8日目
近づいてみると山には登山口なんてものはなくて、そこには山と呼べそうなものもまるでなくて、お芝居のセットのように巨大な壁に山の絵が書かれてあって、ドアがひとつ付いてあるきり。バカにしてる。
僕はドアを開けて山に入る。おじゃまします。どうも。ドアを閉める。ぱたん。
あたたかい空気が頭の上あたりを漂っている。僕は部屋を見渡す。山の中とはおもえないくらい普通の部屋だ。丸太小屋の中みたいな雰囲気だよ。
部屋の奥のカウンターから主人のような人が顔を出す。「さあ。雨具なんか脱いで。暖炉で暖まると良いよ。」僕は言われたとおりに雨合羽を脱いで、ん?いつのまに合羽なんか着ていたのかな。
まあいいや。
帽子掛けに合羽をかけてズボンについた雨粒をはらった。
主人は僕のためにゆり椅子を暖炉の前に用意してくれた。
「すぐに温かいスープを用意させるから。」
僕はゆり椅子に座って靴と靴下を脱ぐ。それにしても寒かったなあ。
ん?寒かった?
店の奥からしっかりしたおばさん風の声が聞こえてくる。「ほれ。できたよ。これであったまるよ。」「パンもあっただろう?」「切ってすぐに持っていくから。」
僕は店の厨房から聞こえてくるやりとりに耳をかたむけながらゆり椅子の上で息をついた。今日はずいぶん歩いたなあ。
温かいスープとパンをいただいて、眠くなるぐらい暖まった。
「本当においしかったですよ。」
「おかわりはいかがですか?」
宿の夫婦のふたりの娘は珍しそうに僕を遠巻きに眺めながらクスクスと笑っている。
「ええ。結構です。本当においしかった。」
僕はそう言って暖炉の火をすこしだけ眺めた。
雪ですか?すごく深かったですよ。ええ。ほら、ズボンなんてここまで雪で濡れているでしょう。はい。そうです。いいえ。大丈夫でしたよ。猟銃を持っていましたので。
僕は自分で指差した先に、さっき脱いで掛けておいた雨合羽の脇にぴかぴか光る猟銃が立てかけてあるのを見た。さっきまでなかったのにな。僕が持ってきたのだけど。さっきまでなかった。と思う。
僕はおととしに森でであったクマのことや、このあたりで噂になっているオオカミの群れの話をした。おととしもなにも森でクマにあったこともなければオオカミなんて僕は見たことないはずなんだけど、なんだかそんなことがあったような気がするんだなあ。
そうそう、それでね。群れを率いている大オオカミを三角谷で惜しいところで。仕損じた。私が風下から雪に体を隠してね、そう。引き金を引こうとしたその時ですよ。
『森の中から獰猛なオオカミの声が一斉に湧き起こった。私は谷を見渡した。森の中のオオカミたちが声をあげながら駆け下りてくる。もちろん大オオカミはもう視界から消えている。これは、罠だ。狡猾なオオカミたちの罠だ。狙われているのは私だ。慌てて起き上がった。荷物を捨てて猟銃だけを片手に走った。オオカミたちの荒い息が背中に迫って、』
宿の主人とおかみさんとふたりの娘は、僕のくちもとを食い入るように見つめながらオオカミの話を聞いている。僕の口はそこだけ別の生き物みたいにパクパクと動いている。
甘いものが食いたいなあ。僕は頭のすみでそういうことを考えながら口の動くのにまかせてパクパクとしゃべり続けた。自分の腕に、さっきまでは確かになかったはずのもじゃもじゃの毛がはえているのも、どうも胸元あたりから獣じみた匂いがただよってくるのも気づいてももう驚かないよ。
喉が渇いたなあ。ミルク紅茶なんかが飲めたらいいな。
「おやじさん。すまねえが酒は置いてるかい。」ちょうど僕の口がそう言った。酒でもなんでも好きなだけ飲めばいいや。僕は頭のスイッチを切って眠ることにした。好きにしろ。
「じゃあ世話になったな。また寄せてもらうよ。」
僕の手がドアのノブをひねって外に踏み出したところでぼんやりと目が覚めた。
猟銃をかたげて獣の皮のベストから強烈な獣と酒の臭いを漂わせていた僕は、ドアを開けて外にでるとまたたくまに以前の僕にもどった。腕の剛毛もみるみるしぼんで消えていった。外はまだ早朝のようだ。
僕は風船がしぼむみたいに小さく縮んで、もしかしたらだぶだぶの皮がしわしわになってるんじゃないだろうかって腕や足を確かめたけど、そんなことはなかった。ただ、いつも通りの以前の僕に戻っていた。
今日こそあのクマのやつめを仕留めてやるぞ、というような獰猛な気分もまぼろしか夢みたいに太陽の熱で蒸発して消えた。それでここで。僕で。たぶん。これで僕だと思う。
振り返るとそこには山もドアもなんにもなくて。
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