第一章『その日々は夢のように』
第1話 変な生物
見惚れるほど綺麗なその景色の真ん中に、気がつけば僕はそこにいた。いつから居たのか、どこから来て、何をしていたのか、全く思い出せない。
身体を左右に震わせる。僕の上に積もっていた雪が、どさどさと下に落ちて、滑稽な形を作り出す。
自分の足を見る。蹄のようなものがついていて、顔は見えないけど、尻尾があって、まるで僕は白馬のような格好をしていた。
歩き出した僕の後ろには、点々と小さな足跡。それは、降り積もる雪によってすぐかき消される。
時々雪を落としながら、僕は宛もなくどこかへと歩き出した。
***
「シモナ、そっち行ったぞ!」
聞こえてくる仲間の声。
やや曇り空の下、十二時三十分。フィンランドの森の中で、狩猟は行われていた。若い少年の掛け声は、獲物を目で追い、銃を構える一人の少女に向けてだった。
「見つけた。犬は?」
「こっちから追い込ませてる。俺はもう一体の方を仕留めるから、そっち頼んだぞ!」
「分かった」
淡々とした口調で答えたあと、再び銃を構え直し引き金を引く。モシン・ナガン小銃から撃たれた弾丸は、獲物の身体を段々と蝕んでいく。やがて倒れた獲物は、暫くの間痙攣していた。
少女は近づき、腰から引き抜いたナイフで自分の顔を見る。黒い髪の毛に、右目側の横髪だけ茶色のメッシュが入っている、少し幼さの残る少女の瞳は、目の前で倒れる獲物───ヘラジカの身体から流れる血と、同じ色をしていた。
「……ごめんな。すぐ楽にしてやるから」
ナイフを心臓付近にあてがい、ゆっくりと突き刺す。
ほんの少しのけ反ったヘラジカは、やがて動かなくなった。
────いつしか、動物の命を奪う側になってから、少女は考えたことがある。
「命って、こんなに簡単に奪えたっけ」と。
倒れて息を引き取ったヘラジカの亡骸の傍に座り込み、
その少女は一雫の涙を流しながら、手を合わせて静かに黙祷していた。
***
「シムナ、先昼寝してるぞー」
「ん……あぁ、アンッティ兄、好きにしてくれ。ユハナ兄、獲物の後始末頼んでいいか?」
ユハナ兄、と呼ばれた、シムナと呼ばれた少女によく似た男性は、「またかよ! たまにはシムナがやれよな!」と、膨れっ面で文句を言う。
「逆逆。いつも私がやってんじゃん。だからユハナ兄が今日は担当。というか女の子にやらせんなっつーの」
「ちっ、バレたか」
「シモナ、今日も銃持ってどこ行くんだ?」
少女をシモナと呼んだ、シモナと同じくらいの年齢の少年コルトアが首を傾げてシモナに問いかける。
「いつものところだよ。邪魔はしないようにするから、好きなだけ寝てろ」
「辛辣ー! シモナ、そう言うのどうかと思うけど!」
「うるさいぞツツリ、早く寝ろ。全く……」
狩猟仲間やきょうだいへの問いに気だるげに答えるシモナ。
時刻は三十分経過した十三時。ここは狩猟小屋。獲物を狩る者達が集まる、憩い……と言うまでは無いが、彼女達が集合場所や休憩場所として使用している木製の小さな小屋である。たまに他の狩猟人が使うことがあるため、食料や銃の弾などは小屋に全て置いておりいつでも取っても大丈夫というルールにしていた。だからたまに弾が無かったり、食料が消えていたり……なんて言うこともある。
「……さて、行くか」
ぼそっと呟いて、小屋の扉を開ける。「気をつけろよー!」というあまり心配はしていないようなユハナの注意喚起を背に、シモナは外へと出た。
先程まで空を覆っていた雲は立ち退き、辺りは太陽に照らされて白銀に輝いていた。散弾銃を右肩に下げ、薄茶色のコートに、追加で真っ白なフードローブを左手に持っていた。寒くなった時にコートの上に着る上着のようなものである。黒く長いマフラーを首に巻き、余り尾は後ろに回し、邪魔にならないようにしていた。
彼女の名は『シモ・ヘイヘ』。後に『白い死神』と呼ばれたフィンランドの民兵軍人であり、冬戦争の一○○日間でソ連軍人五五○人を殺害した人物である。
シモ・ヘイヘは後線で狙撃兵として活躍していたが、そんなフィンランドの戦場で静かに人を殺していた『死神』の、まだ純粋な心を持っていた時代から始まる。
これから軍に入るなど考えもついていない、十六歳の誕生日を終えた三日後の十二月二十日は、未来のシモナにとってとても大切で、そして特別な日でもあった。
***
「……少し調整が必要だな」
銃をあちこち見ながら彼女は呟く。
シモナは、狩猟用に練習していた的を二〇〇メートルほど奥に立てておき、その的を目がけて延々と空砲を撃っている。それは、先程いた所とはまた違う狩猟小屋の屋根の上から。木に登って、
春、夏になり、畑の手伝いに行った時も、秋、冬になり、狩猟を主に生活する時も、ここフィンランドの南側に位置するラウトヤルヴィ町の森中の昼間は、必ずと言っていいほど銃声が響き渡っていた。
「ん?」
そしてその視界より少し下に、生き物のような者が寝っ転がっているのが分かった。気のせいかと思い、彼女はまた空砲を撃ち続けたのだが……しばらく経って、シモナはまたそれを見てみると、あろう事かそれはまだ同じ位置にいる。日向ぼっこでもしているのだろうか。
「なんだ? ここら辺の迷い子と言う訳じゃなさそうだし」
さすがにおかしいと思い、シモナは空砲をやめて屋根から飛び降りる。雪がクッションになって、周りの雪が反射して雪柱が出来る。ひんやりとした雪の感触がコート越しに身体を包むのもお構い無しに、銃を肩にかけ直してそいつに近づいた。
今日は少し寒い。シモナの鼻は冷え込みのおかげか少し赤くなっている。
「え、何こいつ……」
雪だらけで姿はよく分からないが、真っ白な何かだということだけはよく分かった。しかしそいつは動く気配はなく、むしろぐったりしている様子だった。
「……………」
手持ちの温度計で現在の温度を見る。
マイナス三十度。
そりゃ寒いわけだ、とつぶやきさらにそれへと近づいた。ぽんぽんと謎の生物の雪を軽く払い、「大丈夫か、立てるか?」と極力優しく声をかけた彼女の声に反応し、パチリと目を開ける。
─────途端、前脚だけで立ち上がり、後脚をシモナの腹部に向けて蹴りを入れようとしてきた。当たりそうになったシモナは咄嗟に銃で庇うが、あろう事かその蹴り一発で銃が真っ二つに割れてしまった。
「うわっ!? な、なんだよなんだよ……って、あーあ、銃が……これ高いのにぃ」
そんな独り言を呟きながら、二つに砕けた銃を拾い上げる。弱々しい身体つきとは裏腹、相当な力の持ち主なようで、先程からガルガルと威嚇をしては再び蹴りを入れようと、繰り返し後脚で攻撃を繰り出してきている。
「あっ、あぶっ……! ま、待て待て! 私は……ッ!」
庇うものがなく、腕で顔をガードしてどうにか蹴りを防いだシモナ。しかしそれが精一杯の抵抗であり、後に下がる他なかった。
蹴りは段々と強くなっていく。腕の隙間から見えたのは、口から絶え間なく垂れる赤い血痕。雪で見えにくいが、所々怪我もしているようだった。それを見たと同時に、顔を防いでいる両腕のうちの右腕が軋んだ音を立てる。
「づっ……! やめろ、私は攻撃しない! ほら、何も持ってないだろう!」
少し距離を取り、パッと両手を広げる。今はナイフすら持っておらず、銃をも持たない彼女は、もはやただの少女に近い。依然として威嚇を続ける謎の生物は、シモナに攻撃の意思がない事がようやく分かったのか、多少の落ち着きは取り戻したようだ。
「いてぇ……馬に蹴られたら、こんな感じなんだろうな、きっと……」
フーッ、フーッ、と荒い息を繰り返す謎の生物としばらく見つめ合いが続き、やがて威嚇は辞めたがまだ疑いの残る目でじっとシモナを見つめてきた。
「……大丈夫だから。ね?」
生物に言葉が通じないことは分かっている。ただ、この極寒の中で放っておくのは些か無神経なものかと考えたのだ。自然の中で駆け回っている彼女だからこその行動だろう。
「……そう、そう。いい子だ」
やがて警戒を解き、近づいてくる謎の生物。彼、彼女……どちらかは分からないが、自分が怪我を負わせてしまったシモナの右腕を見つめ、少ししょんぼりしたように項垂れた。
「あ、大丈夫、気にしてないから。すぐそばにみんなが寝ている小屋がある。そこなら暖房もあるし、お前の雪も溶かしてやれるだろう」
先程まであんなに威嚇をしていた謎の生物は、まるで頷くように頭を小さく縦に振る。言語が理解出来るはずもないだろうとシモナが思っていた矢先だった。
「まずは雪を落とすか。よし、お座り」
試しにシモナがそう指示すると、あっさりと指示に従って座り始めた。驚いたシモナは「お、お前、もしかして私の言っていることが分かるのか?」と質問をする。どうやらフィンランド語が理解出来るようで、仕草のようなものに見えるが確かに頷いたように見えた。
「マジかよ」
呟きながら、狩猟小屋の近くにあった熊手で謎の生物の雪を落としていく。すると、段々と真っ白な体毛が顕になってくる。まだ雪があるかと勘違いする程の白さに多少驚いて手を止めてしまったが、直ぐに再開して積もりに積もった雪の塊を掻いて下へ捨てていく。
ある程度落とし終えて改めて見てみると、やはり真っ白な生物であった。……が、所々血が滲んでいる。ヘラジカの群れに追いかけ回されたのか、人間に狙われたのか……定かでは無いが、先程の尋常ではない警戒っぷりからすると後者の方が可能性は高いだろう。しかし何の生物はまでは、シモナの知識では知るには程遠い結論に至ってしまう。
ぐぅ、と生物の腹が鳴る。お腹が空いていたのだろう。ということは、先程のぐったりとした様子は行き倒れのようだ。
「食料が確かあったはず……おいで、行こうか」
とりあえずは小屋に行くか、と、シモナはゆっくりと歩き出す。トコトコと後ろについてきたのを確認すると、真っ二つに壊れた銃を拾って小屋へ向かって歩き続けた。
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