竹内緋色に恋は難しい
夕凪 春
本文
満員のライヴ会場。その中の席に男が一人、見るからにつまらなさそうに座っていた。左右の肘掛けは両サイドから伸びた腕に確保されており、その窮屈さに男は顔を歪め誰にも聞こえないように小さく舌打ちをする。
歓声とともにステージがあっという間に明るくなる。それは開演の時間。周囲は「ひーちゃん、ひーちゃん」と黄色さの欠片もない野太き声で、もはや怒号と言っても差し支えのないボルテージで場内を沸かせている。それはまさに生きながらの地獄といったような趣があった。
だが場の盛り上がりとは対照的に男は眉一つ動かすこともない。
「それでは聞いてください、ヒイロ・タケウチで『竹内緋色に恋は難しい』ですっ!」
味噌味のバケツプリン 一気喰い♪
(プリンー ノ・ミ・モ・ノ)
すごく すごく胸が苦しいの♪
(ムーネーヤーケー)
hey! 誰か水をちょうだい もしくはデカビタC♪
(サン・トリー サン・トリー)
ah これが恋の味なのかな?
(ミーソー ミーソー)
ah... これがきっと恋の味なんだね♪
(ミーソー ミーソー)
「どう考えても味噌だよっ! てかコーラスが脳内リフレインしてんだろうが!」
ガタン。
「はいはい、お前ら静かにしろよー。で、竹内よ。急に大声出したりしてどうした? とりあえず立ったついでだ、この設問に答えてみるか?」
クラス担任であり数学教師の吉田がざわめくこの場を制してみせた。
それと同時に黒縁の眼鏡がキラリと光り、その奥から覗かせる鋭い眼光が緋色を視界に捉え続ける。
「ええと……」
「134ページ」
隣の席から女子生徒の声が聞こえた。それは緋色にとって聞きなれたものでもある。
「134、134……ええと、わかりません」
「はあ、お前なぁ……」
「はい、あたしが代わりに答えまーす」
「それじゃ頼むわ泉。竹内は座って良し」
泉と呼ばれた隣の生徒が立ち上がる。
ようやく開放されたと緋色は安堵して着席を果たす。もう一度寝てやろうとも考えたものの、また同じようなことになっても厄介だと彼は思い直し、仕方なく起きていることにした。
「――となるわけで答えは――です」
「正解だ、座って良いぞ。これは応用入ってるから解説がいるところなんだが――」
緋色が心を無にしている間に授業は終わっていた。
隣から先ほどと同じトーンの声が耳に流れ込んでくる。
「あんた、どうせまた変な夢でも見てたんでしょ。まったく、味噌味噌うるさいっての」
横目だけでその声の主に視線をくれる緋色。艶のある茶髪を赤リボンで後ろで束ねた、ポニーテールの女子生徒が緋色を呆れたような目で見ていた。
「うるせえな」
「いい加減生活習慣を改めなさいよ、緋色」
「うるせえって言ってんだろ、泉」
この女子は緋色のクラスメイト。そして事あるごとに口を挟んでくる、彼にとってはお節介で厄介な女だ。彼女は別段幼馴染であるとかそういった属性ではないはずなのだが、とにかく鬱陶しいくらいに絡んで来る。
「ま、まあ……ほら、別にあんたがどうなろうが別にあたしには関係ないんだけど。どうせ暇だと思って話しかけてあげてんの。……だからさ、ありがたく思いなさいよね!」
緋色は即座に脳内会議を開く。
これはセリフだけで判断すると「ツンデレ」の片鱗がある。だが現実はそこまで甘くはない。これはただのポーズ。いわゆる「優しい私」が「いかにもゴミな、誰からも見向きもされない男子」に話しかけてあげているという構図に他ならない。
――ちょっと可愛いからって調子乗んなよ。
そしてそれが満場一致で可決された。
「何度も言ってんだろ、そういうのいらねえんだよ。余計なお世話だドブス」
「は、はあぁ……!? お前もういっぺん言ってみろこのクソタラコ! 死ね、死ねぇ、ぶっ殺すぞ!」
この女――泉が涙目でキーキー言い出すと、しばらく収まらない事はすでに知っている。
騒ぐ彼女を無視すると、緋色はそのまま教室を出て行った。
***
「――で、また痴話喧嘩か竹内ぃ。今日も噂になってんだけど?」
昼休みの時間。ヘラヘラとした表情が張り付いたと言ってもいい男が、いつものように馴れ馴れしく緋色へ話しかける。
「ちげーよ高橋。あいつがしつこ過ぎんだよ。何度止めろっつっても全然話聞かねえし」
「へー、そうかよ」
紙パックのコーヒー牛乳を音を立て最後まで飲み干した高橋は、それを握りつぶすとゴミ箱へと放り投げる。だがあえなく外れてしまったそれは、床で小さくバウンドした。
「下手くそか。さっさとピッチャー交代してこいよ」
「うっせーな。俺はバッティングにしか興味はねーの」
「何がバッティングだ。王貞治かよ」
高橋は振り向かず、手をひらひらとさせたまま教室を後にする。相変わらず軽薄な男という印象だけが緋色からは離れない。
「いや、捨てていかないのかよ。あいつガチのクソ野郎だな」
仕方なく席を立った緋色は、教室内に設置されたゴミ箱の元へ面倒臭そうに足を伸ばす。高橋がそのままにした残骸を拾おうとして手を伸ばした瞬間。
誰かの手が同じように視界に入っていくのが見えた。緋色は決して目つきが良いとは言えない瞳をそれに差し向ける。
彼は「あっ」と小さく声が漏れるのを聞き逃さなかった。この女子は確か図書委員の菅原だ。
ウェーブがかったショートボブの黒髪がふわりと揺れている。赤縁の眼鏡がとても良く似合っている女子生徒だ。
「竹内君っ!? ああ、何か落ちてるって思って……。もしかして私、余計なことしちゃったかな?」
「いやいいよ、それ俺の連れがやらかしたやつだから」
「そうなんだ。でも竹内君って優しいんだね……!」
緋色は即座に脳内会議を開く。
これは社交辞令。つまり「優しい」だとか「いい人」と言うのは「特に褒めるべきところがない、どうでもいい奴」という意味合いである。
――ああ、それは悪かったな。
そしてそれが満場一致で可決された。
「そうだね、そうかもね」
「え、うそ……怒ってる? な、なんで!?」
呆気に取られる彼女を無視すると、緋色はそのまま教室を出て行った。
***
緋色が意気揚々と帰ろうとしていた時のこと。
下駄箱を開けると何かが入っている。ガサガサとそれを取り出すと、それは『竹内先輩へ』と書かれた可愛らしい便箋だった。
彼はひとまず中身を確認しようと真顔でそれを広げる。
『先輩のことがずっと気になっていました。伝えたいことがあります。今日の放課後、体育館裏で待っています』
緋色は即座に脳内会議を開く。
体育館裏といういかにもなワードに引っかかりを覚える。これは高橋や、名前は分からないがとにかくキラキラしている奴らの悪戯に違いない。もし向かおうものならスマホ片手に、大勢で自分のことを馬鹿にするのだろう。
――畜生、高橋明日覚えてろよ高橋。必ず貴様の心臓を握り潰してやる。
そしてそれが満場一致で可決された。
緋色は怒りと共にそれをくしゃくしゃにすると場を立ち去る。
彼の様子を陰からずっと見守っていた女子生徒が一人、俯き走り去っていった。
緋色は考えていた。
――いつになったら俺はまともに恋と言うものができるのだろう。そんなチャンス、どこにもありはしないではないか。
そして薄く笑うといつも通りの味気のなさを抱えて一人、この学校を後にする。
彼曰く、『竹内緋色に恋は難しい』。
竹内緋色に恋は難しい 夕凪 春 @luckyyu
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