第38話 覚悟の揺らぎ

 いずれはこうなるだろうと、わかっていた。

 以前から覚悟していたことだ。

 それでも躊躇ちゅうちょする。

 切っ先を相手に向けることをどこかで恐れる。

 もし命の取り合いになっても、きっと迷うのだろう。

――どちらかがたおれる、その時まで。


「追え追え!」

「捕らえろ!」

 音ばかりがきれいなイェルセリア語を叫びながら、聖教の騎士たちが追ってくる。数がどのていどかは、フェライにはぼんやりとした見当しかつかなかった。メルトが振り返って確かめた限りでは、二十五騎ていど、ということらしいが。


 起伏の激しい道を、人馬一体となって全力で駆けている。よくもまあ馬を操りながら背後をうかがう余裕があるものだ、と感心するが、そうでなければ戦場になど立てないだろう。武芸と乗馬をたしなむだけでなく、戦地での経験も少しあるというメルトにとっては、大した技術ではないのだ。

 そういう姿を見て、話を聞くと、自分たちがいかに『騎士』に遠かったかを痛感するフェライである。


 だが今は、ささいな後悔は横に置いておかなければいけない。フェライは誇り高い若馬へのお願いをしつつ、隣のメルトに顔を向けた。

「どうしよう。このまま逃げる?」

「できればそうしたい。戦わずに済むなら、その方がいい」

「……そうね」

 メルトがそう言ってくれたことに、内心ほっとする。しかし、安堵を表に出さぬよう、フェライは唇を引き結んだ。若馬の腹を足で軽く叩く。


 騎士たちは粘り強かった。言いかえれば、しつこかった。険しい道にもまったくめげず、足音と時折弓矢で追いたててくる。今のところ、メルトとフェライ、どちらがおもな狙いかはわからない。名目はフェライを捕らえることだろうが、もしカダルの息がかかった騎士なら、本当の狙いはメルトのはずだ。

「どっちだろうね」

「さあな。一つ言えるのは、どちらであれ捕まったら二人とも無事では済まない、ということだ」

 ぞっとすることを淡々と言ったメルトは、一瞬視線を上に向けると、一気に加速した。射られた矢は獲物を貫くことなく、かたい土に跳ね返される。

 それから十も数えぬうちに、メルトは馬を下がらせた。その理由に気づいたフェライも、慌てて手綱を引く。

 前方、岩陰から騎士たちが進み出てきたのだ。その数は五騎ほど。しかしいずれもいくさ慣れしていそうな、たくましい男たちである。

「回りこまれたか」

 舌打ちし、メルトが悪態をついた。フェライはなにも言わなかった。心臓が騒いでいて、それどころではなかった。


 緊張か、恐怖か。どちらにせよ、このまま引き下がってしまいたい衝動にかられる。だが、そういうわけにいかないことは承知していた。震えそうになる手を叱咤し、右手を剣の柄にかける。


 騎士たちの視線は、フェライに集中していた。

「我々と共に来い」

 五人の中で年長と見える騎士が、高圧的な口調で言った。フェライは、目を細めて壮年の騎士を見すえる。

「申し訳ございません。それは……無理です」

「己の立場をわかっているのか、『騎士団の聖女』よ」

「私は聖女ではありません。聖女はこの世にただ一人、ギュライ様のみではございませんか」

 思いがけず、とがった声が滑り出る。騎士たちが顔をしかめて抜剣した。そのとき、フェライの視界の端でなにかが光る。

 メルトが、左手で剣を構えていた。

「聖教と聖女に忠誠を誓う騎士たちよ。立ちふさがるというのなら、悪いが容赦はしないぞ」

「若造が、抜かしおる」

 先ほどの騎士が、顔をしわくちゃにしてうなる。メルトは彼に冷徹な視線を注いだ。


 騎士の反応が本心からのものならば、彼はメルトを知らない。とすればこの騎士たちは、あくまでもフェライを捕らえにきたということだ。

 ならば、なおのこと、フェライばかりが逡巡しゅんじゅんしている場合ではなかった。フェライは一瞬息を詰めて、剣を抜く。騎士たちが気色けしきばんだ。どちらからともなく突撃する。一瞬後、人馬と剣が交差した。


 旅の間、絶えずメルトと稽古をしていた。クルク族の少年に付き合ってもらったこともある。人を相手に剣を振るうこともあった。それでも、フェライの心のこわばりは消えなかった。相手がかつて同じ職場にいた人間だから、だろう。

 だが、自分がいくら躊躇したところで、相手も手心を加えてくれるわけではない。下手をすれば自分が斬られる。フェライはひたすらにそう言い聞かせ、無我夢中で剣を振った。

 剣がぶつかる。絡み合う。いま一人の騎士と出会う。雄叫びとともに斬りかかってきた相手の剣戟を上に流した。相手がやや前のめりになったところで、フェライは鋭く斬りこんだ。肩口を斬られた騎士はひるむ。そこに、別の剣が容赦のない一撃を叩きこんだ。――メルトだ。

 騎士は喉を貫かれて落馬する。フェライは思わず目をつぶりそうになったが、馬のいななきを聞いて我に返った。前だけを見て、疾駆する。


 恐ろしかった。人を斬ることもだが、何よりも仲間を斬ったことが恐ろしかった。

 変わってしまったのだろうか。ふとフェライはそう思った。

 変わった、そう、変わったのだろう。いつかメルトが言っていた。自分についてくれば、フェライも別のなにかになってしまうだろうと。

 おそらく、フェライが今思ったような意味で言ったのではないだろう。だが、彼女にとっては同じことだ。

 もうフェライは、かつての少女ではない。


 走る、走る。押し寄せる感情を振りきるように。


 心がどうにかなりそうだった。それでも、四方八方から向けられる剣を弾き、いなし、流すことができた。日々の稽古のたまものだろう。だがその事実もまた、少女の心をえぐった。

 懸命に馬を駆る。メルトがどうしているのか、確かめる余裕がなかった。それでも彼なら切り抜けるだろうと信じて、ひたすら自分を守ることに徹した。


 努力の甲斐あって、フェライはそう経たぬうちに人の波から抜けだした。その頃には、息が上がって、心臓が暴れまわっていた。遅れて後ろから、別の馬がやってくる。

「フェライ!」

 名を呼ばれる。フェライが振り返る前に、メルトが横に並んだ。彼も息を乱してはいるが、ほんのわずかだ。蒼紫色の瞳が、まっすぐに少女を見る。

「もう少し、速度を落とさず走れ。このまま撒く」

「……わかった!」

 フェライは、少しかすれた声で返す。そして、誇り高き馬に「ごめん、もう少し頑張って」とささやいた。馬は彼女の言葉がわかったのか否か、高くいなないた。



 険しい土と岩ばかりの道を抜ける。街道らしきものが見えたところで、ようやく追手の気配が途絶えた。二人は、斜めになって埋もれている巨大な柱の陰に入り、そこで休息をとることにした。


 見渡すと、こうらしきものがそこかしこにある。遠くにひときわ大きな建物が見えた。「風の精霊の神殿だな」と、メルトが寂しげに呟いた。そういえば、彼は何を信仰しているのだろう――フェライは気になったが、今はそれを尋ねる気力がない。


 馬に水をやり、フェライも体を休める。何を見るでもなく、ぼうっと顔を上げていると、隣にメルトがやってきた。彼は座りこみ、黙って空を見上げている。

 フェライも空を見上げた。鳥が視界を横切った。銀色の鳥ではなく、立派な鷹である。

 音が、耳によみがえってきた。馬蹄の響きと剣の音。

 最近は、日雇いの仕事にフェライも参加することが増えた。だから、戦いの音は聞き慣れている。だというのに、今日ばかりはどうしようもなく恐ろしい。


 覚悟したつもりだった。

 だが、本当の意味で覚悟してはいなかったのかもしれない。


「メルト、ごめんなさい」

 謝罪が、フェライの口を突いて出た。

 メルトに謝罪しているはずなのに、メルトの方を見られない。見たら涙が出てきそうだ。だから、彼女は空を見上げたままだった。

「なぜ謝るんだ」

 メルトの声はいつもどおりだった。そのことに、フェライはまた泣きそうになる。

「私、覚悟していたつもりだった。あなたを監獄塔から連れ出すって決めたときに、仲間たちと敵対する決意も固めたつもりだった。だけど……いざ、その場面になってみると……嫌だ、って思った」

 声は返らない。どこか遠くから獣の鳴き声がする。

「メルトを支えるために、一緒に逃げてきたつもりだったのに。かえって、足をひっぱってしまった」

「……俺は」

 声が、返った。彼にしては珍しく、慎重に慎重を極めたようなささやきだ。フェライが黙って待っていると、声が続く。

「俺はそうは感じなかったぞ。おまえはよく戦っていた」

「でも……」

「ためらいが生まれるのは当然のことだ。覚悟を決めた、大丈夫、そう思っていても、その場に立たないとわからないことはある」

 肩を叩かれた。とうとうフェライはメルトの方に顔を向ける。彼は、蒼紫色の瞳に優しい光をたたえて、彼女を見ていた。

「迷いや恐怖を無理に振り切る必要はない。それも含めてフェライなんだ。俺は、そのフェライが一緒に来てくれたことが嬉しいし、感謝している」

 フェライはなにも言わなかった。言えなかった。

 メルトも答えを求めることはない。すぐに彼女から視線をそらすと、「さあ、そろそろ出発するか」と言って立ちあがる。フェライもよろめきながら立ちあがり――そのときにまた、空をあおいだ。

 鮮やかで透き通った青が、彼女の上にただ広がっていた。

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