もやもや その二
妻の妊娠が分かって約二カ月、小野坂は父親としての在り方について悩んでいた。幼少期から母子家庭で育ち、実父の顔すらまともに憶えていない。時々インターネットで父親としての心構えについて調べたり、妻の実父や歳の近い角松にあれこれと尋ね回っている状態だ。
『智君はもっと夢子さんのことを大切にしてあげるべきだよ』
『DAIGO』では妻の同僚でもある川瀬に浴びせられたひと言が想像以上に重くのしかかっていた。彼自身できる限り妻に寄り添おうとなるべく定時に仕事を切り上げ、夜勤もかなり減らしている。
プレママ教室にもきちんと通い、今では彼の方が同期ママたちとコミュニケーションを取って交流を広めている。その頑張りをまるで嘲笑うかのように、隙を見ては見舞いに訪れて自身以上に妻を干渉する川瀬に嫌なものを感じていた。夢子が嫌がっていないので黙っているが、正直に言ってしまえば良いとこ取りの親切気取りでしかなかった。
更に言えば一つのシフトにしか入らなくなった川瀬の身勝手が妻との時間が取れない大きな原因の一つとなっており、増員しているのにかえって一緒にいる時間が減ってしまっている。
「智君、最近頑張り過ぎてへん?」
堀江も結婚から妻の妊娠で忙しない生活を送っている小野坂を気に掛けていた。根田、悌、義藤も小野坂を思いやり、積極的にシフト変更に応じて何とか彼の負担を減らそうと尽力している。しかし川瀬の態度が相変わらずなので、特に悌は蔑視の態度を見せるようになっていた。
「智さん、しんどかったら俺の部屋仮眠用にでも使うてください」
「お前の部屋汚ぇから事務所の方がマシだ」
この日小野坂と悌が夜勤に当たっており、もう少しすると朝食業務で川瀬が出勤してくる。小野坂は変則夜勤で八時まで仕事なのだが、川瀬に合わせて堀江が出勤する手筈となっているのでそこで一時間休憩を取る。
「おはよう智君、嫌やなかったら俺の部屋使う?」
「あぁ、横になりたいからベッド借りる」
小野坂は堀江の厚意はあっさりと受け取る。
「その態度の格差は何なんです?」
自身の厚意を秒殺された悌は小野坂に不平を漏らす。その分だけ打ち解けられているという証拠でもあるのだが。
「そこ気にするなら掃除しろよ」
「してますよ」
「嘘言え、昨日荘に発煙型殺虫剤放り込まれた後どうしたんだよ?」
「換気はしました、煙たかったんで」
「せめて布団干してシーツ洗えよ、天気良いんだからさ」
小野坂はそんなやり取りでも、もやもやしたものが多少晴れていくのを感じていた。
「吾、それでようかぶれたりせんなぁ」
「俺の肌頑丈なんですよ、風呂入りゃ問題無いでしょ」
「部屋汚いんは衛生上アカンやろ」
「多少掃除せんくらいで死にませんよ」
「お前の場合多少じゃねぇだろ、取り敢えずちょっと寝るよ」
小野坂はカウンターの椅子から立ち上がった。
「うん、多少オーバーしてもええから」
「一日程度食わんでも死にませんけど寝んと死にますからね」
「あぁ、おやすみ」
彼は仮眠を取るため『離れ』へと移動した。その甲斐あって無事に勤務を乗り越え、帰りがけに『赤岩青果店』に立ち寄った。ちょっとした青果でも買って帰ろうと店内を物色していると、同じく夜勤明けの角松と鉢合わせる。
「おはよう、そっちも夜勤か?」
「おはようございます。これで今日明日二連休です」
角松も多少疲れは見せているが、愛娘と一緒に過ごせる時間が嬉しいようでほっと息を吐いた。
「あんれ〜? 二人共来ささってたんかい」
この日は早朝の搬入のみで仕事を終えている村木が二人のそばに駆け寄る。
「おはよう礼さん」
「おはようさん、智は『オクトゴーヌ』で会ってんべ」
「あぁ、一日二度も会いたかねぇけどな」
「つれねえことこくでね。そったらことより正、これで何か分かるかい?」
村木は可愛いデザインの紙袋を義弟に見せる。角松も見憶えは無い様子で首をひねっている。
「どこにあらさったんだべ?」
「まどかの部屋だべ」
「そうかい。自分でラッピングしささってるっぽいしたからさ、事前に誰か宛のプレゼントを準備しささったんでねえかい?」
「誰にだべ?」
村木は言ってからあっと声を漏らした。
「カヨちゃんだべ!」
「いやユキちゃんだろ」
そんなことを言い合っている村木と小野坂の傍らで、角松は袋の中身から封筒を取り出していた。
「多分これ見たら分かるべよ」
彼は封が閉じられていないのを良いことに、さっさと中からメッセージカードを取り出した。そこには懐かしい筆跡で【JULY 4. Happy Birthday dear YUKIJI】と書かれてあった。
「七月四日……」
「一週間過ぎてるしたってさ、今出てきたってのははまぁまぁタイミングいくないかい?」
「したら早速ユキちゃんに渡すべ!」
村木は大張り切りで私用車を置いている裏口に向かう。関係者以外立ち入れないバックヤードを通ったので、二人は店を出てから脇道に入って村木と合流した。
ほぼ同じ頃、夜勤明けの塚原は『アウローラ』のパンを購入するため行列に並んでいた。普段であれば帰宅して仮眠を取ってから息子照を連れてゆっくりと出向きたいところだが、今現在彼の家庭事情はそうも言っていられない状況になっている。
「いらっしゃいませー」
この日も店に立っている雪路は、いつもと変わらぬ美しい笑顔を振り撒いて接客に勤しんでいる。店内外にいる男性客は彼女の美しさに見惚れており、パンの購入よりも美人従業員を見に来たといった感じである。
「お決まりでしたらお伺い致します」
そう声を掛けても応じるのは素直にパンを買いに来た女性客ばかりで、朝のラッシュ時刻にも関わらずなかなか順番が回ってこない。
急いではないけどクタクタなんだよ……そう言いたい気持ちをぐっと堪えて待っていると、ラッキーなことに雪路の方から声を掛けてきた。
「おはようございます塚原さん。今日米粉パンは食パンと白丸パンの二種類出してますよ」
彼女の何気無いひと言で塚原は思わぬ形で注目の的となってしまった。取り巻きのように雪路を眺めてニヤついていた複数の男性客に嫉妬の視線を向けられてげんなりとする。
「良いなぁ、名前覚えてもらえてさ」
「なしてあったらおっさんが……」
おっさんで悪かったな……聞こえよがしの悪口は無視に限ると知らぬ顔をする。
「それ頂きます」
「ありがとうございます。米粉食パン一斤と白丸パン二個で宜しいですか?」
「白丸パンは三個お願いします、食パンは一斤で」
「かしこまりました、税込み七百五十円頂戴致します」
「はい」
塚原は千円札を渡してから商品を受け取る。金銭授受の待ち時間中も痛い視線を浴び続け、一刻も早く難を逃れたくなってきた。
「二百五十円お返し致します、またのご来店をお待ち致しております」
「ありがとう」
釣り銭を受け取るとさっさと店を出て帰路に向かう。雪路の人気振りを思い知った塚原は、パン一つ買うのにこんなに疲れたのは初めてだと大きくため息を吐いた。
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