幕開け その二
所変わって『アウローラ』では、元旦からのリニューアルオープンセールは大盛況な滑り出しで、この一週間で間借り時期の一カ月分の売上を超えるほどであった。この結果に安堵した嶺山であったが、今後のステップアップに向けて予定している出張販売を前に頭を悩ませている。
「北村さん、インフルエンザやってんて」
「そうか、しゃあないことではあるけど困ったなぁ」
『アウローラ』はこの週末から東京のショッピングモールで行われる北海道物産店の参加が決まっており、嶺山は東京事情に明るい北村を同行者に据えていた。ところが正月三が日の後体調を崩し、病院へ行ったところインフルエンザと診断されたと連絡があったばかりだ。
「留守はお前にしか任せられんし、日高かハマを連れてってしもたらここの業務に支障きたすわ」
「せやったらどうすんの? 一人で行く?」
「それでもええっちゃええんやけど、現地アルバイトが一人しか借りられへんからできれば智に打診したい」
「ウチとしてはええ案やけど、『オクトゴーヌ』さんは困らはる思うで」
「そこやねん」
嶺山はそう言って肩を落とした。
「せやったら堀江君に先に話通しといたら? あかんかったら一人で行き」
現在もちゃっかり嶺山家の同居人と化している浜島も話に参加する。
「まぁ何とかなるっちゃなるけども、俺自身が東京事情に明るない」
「これが大阪やったら平気で行きよるやろけどな」
彼は一人ケラケラと笑う。
「何ならツテ頼ってバイトも自分で探すわ」
「大阪やったら私もそれができたんやけど」
嶺山は動き回る性分であるが、人見知りなところもあって知らない人間を相手するのがさほど得意ではない。浜島は付き合いが長いだけにそのことを知っており、新たに主催者にアルバイトを頼むのを臆しているのだろうと推察していた。
「取り敢えず仁には話するわ」
彼はそう言って話を締めた。
翌朝早速その話を受け取った堀江は、小野坂の出勤を待って本人に伝えることにする。
「智君、忠さんが週末の東京出張に同行してほしいんやって」
「北村さんやっぱり無理そうなのか」
「インフルエンザやったらしいわ」
小野坂は考え込むように口をへの字に曲げる。この日はカフェ営業に合わせたシフトのため『アウローラ』のアルバイトは入れていない。
「あんま猶予無ぇな」
「どうするかは智君の気持ちで決めてええで」
「そう言うけどさ、急っちゃ急だし十日前後は戻れねぇぞ」
「人員も去年より増えてるから何とかできるし、帰省気分で東京に出向くんも悪ない思うで。仕事二つやって家事も育児もこなしてって状態なんやし、ちょっとくらい離れたって……」
「嫁に任せられるんならそうしてる」
小野坂は低く暗い口調でそう言い返した。堀江はちょっと踏み込み過ぎたかと思ったが、このままの状況が続けば彼の方が壊れてしまわないかと懸念もしていた。
「智君、もっと周りに頼ってええんやで」
「十分頼ってるよ」
「俺から言わしたら一人で抱えすぎ。育児に関して俺らに頼れんのやったら一緒に東京へ行ってご両親に預けたってええんやで」
「……」
堀江は少しでも小野坂の負担が軽くなればと考えたが、それに伴った知識も経験も無いため案らしい案は思い浮かばない。小野坂もオーナーの思いは重々伝わっていたが、自分のことは自分でという責任感からなかなかそれを受け取れないでいた。
「したらウチか角松家で預かっちゃる」
「いつの間に来とったん?」
二人が込み入った話をしている間に村木が『離れ』に上がっていた。
「ん? 今だべ」
「角松家じゃ迷惑になるだろ、木の葉ちゃんだっているんだし」
「なんもなんも、むしろ会いたがってんべ。ご近所に似たり寄ったりの歳ん子がおらさらんこいてたからさ」
「まぁ家に置いとくよりは良いな。無理そうならシッターさんの連絡先教えるよ」
「その時はここで預かるわ、一応ご両親には言うといた方がええな」
堀江は早速黒電話に走り、小野坂の実家に連絡を入れる。村木も自身のケータイで小野坂の事情を話すと、双方から良い返事がもたらされた。
「許可貰えたで智君」
「こっちも問題ないべや」
二人の後押しで小野坂の東京行きが決まり、二週間近く家を空けることになった。当然のように夢子は反対し、その期間の食事はどうするだのつばさを見捨てるのかだのとなじり始める。この展開は予想できていたものの、出産以降ワガママが続いている妻が化物にしか見えなくなっていた。
「飯なら外出りゃ何でもあるだろ? つばさは仁と礼に預ける」
「そんなのダメよ! 外食続きじゃお肌に悪いじゃない。それに大事な娘を人殺しに預けるの?」
「またそれか、お前と一緒にしておくより全然良いよ」
育児らしいこと何もしてねぇだろ……ヘタに口が立つだけに娘以上に面倒な妻に失望感は更に増していく。昨年末のSNS事件以降口を開けば退職を迫り、堀江に対する偏見をむき出しにする夢子の存在そのものが嫌になっていた。
「酷いわ智、私だって一生懸命つばさと関わろうとしてるのに」
「具体的に何やってんだよ? オムツ替えたことも風呂入れたこともミルク作ったことも無いだろうが」
「だってあの子私が触ろうとすると暴れて泣き出すんだもの」
夢子は被害者面をして自身のネグレストを娘のせいにしはじめる。
「当たり前だろそんなの。夜泣き一つ相手にしない、抱っこの一つもしてやらない人間を信頼するはずないだろうが」
「あいつは智の心を奪う疫病神なのよ! 私に向けるべき愛を横取りするんだから!」
「いよいよ何言ってるか分かんねぇわ」
もう疲れた……イライラが沸点に達しかけたその時、寝室のベビーベッドで寝ていたつばさが大声で泣き始めた。
「あーもう煩いっ! あんたのせいだからね!」
夢子は泣く娘に罵声を浴びせるだけで様子を見に行こうともしない。結局小野坂が寝室に走ってつばさを抱きかかえた。
「ごめんなつばさ、煩くして」
彼は必死になって娘をあやし、泣き止むまで付きっきりでいる。
「どうして私を見てくれないの?」
夢子は自身を無視する夫の背中を寂しそうに見つめているだけで、共に娘に寄り添おうとする態度は見せぬままであった。そしていつの間にか貴重品の入っているバッグだけを持ち出し、何も告げずどこかへ出掛けていった。
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