急転直下 その一

 二月に入り、アルバイト要員となった川瀬は『オクトゴーヌ』への出勤を更に減らしていた。早朝出勤には顔を出すものの、カフェ営業とかぶる夕方出勤はほぼ削っている状態だ。代わりにカケハシがカフェ営業の流れで夕食を作るようになり、今や一人で厨房を任せられるようになっている。

 それに比例して川瀬の仕事はどんどん無くなり、あれほど拘っていた“居場所”すら失いかねない事態となっていた。オーナーである堀江、古参メンバーの根田、小野坂はそんな彼の姿を寂しく思っていたが、後に加入している義藤、カケハシ、石牟礼はこういう人なのだろうとどこかで割り切っていた。

 ただ『リップ・オフ』で調理業務が存分にできているお陰で機嫌だけはすこぶる良く、元々雑務を得意としていないこともあってプライドだけは無駄に高くなっている。アルバイトでありながら業務の選り好みまでするようになり、これには堀江もほとほと困り果てていた。

 そんな周囲の気持ちなどどこ吹く風の川瀬は夢子との不倫関係も順調で、夫である小野坂よりも頻繁に自宅ハイツに出入りしている。夜な夜な小野坂家に泊まり込んで甘い夜を過ごし、人妻との性生活にどっぷりと浸かっていた。つい最近まで貞操を守ってきた彼は生身の女の味を覚えて更に図太くなり、夫の私物拝借に留まらず自身の私物まで持ち込んで世帯主気取り状態となっている。

 夢子は夢子で小野坂に気持ちはありながらも、何かと甘やかしてくれる不倫相手に依存していた。代用品のつもりだった川瀬とのセックスの相性が案外良く、夜の生活に関しては手放すには惜しいと思えるくらいに満足している。これで夫の愛が自分に向きさえすれば……と欲を張る気持ちが芽生え、小野坂の愛情を搾取する娘と仕事と称して職場に囲う堀江を更に憎らしく感じるようになっていた。

「ねぇ義君」

 夢子は早朝出勤の支度を始めている川瀬の背中にぴとと寄り付き、深夜とも言える時間に出掛けようとする彼を引き留める。

「今日は私を優先して」

 彼女は儚く弱々しい声色で囁き男を誘惑する。あっさりと絆された川瀬の本能は疼き、それを肌で感じていた夢子はふふふと笑った。

「これじゃお仕事に行けないわよね?」

 人妻の冷たい手が服の中に入り込み、川瀬の欲情は更に刺激されて貼りつく女の臭いに思考が止まる。夢子は罠にかけるようベッドに誘い、それなりに大柄な男を簡単に押し倒して馬乗りになった。

 焦点の定まらぬだらしない顔つきとなった川瀬に、夢子は女神を彷彿とさせる美しい微笑を見せる。子をあやすように男の髪を梳き、緩みきっている口を咥えるように塞いだ。

 彼女は異常なまでに俊敏な動きで川瀬の服を剥ぎ取り、自身も裸になって体を重ね合わせる。二人の体からは熱気が発生し、季節柄の寒さをも吹き飛ばしていた。夢子は全身を激しく揺らして欲情し、川瀬も本能の赴くままセックスに興じて仕事を無断欠勤した。

 結局小野坂家に二泊した川瀬は、翌日小野坂の私服を拝借して何食わぬ顔で『オクトゴーヌ』に出社した。この日も一人事務所に入って着替えを済ませ、緑色の調理服姿で厨房に立つ。『アウローラ』のメンバーがいなくなって久しいこの場で一人作業を始めていると、夜勤でも早朝出勤でもない堀江が厨房を覗きに来た。

「おはよう義君、昨日はどないしたん?」

 彼は前日の無断欠勤について問い質す。そのためにわざわざここに来たと知った川瀬は心の中で舌打ちをした。

「すみません、体調が優れなくて」

 と言いながらも無駄に肌ツヤは良く、理由と表情とが噛み合っていないことを怪訝に思いながらも追求はしない。

「それやったら事後報告でええから連絡はちょうだい。次やったら何らかの処分は覚悟しといてな」

「はい」

 川瀬はオーナーの忠告を軽く聞き流して作業を優先した。堀江はのれんに腕押し状態の従業員の態度に呆れ、川瀬は川瀬で友人を殺害したことへの恨みを再燃させている。人殺しのくせに……夢子に心酔している今、居場所だったはずの『オクトゴーヌ』に嫌気が差して『リップ・オフ』への転職を目論んでいた。

「後悔したって知らんけんな」

 自身を蔑ろにして困るのはそっちだ……そんな思い上がった気持ちを乗せ、空を睨みつけながら一人呟いた。その後四時間ほどの勤務を終えた午前八時、着替えを済ませて『リップ・オフ』へ向かおうと外に出ると出勤時とはまるで違う銀世界となっている。このところの暖冬で雪がほとんど降らなかったこの街に、後払いともいえる積雪量をお見舞いして帳尻を合わせているようにも見えた。

「北海道といえばこうなんでしょうけど」

 根田と石牟礼がせっせと雪かきに勤しんでいるところをお疲れさまと通り過ぎる。川瀬はこの街に移住してまる六年経つが、何だかんだで雪かきをほとんどすることなく暮らしてきた。

「「お疲れさまです」」

 二人は挨拶だけ返すと、川瀬にほとんど興味を示さず雪かきを再開していた。彼らは業務遂行中のため仕事を最優先にしているだけなのだが、堀江への恨みを引きずっている川瀬は蔑ろにされていると勘違った苛立ちを募らせる。

「こんな所すぐにでも辞めたるよ」

 彼は坂道を下って幹線道路へと降りていた。そこで『リップ・オフ』の接客担当の従業員と鉢合わせたので、珍しいなと声を掛けた。

「おはようございます」

 彼は挨拶こそ返したが、切羽詰まった表情を見せている。

「店がわやだべ」

「えっ?」

「閉店しささっちまったみたいなんだべ」

「どういうことです?」

 彼の言葉がすぐに理解できなかった川瀬は、見た方が早いという彼に付いて店の方向へと走り出した。現場に到着すると、昨日まで悠然と営業していた店舗にはトラテープが巻かれ、入口のガラス面には申し訳程度の閉店報告が印字された紙が一枚

くっついているのみだった。

「そんな……」

 川瀬は目の前の現実に絶望した。どうしよう……用事の無くなった店をあとにし、ゆらゆらとした足取りで夢子のいる小野坂家へ向かう。

「義君?」

 夢子は今朝とは全く違う態度の不倫相手に困惑したが、すっかり項垂れている男の頭を優しく抱き締めて形の整ったバストに顔を埋めさせた。こうすれば大抵の男の心は安定する……数多くの男を相手にしてきた彼女は経験上それを知っており、何も聞かず川瀬の頭を撫で続ける。時間が時間なので往来で抱き合う二人を気にする視線もちらほらあったが、それを気に留めることなく二人の世界を作り上げていた。

 ところが夜勤明けの小野坂がこのタイミングで姿を見せたことは夢子にとって大誤算であった。これまでの浮気三昧も見つかったことが無かったので今回も大丈夫とどこかでたかを括っており、抱えていた川瀬の頭を強引に押し退けた。

『あの子きっとまたやるよ』

 妻と同僚との不倫現場を目の当たりにしている小野坂の脳内に義母美乃の言葉が蘇る。十代の頃からくすぶり続けていた噂話の正体をまざまざと見せつけられている状態なのだが、妻への愛情が冷めきっているためか何の感情も湧き上がってこなかった。

 これは確実に一線を越えてると直観した小野坂の中で一つの決意が固まった。そう決めてしまえば怖いものは何もない、つばさの幸せを最優先に考えてこれ以上現状を引き延ばせないと慌てふためく二人に歩みを進める。

「義、忘れモンだ」

 小野坂はいくつかの鍵を束ねているキーホルダーをふわりと山なりに投げた。距離も方角もぴったり川瀬に合っていたのだが、運動音痴が祟り手元でファンブルさせて積もりたての雪の中に落っことしていた。小野坂はそれ以外の用事が無かったので踵を返すと、夢子は必死に新雪を手で掘り起こしている不倫相手を放置して夫を追いかける。

「違うの智っ! 話を聞いて!」

「今更何をだ? これ以上こうしてるのも時間の無駄だな」

 彼は来た道を引き返し、途中で足を滑らせて転倒した妻を無視して『オクトゴーヌ』に戻った。

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