忘れ物 その三

 『離れ』からペンションに移動してきた小野坂は早速仕事に入り、厨房で洗い物をしている堀江に挨拶を済ませるとさっさと外へ出て行った。元々好んで外の掃き掃除はよくするが、中の様子を一切確認せずに出て行ってしまうことは堀江の記憶上一度も無い。あれ? と一瞬違和感を覚えたが、どのみち外の掃き掃除を選択するやろなと思い直してここでは何も言わなかった。

 小野坂は自分を訪ねに来たと言う女性客のことを考えていた。今更何の用事があるんだよ? 金に困って金持ちと結婚した、それで良いじゃねぇか! 彼は何となくイライラした気持ちを抱えたまま石畳を掃いていると、入口に設置されているベルがチリンと鳴った。

 外出のお客様だ……反射的にすっと体を避けて入口の方に目をやると、黒いつばの広い帽子にサングラス、派手めの化粧に黒地に大きな花柄模様のキャミソールワンピース、という出で立ちの調布が立っていた。

「ユメ?」

 小野坂はかつて使っていた呼び名で彼女の顔を見る。調布は我が目を疑うかのようにサングラスを外した。

「智……」

 彼女は小野坂の元に駆け寄ろうと体が前のめりになる。しかしそれを制するかのように営業用スマイルを見せた。

「おはようございます」

 その事務的な表情がかえって近寄り難くさせていて体の動きが止まる。

「おはよう、ございます」

 調布は挨拶を返すだけで精一杯なほどに戸惑っていた。

「お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 営業用の話し口調を崩さない小野坂の態度に困惑し、何の言葉も掛けられない。そこへ出勤前の割にはくたびれている塚原がフラリと現れて、開いてる? と声を掛けた。放ったらかしにされている調布はどうすることもできず立ち去ろうとすると、親しみの欠片も無い一礼をされたことでいよいよ泣きたくなってきて、逃げるようにペンションから出て行った。

「あんた仕事暇なのか?」

「夜勤明けだよ~。働いてきました感、無いかなぁ?」

「まぁくたびれてはいるな」

 そんなことを言い合いながら二人は連れ立って店内に入ると、塚原は本当にお疲れの様子でカウンターに体を預けている。

「ブレンドで良いのか?」

「う~ん、今日は濃いのが良いなぁ」

「んじゃエスプレッソで良いか? ホットしか無いけど」

「良いよぉ~」

 塚原は頭だけを起こして言った。

「ところで智ちゃん、さっきの女の人、知り合い?」

 疲れている割に冴えたことを言う塚原を相手に、小野坂はここでもすっとぼけて宿泊客であると伝える。しかし彼には何らかの勘が働いている様子で、体を起こして匂いを嗅ぐ仕草をした。

「何やってんの?」

 小野坂は相手にせず、厨房に入ってマシーンをいじる。エスプレッソはこれでしか作れず、専用のカートリッジをセットしてボタンを押す。

「塚原さん来てんの?」

 引き続き洗い物に精を出している堀江に声を掛けられて、うんと答えている間にエスプレッソは完成した。それを店内に持って入って塚原の前に置くと、待ってましたとばかりニンマリして早速口を付ける。

「初恋ってのは、甘酸っぱくて切ないよね」

「今度は恋バナか?」

 小野坂は興味無しとばかり、カウンターからフロントに移動して塚原と距離を取る。

「俺今テンションおかしいから、聞いてくれたら何でも答えちゃう」

「あっそう、でも興味無いや」

 小野坂は以前のことがあるので何だか嫌な予感がして塚原の方を見る。彼はわざと焦らすようにエスプレッソを堪能しており、今日のは酸味が強いねなどと言っている。小野坂はなるべく余計なことを言わないようにしていると、ただの相槌にさえも気を遣っている状態だ。

「豆の配合はどうしてるの?」

「今日のはマシーンでしか作れないから分かんねぇ。ブレンドなら義に任せてる」

「そう。義君、恋でもしてるのかな?」

 塚原は川瀬を引き合いに出しながらも小野坂の動きを観察していた。彼の方もそんな気がしていて、なるべく距離を取り時折聞こえない振りをしてやり過ごしている。

 その頃、朝食を終えて厨房に戻ってきた川瀬は、店内をチラッとだけ覗いて塚原が来ていることを知る。小野坂が接客で捕まっているのを良いことに、ようやく洗い物を終えた堀江に声を掛けた。

「【サルビア】ルームの調布さん。智君とコンタクトを取りたがってるみたいなんだけど、避け方が露骨なのがどうも気になって」

 珍しく他人のことを気にする川瀬の話に、堀江も先程の違和感と符合して頷いた。

「なるほどな。気には掛けておくけど、俺らにできることって多分無いよ」

「そうだね」

 オーナーの言葉に川瀬も頷いて、ベッドメイキングをしている根田を手伝いに客室に上がっていく。二階は既に洗濯物が廊下の端に山積みされているのでそのまま三階に上がると、根田が【クレマチス】ルームのベッドメイキングに取り掛かっていた。

「どこまで終わってる?」

「三階は今からです。【コスモス】ルーム、お願いします」

 川瀬は根田の伝達を受けて、既にチェックアウトが済んでいる【コスモス】ルームのベッドメイキングに取り掛かる。その間に【マーガレット】ルームに宿泊していた女性三人組の客もチェックアウトしていった。因みに連泊男性が利用している【シオン】ルームには、【起こさないでください】の札がドアノブに掛けてあった。

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