錆と嘘と綻びと その三

 久し振りに清々しい朝を迎えた。

 数日振りに浴びる朝日、この冬は年末こそ積雪があったが、このところ本州と変わらぬ気温の推移のためほとんど雪が残っていない。

「ん〜、良いお天気」

 夢子は窓越しの朝日を浴びながら大きく伸びをする。この街の景色を美しいと感じたのはあの朝以来だ。子供の頃から愛し続けた小野坂と生涯を共にすると誓ったその日の朝日もとても美しかった。

『初めからこうすりゃ良かったんだ』

 夫はそう言って抱きしめてくれた。その後同棲、結婚、出産とハッピーロードを歩んでいるはずなのだが、理想と現実はあまりにもかけ離れていた。

「これが智であれば……」

 夢子はこの時もスケスケのネグリジェを身にまとい、言葉とは裏腹に体調も肌艶もすこぶる良かった。そうなると空腹感が襲ってきて何か食べようとキッチンに入ると、昨夜は無かった鍋が二つコンロに置かれてあった。彼女はそのフタを開けて表情をほころばせると、逸る気持ちでガスコンロに火を点けた。


 「おはようございます」

 早朝三時過ぎ、一年近く振りに上機嫌な川瀬は緑色の調理服を着て厨房に入った。

「おはよう、ございます」

 彼のこのような表情を見たことが無い石牟礼は少々面食らって挨拶を返すのがやっとであった。

「どうしたの? 元気無いじゃない」

「いえこれで普通ですが」

 彼女は比較的クールに見られる上に元気一杯を表に出す性分ではない。

「今日も良い一日だね」

「はぁ」

 先輩社員のハイテンション振りに付いていけない石牟礼は、逃げるように厨房を出た。その毒牙にやられて朝市へ出掛ける宿泊客の見送りを前に要らぬダメージを受け、カウンターテーブルに手を付いてため息を漏らした。

「何があったんすか?」

「それは私が伺いたいです」

 一緒に夜勤を担当していた悌も厨房に視線をやる。

「なんかクスリでもやったんかいな?」

「それ問題発言ですよ」

「おはよーございまぁす!」

 こちらは元気一杯を地で行く義藤が早朝出勤で裏口から直接入ってきた。

「おはよう」

 普段まず聞くことの無い返答に彼は思わず足を止める。何? と声のした方を見ると、川瀬が不自然なほどの笑顔で厨房の入口に立っていた。

「おはよぅございまぁす」

 内心調子は狂っているものの、日頃からの挨拶運動が身に付いているので表向きは笑顔を作る。義藤はそのままフロントにいる悌と石牟礼の元に走り、何アレ? と視線で訴える。

「俺にもよう分からん」

「私に聞かないでください」

「え〜っ」

 三人で固まっているところに朝市へ出掛けていく客が一階に降りてきた。それを見た石牟礼は慌てて正面入口の解錠をする。

「おはようございます、お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 普段であれば食事の予約が無くても厨房に立っているだけの川瀬が、この日は後輩二人を押し退けてフロントに立った。このスペースに複数人数も要らないので、義藤は少し早いが外の清掃を始めるため事務所から外に出て行く。

「そんなに早く始めなくてもいいのにね」

 少し離れたところに立っていた悌にもにこやかに声を掛けたが、彼はほとんど相手にせず『アウローラ』が間借り営業で使っていたケーキ棚の掃除を始めた。この日見送り業務は川瀬がこなし、その流れが過ぎると厨房内の掃除を始めている。

「今日はカフェ休みやからええけども」

 珍しく鼻歌を歌っている先輩にマイペースな悌でさえも調子を狂わされていた。と客室に繋がる階段から物音が聞こえ、女性客二人組が飛び出るようにフロントの前に立つ。

「すみません! 出掛けますので鍵をお願いします!」

「お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 悌はフロントに入って鍵を受け取ると、彼の営業スマイルに二人はぽぅと頬を染める。

「あっあのっ」

「はい」

「今日の夕食、キャンセルしてもいいですか?」

「はい、承りました」

 悌は宿泊帳簿を広げて内容の変更を記す。

「チェックアウト時に差額分をご返金させて頂きます」

「良かったぁ。実は行きたいレストランがあって……」

 その辺は好きにしてくれと思ったが、これも仕事に一つなので取り敢えず真面目に付き合うことにする。

「左様でございますか」

「森田藤洋真がオススメしてたレストランの夜営業にも行ってみたくて」

「昨日のランチ美味しかったので夜の方も期待大かなって」

 そういうことか……昨夏のレシピコンテストでは連覇を逃して四位だったものの、評判を落とすどころか人気は更に増していた。

「昼とはまた違った趣があっていいレストランですよ。存分にお楽しみくださいませ」

 悌は変更が通って上機嫌の客を見送り、それを厨房にいる川瀬に伝える。

「【サルビア】ルームのお客様、夕食キャンセル入りました」

「うん」

 普段の彼であればショックを受けるなり抗議も辞さない内容だが、いつもと違った精神状態だったためか事態を軽く受け流していた。

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