第14話-迷える星の集う空に-

 喧噪は突然に止んだ。というより、カナタが我に返るといつの間にか静まっていた。

「どうにか、相手の懐に入り込めたようです。今は見失っているのか……もしかしたら、攻め倦ねているのかもしれませんね。手詰まりはこちらも同様ですけど」

 くぐもったアステルの声がそう報告してくる。彼女はまだきつく端末を抱き締めているようで、先ほどから暗闇しか見えてこない。

「アステル。端末を――いや」

 彼女に与えたタブレット型端末は裏面にもカメラが備わっていたことを今になって思い出す。これにもっと早く気づけていたらと自責の呪詛が再び湧き出し、しかしそれでも力になんてなれないことに思い至って唇を噛み締めた。

「どうかしましたか?」

「……いや、問題ない」

 使用するカメラを切り替えて、カナタもアステルと同じ光景を目にする。

「……まぶしっ……!」

 同時にまたしても画面には目の眩む輝きが満ち溢れて、思わずカナタは顔を背けた。ただちに光度の補正が加わり、彼はようやく自らの敵でもあるそいつと相見えることになる。

「見えましたか、カナタさん? 今、目の前に立ちはだかっているのが、わたしたちの敵そのもの。この奥にわたしたちの敵を消去するように命令を送り込めば、わたしたちの勝利になるんです」

「これが、敵そのものって……」

 今もなお画面一杯でうねり、逆巻く赤熱した大気。

 至近距離だから、その全体像は掴めない。しかし宇宙を模したこの仮想空間に於いて、眼前の天体を表現し得る言葉をカナタは一つしか持ち合わせていなかった。

「太陽だな、これは」

 教科書か図鑑に掲載された、赤く燃え盛る恒星の写真。星から溢れ出しては狂ったようにうねる炎の柱がプロミネンスで、頭上の遙か果てを覆う灼熱の壁がコロナ。

 悪性新生物に犯された『英知』を具現させると視覚的にはこうなるらしい。

「……ところで、カナタさん」

 その声が掠れて聞こえたのは、映り込んだ目と鼻の先の恒星が本来なら近づいただけでも気化する代物だからかもしれない。

「どうしたんだよ」

 カナタの応答にアステルは少し間を空けて、それから頗る申し訳なさそうにこう切り出した。

「実は最後に一つ、お願いができてしまいまして。それをどうか頼まれて欲しいんです」

「今更その口振りかよ。そんな前置きはいらないから、とっとと吐き出せ!」

 常のごとくぶっきらぼうで乱暴なカナタの返事を聞くとアステルは安堵して息をつき、それから告白した。

「もしかするともうご存じかもしれませんが、わたしの中にはこの星を操るための機構が眠っています」

「知ってるよ。会話で入力するって奴だろう?」

 何気なく返すとアステルが囁くような笑い声を漏らして、それがどこかくすぐったい。

「知ってたんですね。カナタさんはずるいです。では、細かい説明は省きますけど、わたしの代わりにそれを使って、この星に命令を送り込んでもらいたいんです」

「構わんが、お前自身ではやれないのか?」

 カナタが問いかけるとアステルはまた黙りこくり、それから唐突に端末を裏返した。自分の姿を画面の真正面に映し出す。

「――あ」

 そんな、間抜けな声しか出せない自分を呪いたい。

 カナタはディスプレイが映し出した、左手の肘から先、両足の膝下、そして長かった髪の先が焼け落ちた少女の姿を凝視した。ただ呆然と眺め、炭化したそれぞれの先端を目で追おうとして、見失った。

「実は、わたしとわたしの敵はしばらく離れている間に、触るとお互いを打ち消し合うようになっていたみたいで……対になる存在だからでしょうか?」

 気まずそうに、しかしそんな事実があっさりと口に出せてしまえるアステルを罵る衝動に焦がれる。必死になって抑えつけ、それでも怒り滲ませカナタは疑念をぶつけた。

「それで? お前はこれからどうしようと?」

 どうしても言葉の端々から棘が突き出し、だというのにアステルは満足そうに頷いて答える。

「この星はわたしの敵に包まれていて、このままだと命令が通らないんです。だからわたしは体当たりをしかけ、突破口を開こうと考えています。でもそこから突入したのち、わたしは大きく疲弊しているでしょうから……カナタさんには命令の入力を代わってもらいたいんです」

 伝えられた内容自体は語られる前から予測していた。だから頼みごとの意味は飲み込めるけど、アステルがこれから敢行しようとしている蛮行が理解できない。

「つまりお前は自分を犠牲にして血路をこじ開けようって言うのか? 馬鹿じゃねぇの? 一体、これまで何のために――!?」

「納得してください! ……とは言えません。だけど、これしか方法はないんです。それに、わたしだってまだ消えるつもりじゃありませんから」

 吸い込まれそうなほど奥深い空色の双眸で、見えていないはずのカナタを見据えてアステルは言う。もはや目にすることの叶わない彼の姿を脳裏に描きながら、言い放つ。

「わたしは必ずあなたの傍へ帰ります。どうしてもそこにいたくて、そのために戦っているんです。だから……だからどうか、わたしの我が儘をお許しください」

 出会った頃から相変わらずその眼差しは実直で、曇りなかった。幼さ故か、はたまた生来の性分によるものか、アステルは偽ることを知らない。

 そんな彼女の頼みに即応できてしまえるのは、傍に居続けたカナタだけで。

「分かったから、さっさと始めろ。迷っていられる暇はないだろう?」

 カナタがなるべく平常を装って言うと、アステルの真剣な表情も瞬く間に崩れて普段の微笑が綻んだ。

「では改めて、参りましょうか」

 アステルは先が焦げ付いた長髪を翻し、肘までしかない左腕で小器用に端末を小脇に挟む。そのぎこちない姿勢に気づいたカナタは端末を消し去って、代わりに小鳥のアバターを生成した。

 脇にあった端末が消えて戸惑うアステルはすぐに肩に止まった感触に気づいて手を伸ばしてくる。その細く白い指に小鳥があっさり包まれてしまうと、彼女はくすぐったそうに目を細めて、くすりと笑みをこぼした。

「普段は全然触らせてくれないんですから」

「今だけだからな」

「ホントです? だったら、もうしばらくは触り放題だ」

 他愛ない軽口を交わしてアステルは再び前方の、眩い光輝をはらんだ赤熱する星へと向き直る。その色白な容貌は火の色に照らし出されていた。

 彼女は鳥のアバターを胸の前に炎から庇おうと抱き、長い睫毛で縁取られた目を伏せて渾身の力を奮い起こす。全身の肌から沸々と光の粒が沸き起こり、徐々に彼女の体は淡く輝く一筋の帚星に転化されようとしていた。

「……行きます」

 確かにそう口にする声は聞こえたのだが、既に乳白色の光と化していたアステルに実体があるかは定かでない。彼女はカナタの元へと流れ着いた頃の姿に戻って、長く尾を引きながら灼熱の大地に突貫した。

 乱れ舞う星の光の奔流と膨大な熱量を溜め込む業火の壁がぶつかり合う。その先端から弾けて閃光が飛び散り、凄絶に二色の輝きが競り合った。

「――――っ!」

 どちらが発したのかも分からない、押し殺した呻き。衝撃が伝わらないはずのカナタさえも歯を食いしばって、怖じ気づき張り裂けそうになる意気地を必死で繋ぎ止める。

「大丈夫です! これなら行けます!!」

 恐らく最初の衝突の瞬間に滲んだ目の端の涙を振り払ってアステルは叫ぶ。カナタと、それから自分自身を鼓舞するために。

「あぁ! 俺には構うな、突っ込め!!」

 そうして応じることがここにいる意味だと弁えていたからカナタも声の限りアステルの行く先を指し示す。

 彼女は言われるまでもないとでも言いたげに、しかしほんの少しの笑みを口元に湛えて全身全霊を叩きつけた。

 緩慢だった前進する速度が跳ね上がり、燃える星の中にのめり込んでいく。だが、ここを正念場だと見定めているのはカナタたちだけでなかった。

「――――っぁ!?」

 二度めの呻きはアステルの口から、ほとんど悲鳴同然の悲痛な響きで胸を切りつける。憂慮に顔を歪めたカナタは声をかけようとして、画面から溢れんばかりの紅蓮の煌めきに絶句した。

 アステルの指の隙間から覗く景色が土石流の如く後方から押し寄せてきた紅焔に呑み込まれたのだった。

「アステルッ!?」

 映像は点滅するし固まりもしたが途切れてはいない。それ故にまだ彼女が死んではいない、と頭では理解していたのだが心配する声は押し留められない。

「まだ意識はあるな!?」

 怒鳴りつけるような口振りでカナタが問いかけると、アステルの指が震えた。そうとしか見えないほどではあるが確かに、動いた。

 遅れてノイズ混じりで、或いは掠れているせいなのかひどく聞き取り辛い声が返される。

「ちょっと……きが、飛んでいました。でも、まだ生きてます……それより、状況を……」

 彼女の声は熱風の唸りにも掻き消されそうで、もう良いから引き返そう、とこぼしてしまいたくもあった。

 だけどそんな愚行は彼女を苦しめてしまうだけだから、彼は無言でキーボードに指を走らせる。慣れた動作を最速でなぞって観測したデータを表すグラフやメーターを呼び出し、数ある異常から要項のみを読み取った。

「さっき俺たちの星を浸食していたプロミネンスが殺到してきて、退路が塞がれた。おまけにこの星全体を覆ってた防壁もこの一点にリソースが費やされてるし、どうやら相手はここをお前の墓場にするつもりらしい」

「なるほど……してやられましたね……」

 常よりも口数が多いカナタの余計な解釈まで聞き終えてから、アステルは力なく呟く。ともすれば雑音の海に紛れてしまいそうな声音のか細さがカナタを不安にさせた。

「アステル……もしかしてもう、きついのか?」

 この質問にアステルがもし一言でも辛いと答えれば、カナタは仮想空間を崩壊させてでも彼女を自身のコンピュータに引き戻し、ネットワークとの接続も断ち切るつもりでいた。それで何が報われるとも思えなかったが、少なくともアステルは消えずに済む。

 カナタの大切な人が喪われずに済むのだ。

 だから――

「わたしは行きますよ。そんなに心配せずとも、まだまだ平気ですから」

 誰が心配なんか。

 そんな憎まれ口を叩ける余裕など、あるはずがなくて、だから伝えられるのは隠しおおせなかった本心だけだった。

「なら少しでも急げッ! 心配させてるって自覚あるならこんなことさっさと終わらせろ!!」

 そのとき顔は見えなかったけど、アステルは確かに微笑んだ気がした。

「分かってますよ」

 気負わないその返事が、しかしカナタには何よりも安らぎをもたらす。だからこそまだ失いたくなくて、自分にできることを探すのだが本職の研究者にも叶わなかった悪性新生物への干渉が一介の学生にできるはずもない。

「頼む……帰ってきてくれ……」

 無力を噛みしめ体裁を投げ出した今、許されるのはただそう祈ることばかりだった。

 彼の独り言に返される言葉はなく、代わりに小鳥のアバターを包み込む手に力が籠もる。次第にその指の色が薄らいで小鳥の周囲には金色の粒子が舞い散り始めていた。

 アステルの髪と同じ色の煌めきは乳白色と混じり合い、光を乱反射させてその輝きを高める。

「ぃッけぇええええええええええええええええええええええッ!!

 張り上げられた雄叫びと共に引きずり出された力がより一層の輝きとして彼女の全面に展開された。その身を燃やす煌めきは深く煉獄への道を切り開き、彼女はそこへ迷うことなく飛び込んでいく。

 背後から追い縋る猛火の怒濤も今の彼女には追いつけなかった。一筋の流れる星は赤熱する業炎の中を突き抜け、深く怪物の体内へと食い進む。

 やがてカナタは溢れかえる灼熱の狭間に、アステルよりも一回り大きな燃え立つ火の核を宿す球体を見出した。それは生物的な組織でどこかと結びつけられ、一個の巨大なネットワークを構築している。それが『英知』を構成するニューロンの一つ一つであることは拙いながらもカナタにだって推測できた。

「聞こえるかアステル!? どれでも良いからあの火の玉に取り付け! あれに接触すればまず間違いなくお前からの命令が通るはずだ!」

 返事らしい声は何も聞こえない。もはやそれだけの力もないのだろうか、という冷たい予感が首の裏側から頭蓋の内側までなぞって耐え難い悪寒をもたらす。

 しかしアステルは打ち寄せる業火の波に打ちひしがれそうになりながらも火の玉をめがけて飛翔を始めていた。辛うじてそのことだけが、アステルにまだ残った意識の存在を証明している。

 火の玉は白色に近い中心部から発された炎が外に行くに連れ、黄色を経て橙に移り変わり、最後には赤くなった外周部が揺らめいていた。取り付けとは言ったが、これは近づくだけに留めるべきかもしれない。

 そんなこと考えていたら、もう広げた手のひらより大きく見える真紅の煌めきが、爆発した。

 カナタの目にはそうとしか映らなかった。火の玉が急激に膨れ上がって閃光をばらまき、その臨界点で膨大な火炎の奔流がこちらへと降り注ぎ出したのだ。

 悪性新生物による最後の悪足掻きだ、と気づいたときにはもう遅い。

 視野を余すことなく覆い尽くして荒れ狂う炎の華がカナタたちを呑み込もうとしていた。

「アステル、よけ――」

「――――ッ!!」

 カナタの無茶な要求をはねのけて、アステルは光の粉を散らしながら急加速する。華の中心部、噴出する炎の源が瞬きを一つした頃には触れられる距離まで迫り、減速もせずに飛び込んだ。再び画面が火の色にまみれたのは一瞬のこと、すぐに目の前が開けてカナタの胸には一握りの希望が灯る。今度こそ本当に解決するのだと、そんな儚い希望をアステルの囁きが霧散させた。

「切り札を託します。わたしはこれを抑えるから……っ!」

 どうか、今の内に。

 直後に世界が後方へと過ぎ去り、滅茶苦茶に何度も天地が反転する。

 回転しているとカナタが気づく前から小鳥は自動で姿勢の制御を開始していた。しかしそんなことより彼はアステルの手の中から放り出されたことに愕然として振り返る。

「待てよ!! アステル!?」

 目にしたのは花弁から一気に崩れ去りいく炎の華。そのただ中で両腕を広げ、炎を一身に浴びながら悪性新生物の追撃を封じる彼女の姿。

 襤褸切れになった服や焼け焦げた髪を熱風に弄ばれ、背後の業火が照らし出す痩躯は全身が黒く煤けていた。それなのにアステルはカナタに気づくと、無理に微笑んで見せようとする。

 くしゃくしゃでひどく不格好な表情だった。

「どうして!?」

 その問いに意味がない、ということは承知していた。

 今のアステルにもはや言葉は通じない。そして彼女が炎の華を抑え込んでいる、この好機を逃せばアステルの願いは潰えてしまう。

「……バカ野郎ッ!!」

 両翼を素早く翻し、思い切り虚空に叩きつけた。生み出された推力は小鳥の痩躯を突き動かし、強がりな少女は画面の端へと流れ過ぎていく。カナタは翼の強度など考慮にも入れず、ただ速度だけを求めて振り乱した。

 アステルがカナタに託したという『切り札』。この場でそんな呼称が与えられる代物は『英知』のユーザー・インターフェイスしかない。

 そしてそれを託したアステルは恐らく、言外にこう訴えているのだ。

 自分が時間を稼ぐから、この戦いにけりをつけてくれ、と。

 それがうまく行かなかったときのことなんて、彼女は何も考えていやしなかった。或いは成功したところで自身は滅ぶのかもしれない。そんなことさえ覚悟した上でアステルはカナタに願いを託したのかもしれない。

 無論、そんな結末を迎えるつもりはなかった。

 鳥のアバターなどこの場で使い潰すつもりで、炎の防護壁を剥がれた『英知』のニューロンに突進する。剥き出しになったそれは、赤みがかった透明な外郭の内に青白く輝く核を宿す崩れかけの球体だった。

 難なくその光の根元にたどり着いても飛行の勢いを殺さず、アバターのくちばしを突き立てて回線を開く。

 繋がった。

 そう直感したカナタは間髪入れずに命令を入力する。

「このコンピュータで現在実行中のタスクを全て終了しろ!」

 カナタの無我夢中の叫びは電子の世界を一変させる力ある命令として星空中に響き渡る。

 あれほどアステルを苦しめた悪性新生物はたったそれだけの言葉に屈服した。その影響は瞬時に波及し、赤熱していたうねりは溶岩が固まるように輝きを失い固く黒く凍り付く。停止していくそれらに一瞥もくれることなく、カナタはただ「削除」を命じた。

 その命令もまた直ちに実行され、この星にこびり付いた黒い焦げ痕は塵さえ残せず抹消されいく。

 だがそんなものは消えたことを視界の隅に確認するだけでも十分だった。

「アステル! おい、アステル!!」

 カナタの関心は最初からそこにしかない。『英知』のニューロンを蹴り飛ばし、振り返った先にいる少女に向けて小鳥を飛翔させていた。

 果たしてアステルは、木漏れ日色の長髪を靡かせているはずの少女はそこに漂っていた。

 長かった髪は肩ほどになるまで焼き尽くされ、その衣類もほとんど焼け落ちている。何の偶然か、小鳥のアバターを投げはなった右腕だけは原型を残していたが、残り四肢は根本の辺りに黒焦げを残すばかりだった。

 左のわき腹は炎に抉られ、右目はもう見えていないのか瞼ごと煤に閉ざされている。

 そんな格好のくせにアステルは笑おうとするからカナタは行き場のない憤りに襲われ、そのはけ口が見つからないと今度は激情が涙となって溢れ出した。

 それを抑えつけようとする意地など忽ち枯れ果てて、カナタはアバターを消してしまう。その代わりに彼女の右腕が届くところに出現させたタブレット型端末をアステルは難なくすくい上げた。

「お前、平気なのかよ……その格好。ぼろぼろじゃねぇか!?」

 伝わるはずのない言葉なのに、カナタはそんなことを訴えかけてしまう。そして言葉の意味など伝わらずとも、カナタがどんな思いを抱いているのか、アステルは読み取り、辛うじて残っている肩を揺らした。

 その拍子に散らした滴が彼女自身の発する乳白色と金色色に煌めく。

「だから、笑ってる場合じゃないだろう……!」

 言葉が通じないとは言え、どこかで心が通じ合っている感触と相変わらずなアステルの様子にカナタまで顔が緩んでしまう。

 後遺症は残っても、肝心なものは失わずに済んだ。一番大切な一線で踏み留まれた。心の冷たく硬い部分が解けて、流れる涙の量が増してしまう。

 この上ない安堵をカナタは感じていた。

 ――けたたましいサイレンが彼の耳を苛む、その直前までは。

「警報!? どうして……」

 口では疑問を露わにしながらも彼の頭脳は常の冷静さののまま状況を把握していた。

 恐らく、悪性新生物が取り除かれたことで施設内のセキュリティが再建された。当初から予想できていた事態のようで、これほど短時間にそれが終わるとは全くの想定外だった。

 そして本来の機能を取り戻したセキュリティは迅速に侵入者たるカナタの存在を暴き出し、周知させる。

 本来なら厳重に守られているはずの、この『英知』の制御室に誰かが駆けつけるのは時間の問題だった。

「……アステル」

 事情を理解できていないアステルは当然ながら、元々大きな瞳を丸くしてカナタの顔色を覗く。やがて青い瞳の中に不安げな光が映り込んで、ゆらゆらと震える。陰った彼女の表情を勇気づけられるとは思えなかったが、それでもカナタは約束せずにいられなかった。

「必ず、いつか迎えに来るから。それまで待っていてくれないか?」

 カナタの、そんな言葉の意味をアステルが理解できたはずはなかった。しかし彼女はいつものように柔らかく綻ぶ花のような微笑みで応じ、頷く。

 それを見届けた直後のカナタの行動は迅速だった。

 ありがとう、たったその一言さえ口にはせずにキーボードを叩き、同時に音声で『英知』へと命令を打ち込む。体感時間ならば一時間、実際には一分足らずのその作業を終えるのと同時に誰かが部屋に踏み込んできた。勢いよく叩きつけられた扉から差し込む光を背景に佇む研究委らしき人影を、目を細めながらカナタは眺める。その人物が天田ではないと知って、彼に詰め寄ってきてもカナタは動じなかった。

 もはや全ての行程は終えている。

 カナタのコンピュータは仮装空間から切り離され、その痕跡も残さず抹消し終えていた。

「またな、アステル」

 今度こそ本当に届かない声を、それでも彼女にだけ聞こえるように吐き出しながらカナタはそっと目を瞑った。

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