心の涙 その一

 小野坂の加入によって四人体制となった『オクトゴーヌ』は、公立大学自転車レース部の三泊四日の宿泊を無事に乗り切った。その際に小野坂は杣木と何やら話し込んでいた時があったのだが、そのことについては何も語らなかった。団体客の宿泊を経験したことで運営は少しずつ軌道に乗り始め、それなりに忙しくして半月ほどが経過する。


 六月に入り、もうじき誕生日だと言うのに最近浮かない表情の根田。ペンションで働くようになってから半年経っている自身の方が、二週間ほど前に加入してきたばかりの小野坂よりも仕事の出来が劣っていることに悩んでいた。考えてみれば五年のブランクがあるとは言っても、そこそこの経験値を持っている彼の方がスキルが上なのは当たり前なのだが、そこを考慮してもなかなか上手く仕事がこなせない。何でも器用にそつなくこなす小野坂が羨ましくなってしまい、ちょっとした嫉妬心にかられては自己嫌悪に陥っていた。

 そんな時に限って、四年前に亡くなった兄のことが思い出されて余計にセンチメンタルな気分になり、時には仕事にも悪影響を及ぼしてしまうこともあった。三人はそれに対して咎めはしなかったが、小野坂に一日休めと言われて更に落ち込んでいた。もちろん彼は経験上その方がリフレッシュ出来ると知っているので、次の日には気分も晴れるだろうと言う配慮のつもりで言ったのだが、マイナススパイラルにはまっている根田にはそれを汲み取れるだけの精神的余裕は残っていなかった。


 そんな矢先、船曳フナビキと言う名の家族連れが宿泊にやって来る。チェックインは根田が応じたのだが、その中で一人表情の冴えない七歳くらいの男の子が気になってしまう。声を掛けようかとも思ったのだが、一緒にいる母親のピリピリした空気が怖くて結局無難に接客をこなした。

「何だか殺伐としたご家族ですね」

 客人の部屋の案内を終えた根田は、代わりにフロントに入っている堀江にこそっと洩らす。堀江が首を横に振ってたしなめると、根田はハイと返事をしてちょうどやって来たカフェ客の接客を始めた。

 ところが夕食時に問題が発生する。根田が気になっていた男の子がほとんど食事を摂っておらず、よく見るとあまり顔色が良くない。何だか心配だなぁ……そんなことを思いながら様子を窺っていると、食事を摂らないことで母親が怒り始めた。

「どうして食べないのっ! 食べ物に対して失礼でしょっ!」

 根田はそのキリキリした声が怖くて動けずにいると、厨房から川瀬が何事かと飛び出した。

「いかが致しましたか?」

「ちょっとあなた、もう少し子供に配慮したお料理をお出しできないの?」

 母親は、息子が食事を摂ろうとしないのは料理のせいだと言わんばかりに詰め寄る。

「ヒナコはちゃんと食べてるよ」

 そこに父親が割って入り妻を窘めた。見れば男の子よりも更に小さな女の子は、全く同じ料理を美味しそうに食べている。

「申し訳ございません」

 まずは母親に謝罪をしてから男の子の前で腰を落とす。ちょっと顔色が悪いな、川瀬も根田と同じことが気になった。

「どうかした? 作り直そうか?」

 川瀬は優しく声を掛けると、男の子は今にも泣き出しそうな顔をしてごめんなさいと言った。

「気にしないで、謝らなきゃいけないのは僕の方だから」

「ううん、いまおなかすいてないんだ。ごはんがおいしくないわけじゃないんだよ……」

「そう、じゃあお腹が空いたらおじさんに声掛けてくれるかな? 何時になっても構わないから」

「うん……」

 川瀬は男の子が頷いたのを見届けてから一礼して家族から離れた。その後は母親の手前何口かは頑張って口に入れていたが、食べているだけで疲れるのか結局残していた。その後父親が全部平らげていたが、母親はそれを待たずに女の子を連れて先に部屋に戻っていく。男の子は父親が食べ終わるのをじっと待っており、最後にごめんなさいと謝った。

「食べられない時は無理しなくていいんだ。お兄さんもお腹が空いたら声掛けてって仰ってたろ?」

 父親は男の子の顔を見て疲れたのか? と声を掛けるとうんと頷いたので、二人は一緒に部屋へ戻っていった。それから少しして、父親がフロントに居る川瀬の元にやって来る。

「息子は長旅で疲れていたようです、妻が変なことを言って不快な思いをさせてしまいましたね」

 父親は川瀬に頭を下げる。

「いえ、お気になさらないでください。それよりも息子さんは?」

「さっき休みました、余程疲れていたのでしょう。普段は人一倍元気で食欲も旺盛なだけに……」

 その言葉と男の子の様子とのギャップがどうも引っ掛かる川瀬は、変わったことがあれば声を掛けて欲しいと告げると、父親は分かりましたと頷いて部屋へ引き上げていった。


 夜中になり、小野坂の加入によって酒が出せるようになった『オクトゴーヌ』では、つい先程まで宿泊客に酒を振る舞っていた。その後片付けをしている川瀬はフロントが騒がしくなっているのが気になって、様子を窺いに厨房から出る。

「子供が熱を出したんです!」

 その甲高い女性の声はペンション中に響き渡り、さっきまで酒を飲んでいた男性客が何事かと覗いていた。川瀬はそちらの対応へと向かい、騒ぎが起こっていることを詫びる。

「子供が心配なのは分かるんだけどちょっと騒ぎ過ぎなんだよね、時間考えて欲しいよ」

 男性客は甲高い声が嫌なので部屋を替えて欲しいと言い出した。彼は今騒ぎの主である船曳家の隣である【ヒマワリ】ルームを利用しており、フロントにメモを残して客の要望に応じることにした。

 その頃堀江は厨房に入って氷枕を作っており、根田は受け入れてくれる病院を探している。智君を起こそうか……翌日のチェックインの時間まで休みとなっている彼に、いつでも動けるようにして欲しいと連絡を入れた。そして船曳家が利用している【パンジー】ルームに、氷枕、着替え類、体温計を持って行く。

「今病院に電話をしています。それまではこちらを」

 堀江は汗で濡れたシーツを換え、浴衣とタオルも新しく取り替える。父親が手際良く浴衣に着替えさせ、氷枕を男の子の頭に敷いて体温を測る。

「こちらを片付けさせて頂きます」

 堀江は着替え類を抱えて部屋を出て行き、急ぎ足ながらも音に気を付けて階段を降りる。部屋のチェンジに応じていた川瀬も下へ降りてくるところで、二人は状況説明をしてから堀江はフロント裏の事務所に入り、川瀬は厨房に入っていった。

 一方市内の病院に片っ端から電話を掛けている根田に、一番最後の病院から受け入れると朗報が届く。早速伝えないと、そう思って振り返ると堀江が事務所に姿を見せた。

「病院見つかりました、すぐ診てくださるそうです。ただ車で行かないと」

 ここにいる二人は自動車免許を取得しておらず、『オクトゴーヌ』メンバーの中では小野坂しか運転免許を持っていない。

「智君にはいつでも動けるよう伝えてあるから」

 オーナーの言葉を受けて、根田は事務所を飛び出して『離れ』へ急ぐ。小野坂は普段着だがいつでも出て行ける準備はできていた。

「智さん、『ミドリ診療所』へ連れてってください。お客様が高熱を出されているんです」

「分かった」

 小野坂は免許証とケータイを持って根田と共に『離れ』を出ると、事務所にあった車の鍵を根田から受け取って営業用の車を出す。根田は先にペンションに戻り、堀江に車の準備ができたことを報告してから両親に伝えに走る。船曳夫妻は男の子を抱えてフロントまで出てくると、小野坂の案内で車に乗り込む。根田は病院までのナビで同乗すると、ある疑問をぶつける。

「下のお子様、どうなさるんです?」

 その言葉に夫妻は互いの顔を見合わせる。

「あなた降りなさいよ」

「何言ってんだ、ジュンの薬アレルギーのことは俺じゃないと分かんないだろ?」

 二人は車の中で揉め出してしまい、怒りの沸点の低い小野坂は面倒臭い! と車を出した。根田と夫妻が驚いていると義に任せる! とタンカを切り、根田は早速ペンションに電話する。幸い川瀬が出たので小野坂の言葉を伝えると、ご両親は? と当然の反応が返ってきた。

「もう車出ちゃいました」

『智君、気短すぎ……了解したって伝えて』

 川瀬はそう返事して電話を切る。根田は通話切ボタンを押し、小野坂にナビしますと声を掛けた。

「『ミドリ診療所』だろ? あそこなら道分かるから」

 小野坂は車を走らせて病院へと急ぐ。根田は同乗したはいいが何もすることが無く、隣にいる後輩の気の短さに若干困っていた。川瀬の機転で功を奏したものの、後々何かあったらどうするつもりだったんだ? と余計な心配をする。しかし小野坂はジュンの容態は気に掛けているようで、短気を起こしている割に丁寧な運転をしている。

「もう少し急いでもらえない?」

 そんな気遣いをよそに母親は早く走れと催促するが、小野坂はスピードを上げようとしない。

「本音言うなら高熱のお子さんを下手に動かしたくないんですよね。車の振動だって不快だと思いますよ」

 小野坂は客の要望をあっさりと切り捨てる。根田はそのやり取りを不安そうに見つめていたが、ジュンが高熱に浮かされ始めたので、皆彼に気持ちを集中させる。昼間なら二十分ほど掛かる病院に十五分足らずで到着した一行は、開けてもらっている診療所にジュンを運び入れるとすぐに診察が始まる。

 何時頃熱が出始めたのか? この日の調子はどうだったのか? などと両親に問診する。質問には父親がほとんど答え、ジュンには薬の成分の中にアレルギーがあることも医師に伝えていた。母親は何とかしてくれとせがんでいたが、アレルギーを考慮して水分補給用のスポーツドリンクのみを用意した。

「しっかり汗をかかして、下手に薬使わん方が良いべさ。疲労性の発熱ですな」

 医師の診断に母親は納得していない様子だったが、夜が明けまでここにいた方が良いと毛布を貸し出した。

「私は戻るわ、ヒナコが心配だから」

 母親は結局夫に息子を押し付けて診療所を出る。小野坂は仕方無さ気に母親の後を付いて行き、根田に客の父子を任せることにした。

「夜が明けたら迎えに来るから」

 小野坂はそう言い残して、母親を乗せてペンションに戻った。

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