第5話 時に埋もれたもの
「参りました」
苦々しくほほ笑んで頭を下げる少年をメルトは静かに見おろした。自分の、ひいては父の親戚とは思えぬ穏やかな目もとを、彼はふっと和らげる。
「やはり、兄上は強くていらっしゃる。私などでは足もとにも及びません」
「そう自分を卑下するな。おまえは飲みこみが早い。俺が一本取られるのも時間の問題だ」
メルトをあえて兄と呼ぶ従弟は、そんな馬鹿な、と言いたげにかぶりを振る。しかし、決してお世辞ではない。先刻、剣の刃が自分の顔の前をかすめたときは、豪胆なメルトも肝を冷やした。だが、そんな心中を顔に出さず、少年は刃の潰れた剣を担いだ。
「さて、運動したら腹が減ったな。老人の手を
「……と
「わかっているじゃないか」
従兄弟の二人は、蒼紫色の瞳を合わせて笑う。もう
「ユイアト、早く片付けて支度をするぞ。おまえのお父上あたりに見つかると面倒だからな」
「わかりました」
少年は恭しげに頭を下げる。
二人は楽しい悪戯を決行するため、駆け足で大きな家に戻っていった。
※
「すぐ終わるから、ちょっとだけ我慢してね」
フェライは、目の前で震えている男の子にそう声をかけた。男の子の両目には涙がたまっていて、今にもこぼれ落ちそうだ。だが彼は、泣くまいとしているのか、唇を引き結び、両手を握りしめている。いじらしい姿にほほ笑んだフェライはだが、すぐに表情を引き締めて、男の子の腕を見た。
男の子が痛がらないよう気をつけながら、フェライは両手をかざす。
いつものように、目を閉じる。
体の中で、あたたかい力が波打った。
瞼を持ちあげると、淡い光が見えた。――成功だ。
「うわあ!」
男の子が無邪気な歓声を上げる。その間にも、傷はみるみるふさがった。やや遅れて、痣も薄くなっていき、最後には見えなくなった。
無事に治癒が終わったことを確かめて、フェライは男の子の頭をなでる。
「よし、終わり。でも、油断しちゃだめよ。すぐけんかしないようにね」
「う、うん! わかった!」
男の子は耳までまっ赤にしてうなずいた。そして、「ありがとうございました!」と言うと、離れた所で待っている母親の元へ駆けていった。
遠くにある親子の姿をながめながら、少女は大きくため息をついた。そのまま石段に腰を下ろしたところで、大きな影がぬうっと覆いかぶさってくる。
「これで今日の施しは終わりだな。フェライ、今日もご苦労だった」
「……はい」
ぼうっとした声で返事をしてから、フェライは慌てて振り返った。騎士団の制服に身を包んだ男が、いつの間にか背後に立っていた。同じ男の騎士でもルステムの倍はある体躯は、鍛え抜かれて肩も肢体の筋肉も大きく盛り上がっている。癖のある黒髪の下で、瞳が獲物を狙う
「戻って、少し休め。今日も長蛇の列を
「は、はい。ありがとうございます、ハサン団長」
砂のついた衣を手ではたき、慌てて立ちあがったフェライの背を大きな手が叩いた。
「最近、おまえは頑張っているな。頑張り過ぎなくらいに。なにか褒美を考えておくか?」
冗談めいた団長の言葉を、少女は最初、笑って受け流しかけた。しかし、すぐに、少し前の約束のことを思い出して彼を見上げた。
「団長。それなら、ひとつお願いが……」
「ん? なんだ?」
「イェルセリアの地図を写させてほしいんです。閲覧許可を頂けないでしょうか」
ハサンは、いつもいかつく細めている目を大きく見開いた。少しだけ悩むそぶりを見せてから、「考えておこう」と短い言葉が残された。
考えておくと言った割に、ハサンの考える時間は短かった。地図の閲覧許可は、その日の職務終了直前に下りたのだ。知らせを受けたフェライは、夕刻の鐘の音を聞いても騎士団の制服を脱がずに本部を駆け抜けた。
地図がしまってある資料室は、本部の奥まった場所にある。装飾もなにもない、質素な片開きの扉の右側に「第一資料室」とだけ彫られた板が張りついていた。フェライは扉を軽く叩いてから、開ける。
中にひとけはほとんどない。沈黙した書物の山と棚、それから無愛想な管理者の男が、若い騎士を出迎えた。男に名を伝えると、「確認した」という応答があった。奥に行っていいと言われたので、フェライは地図がしまってある棚の方へ歩いた。
火事の恐れがあるからか、この部屋には灯りが一切ない。小さな窓から差し込む淡い陽光を頼りに、目的の棚を探すほかなかった。細い明かりとおぼろげな記憶を辿り、フェライは地図の棚を見つけた。ほかの棚と違って扉がある。必要もないのに息を詰め、制服をまさぐって小さな鍵を取り出した。目の前の扉の合鍵だ。扉の取っ手と同じ金色の鍵を、慎重に鍵穴へ差し込む。鍵を回すと音がした。本来ごく小さな音はけれど、資料室の静寂の中によく響く。
合鍵を抜いた後の扉はあっさり開いた。イェルセリア新王国の地図を取り出し、写し取り用の紙を広げたフェライは、音のしない程度に頬を叩いてから作業を始めた。
メルトには「だいたいの地形と地名がわかればいい」と言われた。しかし、どうせ書き写すならきれいに写したいと思ってしまうのは、当然である。緊張に震える指先を逐一なだめながら、少女は暗がりの中で作業を続けた。
手もとに届く陽光がさらに薄くなるまで、作業はかかった。しかし、夕餉まではまだ時間があるらしい。体を伸ばしてから地図をしまったフェライはふと、その隣に収められている分厚い本に目を留めた。
手にとって、ぱらぱらとめくってみる。どうやらイェルセリア新王国の歴史を詳細に書き記したものらしい。初代ユイアト王の時代から現在に至るまでの政治、経済、農業、事件等々の情報が細かく記録されている。
「もしかして……」
フェライはささやきながら、本のページを行ったり来たりした。聖女と従士のことについて、何か詳しい情報があるかもしれない。そう期待したのだ。しかし少女の期待はあっけなく裏切られる。歴代の聖女と従士の名前、それから今の聖教関係者でも知っているようなお勤めのことくらいしか書かれていなかった。ため息をついたフェライはしかし、最初に戻って手を止めた。今までどこでも見たことのない、妙な記述が目に留まったのだ。
新王国初代聖女の名前から始まる文章は、ごく短い。
「『我、
声に出して読んでから、フェライは思わず首をひねった。しかし、首をひねったところで、答えが目の前に表れるわけでもない。しかたがないので、本を閉じて棚に戻した。
そのまま来た道を戻る。資料室の管理人に出会うと、「ありがとうございます」と頭を下げた。しかし管理人は変わらず無愛想に、「ああ」と応じただけだった。
フェライはひとまず、着替えのために宿舎へ戻ることにした。地図の写しを携えて、「メルトが新王国についてどこまで知ってるか、探ってみようかしら」などと、少しよこしまなことを考えながら。
翌日、フェライはメルトに地図を見せにいった。食い入るように紙を見つめ、ときどきうなずく彼を静かに見守る。そうしながらもフェライは、彼について考えこまずにはいられなかった。
顔を見せたとき、メルトは少し悲しそうな様子だった。いつかのように「どうかしたんですか」と尋ねれば、青年は「懐かしい夢を見た」と答えた。
「家族の夢だ」
続いた言葉に息をのんだ。
メルトの家族。いったいどんな人たちなのだろう。
じっと考え込んでいると、フェライの前に紙が戻ってきた。
「だいたい覚えた。ありがとう」
「あ、はい。お役に立てたならよかったです」
とんでもない言葉が聞こえたが、気のせいだということにする。紙をしまいながら、フェライはふと昨日見た本のことを思い出した。自分の知らないことを知るメルトならばわかるだろうか。
「あの、メルトは『御使い』ってなんのことかわかりますか?」
「御使い?」
メルトは怪訝そうに
「どこかで聞いたことがあるような気がする。だが、はっきりとはわからない」
「そうですか……」
「しかし、いきなり妙なことを訊くな。なにか見つけたのか?」
フェライはうなずき、昨日資料室で見つけた本のことを話した。するとメルトは、顔をしかめた。しわの寄った眉間を、人さし指で叩く。
「契り、御使い、守護……。昔読んだ本に、そんな
フェライはぱっと目を輝かせた。しかし、彼女の期待を制するように、メルトは手を挙げる。
「すまないが、どうも記憶が曖昧だ。思い出したら教える」
「わかりました。すみません、なんか変なこと訊いちゃって」
少女の言葉に、青年はやわらかくほほ笑んだ。
今まで見たことのない種類の笑顔にフェライは思わず目を丸めた。
「気にするな。いろいろ訊いてくれた方が、退屈しなくて済むからな」
フェライは、思わず吹き出してしまった。
メルトは、風に躍る法衣が遠ざかってゆくのをじっと見ていた。
蒼紫色の瞳に、鋭利な光が灯る。
「御使い……」
鉄格子から顔を離す。いつものように、冷たい壁にもたれかかると、鎖がやかましく鳴った。
自分の両腕をじっと見る。いつの間にか枷の重みに慣れてしまったが、本来それは、彼にとって縁遠いものであった。
半眼でぼんやりと天井を見上げていると、今朝見た夢の残像が、まなうらにちらついた。
己の過去と、フェライが持ってきた奇妙な文言の話が、なぜだか繋がっているように思えてならない。昔の夢は、なにかの暗示だったのだろうか。
「――そんな馬鹿な」
メルトはみずからの考えを笑い飛ばす。
しかし、こぼれた声は思った以上に乾いていた。
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