「…お願いだ…この通りだ」


マドルスは体を起こし、床に何度も頭を叩き付け土下座をした。


マドルスの額は、見る間に血で染まっていく。


ジェニファとジュリエは困惑して、黙ってマドルスの行動を見ている。


「…それはできない!!」


スタルスは怒鳴り声をあげた。


「…あなた、私からもお願いします」


ジェニファはそう言うと、跪き、マドルスと一緒に土下座をして頼んだ。


「…パパ、お願い」


ジュリエも涙を浮かべ、スタルスを見詰めている。


「…まぁいいでしょう…父さんの頼みじゃなくて、二人の頼みを聞くんですからね」


スタルスはそう言うと、窓辺に近付き、窓に写る自分の怒りに歪む顔を見詰めた。


「…ありがとう」


マドルスはスタルスの背中を見詰め、心から感謝した。


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