心の涙 その二
その頃、下の女の子ヒナコの面倒を任されていた川瀬は、【パンジー】ルームに入って絵本を読んでいた。早くに家族を亡くして施設で育ったせいか子供の扱いには慣れており、絵本好きでかなりの数を所有している。
「ねぇねぇ、これもよんでぇ」
彼女は川瀬に家から持参していた絵本を片っ端から読ませている。それだけに留まらず、カフェにある川瀬の私物の絵本にも興味を示していて、それも読んで欲しいと言い出した。
「持ってくるから、少し待っててね」
川瀬はまだ戻らぬ家族を待つ間付きっきりで相手をしてやるとすっかり懐かれ、通常業務を堀江一人に押し付ける結果となっいた。
病院に残っている根田と父親は、ピークが過ぎて落ち着いてきたジュンの寝顔を見つめていた。
「実は、長男を亡くしているんです」
「えっ?」
根田はどう答えて良いのか返事に困り、必死に考えて御愁傷様でしたと言った。これで合っているのかな? そう思いながらも、ありがとうございますと返答されただけでさほど気にしている様子は無く、話はそのまま続いている。
「これまでずっと入退院を繰り返してきた長男に付きっきりだった私たちに心配を掛けたくなかったのでしょう、本当に手の掛からない子だったんです。それが急に甘え出したりオネショをするようになったりして、いわゆる赤ちゃん返りした時期があったんです。今は落ち着いていますが、妹も居るのでお兄ちゃんであろうと相当頑張ってきたのかも知れません」
父親は、私も兄を亡くしていると息子をもの悲しそうに見つめていた。その話を聞きながら、根田は自身の過去について考えていた。兄がまだ生きていた頃、両親は何をしても完璧だった兄
「少しお休みください、ボク起きてますから」
根田はこの家族が車で移動しているのを知っていたので、医師が貸してくれた毛布を渡して休息を促す。父親はその言葉に甘えて仮眠を取り、根田はジュンが眠るベッドの傍らに座ると、目を覚まして辺りをキョロキョロし始めた。
「ここ、どこ?」
「病院だよ、気分はどう?」
根田は先程よりも幾分顔色の良くなったジュンに笑顔を向ける。
「うん、だいぶよくなってきたよ」
彼はそう言いながら仮眠を取っている父親を申し訳なさそうに見つめていた。
「おかあさん、おこってるかな?」
ジュンは母親を案じ、またも表情が冴えなくなる。
「怒らないよ、だからそんな顔しないで」
根田はそんな彼の気遣いがいたたまれなくなり、何とか安心させようとした。
ほぼ同じ頃。真夜中に運転手として借り出され、しまいには母親の愚痴にまで付き合わされてげんなりとしていた小野坂は『離れ』の自室に籠って少しばかりイライラと戦っていた。
「あ"〜面倒臭ぇ」
独り悪態を吐いていたところへ、休憩で『離れ』にやって来た堀江が様子見がてら夜食を持って部屋を訪ねた。
「眠れないなら何か食べたら?」
堀江はトレイに乗せているホットミルクとクッキーを勧める。小野坂は礼を言い、早速クッキーをつまんだ。
「あの子、ジュン君だっけ? 居心地悪いんだろうなぁ」
小野坂は珍しく客の話をする。
「どうにかしたいと思ってる?」
「そうじゃないけど、さすがに子供への愚痴には参ったよ」
彼は一つため息を吐き、ホットミルクを一口飲む。
「あの子、良い子でいようと一生懸命なんだよ。それが母親に伝わってないのが不憫でさ」
小野坂は診療所で休んでいるジュンを案じている。だからといって何も出来ないのは分かっている様で、少しもどかしそうな表情で浮かべていた。
「あなたなら分かってると思うけど」
堀江はそこで言葉を止めて小野坂を見る。
「うん。ただあの子悌とちょっと似てる気がしてさ、自分殺して人の評価のために頑張っちゃうところが。詳しい事情は分かんねぇけど」
小野坂はそう言って天を仰ぐ。堀江はどうしようか迷ったが、根田の過去を少しだけ話した。
「悌君、お兄さんの命日だけは里帰りしたいんだって」
「そう、それでか」
小野坂の中で何かが符合したらしく、一人納得した表情を浮かべていた。堀江はそれについて掘り下げることはせず、小野坂も話題を変えて夜食をつまんでいた。
「そろそろ義君と代わるよ、おやすみ」
「おやすみ」
堀江は小野坂の返事を聞いてから、自身の使った食器をトレイに乗せて部屋を出て行く。小野坂はホットミルクを飲み干すと、着替えないままベッドに身を預けて目を閉じた。
「きょねんまで、おにいちゃんがいたんだ」
ジュンは根田に身の上話を始めていた。
「おにいちゃんはずっとからだかよわくて、ほとんどびょういんにいたの。でもぼくがおにいちゃんになったの。おとうさんもおかあさんもすごくかなしんでて、ぼくもかなしかったけど、おにいちゃんはいっつもあかるくわらってたから。こんどはぼくがわらわなきゃ、おとうさんはわらってくれるけど、おかあさんはほとんどわらってくれないんだ」
根田は一生懸命に話す彼をじっと見つめている。
「もっともっとがんばらなきゃ。だっておかあさんにわらっていてほしいもん」
ジュンは自身の体調が悪いのにも関わらず、頑張って笑顔を作る。無理しなくて良いんだよ……そう言ってあげたかったが、折角の誓いを否定的に取ってしまうとかえって傷付けてしまいそうで、うんと笑顔を返すことしか出来なかった。その姿はとても痛々しく感じられて、本当ならすぐにでも抱き締めてあげたかった。
朝になり、もう一度眠ったジュンは熱も下がって顔色も良くなっていた。小野坂が車で迎えに来たので、父親、ジュン、根田を乗せてペンションに戻ると朝食の支度が出来ていて、船曳一家は揃って食事を摂り始める。
最初は食欲も旺盛になって和やかだったのだが、今日はここに行きたい、あそこへ行きたいと母親が言い出した辺りから父親の表情が曇り始める。
「あそこは遠いよ、もう少しジュンの体の事も考えろ」
その一言で空気は一気に悪くなり、厨房から覗いていた根田は大丈夫かなぁ? とハラハラしながら見守っている。
「ぼく、もうだいじょうぶだよ」
ジュンは母親の顔色を窺いながら元気良く言った。しかし彼女の不機嫌は治まらず、黙って席を立ち先に部屋に籠ってしまう。
「どうしましょう?」
根田は一緒にいる川瀬を見るが、首を横に振って静観を促した。しばらくして、母親は一人支度を済ませると家族を放置してペンションを出て行ってしまう。一同呆気に取られるも、結局どうすることもできなかった。
ジュンは呆然としていた。その後食事には一切手を付けず、父親と妹が食事を終えるのを待って席を立つ。部屋に戻ろうとしたところで根田と鉢合わせると、急に泣き出して彼の脚にすがり付いた。
「ぼくがきのうねつをだしちゃったから……」
ジュンは泣きじゃくりながら自分を責める。根田はその場にしゃがんで彼の体を抱き締めて、頭を撫でたり体をさすったりと一生懸命あやしていた。妹のヒナコは兄が泣いている理由が分からない様子で、不思議そうに父親を見上げている。彼は娘を抱き上げると、一緒に居る堀江にも頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
「お気になさらないでください」
堀江は特に表情を変えなかった。彼らのことは二人に任せよう、川瀬は厨房から出て無人になっているカフェの片付けを始める。少し早いが小野坂も出勤してきて、取り込み中なので挨拶を割愛すると、見張りがてら外に出て掃き掃除を始める。
「ただ、昨日の今日ですから遠出の観光は控えたかったんです」
その言葉に堀江は頷き、お気持ちは分かりますと言った。
「しかし娘の方は見ての通りですし、ロープウェイに乗りたがっていまして」
「だってやくそくしたじゃない」
ヒナコは相当楽しみにしているのが目に見えて、口を尖らせて言い返している。
「お嫌でなければ息子さんはここでお預かりしますよ」
堀江はとっさに子守りを申し出る。今日は全員体制にしているし、根田に懐いているみたいだからと二人を見ると、ジュンの方がそうしたいと父親に訴えた。
「お願いしてもよろしいでしょうか? できればジュンは休ませてやりたかったんです」
「かしこまりました」
堀江の言葉にその場にいた全員笑顔になり、父親は改めて頭を下げる。
「ジュン、今日はゆっくり休みなさい」
「うんっ」
その言葉に安心した父親は、ヒナコと部屋に戻っていく。しばらくして二人は支度をして降りてくると、もう一度ジュンに声を掛けた。
「夕方には戻るから」
「おみやげかってくるからね」
二人は手を振って外へ出て行った。堀江は楽しそうに戯れているジュンと根田から離れて仕事に戻る。
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