もやもや その一

 「ここのパスタ、とっても美味しいのよ」

 『DAIGO』のランチ営業を終えた川瀬は夢子と共に帰路に着く途中、誘われるまま坂道を下りきった寂れた飲食店に立ち寄った。そこは市内の中核を担う幹線道路沿いで交通量も比較的多いのだが、この店だけは閑古鳥が鳴いていて車十台分は駐車できそうな場もありながら一台も停まっていない。

「穴場……的な?」

「きっとそうだわ、タバコも吸えるからゆったりできるわよ」

 川瀬はガラ空きの店内を見回して、穴場以前に不人気であることを察する。以前の彼であれば確実に見向きもしないのだが、今や愛煙家となっているので禁煙ブームに逆行しているこの店はむしろありがたい存在かもしれない。

 『オクトゴーヌ』も基本禁煙はしていないのだが、『アウローラ』の臨時店舗ができてから従業員も顧客も店内でタバコを吸わなくなった。作年末頃から小野坂もタバコを辞め、事務所の外にある屋外用の灰皿も開店休業状態である。

 二人は人目を気にするように奥まった席を選び、置いてあるメニューを広げた。客数と反比例して数多くの料理が表記されており、選択に迷いが生じて多少の時間を要してしまう。

「パスタ料理がオススメですのよ」

 天然なのか喧嘩を売っているのか、夢子は川瀬が最も得意としているパスタ料理を敢えて薦めた。掲載されている写真を見る限りちっとも美味しそうに見えないのだが、彼女の美しさに免じる形でカルボナーラを注文する。

「本当に美味しいのよ、だけど智は来たがらないの」

 彼女はナポリタンを注文し、楽しみだと言わんばかりの表情を見せた。その言葉にそりゃそうだろうねと思ったが、惚れ惚れとするまばゆい笑顔を失いたくなくて口には出さない。

「折角ですから“シェア”致しましょ」

 夢子は嬉しそうにそう言った。川瀬はこの“シェア”というやつが大嫌いなのだが、目の前の女性が相手だと嫌だと言えなかった。

「うん、良いよ」

「嬉しいわ。夫はあまり好きではないみたいなの、させてくれない訳じゃないのだけれど」

「へぇ、僕も頼まれない限りしないよ」

 川瀬は続けられるのは嫌だとばかり自衛線を張る。

「そうでしたの? 男性はこういうのお好きではないの?」

「それは何とも……好きな人もいるだろうし。僕は自分からしないってだけで好きでも嫌いでもないよ」

「良かったわ、義がお優しい方で」

 夢子に初めて下の名で呼ばれた川瀬は思わず胸を弾ませる。調理師学校時代以降は親しくしている友人がほとんどいないため、必要最低限の交流しかしてこなかった。『オクトゴーヌ』に加入してから下の名で呼び合うことが暗黙の了解となり、最初の頃は違和感と嬉しさを混じえた感情が湧き出たことを思い出す。

「そう言えば、私出店レシピというものを存じ上げませんの」

「そうだよね。今年から店舗対抗になるんだけど、食事で使った割り箸を気に入った店のゴミ袋に入れて投票するんだ。ルール上僕たちは『DAIGO』に投票できないんだよ」

「職場の応援は禁止ということですのね。私始めから野上さんを応援するつもりなんてございませんわ、義君を応援するんですもの」

「あなたの応援があれば百人力だよ」

 川瀬は心強い味方ができたと嬉しくなる。彼女の応援があれば優勝も夢ではない……それくらいにモチベーションは上がってきていた。

「お待たせしました」

 想像していた以上に早く無表情の男性従業員がゴンと音を立てて皿を置く。使用するフォークとスプーンもガチャガチャと音を立てながら並べ、川瀬は下品極まりないと沸点寸前まで怒りがこみ上げていた。しかし夢子はそれを気にすることなく、従業員にきれいな笑顔を向けていた。

「どうもありがとう、とても美味しそうですわ」

 夢子はギトギトのナポリタンを見ながら瞳を輝かせている。一方の川瀬はこってりを超えたドロドロのクリームソースが絡むカルボナーラにげんなりしていた。

 二人は対象的な表情でフォークを手に取り、まずは互いのパスタ料理を“シェア”し合う。彼は大量のケチャップとオリーブオイルでテラテラしている真っ赤なナポリタンを口に入れる。アルデンテどころかゴリゴリと音を立てそうな固茹でのスパゲッティーニ、ジャリジャリと音を立てる生焼けの具材とのハーモニーはまさに地獄であった。

「カルボナーラも美味しいわね」

 夢子はカルボナーラを幸せいっぱいの表情で咀嚼していた。それを見ていた川瀬は、そちらに一縷の望みを託すかのようにお冷でナポリタンを無理矢理胃に流し込む。

「最高でしょ、ここのナポリタン」

「……」

 これなら智君の料理の方がよっぽど美味しいよと言いたくなったが、喜んで食事を楽しんでいるところに水を差したくなくて黙ることにした。

「智もお料理はよくするのだけど、こんなに美味しくはありませんのよ」

「えっ? 彼上手な方だよ」

 一体どんな味覚してるんだ? 川瀬は夢子のひと言に本気で驚いてしまう。

「そうですの? でも台所には積極的に立ってくれるからとても助かっているわ」

 そう言いながらガチガチのナポリタンをフォークに巻き付け始めたが、滑らかに絡まず重い動きで必要以上の量を巻き込んでいく。それでもスプーンを使いながら一口サイズにまとめて口の中に入れ、ゴリゴリと音を立てながら咀嚼していた。

 ナポリタンの先制攻撃に食欲を喪失させていた川瀬は、嫌々ながらカルボナーラにフォークを伸ばす。一体何の罰ゲームなんだ? と重々しいフェットチーネを巻き付けて気持ち勢い任せで口に入れた。ナポリタンほどの固茹でではないことに安堵はしたが、滑らかさの欠片も無いダマの残るソースに千円以上支払わないといけないのかと思うとコンビニ弁当の方がマトモだと言いたくなる。

「本当に美味しいわ、倍のお値段を取られてもいいと思うの」

「それはどうかなぁ? 十分高いけど」

 こんなの半額でも食べたくないよという感想しか持ち合わせていない川瀬は、正直に言ってしまえばここでは二度と食事を摂りたくなかった。

「そうかしら? このお値段で本場地中海を味わえるなんて贅沢の極みだわ」

「いやナポリタンは本場じゃ……」

 そう言いかけたが、もしかして彼女を傷付けてしまうのでは? と思うと全てを言い切ることができなかった。川瀬の性分だと正しいことは正しいと全面に押し出し、それで相手が傷付こうが何とも思わない。しかし夢子に対してはそうもいかず、料理の不味さよりも今二人でいられる幸福感の方が勝っていた。

 本当の贅沢って何だろう? プロとして提供するにはあまりにも酷すぎる料理と、絵に描いたような理想の女性を前にして何をもって贅沢と言うのかが分からなくなっていた。

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