逆行 その三

 その頃川瀬は自宅のキッチンで自炊をしていた。すぐそばのダイニングテーブルにあるケータイが動きを見せていたことに気づいてはいたが、どうせ堀江辺りであろうと触らず無視を決め込んでいる。実際親しくしている友人知己がほとんどおらず、今となっては村木や鵜飼とも一切やり取りをしていない。

 それでも最近は『リップ・オフ』での調理業務のお陰で精神的に安定し、観光客の取り込みには成功していて『以前よりも売上が伸びた』と店長にも感謝され有頂天になっていた。

 これで上昇気流に乗れる……『リップ・オフ』で正社員登用が決まれば『オクトゴーヌ』を辞められる。掛け持ちの禁止がされていないうちは、市内では箔のつく『DAIGO』にはそのまま在籍して……と算用してほくそ笑んでいた。

「まぁ、良い薫りが致しますわね」

 一DKの奥の部屋から女性の声が聞こえてくる。一人暮らしであるはずの彼の自宅から小野坂の妻夢子がひょこっと顔を覗かせた。

「お腹空いたでしょ?」

「えぇ。貴方の手料理であればたくさん召し上がれそう・・・・・・・ですわ」

 夢子はにこやかな表情でヘヤカラダイニングに移動する。彼女は男物のTシャツを着ており、白く細い脚を惜しげもなくさらけ出している。

「僕のだからやっぱり大きいね」

「えぇ、うふふ」

 夢子はTシャツの裾をきゅっと掴んではにかんだ笑顔を見せ、これまで何度もしてきたぶりっ子芝居に川瀬はときめきを覚える。

「あと少しで出来上がるよ」

 逸る本能を抑えながら調理に集中し、最後の仕上げに取りかかっていた。一方の夢子は皿の一枚準備するでもなく、テーブルに着いて当然のようにもてなしを待つ。

 川瀬は本来してもらって当然という態度を示す人間が大嫌いであった。ところが彼女が相手となるとそれさえも許せ、何でもかんでも手を差し伸べたいという庇護欲を刺激させている。そんな浮足立った状態のため、彼は“らしさ”を殺して相手に合わせていることへのストレスに鈍感になっていた。そればかりか同僚である小野坂の妻を寝取っているという罪悪感すらどこかに置いてしまっている。

 彼女は僕を愛してくれている……たかだか数回ベッドを共にした程度でそんな自信に酔いしれていた。人妻が夫よりも自身を頼っていることにちょっとした優越感を持っていたが、夢子はあくまで小野坂の代用品としか思っていなかった。

 本来律儀で用心深い彼の性分であればそのことに気付けていたであろう。しかし人の心の痛みにより添えない欠点部分と、二十九年間一度も恋をしなかった経験不足が不倫という道を選択させた。当然恋愛巧者の夢子の思惑に気付けるはずもなく、これまで守ってきた貞操を意のままに玩ばれている状態だ。

「出来た。冷めないうちに召し上がれ」

 川瀬は甲斐甲斐しく夢子に尽くし、まるでお姫様のように取り扱っている。ちやほやされることが当たり前となっていた彼女は当然のようにそれを受け取り、とびっきりの笑顔でありがとうと微笑んだ。


 堀江の呼びかけに応じた石牟礼が“ヅケカツ”を食した後、忙しさが落ち着く夜勤開始時間帯に入ってから川瀬を除く六人で国忠採用の是非を問う会議を開く。客対応ができるよう小野坂にフロントを任せ、堀江はまずは四人に意見を聞く。

「ボクは採用した方がいいと思います。食材の目利きがおできになるのであれば、今後吾さんと市場へ行けるじゃないですか」

 口火を切ったのは根田であった。オーナーである堀江が持つ未来展望に近づけることを期待し、『DAIGO』在籍四年の腕前は伊達ではないという評価をする。

「俺も採用に一票。個人的にはヤバイ相手やけど逃がすには痛い」

 カケハシは国忠の料理の腕前を純粋に評価した。少なくとも川瀬に対しては全く負ける気がせず、言ってしまえばライバル視すらしていなかった。しかし“ヅケカツ”の味は自信の揺らぎを久し振りに感じさせ、ピンチともいえる現状を腹の底から楽しんでいる。

「オレも採用! ボスと組んだらもっと人気出るぞぉ」

「私もそう思います。同じ『DAIGO』在籍でもえらい違いですね」

 義藤は今後の展望に期待を込めて、石牟礼は身も蓋もない物言いで国忠の採用に賛同した。

「それ言っちゃダメだよ霞ちゃん」

「事実ですから仕方ありません、悔しければ腕を磨けばいいんです。ただこの手の人間は何気に嫉妬深いですからね、足の引っ張り合いにならなければ良いのですが」

 彼女はちらとカケハシを見る。

「あなた喧嘩売ってます?」

「熨斗をお付けするの忘れてました」

 カケハシにしろ石牟礼にしろ皮肉屋なところがあり、対話をさせると何かとぶつかり合うことが多い。ただ似た者同士の側面もあって互いの意図を掴みやすく、仕事の面ではむしろ息の合った連携プレーを見せている。

「まぁ痴話喧嘩はそれくらいにしといて、智君と代わるわ」

 堀江もそれは把握しているため、やんわりとたしなめる程度に留めておく。意見が出揃ったのでフロントにいる小野坂を呼びに行き、全員が採用に賛同したと告げた。

「そうか、それにしても衛さんの味を出せる人間が二人も出てくると思わなかったよ。回り道ではあるけど、あの二人が組んだら再現可能なレシピが増えるかも知れねぇな」

「時間は掛かるけど、レシピが残ってない以上今のところそれが一番の近道やと思う。ただ衛さんが完全な再現を望んでらっしゃるかというと……」

「多分望んでらっしゃらないよ。もしそうであればお前か義に託してるはずなんだ」

 このメンバーの中で旧経営陣の料理の味を知っているのは小野坂だけである。堀江も半年近く共同生活をしてきたが、当時既に病魔に侵されていたため全ての味を把握している訳ではない。川瀬はレクチャーが終わるとさっさと『DAIGO』に戻り、恐らく衛氏の手料理は食べたことが無いと記憶していた。

「義君は衛さんの料理の味……」

「多分知らねぇと思う。衛さんご自身も端から義に後継を期待してなかったんだよ」

 小野坂は衛氏が敢えてレシピを破棄したのではないかと考えていた。仮に残っていたとして、堀江が見つけていたとしたら保管という選択をするはずだ。実際メニュー冊子は見つかっており、遺品を入れるタンスに大切に仕舞われている。

 そして川瀬の性分は良くも悪くも相原母子から耳に入っているはずで、今出ている性分を把握していたのであれば後継を託すとは考えにくい。基本は律儀で礼儀正しい男だが、頑固でプライドの高い面が出ると自分の味に拘るのでは? と考えていたのかも知れなかった。

「智君も採用って考えでいい?」

「あぁ、吾との相性悪くねぇと思う」

 小野坂も国忠の採用に賛同した。

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