錆と嘘と綻びと その一

 出張当日。この日から数日間は稲城がシッターとして『離れ』を訪ねることになっているので、小野坂はつばさを堀江に預けてから嶺山と共に東京へ向かった。

 責任重大な役割を仰せつかった堀江は従業員たちの協力を得ながら育児に奮戦する。『離れ』在住組では下にきょうだいがいる義藤が子供の扱いに慣れており、早速つばさの心を掴み始めていた。

「慣れたもんやな」

「おうっ! クソ親よりもオレの方が面倒見てたんだぜ。早く一人前になって迎えてやりたいよぉ」

「ここで焦りは禁物やで。小さいいうてもごきょうだいにかて社会はあるねんから」

「そうなんだよななぁ、上の弟は今の学校大好きだから転校したくないってさ」

 義藤は喋りながらも手際良くオムツを替えている。堀江は彼の手元を観察して一生懸命覚えようとするが、こういった作業が苦手分野であるため初日では会得できなかった。

 当初予定していた角松家で預かるという話は彼らが訪ねるという形に変わり、村木や鵜飼も参加して『離れ』はすっかり賑やかになっていた。ところが子供に好かれる特異性があるはずの川瀬には全く懐かず、気配を察知するだけで泣き喚くという異変が起こっている。

「こんな子初めてだよ」

「珍しいこともあるものですね」

 彼の実績を知っている根田も意外そうにしていたが、最近は木の葉も懐かなくなっているので川瀬に何らかの変化があったのではないかと考えていた。つばさは根田がいることに気付くと笑顔を見せ、嬉しそうに手足をばたつかせている。

「悌君、つばさちゃんあやしたってくれる?」

 この日一日休みにしている堀江は溜まっている事務仕事で自室にこもっており、ちょっとした休憩を取るためキッチンに入った。

「ハイ」

 早出明けの彼はゆっくりとつばさを持ち上げてしっかりと抱え、赤子の温もりとミルクの香りに勤務後の疲れは癒やされていく。

「ところで、夢子さんがいるのにどうして仁君がこの子を預かってるの?」

 川瀬は当然の疑問を投げ掛けた。堀江は江里子と美乃から事情を聞いているが、川瀬はそれを知らないのでおかしな状況にしか映っていない。

「小野坂夫妻のご両親から直接頼まれてるんや」

 実際は許可を取っているだけなのだが、双方の両親は夢子と一緒にしておくくらいならと歓迎している状態だ。それにつばさがここに来てから肝心の母親が一度たりとも訪ねに来ておらず、夢子の育児放棄の信憑性は日に日に増していた。

「でも夢子さん、この子が家にいなくて寂しがってるんじゃないの? ご自宅にお届けするべきだよ」

「であればとっくに迎えに来られてるはずや、様子見どころか電話一本無いで」

「でもそれって……」

「世間的にはおかしいかも知れんけど、智君もご両親もつばさちゃんはここにおると思ってはるねん。頼まれてる以上俺の一存で勝手なことはできひんのや」

 川瀬は自身の意見が通らないことに苛立ちを募らせるが、堀江は構わず言葉を続ける。

「それに夢子さん自身が体調不良の可能性かてあるやんか、その状態でつばさちゃんをお返ししたらかえって負担になると思うんやけど」

「体調不良?」

 川瀬はその言葉にのみ反応して夢子を慮る。それが事実であれば……と早速ケータイを取り出して彼女に体調を気遣うメールを送信した。ケータイに興味対象を移した川瀬に堀江は特に声を掛けず、飲み物を用意すると再び自室に入って事務仕事に精を出す。

 川瀬はペンションに移動して業務に入ってもひっきりなしにケータイを気にしている。まだカフェ営業中で忙しなくしている悌と石牟礼は腑抜けな先輩を鬱陶しく感じており、願わくば帰ってくれと心の中で思っていた。

 カフェ営業が終わって閉店準備に勤しむ後輩の目を盗んでケータイをチェックすると、夢子からの返信があった。かなり弱っていそうな雰囲気のメールにいても立ってもいられず、まだ勤務時間内だが帰り支度を始める。

「急用ができたからあと宜しくね!」

 川瀬は一方的にそう言って早退する。人手は減ったが邪魔に感じていた二人はそれを無視して目の前の仕事をこなしていた。

「いらしたところで役には立ちませんが」

「一応オーナーには言うとくか」

「それは私がしておきます」

 石牟礼は一旦業務を離れて堀江のケータイを鳴らす。

『はい』

「石牟礼です、川瀬さん早退されました」

 彼女は事実のみを淡々と告げた。

 

 東京にいる小野坂は、忙しくも充実した日々を送っている。実家と会場が近いという理由でホテルを取らず、十年近く振りの我が家で初めて家族団らんを経験した。調布夫妻も交えた六人で賑やかに過ごし、多少の夜更かしも気力の充填ができているので仕事への支障は全く無い。

「やっぱり郷いうんはええか?」

 嶺山も育児疲れ状態の小野坂が気掛かりといえば気掛かりであった。

「今更住みたいとは思いませんが、たまの帰省くらいであればいいですね」

 さすが実家の近所であるだけに、テナント従業員や客として旧友との再会もちらほらあった。彼らは雑談ついでに売上にも貢献し、日を追うごとに客足が増えていく。

「お前ここでも顔広いんやな」

「連絡取り合ってる奴ほとんどいないですよ。ただ通ってた高校がすぐ近くにあるんです」

 小野坂は子供の頃から友人知己に恵まれている方で、何だかんだで外で孤独を感じた記憶が無い。部活動にも入って充実した学校生活を送っており、当時恋人であった妻よりも友人付き合いを優先するくらいであった。

 一方の夢子はそんな小野坂を尻目に複数のボーイフレンドをストックし、彼の代用品として時には肉体関係も持っていた。それは噂話程度で知っていたが、今までその現場を見たことが無いため取り敢えず知らぬ存ぜぬで通している。

「久し振りだね智君、結婚したって聞いてるけど」

 半分庭状態のエリアであるために元カノとの再会もあった。しかし恋人として破局していても友人関係に戻れているため、変な気まずさは全く感じなかった。

「あぁ、九月末に娘が生まれたんだ」

「おめでとう。でも大丈夫? 奥さんってあの方でしょう?」

 彼女は高校時代の同級生でもあるため夢子のことも知っており、当然のように悪評も耳にしていたので渋い表情を見せる。

「まぁ、そうなんだけど」

「智君ワンオペになってない? 辛かったら話くらい聞くよ」

「ありがとう。時々シッターさんも利用してるから大丈夫だよ」

 小野坂は多少意地を張ったが、稲城の存在と堀江の心意気のお陰で精神的にはかなり楽になっていた。

「ならいいけど。私も六月生まれの娘がいるから子供も同い年だね、番号変わってないから気が向いたら連絡ちょうだい」

「あぁ、俺も番号だけはそのままだよ」

 彼女はその後数種類のパンを買って一緒に来ていた夫と子供と合流していった。一方の嶺山は店に立てないくらいにひっきりなしでパンを焼き続け、現地アルバイトの女の子も必死に接客をこなしている状態だ。

「普段からこんなにお忙しいんですか?」

 彼女は試食用のパンを頬張ってひと息ついた。

「セールだとこんな感じかな」

「すごく美味しいですもん、期間中に買いに来ます」

 その後しっかり完食して片付けに着手する。その後唯一の休日を利用し、友人を連れていくつかのパンを購入していった。

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