新しい暮らし⑥
そしてとうとうマドルスは、リアンのピアノを弾く手を叩いてしまった。
「…もう、いいよ!」
リアンは泣きながら、部屋を飛び出した。
去り行くリアンの姿を見詰め、怒りに支配されていたマドルスの顔に、悲しみが訪れる。
そして、しわくちゃな顔をして、頭を抱え跪いた。
「…ごめんな」
そうぽつりと呟いたマドルスの脳裏に、フェルドの昔の姿が浮かび上がる。
「なんで、そこで間違える!」
「お前は、本当にわしの血を受け継いでいるのか!?」
マドルスは昔、幼かったフェルドに、厳しくピアノを教えていた。
自分のピアノの才能を受け継いでいる。
将来、自分を越えるピアニストにしたい。
そんな思いに駆られ、マドルスはフェルドに厳しく接したのだ。
それはピアノに関しての事だけではない。
何事に関してもマドルスはフェルドに対して、厳しく接したのだ。
それがフェルドの為になると思い込んでいた。
それが将来ピアニストになるフェルドの為に、するべきことだと思い込んでいたのだ。
しかし、マドルスの思いとは裏腹に、フェルドはピアニストにはならなかった。
フェルドはピアノを弾く事は大好きだったが、ピアノよりも大好きなものがあった。
それは絵を描く事だ。
世界的に有名なマドルスは、演奏の為、海外を飛び回っていた。
マドルスが家にいない間は、代わりの者がフェルドのピアノを教えていた。
そんな中、フェルドは勉強とピアノレッスンの息抜きに、よく絵を描いていたのだ。
絵を描いている間は、自由になれた気がしていた。
そんなフェルドは、幼い頃に亡くした母親のシェリエルの絵ばかり描いていた。
シェリエルを描いている間は、優しかった母親と、一緒に居られる気がしていたのだ。
そして、次第にフェルドは寝る間を惜しんで、夢中でノートにシェリエルの絵を描くようになった。
フェルドが幼かった頃に亡くなった為、シェリエルとの思い出は数少なかったが、優しかった母親の顔を思い浮かべて絵を描き続けた。
そして気付けばフェルドの夢は、マドルスに埋め込まれたピアニストになる夢から、自分で決めた、画家へ代わっていたのだ。
そんな息子の思いに気付いていないマドルスは、フェルドの部屋に入る事はなかった。
躾は厳しくしていたものの、息子のピアノの才能以外には、それ程興味がなかったのかも知れない。
フェルドは十九才の時に、マドルスを自分の部屋に呼んだ。
部屋にマドルスを呼ぶのは初めての事だった。
また、マドルスもフェルドの部屋に入るのは、フェルドが幼かった時以来だ。
「なんだ話って?」
マドルスは、フェルドの部屋に入るなり、聞いた。
「…父さん見てよ」
フェルドはそう言いながら両手を広げた。
フェルドの部屋には壁を埋め尽くす程の、ノートに書かれた絵が飾り付けてある。
「父さんにはずっと言えなかたっけど…僕画家になりたいんだ!」
フェルドは胸を張って、自分の夢を父親に語った。
「…何を馬鹿なことを言っとるんだ!」
マドルスは、壁に貼られている絵をよく見もしないで、叫んだ。
「…見てよ父さん…僕は絵が好きなんだ!」
「お前は、わしを越えるピアニストになるんだぞ!」
二人の叫び声を聞き付けた執事達が、フェルドの部屋に駆け付けてきた。
「おい!この部屋に飾ってある絵を、全て燃やしてしまえ!」
執事達は苦い顔をして、マドルスの言う通りに、絵を壁から剥がし始めた。
「やめてよ!!」
フェルドは執事達の服を掴みながら懇願した。
「…すいません、フェルド様」
執事達はフェルドの手を振りほどきながら、絵を剥がしていく。
「ねぇ!父さんやめてよ!!」
「うるさい!お前は、わしの言うようにしとればいいんだ!!」
マドルスは顔を真っ赤にして憤慨している。
「…やめてよ…母さんの絵もあるんだよ」
しかしその言葉は、マドルスには響かなかった。
「…全部、剥がし終わりました」
執事達は、剥がしたグシャグシャになってしまった絵を、両手いっぱいに持っている。
「暖炉の中で全部燃やしてしまえ!」
執事達は苦い顔をしながら部屋を出ると、マドルスの言い付け通りに、暖炉のある部屋に向かった。
「うわぁー!」
暫くの間、呆然としていたフェルドは嘆きの声を上げると、仁王立ちするマドルスの横をすり抜け、執事達の後を追った。
しかし、暖炉の手前で1人の執事に押さえ付けられ、ただ叫びながら燃えて行く絵を涙越しに見ている事しかできなかった。
遅れて部屋に入ってきたマドルスは、ゆっくりと暖炉の側までやって来ると、押さえ付けられているフェルドを睨み続ける。
ゆらゆらと燃える絵が、部屋の中に暖かな空気を送り込む。
そして、泣き叫ぶ声に混じり聞こえていた、ぱちぱちと燃やす音が消えた。
執事に押さえ付けられていたフェルドは、その手を振り払い、暖炉の中に手を入れようとした。
しかし、暖炉の横に立っていた執事が、必死にそれを阻止する。
「お前はピアニストになるんだぞ!ピアニストにとっての手は命なんだぞ!!」
マドルスのその言葉も、フェルドの耳には届かぬ程、打ちひしがれている。
暫くすると、フェルドを押さえ付けていた執事は手を離した。
フェルドは真っ白な灰と化した絵によたよたと近付くと、すっかり冷め切ったその灰を両手に掴み、泣き叫んだ。
「お前は、ピアニストになる以外認めんぞ!」
マドルスはそう言い残し、部屋を後にした。
執事達は、いつまでも灰を両手に握り締めるフェルドを見詰め、涙を堪えた。
そしてその夜明け頃、フェルドは何も言わずに荷物を纏め、家を後にしたのだ。
それからフェルドがこの家に帰ってくる事は、二度となかった。
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