妻への感謝の言葉
さて、先生から妻への感謝の言葉を書けと命じられた。確かに妻には日頃から世話になっているし、感謝しているのだが、いざとなると言葉が出ない。これまで妻のことはいっぱい小説やなんやかんやでいろいろ書いているが、ストレートな感謝の言葉なんかあまり書いたことがない。気後れしてしまうのだ。
そこで僕の日記から、感謝の言葉になりそうな言葉を集め、書いてみることにし
た。
日記で僕が一番感心したのは、二年前の七月、関西のさる大手病院で脳梗塞の治療中、理学療法士のNさんと交わした会話である。屋外の外出時間、僕は自動販売機
でロイヤルミルクティーを飲みながらNさんと世間話をした。その最中、妻が若い頃
に老人介護施設で働いていた話というになった。Nさんが「道理で私たちの仕事に理解のある方だなと思っていました」と言ったのを覚えている。彼女が妊娠中で苦し
かったので、やむなく仕事を辞めるように説得したことも。
その途中、妊娠中の苦労話になる。僕が「ひっひっふー、ひっひっふー」とラマーズ法の真似をしたら、Nさんは笑い転げた。
僕は「ドラマの中での出産シーンなんて嘘ばっかりですよね」と言った。ドラマは父親の役割はほとんど描かれておらず、赤ん坊が「おぎゃあ」と泣いたらそれでそ
れでおしまい。僕のように、ラマーズ法の講習を受けて、「ひっひっふー」とやった人間なんてめったに出てこない。本当に妻の出産に立ち会った人間も。
しかし、「だから妻に、仕事を辞めろと……」と言ったとたん、咽喉の奥で言葉がつっかえた。
「山本さん、泣いてます?」
そう、Nさんの言葉に、僕は自分が泣いているのに気づいた。
もう二十年も前の話だ。とっくに自分の中では過去の記憶でしかないと思ってい
た。だが、そんなことはなかった。
僕は今も妻に仕事を辞めるように説得したあの日のことを、ずっと気に病んでいたのだ。妻は身体が弱く、仕事に全力を注いだら美月を死なせてしまうかもしれない。だから美月を救うために妻の自由を束縛しなければならなかった。あの日の決断は間違っていたとは思わない。
でも、心の中のどこかで、僕は今でもあの日のことを悔いているのではないだろうか。 大好きだった老人介護の仕事を妻にやめさせたあの日のことを。
あの日、妻は大泣きに泣いたんだ。彼女は老人の世話をするのが好きで好きでしょうがなかったのだ
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