初恋 その一

 シオンルームを除く全ての部屋が空室となって一旦は静かになった『オクトゴーヌ』館内だったが、先程まで出掛けていた調布が血相を変えて戻ったことから事態は一気に緊迫する。店番をしている小野坂と、この日はやたらと長居する塚原は一瞬何事かと彼女を見る。

 事情はよく分からなかったが、とにかく部屋に戻りたいのだろうと考えた小野坂は、サッとフロントに入って【サルビア】ルームの鍵を手に取った。塚原は状況が飲み込めず最初はキョトンとしていたが、あまりに俊敏に動く小野坂と、彼を目指して走る女性客の姿をじっと観察していた。

 小野坂は調布が駆け寄ってくるタイミングを計って軽く指に架けるだけの状態で鍵を差し出すと、彼女は完璧な連携を見せてそれをキャッチし、【サルビア】ルームのある二階へ一気に駆け上がった。

 何今の? 塚原は一連の動きを見て、先程小野坂が言った『宿泊客と従業員』というだけの関係ではない事は容易に想像できた。そんなざわつきに気付いた堀江が事務所から出てきて、何事なん? と問い質した。

「【サルビア】ルームの調布さんが戻ってこられたんだ、何か慌ててる感じだったけど」

 どことなく他人事のような言い方をする小野坂の態度が気にはなったものの、調布がなぜ慌ててここに戻ってこなければならなかったのか、今はその事の方が重要な問題だった。

「それってマズないか?」

 すると入口のドアが勢い良く大きな音を立てて開き、ユメコ! と大声を出す男が乱入した。彼は長身で上質なスーツを着用しており、一見品の良いインテリ風の紳士だ。

「お静かに願います」

 堀江は気丈な態度でインテリ男の前に立ち塞がる。

「妻に会わせろ。小宮山コミヤマ夢子、ここに泊まってんだろ?」

 見掛けに合わず横柄な口の聞き方をする男の言葉で、調布のことであろうと思ったが、“小宮山”名義の宿泊ではないので、そのような名前の客はいないと伝えた。しかしそれで納得するはずも無く、強引に奥へ入ろうとする。

「これ以上の立ち入りはお断り致します!」

 堀江はいつもより強い口調で言い切ると、一人の男性客が客室から降りてきた。

「一体何事ですか?」

 その男性客とは【シオン】ルームを利用している里見友勝で、このところ体調が芳しくないようで数日ぶりに顔を見せた。彼に気付いた小野坂は騒ぎに対し謝罪する。

「お騒がせして申し訳ありません」

「いや、君は悪くないよ」

 里見は小野坂に笑顔を向けると、“小宮山”というインテリ男の前に立つ。

「騒ぎを起こしているのはあなたですね?」

 落ち着き払った口調にいきり立っている感情を逆撫でされたのか気に入らなさそうな表情を見せていたが、相手が超有名人と分かるや否や急に態度を変えて引きつった笑顔を見せた。

「こ、これは里見友勝さん。どうしてこんな所に?」

 しかし里見は露骨な態度の変化を嫌ってか、里帰りですとだけ答えるとにこりともせずゆったりとした足取りで男の脇をすり抜ける。

「少し出掛けてきます」

 彼は堀江に対しては元の優しい表情に戻してそう伝えるとペンションから出て行った。

「行ってらっしゃいませ」

 里見を見送ったタイミングで裏口から、こんちわ~と鵜飼の声が聞こえた。その声に反応した堀江は慌てて裏口に駆け込み、今はちょっと待ってと引き留める。

「ん? どうかしたかい?」

「うん、今トラブル発生してしもて。ちょっと面倒臭そうやねん」

 堀江はざっくりと事情を説明する。

「したら表に入んなきゃ大丈夫かい?」

「うん、せやな。今表に智君と俺しか居らんねん。治まったら手伝うから」

「ん」

 鵜飼はそっと階段を昇って洗濯物の回収を始める。そうは言ったものの、彼が離れている間に店内ではもうひと悶着起こってしまっていた。

 

 乱入インテリ男“小宮山”はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出し、小野坂をじっと見つめている。それは少し古く、学生服を着ている小野坂と調布が数名の仲間たちと共に仲睦まじく写っていた。

「君、妻とはどういう関係だったんだ?」

「さぁ、何のことです?」

 小野坂は写真を見せられても動じること無く平然としている。

「随分と白々しいな。君、小野坂智だろ?」

 “小宮山”は少々イライラした口調になる。小野坂はそれを逆撫でするような視線を向けて、それが何か? とまるで挑発する態度を取り始めた。

 マズいなぁ……堀江は多少ハラハラしながら見守っていると、案の定短気を起こした男はカウンターを力強く叩き、小野坂に掴み掛かろうとする。堀江が駆け寄るより少し早く反応した塚原が二人の間に割って入って警察手帳を提示した。

「これ以上の騒ぎを起こすと逮捕しちゃうよぉ」

 ただカウンター席に座っていただけの男性が警察関係者である事を知った“小宮山”は、少し悔しそうに引き下がって乱れた着衣を直す。

「又来る」

 彼はペンションから出て行ったが、持参した写真は置き去りにされている。堀江は、塩でも撒いとこかと呟きながら裏へ引っ込んで鵜飼の作業を手伝い始める。小野坂は写真に手を伸ばすが、塚原がそれを先に手に取った。

「どう見たって親しい間柄だったんじゃない、君たち」

 塚原は写真を小野坂の前に差し出したが、それを一切見ようとせず、何がだよ? と面倒臭そう答える。

「さっきのなんて、相当親しくないとあんな芸当出来ないよ」

「あんなのたまたまだよ、ほぼまぐれ。あそこまで上手くいくとは思わなかった」

 小野坂は笑って誤魔化し、塚原に背を向けて厨房に入ろうとする。

「彼女のこと、今でも好きだったりするの?」

 塚原はまだ話は終わってないとばかり小野坂を引き留める発言をする。

「そんな感情、持ったこと無ぇよ」

 小野坂は足を止めて振り返ると、先程より表情が険しくなる。

「誰がそんな嘘、信じると思ってんの?」

 塚原は小野坂をじっと見つめている。彼も目を逸らしはしなかったが、燻り続ける何かに苦しんでいる瞳をしていたように塚原には見えた。

「ちゃんと向き合わないと後悔するよ」

 彼はそれだけ言うと代金を支払ってペンションを出る。小野坂は何も言えずコーヒーカップを片付け、お金をレジに放り込む。そして“小宮山”が忘れていった写真を憎々しげに鷲掴みにしたが、人様の物と思い直して常備している封筒に入れて調布に返すことにした。


 洗濯物の回収をしている堀江と鵜飼は、下に降ろして『クリーニングうかい』の営業車に積み入れていた。するとトラブルって何だったのさ? と珍しく鵜飼の方から話を切り出す。堀江はどう説明しようか悩んだが、トラブルがあったことを言ってしまった手前、気にするなと言う方が無理があるような気がしてかいつまんでの説明をする。

「宿泊客様を訪ねに来られた方がおってんけど、“招かれざる客”的な感じやって。部屋で休んでる宿泊客様も居らしたから『勝手に入るな』って」

「そうだったんかい。聞くつもりなかったけど、『妻とはどういう関係だ』とかぬかしてる声が聞こえちまって。ばんぺしてんの智さんだし、標準語したから東京で不倫でもしてたんでねえか? とか要らねえ詮索しちまってさ」

 鵜飼は自身の突飛な発想に苦笑いしたが、堀江はあながち外れていないような気がして思わず考え込んでしまう。

「どうかしたかい?」

「うん。智君、東京で大恋愛でもしたんかな? と思って。それが昔の話なんか最近の話なんかは分からんけど」

 その言葉で鵜飼は何かを思い出したらしく、あのさと堀江の顔を見た。

「智さん、東京で大恋愛ってのは本当にあったらしいんだ。今くっちゃるには長くなるしたから、お昼どっかで飯まくらいに行かないかい?」

「うん、ええよ」

 二人はランチの約束をすると、それぞれの仕事に戻った。


 ちょうどその頃、小野坂は遅い朝食から戻ってきた根田にフロント業務を任せて、二階客室の【サルビア】ルームの前に居る。調布は“小宮山”というインテリ男から逃げるのに必死だったのか、ドアノブには鍵が刺さったままになっていた。写真をドアの隙間に挿して戻るだけのつもりだったのだが、従業員としては見過ごす事が出来なくて一つ息を吐いた。

 相変わらず抜けてるな……そんな事を思いながら鍵を抜き取ると、【サルビア】の絵が彫られているドアをノックする。

「調布さん」

 営業用口調で呼び掛けると、ロックが解かれる音と共にドアが少し開く。

「はい」

 疲れた表情を見せる調布が顔を出し、力無い笑顔を作って何とか取り繕っていた。

「智、あのね……」

 彼女は何か言いたそうにしていたが、それを遮るかの様に刺さったままになっていた鍵と写真の入った封筒を差し出した。

「ご主人のお忘れ物です」

「ありがとう」

 調布がそれを受け取ったのを確認し、小野坂は営業用の態度を崩さず、失礼しますと一礼して立ち去ろうとする。

「待って」

 彼女は何とか小野坂を引き留めようと部屋から出て腕を掴む。しかしそれに応じること無く、冷たい態度でその手を引き剥がして下に降りた。調布は物悲しそうに小野坂の背中を見つめており、しばらくして諦める様に部屋に入ったのだが、この日は結局外出しないまま夜を迎えた。

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