第7話 それは昔のように

「……」

 ルトアの無言から朝は始まった。

 それもそのはず。

 状況が状況なのだから

「ちょっ……だから何回言ったら分かるんだよお父さん、くっつくな! 気持ち悪い! 離れろって!」

「いいじゃねぇかシモナァ! 父さんはシモナが好きでこうしてるんだぞー?」

「それがきしょいっつってんの! あーもう……!」

 シモナの父が、シモナに抱きついている。

 本来ありえない光景。父はシモナを嫌っているのだ。

「……母さん、あれ、どう思う?」

「ふふふ、仲が良くて大いによろしい」

 母はとても冷徹に、しかしどこか、こんな結末を期待していたかのように呟く。

 ……こうなる前の状況を、わかりやすく説明しよう。

 その時の時刻は九時十五分、いつも通り起きてきたシモナが居間でホットミルクティーを飲み、フードローブに化けているガルアットと小声で話しながら新聞を読んでいた所まで遡る。

「……今年も寒くなる、かぁ」

「これなんて書いてあるの? ふぃんらんどご?」

「そう。日本語訳すると……」

 ……いや、むしろこっちの地域が北欧すぎて異常なだけなのかもしれない。

 そう思いながらもガルアットに新聞の内容を教えていた。

「あっちの地域は雪すら降らないしなぁ……」

 と、日本語で呟きかけた時。

 ベストタイミングで父が下に降りてきて、居間のドアを開けた。

「…………へ?」

 うわぁすごいタイミングで降りてきた。

 ……これ、また殴られる案件じゃね?

 彼女は反射的に口元を手で触れる。

 落ち着くためにする、彼女の癖のようなものだ。

「……あ……っと……」

 おはよう、と言おうとした時。

 彼女はある父の異変に気がついた。

『目に光が灯っている』

 昨日の父の目は、例えるならば魚の目。それこそ魚のように黒目ではないものの、蒼い目をした父の目にはいつも光が灯っていない。

(……機嫌がいい? いや、そんなはずは。

 散々私に暴力を奮っておいて、今日に限っていきなり機嫌がいいなんてこと、過去には一度もなかった)

 それに父は、シモナの顔を見るだけでも嫌そうな顔をする。

 ところが今の父はどうだろうか。

 目に光が灯っており、あろうことなのかキョトンとした顔でシモナを見つめていた。

「……」

 静寂。その間約四十五秒。

 カチッ、カチッ、と古ぼけた時計から流れる時間の経過音。

 部屋に戻ろうとシモナが立ち上がった時。

「シモナ? どこに行くんだ?」

 ビクッと一瞬、彼女の体は硬直する。

 だがその硬直も一瞬にして解けた。声が、彼女に暴力を奮う時のトゲトゲした話し方ではなかったからだ。

 今一度例えよう。昨日の父の目は魚だ。

 では今の父の目は。

 言うなれば「犬」の目だろう。

 かまって欲しい感じの。そうあの目。なんかキラキラした感じの。あの目。

「……どこって、部屋だけど」

「え? 部屋の方が寒いだろう。どれ、こっち来なさい」

「え?」

 この時点でシモナは「気持ち悪い」と思っていた。

 同時に、「俺の知っているユホ・ハユハではない」とも感じた。

「ほれ、来いって」

「……」

 殴られたらその時だと、シモナは試しに父の元へと歩み寄る。目の前まで来たシモナを突然抱き上げ「……おっ、重くなったなぁ」と一言呟いた。

「あれ……?」

 怒らなかった。

 それどころか彼女を抱き上げて微笑んでいる。

 どうした、父よ。今日は何か変なサルミアッキでも食べたのか?

「髪の毛梳かしてやる、櫛持ってきなさい」

「え、う、うん?」

 シモナは慌てて櫛を持ってきて父に渡す。

「おいおい、慌てるとまた昔みたいにカーペットで転ぶぞ〜?」と、父は笑っていた。

「失礼な、子供じゃないし!」

「お父さんに比べたらまだまだ子供だぞ?」

「えぇ〜……」

 父に髪を梳かされながら、シモナは思い出す。

 そうだ。今の父は、性格をしている。暴力が酷くなる前は、今のような感じで髪を梳かしてくれたり、一緒にスケートやスキーに行ったりなどしていた。

 シモナも父も、本当は仲良しだった。そんな昔のことを思い出しながら、シモナは少しウトウトしてしまい、父の膝に座ったまま意識を手放してしまったようだ。

 次に目が覚めても父はまだシモナの傍におり、軽く悲鳴を上げたその声を聞きつけたルトアと母が何事かと居間に駆けつけてきて……現在に至るのであった。

「微笑ましい、ふふふ」

 微笑みながらカメラをもってカシャカシャと連射している母の横で「どう言った風の吹き回しだよ……」と小さくルトアが呟いた。

「知るか! あとお母さん写真撮らないで、写真嫌いなの知ってる癖に!」

「聞いてたのかよ……」

 嫌味ながら彼女が叫ぶも、実の所彼女は笑っていた。久々に人の温もりに触れたような、そんな笑みを浮かべていた。

「あら珍しいっ」

 さらに連射する母を、父から離れたシモナが母からカメラを取り上げようとぴょんぴょん跳ねている。

 仲の良い、普通の家庭が戻ってきたような感覚だった。

 この日は何事もなく時が過ぎようとしていた。

 本当に、何もなかったのだ。

 父に暴力を奮われることも、罵声をあびせられることも。

 それが気がかりでしょうがなかったシモナは聞いてみた。

『昨日のあれはなんだったの?』

 あれ、というのは暴力の遠回しな言い方であろう。

 続けて『暴力奮ってたじゃん、俺に』と質問した。

 意外な答えが返って来た。

『なんのことだ?』

 これには父以外の家族全員が度肝を抜かれた。

『昨日は楽しくクリスマスパーティをしていただろう?』

 そうとも言った。

 父は滅多に嘘をつく人では無いのをシモナは知っている。

 だから、父の言うことは本当なんだと思った。

 でもその記憶は、父以外の家族全員はなにも身に覚えがない。

 だけど父が言うことも何となく否定出来ず、その日は仲良く夕食を食べて、いつも通り眠りについた。

 今思えば怖い話だった。

 この時はまだ、父がなどという物騒なことをされていることに誰も気づかないというのもそうだったが。

 何よりも、その記憶を改ざんした張本人が、シモナに常にくっついているとあるやつの仕業というのも。



 ───何もかも気づくのは、本当に後のお話である。

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