第12話

 たどり着いた部屋にも明かりは灯っていなかった。本来ならば立ち入ると自動で電灯が光り出すと聞いてはいたが、例のごとくセンサーが機能不全に陥っている。

 一旦、コンピュータケースを足下に置くと室内を見回した。

 部屋の後部にのみ曇りガラスの填められた採光窓があり、そこから差し込む微かな光が四面のモニターを照らし出している。壁際はカナタの背丈よりも高いコンピュータの筐体に埋め尽くされていた。

 通信端末の画面から漏れ出る光を頼って、どうにか電源の在処を見つける。途中で電灯のスイッチも見つけたが、敢えて目立つ愚は犯せなかった。

 手元の明かりだけで配線を繋ぎ、四つ並んだモニターの左端に自身のコンピュータのデスクトップ画面を表示させる。同時にウィンドウが立ち上がり、穏やかな少女の寝顔が映し出された。

 カナタはなぜだか口元が緩みそうなのを堪え、ヘッドセットをつけてから冗談っぽく呼びかける。

「いつまで寝てるつもりだ。もうついたぞ」

 彼女の目元を飾る金色の睫毛がぴくりと震えた。薄く開かれた瞼の隙間から晴れ空色の瞳が覗き、カナタと目があって大きく見開かれる。淡い桜色の唇から譫言が漏れ出て、それから勢いよく彼女は跳ね上がった。

「ごっ、ごめんなさい! お見苦しいところを……」

「電源を入れてなかったし、ネットも繋がらないから休眠状態になっていたんだ。仕方ないだろう」

 通常、カナタの作った仮想空間は一つでも接続する機器があれば、そこをホストにして機能し続ける。この場合だとカナタのコンピュータの電源が落ちても、シロコの端末さえ生きていれば問題はない、はずだった。

 だが悪性新生物が蠢く通信網越しでそんなことを望めるべくもない。

「それよりもこれからのことだ。今はまだオフラインだが、この施設に繋げばいよいよご対面となる。準備はできているのか?」

 カナタはそのせっかちな性分故に淡々と話を進めてしまうのだが、アステルがいまいちついてこれていない。眉根を寄せて、困惑した顔でこう問いかけてきた。

「……あの、話の腰を追ってしまって申し訳ないのですが……ここはどこなんですか?」

「――は?」

 しばらく何のことを訊かれたか飲み込めずに、やや間を置いて「そういえば」と思い出す。

「お前に行き先のこと、何も話してなかったか。てか、こっちのことが見れ……ないのか」

 今になってカナタは備え付けてあるモニターがカメラを内蔵していないことに気付かされた。かといってウェブカメラなど持ち出しておらず、無益な後悔しかできることはない。

「ごめん。今、手元にカメラがないから家に帰るまではどうしようもない」

「いえ、平気、平気ですから。カナタさんが今どちらにいるのか、手短で良いので教えていただけませんか?」

 そう訊ねてくるアステルの視線は定まらない。きっとそれは知らず知らずの内に見えないカナタの姿を探しているからで、安心させなければ、などと柄にもないことを思いカナタは言葉を継いだ。

「分かった。ここは俺たちを連れてきてくれた人が勤めている研究所だ。その一室でこのコンピュータを起動させている。お前の言う敵もここの設備で生まれたらしい」

「そうだったんですか……ということは、相手の方は研究者だったんですね。カナタさんの言った通りです!」

 アステルのこうした、唐突な誉め言葉は未だにくすぐったくて仕方ない。カナタは咳払いして気を取り直し、説明に専念しようと心に決めた。

「ここにはちょっと――いや、かなり特別な『英知』ってコンピュータがあってな。そいつを使った実験の成果が悪性新生物っていう……恐らくはお前の言っていた敵なんだろう」

 国内唯一のニューロコンピュータとしては最大規模のスーパーコンピュータ『英知』は三千二百億個のニューロンとその一千倍のシナプスから構成されている。その内二百億のニューロンを用いて人の大脳皮質に構築されたニューラルネットワークのモデルをシミュレートしたのが悪性新生物の起源だった。

「天田さんはその悪性新生物の一部になっていた『英知』に動きの鈍い箇所を見つけて、そこがあるとき突然に停止したから調べていたらお前の存在に行き当たったらしい。俺と話してみるまで本人も半信半疑だったようだが」

 元々情報量に乏しく、チャットで暗号めいたメッセージを発信したのも万に一つの可能性に賭けてのことのようだった。天田が初っ端からカナタに質問をぶつけたりと警戒していたのはそうした事情に由来するらしい。

「正直、ここまで来れたのはただただ運が良かったからだ。全く、お前の頼みごととやらはいつもハードルが高い」

 カナタの冗談めかした口振りにアステルはくすくすと肩を揺らす。それから細められた青い眼差しはどこか物寂しげに膝の辺りをさまよわせていたが、長い瞬きを挟み、未だ星の輝かぬ天上に向けられた。

 再び開かれた瞳に朧気な脆さは窺えない。

「だったら、これからはわたしの番……わたしが頑張る番ですね」

「そうなるわけだが……一つ聞かせてもらいたい」

 カナタが前置きするとアステルは首を傾げる。了承される前から訊ねれば答えてくれるだろうと見込んでカナタは疑問をぶつけた。

「お前はこの研究所を乗っ取って、それでも飽きたらずにこの社会を喰らおうとしている化け物に挑むつもりでいる。だがそんな奴に、本当にお前が敵うのか? よりにもよってお前みたいな奴が?」

「わたしってそんなに頼りないのでしょうか……」

 肩を落とす彼女を目にしてカナタは遅ればせながら自らの語弊に思い及ぶ。

「いや、頼りないってわけでは……あるんだけど、そうじゃなくて! そんなことが言いたいんじゃなくて……!!」

 思い返すのはアステルがこれまでにしてきた頼みごとの内容、その真意だった。どこから言葉すべきなのか検討もつかず、ただ思いついたことを手当たり次第に吐き出す。

「お前、これまでに何度も頼みごとしてきただろう? 馬鹿みたいに人助けばかり、それが自分の願いだって装って。本当は俺の後押しをしてくれるために」

 自惚れではなく、そう断言できてしまうほどにカナタはアステルと過ごしてきた。

 だから次に言うべき言葉も迷いなく口に出せてしまう。

「そんなお前みたいに相手は甘くない。自分も周りも全部を自分のために捧げて、生き残ろうとしてるんだ。他人のことにかまけていたりなんかしないだよ! そんな奴に、お前みたいな他人のことしか考えてない奴が勝てると思ってるのか!?」

 言い切って、やはりこれは自惚れだったかもしれないと一抹の後悔を抱く。それでもカナタは言わずにはいられなかった。

「やめにしないか? 今ならまだ、引き返せる」

 きっとたくさんの人間に迷惑をかけてしまうだろう。天田の信頼を踏みにじることにもなる。だというのに否定も叶わないほどどうしようもなく、それがカナタの本心なのだった。

「馬鹿なことを言ってるって自覚はあるよ。だけど……どうして、よりによってお前なんだ? 社会の行く末なんて他の奴らに任せれば良いだろう? こんなことにどうしてお前が命を賭けなくちゃならない?」

 こんなにも浅ましくも正直になったのはいつ以来のことだろう。カナタがぎこちなく気を煩わせながら顔を上げようとすると、ひどく冷たい、今まで共に時間を過ごしてきた少女からは考えられない声が突き刺さった。

「やめてください」

 ぎこちなく表情を歪めながらアステルは言う。

「やめてくださいよ。こうしないと、わたしがわたしじゃなくなくなっちゃいそうなんです。自分が誰だか分からなくなりそうなんです。だからどうか、邪魔をしないでください」

 いつになく屹然としたそれは拒絶だった。寄せ付けまいとする意志をその眼光に感じて、初めてカナタはアステルを相手にたじろぐ。そんな自分や彼女に反感を覚えると咄嗟に反論が口をついて出た。

「お前が誰かなんて、そんなの明らかだろう? 今更なかったことになんてできないほど、お前は自分の意思で動いてきたはずだ。そうして救われた俺がここにいるだろう!?」

「わたしが自分の意思で誰かを助けたですって!? あなたはわたしがどうして生まれて、どんな存在なのか、まだ分かっていないんですか!?」

 カナタの言葉のどこかが琴線に触れてしまったらしくアステルはその瞬間だけ激情を顕して彼を睨もうとした。しかしすぐにまた我に返り、何度も頭を振って怒りを霧散させようとする。

「ごめんなさい。こんなつもりじゃなくて……分かってるんです。あなたを責めるのは筋違いだって。だけど今は、それでも敢えて言わせてください。あなたはわたしのことが分かっていないんです」

 一瞬でも憤った様を見せつけられ、カナタはそれに何も返せなかった。ただ黙ってしばらくアステルを見つめ、その末に「なら、教えてくれ」とだけ続きを促す。

「はい。全部を知って、ようやくわたしは理解しました。今ここでこうして話しているのは悪性新生物になり切れなかった心の一部分なんです。周囲を犠牲にして自分だけが生き延びようとすることへの忌避感が、排出されてわたしになった」

 アステルは空気に首を締められたように苦しげな視線を行き交わせ、それでも説明を止めなかった。

「今まで、実は密かに疑問に思っていました。どうしてわたしがカナタさんに余計なお世話を焼こうとしたのか。だってわたしは人間でもなければ、誰かに命令された機械でもない」

「それは……」

「カナタさんにだったら、分かりますよね?」

「……まぁな」

 生物の利他性は持って生まれた社会性か、遺伝子的に近しい他の個体を生き長らえさせようとする本能に起因する。だが電子の意識にそんな理屈が適用されるはずもなく、また彼女は多くの機械がそうであるように人の助けとなることを願われて設計されたわけでもない。

 そんなアステルに人を助けようとする動機など、どこにもありはしないのだ。

「でも、現にお前は俺を助けてくれただろう? あれは何だって言うんだ?」

「反発したんですよ。わたしを生んだ、あの醜いものに。それと反対の行動を取ろうとしていたら、結果的にあなたにお節介を焼いた。その程度のものでしかないんです」

 そんな自分勝手でもの悲しい台詞をアステルは端正な表情のまま言い切って見せる。その何もかも理解して納得しような態度を目にしてカナタの感情を抑えつけていた堰が決壊した。

「待てよ! そんな言い方ってないだろう!? お前は俺のために必死になってくれて……あれはお前が言うような安っぽいものじゃないだろう!?」

「そんなことありません。だってわたしは周囲を犠牲にするのが嫌で本体から切り離されたはずなのに……あなたの善良さに付け込んで、それを今も利用している! わたしは結局、生まれついた衝動に突き動かされているだけでしかないんです!」

 指に胸を突き立て、それでもその苦しさを忘れられずにアステルは歯を食いしばる。自分の欲望を果たすこと。そのために誰か利用すること。そう言い換えられた彼女の所業がその胸を内から引き裂こうとしていた。

 無論、カナタだって黙ってはいない。

「お前は衝動じゃなく願いのために、誰かを利用するんじゃなく頼ったんだ! 特別なことじゃない。しかもその結果、お前は俺を救ってくれたんだ! そんな馬鹿みたいな優しいお前が俺には必要なんだよ!!」

 初めて、心の内側、一番柔らかい部分を晒す恐怖。そして快楽。これまでどれだけ意地を張っていても満たせなかったものに熱がじわりと滲んでいく。

 それに抗おうとして少女は透明な瞳に憎々しげにカナタを映して声を張り上げた。

「だからそんなの、全部結果論なんですっ! わたしは本体のようになりたくない、逆らいたいって衝動に身を任せただけなんだ!! そうすることでしか、わたしは自分を証明できないから……っ!」

 カナタを突き放そうとアステルはそうも卑屈なことを、喉が張り裂けそうになりながら訴える。自分や自分の振る舞いの無価値を信じる真っ直ぐさは、これまで察せなかった心の闇の根深さはカナタの想像を絶していた。

 このまま行かせるのがアステルのためにもなるのでは?

 そんな弱音が心の片隅に忍び込む。だけど、それを猛烈に押し退ける強い気持ちが未だカナタの胸の奥底には眠っていた。理屈を全て剥がれて、誤魔化しも強がりも許されない状況に立たされてようやくカナタは本心に立ち返る。

「なぁアステル。お前は俺が迷っているとき、いつも傍にいてくれただろう? そして俺がこれまで選べなかったような、新しい選択肢を教えてくれた」

 シロコのことだけじゃない。アステルがいてくれたからカナタは今までより素直になれた。暗く閉ざされていた彼の世界に彼女はささやかでも新たな光をもたらしてくれたのだ。

 だというのにそのアステルが必死になって首を横に振る。そこにいてくれた意味を否定しようとする。

「わたしはカナタさんの心の中にあったものを引き出しただけです。そのお手伝いをしただけなんですっ! 一歩踏み出したのはカナタさん自身で、だからわたしがいなくてもこれからカナタさんは――」

 もううんざりだった。こんな優しい見送りの文句が聞きたくて、カナタはアステルを引き留めたわけじゃない。

「――そうだよ! お前の言う通りなんだ!! お前が引き出したんだよ! 寂しさも苦しさも、俺が押し隠していたものをみんな全部、お前がなッ!!」

 交わしてきた想いの一つ一つを手探りで思い出し、溢れ出すものをそのまま言葉にして叩きつける。

「引っかき回すだけ引っかき回しといて今更いなくなるなよ! 俺の毎日はもうっ、お前がいないと成り立たねぇんだよッ! お前がいなかった頃の自分になんて戻れるわけないだろうッ!?」

 嗄れた喉から、まだこれだけの叫び声が出るなんて思っていなかった。枯れ果てたと勘違いしていた心はどこまでも渇いているだけだった。

「何だってする! お前が自分を見失いそうなら、俺がそれを全力で教える。悩みがあるのなら最後まで相談に付き合う。だから……どうか、傍に、いてくれ。俺から、離れないでくれ……」

 とうとう画面の前に伏して、覇気のない懇願を口にする。それさえも頬を伝ってくるものに邪魔されて、言葉にはできなかった。

「……そんな。カナタさん。わたしは一体、あなたに何をして……」

 だが、はっきりと意味など伝わらずとも届くものはある。

「わたしが、必要?」

 アステルはいつものように微笑むこともできず、泣き出すこともできず大き過ぎる何かを抱え込んで戸惑っていた。その戸惑いを噛み砕けず、溢れ出て来るものに困惑して、終いには固く目を瞑る。

「……こんなの、嬉しくありません。こんなはずじゃなかった! 喜んじゃいけない、はずなのに……」

「そんなの、お前は今どう思ってるんだ? 綺麗じゃなくて良い。自分勝手で当然だろう。だから、お前が今本当に何を望んでいるのか、そいつを俺に聞かせて欲しい」

 目線が届かないことは分かっている。カナタから一方的にアステルを見つめるしかない。だとしても彼は朝日の色の髪を揺らす少女を真正面から見据えて、問いかけるしかなかった。

 画面に手を触れて訴える。

「俺に、お前の願いを聞かせてくれ」

「わたしの……願い……?」

 呟いた彼女は苦しそうに目をぎゅっと瞑り、胸の痛みを堪えるように両の手を人ならば心臓が脈打っている場所へと押し付けた。何度もそうして自らの鼓動を数えて、彼女は薄く瞼を開く。

 覗く瞳はまだ迷いに揺れていたが、それでも晴れ渡っていた。

「わたし、カナタさんと離ればなれになんてなりたくないです。まだまだ知りたいことも、してみたいことも山ほどあって……何より」

 小さな彼女の拳が握りしめられて軋み、そして開かれ、カナタが見ているはずの方角へと向けられる。

「みんなと、触れ合いたい。わたしがこれまで一緒に過ごしてきた人がどんな背丈の人なのか。手の感触はどうなっているのか。どんな匂いがするのか。他の人の体温って、どれだけ温かいものなのか」

 とうとうと語り出したアステルに初めてカナタは彼女が抱えてきた孤独を知る。

「そうなのか。だよな。お前、一人でその島に住んでるんだもんな。誰かと触れ合いたくだって、なるよな」

 カナタですらそう思うのだから、この世の人間全てを愛していそうなアステルならば尚更にそう強く願うだろう。カナタたちの会話を端から聞いているしかないのはさぞかし寂しかったはずだ。

 一人しみじみとしているカナタにアステルは微苦笑を浮かべてからはにかんで、少しだけ口ごもる。だけど黙ったままでもいられなくて彼女はカナタにこう伝えた。

「そんな他人事みたいに言わないで下さい。わたしがまず、誰よりも触れてみたいのは……カナタさん、あなたなんですから」

「は?」

 間の抜けた返事をするカナタにアステルはどこか恥ずかしげな、しかし隠すことのできない喜びがくすくすと笑い声として漏れ出す。

「あなたは、こんなことを言ったら否定するかもしれませんけど、初めて出会った人がカナタさんで、わたしは良かったと思っています。人間の良いところも不器用なところも全部学べて……その全てが愛おしいと思えた」

 屈託のない笑顔でそんなことを言うものだから、もはやカナタには苦々しく笑いを返すことしかできない。そんな彼の反応を見透かしながらもアステルはやはり満面の笑みで、ぽつりと呟いた。

「カナタさん。わたし、分かったことがあります……いいえ、ずっと前から分かっていたけど、今になって認められたことがあります」

「なんだ?」

 カナタに聞かれてもすぐには答えずアステル瞼を閉じたまま答えを反芻して、それでもこれが正しいのだからと口を開く。

「これまでは自分の使命だから、生まれてきた理由だからとわたしの敵に立ち向かえば良い。そう思ってきました。だけどそれは間違いで……わたしは、わたしの大切な人を守るために戦いたい」

 その宣言の意味にカナタも遅れて感づき、しかし横やりなど入れられるはずもなく耳を傾ける。

「わたしの敵を放置していたら、わたしの大切な人が傷ついてしまう。さっきだってカナタさんは大惨事に見舞われかけた。わたしはそんなことを見過ごせない。傷ついて欲しくないから。だからわたしは戦いたい」

 或いはここで、詭弁を弄して無理矢理にでも話をねじ曲げてしまえば、アステルを争いから逃すことだってできたのかもしれない。だがそれはあくまでも可能性の話でしかなかった。

 止められない。

「カナタさん、わたしはわたしの大切な人を守りたいんです」

 今度こそ真っ直ぐに晴れ渡った眼差しで、心からの願いを口にする彼女を、カナタはどうしても止められなかった。

「それがどれだけ大変なのか……」

「分かってますよ。だけど立ち止まったりなんてできません。わたしが諦めれば、カナタさんたちの過ごす世界が壊されてしまう。そんなの、わたしには絶対に認めたくない!」

 言い切るアステルのどことなく柔らかな面立ちが今は引き締められている。彼女の話すことは正論である以上に、その願いが本物であることを物語っていた。

「……分かったよ。俺も協力する」

 そう言う以外に何ができたというのだろう。カナタは苦々しくもその宣言をしかと伝えて、しかしすぐさま声の調子を翻した。

「だから、絶対に戻ってこいよ。それが交換条件だ。仮想空間の名前を考えるのも、お前が戻ってきてからだ。絶対に帰ってきて、約束を果たせよ!」

 勢い込んではっきりと一言一句言い聞かせる。間違っても聞き逃したなどとは言わせないように。

 その意気込みにアステルは狼狽えて、それでも嬉しそうに最後は微笑んだ。

「あはは……分かってますよ。わたしだって戻りたい。あなたと一緒に過ごすためにわたしは立ち向かうんですから。だから……」

 表情は緩やかに静まっていき、透徹した決意だけが晴れ空色の瞳に残る。

「――わたしと一緒に戦ってください」

 そこからはもう言葉は要らなかった。

 助けたい本心と誤魔化し切れない躊躇いの狭間で、カナタは歩を進める。

 カナタはこれまで触れずにいたケーブルを手繰り寄せ、接続することで返事に代えた。それまでネットワークから孤立して、それ故に保たれていた安寧が崩されていく。

「今、繋げた。もう相手の方からもお前の方からもアクセスできるはずだが……どうやるんだ?」

 カナタは、というより人類は悪性新生物がどうやって他のコンピュータを浸食しているのか理解もできなければ表現もできない。そのやり方が分かるのは悪性新生物か、そこから生まれたアステルより他にはいなかった。

「実はわたしにもよく分かってはいないのですが……どのみちわたしに触れられる範囲は限られています。えぇと、ですので……」

 アステルは言い出そうかと躊躇って口ごもる。何を悩む必要があるのだと苛立ち、カナタは少々荒々しい口振りで言い放った。

「お前の敵がいるコンピュータをそこに取り込むんだろ? 確かに厄介なものを引きずり込むことにはなるが……お前が仕事を完遂すれば問題はなくなる。迷ってる暇があるんなら、やるべきことをやれ」

 どこまで言っても突き放すようにぶっきらぼうな言い回ししかできないのがカナタだった。

 いい加減にその辺りのことも折り込み済みのアステルは笑顔を輝かせて頷き、勢いよく立ち上がる。それから思い立ってタブレット型の内と外を繋ぐ端末を抱えた。

「そいつはそっちとこっちの視角を繋げる媒体だ。音声ならどこにいても届くし、持って行っても大した役割は果たさないはないぞ」

「それでも、カナタさんからはわたしが見えるんですよね? だったら十分です。見守って貰えてるんだって思えたら、それだけでも力になりますから」

 本音を言えば、普段は一人で行動しがちなカナタには誰かが見守ってくれることに価値なんて見出だせなかった。それどころか平時ほどの力さえ出せなくなる気がする。

 それでもアステルが言うのであれば、こんな他愛ない遣り取りにでも未来を切り開く力があるのではないか、と素直にそう思えた。

「この期に及んで止めはせん。やりたいようにすれば良い。ところで、俺が手伝えるのはここまでなのか? まだ頼みごとがあるなら聞いておきたい」

「頼みごと、ですか……そうですね……」

 俯いてアステルは何度か口を開きかけ、その度に苦いものを飲み下す。葛藤しているらしい、とカナタにも察せられる苦渋を振り切って、最後に彼女は顔を上げた。

「ありません。わたしが完璧に一人で終わらせてきて見せます!」

 わざと勇ましく、普段の彼女が使わないような言葉遣いで宣言してみせる。その表情はしかし、いつもの優しげな微笑みのままだった。

 そんな強がりを言葉通りの意味に飲み込んでしまえるわけもない。

 他愛のない想像が幾つも過ぎ去り、それらを踏まえてもなお、しかしカナタにはこれしか言えなかった。

「分かったよ。俺はお前の決断を尊重する。お前の大事なものを掴み取ってこい」

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