4. 再び



「この電車は、折返し鶴ヶ嶺発ぅ~桜ヶ丘行きとなりまぁ~す。ご乗車になって、お待ち下さぁ~い」



 私、ミナミ(23歳)という名前の女は、来た時と同じ号車の、今度は反対側の角の席に座っていた。相変わらず、肘掛けに体を預けながら、ぼぉっと車内を眺めて。


 車内がガランとして誰もいないのは、着いた時と一緒。

 もちろん、私の服も変わってない。靴もリュックも、そんまんま。


 違うのは、車内に差し込んでいる光が夕焼けオレンジだってこと。

 それにポスターケースが手元にないこと。

 最後に左頬が晴れていてジンジンと痛むこと、ぐらい。


 私の気持ち的には、たいして変わらない。どうせ、駄目だって思っていたから。

 けれど、ひとつだけ悔やませて。せめて私のデザイン画ぐらいは見てほしかったな。


 ハナっから無理だった。

 開口一番、叱られた。髪も服も。「なんだその髪は!」って。

 褒められるなんて思っていなかったけれど。娘だよ? 一応。

「おかえり、ミナミ」って、言えないかな…


 頭きて、かっとなって、言ってしまった。

「二人とも、私のこと嫌いなんでしょ?」って。

「だって私、帰ってからひと事も名前で呼ばれてない!」


 うろたえる父母にとどめの一撃。

「そんなに嫌いなら私に【ミナミ】なんて名前、付けないでよ! 【バカ子】にでもすれば良かったじゃない!」


 パパの強烈な平手を喰らった私は、よろめいて玄関の扉にぶつかった。

 ポスターケースがポーンと靴置き場の後ろに吹き飛んだ。


 そのまま家を飛び出してしまった。

 この駅に向かう間に、涙すら出なかった。



「お急ぎ下さい。17時10分発、桜ヶ丘行きの急行電車、あと5分で発車でぇ~す」


 駅のホームを歩く小さな女の子が持つ、赤い風船を見ながら、私は思った。


 ここまで徹底的に通じないのなら、もう諦めがついた。

 あんな親に認められなくたって、一人で生きられる。

 どうでもいいや…私は目を閉じた。



「まもなく桜ヶ丘行き、発車となりまぁ~す」


 ベルの音。意識が戻る。

 ゆっくりと目を開く。前髪の縦線が邪魔して、よく見えない。


 指で掻き上げて確保した、視界の先に映ったのは、山猿の白と赤――




 ショックだった。


 俺はそれを知らなかった。

 だから荷物を担いで実家の門扉を開けた時も、茶の間から見える庭を眺めた時も、全然気づかなかった。

 母親が静かに伝えた「ガン」という言葉を聞いた時も、きちんと飲み込めていなかったと思う。


 ふすまを開けたその先に、親父がいた。

 それは確かに父だった。

 首元に皺だらけの線があっても。丸太のように太かった腕が、骨と皮だけになっていても。

 眼光だけは、親父のそれだった。


 「ミネト、よく帰った」と親父は言った。

 直前まで寝ていたのだろう。その時は座椅子に腰掛けていた。

 あっちでの話をしてくれと、親父は言った。


 真実をひとつも言えなかった。

 女にうつつを抜かしてました。騙されて、カツアゲされて、まだ借金があります。

 週明けにはヤクザの事務所に顔を出さないといけません。

 ダンサーとしても下っ端で、若い奴らにどんどん追い抜かれてます。

 だからお金を貸してくれませんか――なんて。


 親父は俺の作った嘘の成功話を、ただ穏やかな顔で聞いていた。

 そして最後に、これからも頑張れといい、俺に手を差し出した。

 しびれるぐらい力強い親父の握力は、もう感じられなかった。


 俺は仕事のせいにして、すぐ実家を出てしまった。

 借金の打診に失敗したことよりも、不屈の山だった存在が、揺らいだことがショックだった。

 俺はあの親父に、まだ何も認められていない。それどころか今はマイナスだ。

 全然、間に合わない。あの様子じゃ親父が先に逝っちまう。

 腕相撲でさえも、勝てないままに。


 無力感を拭えない俺は、足だけが先に進んで、いつしか駅についていた。

 電車はもうホームで待っている。俺は帰るしかないのか。


 自分を止める手段がわからない。

 俺は電車に乗り込み、空いている席に座り込んだ。


 青い野球帽を被った子供が、父親と手をつないで無邪気に笑って通り過ぎる。


 俺は真っ赤なフードを目深にかぶり、足を投げ出しながら、発車の時刻を待っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る