5. 往路



 どうして…


 私は――自分で言うのもしゃくだれど――細い目を大きく開けて、そいつを見た。


 偶然なのか、何なのか。

 よく理由はわからないけれど、あいつが目の前に座っている。

 肘を張り、両手を上着のポケットに突っ込んでいて、広げた脚が二人分の席を占領していた。


 首が前に倒れていて、そこにオレンジっぽい赤のフードが乗っている。

 だから顔は全く見えなかった。


 返り血?

 私はフードの色とあのナイフから、変な言葉を連想してしまった。

 まさかまさかと、首を振る私。

 とにかく、あんな生きの良かったお猿さんが、今はぴくりとも動かなかった。


 駅のホームのスピーカーから、発車を知らせる音楽が鳴った。

 扉がしまり、電車が重い車体を引きずって、動き出した。

 もう二度と戻ってこないと考えると、そもそも浮かんでいない気持ちが、さらに沈んだ。


 線路の振動に体を預け、しばらく黙っていた。

 けれど何か心がもやもやしてきた。原因がわかった。


 こいつ・・・が、つまらないからだ。


 私を一瞬だけトキメかせ、

 あれだけ私にいちゃもんをつけ、

 人のクセを無遠慮に眺めて、

 私を無視して、

 私と一ミリ秒だけ通じ合い

 最後に私を本当に怖がらせたくせに…


 私はリュックの紐を緩め、奥の方に詰まっていた赤いペンケースを取り出した。

 中にあったウサギの形をした消しゴムを手に取る。

 「また買ってあげるからね」と誰かを慰め、それを耳の部分から小さく千切った。


 いち、にいと狙いを定め、ゴムのかけらをそいつに向かって投げつけ始めた。




おーい。起きろ、起きろ。


うまく当たらない…こら! 起きろ!


何があった? そのナイフで誰を殺った?


一人、ニ人? もしかして、もっと!?


…ナニ落ち込んでんだよ! 挑発してるんだから、私を睨んだらどう?


なんだよ…お前ばっかり。私だって落ち込んでんだよ。傷ついてんだよ。


親に「水商売でもやってるのか」って言われたよ! 真面目に働いてるのに、コッチわ!


何百枚も、寝る間も惜しんで描いたデッサン…


初めて会社で認められたから、見て欲しかっただけなのに! 名前も描いてあるのに!


あなた達が大嫌いな私の名前が! もうこれしか無いんだよ…私が認めてもらえるものは…


起きてよ…お猿ぅ…もう消しゴムないよぉ…バカ!!




ったく、何だよ。しつこくノックしやがって…ん? うわ、何だこのゴミ?


あ! 生意気女! 何でここに? あれ、電車、動いてる…


…お、おい、女?




泣いてやがる…んだよ、調子狂うな…


何かあっちの頬、相当赤いし…殴られた? あ、黒い棒…持ってない。


良くわかんねーけど、今までいろいろあったんだろーな…


……「 ハッ

帰りの電車で泣いてんだから、上手くいかなかったんだろ?


……「 ハッ

悔しいんだろうな…


「ハックショイィ!!」

俺みたいに…「うぉ!!」


うームズムズしたぁ。あ、起きてる、山猿。

く、驚かせやがって! 同情して損した!




何よ。

何だよ。


何見てんのよ。

何見てんだよ。


ふん! 殺人魔!!

けっ! 生意気女!!



…けど



私と…

俺と…



コイツは…



どこか、おんなじだ…

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