第11話

「……っ、ふぅ。さすがに重量があるな」

 自宅の前に停められていた天田の自家用車のトランクにカナタは自分のコンピュータを詰め込んでいた。

 絶滅していなかったことが驚きの赤い車体のクーペは贅沢にも出回らなくなったガソリンを燃料としている。エンジンを制御するマイクロコントローラーが取り付けられてはいたが完全なオフラインであり、悪性新生物に毒された心配はないとのことだった。

「仕舞えましたね。では助手席にどうぞ。時間がありません。急ぎ出発しますよ!」

 天田は運転席に座したままそう声を張り上げる。言われるまでもなくカナタもトランクの蓋を閉めると小走りで車に乗り込んだ。

 車は既にエンジンがかかっており、低く唸りながら車体を震わせている。

「飛ばしますから、シートベルトはしっかりと締めましたね?」

 それは問いかけてと言うよりも確認でしかなかった。カナタの方に目を配ると返事も待たずにクーペは細い路地へと滑り出してしまう。

 些か慌て過ぎた様子の天田に目を見張りながら、カナタはトランクの中身を案じるしかなかった。

 クーペは人目を避けるように裏道ばかりを辿りながら、やがて山々の合間を田舎道の入り口に出る。初めの頃は両脇を田圃が囲っていたが次第に林に覆われ、上下左右にうねった道路の続く山道へと移り変わった。

 すっかり薄暗くなった辺りにはガードレールと無数の樹木しか見出せず、照らし出せない夜陰は果てしない。

「しかし、ぎりぎりのところで君たちの協力を取り付けられて安心しましたよ。本番はまだまだこれからなんですがね」

 それまで押し黙って運転に集中していた天田が突然にそう口を開いた。安心しましたよ、と言っている割には声の調子も風貌も漏れなく草臥れている。

「アステルの奴はともかく、俺がどこまで役に立てるのかまでは何とも言えませんがね……今更なんですけど、俺までついてきて良かったんですか? 例の癌細胞を止めるのに必要なのはアステルだけですよね」

「ですが、そのアステルくんを誰よりも長く観察してきたのはカナタくんですよ。そして彼女の力を十全に発揮させられるのは君しかいない。君よりアステルくんに理解のある人間など私どもの中にさえいないのです」

 天田の口調は淡々としていて、世辞を述べる人間のそれではない。

 恐らくじっくり時間をかければ優秀な研究者たちはカナタが思い至らぬ深みまでアステルを調べ尽くせる。切迫した状況だけがそれを許さなかった。

 だけどもし、悪性新生物の侵攻が遅ければ。研究者たちに余裕があったのなら。

 否、この事件が解決してしまえばいずれは。

「俺なんかに……」

 カナタに、アステルを委ねる意味などなくなる。

 声が、喉が震えているのは自覚していた。それでもまるで抑えが効かなくなっていることには気づかなかった。

 天田の手が置かれるまでは。

「言い忘れていたことがあります」

 彼はカナタの肩を叩いた手をハンドルに戻して、おもむろに何やら語り出す。

「これまでの私の行動は全て独断によるものです。君をここに呼んだことはもちろん、アステルくんの存在さえ私の同僚たちは知りません。説明している暇ももはや残されてはいませんでしたから」

「それってつまり……?」

 そこで初めてカナタに目をくれると、悪戯っぽく肩を揺らした。

「君からアステルくんを奪おうとする大人はどこにもいないということです」

 そのとき去来した気持ちを一言では表せない。自分の心中を見透かされていた気恥ずかしさ、天田の気遣いに対する感謝、同時にそんな無茶への不安。

 けれども何よりも強く感じ入ったのは――

「俺はあいつとこれからも一緒にいられるんですね」

「えぇ、そうなるでしょう。……願わくは私にも少しばかりの観察を許していただきたいところですが」

 覗いた天田の本音にカナタも吹き出し、それから「もちろんです」と応じた。

 しかしそこで天田が低く声を落とす。

「……ただ」

「ただ?」

「何分私は誰の許可も得ずに動いているものですから

他の研究員は私を探し回っていることでしょう。そして何より……」

 天田は溜め息を挟み、こう続ける。

「君の希望を叶えつつ目的を果たすには、誰に見つからず侵入して捕まる前に脱出しなければなりません。幸いセキュリティは全て悪性新生物が破壊してしまいましたが……覚悟はできていますね?」

 今度こそカナタは笑って応えるしかなかった。

「上等だ。やってやりますよ」

「良い目をしている。それでは手はずの確認をしておきましょう。まず私が先に出て、注意を引きつけつつコンピュータの起動に向かいます。君はタイミングを見計らってから……」

 天田の話を聞きながらもカナタはヘッドライトが切り裂く闇のそのまた向こうを見据えていた。もう逃げ出せない決戦の地を。


「天田さん!? こんなときに、どこ言ってたんだ!!」

 若い男の怒鳴り声が車外から響いてきた。座席の奥の暗がりに身を潜めていたカナタはじっと耳を傾ける。

「なに、大したことではないのですが私なりに解決策を模索しておりまして……ここで話すのは少しはばかられます。休憩室にでも行きませんか?」

 二人の間柄は推察するに、天田が若い男の上役に当たるようだった。部下に対しても天田は敬語で、ただし主導権を握り会話を進めていく。

「えぇ、そこでゆっくり話して……いえ、その前に立ち寄らねばならない場所があった。少し付き合って頂きましょう」

 天田は短く話を纏め上げると部下をどこかへ引き連れていった。

 こうして天田に注意を引きつけるのが計画の第一段階だった。

 カナタは暗闇の中から頭を擡げると、素早く車窓の外を見渡す。金網に囲われた施設のそれほど広くはない駐車場に人がいないことを見定めると静かにドアを押し開いた。 夜明けには少し早い暁天の下だと視界が効かない。カナタ自身も暗色系の出で立ちで、見つかるとは思えなかったが油断もできない。

 速やかに車体後部へ回り込むと予め手渡されていた鍵を使ってトランクを解錠した――途端、シリンダーの回る音が夜闇に響き渡る。心臓が捻じ曲がって肩が跳ね上がり、思わず額に脂汗が滲んだ。

「……気づかれてないよな……?」

 押し黙って胸の内で十秒数えながら辺りに耳を澄ませる。虫の鳴き声しか聞き取れないと胸を撫で下ろし、僅かにトランクの蓋を持ち上げた。

 完全に開き切らず蓋を片手で支えながらトランクの中に身を乗り出す。まずアダプターやコード類が詰め込まれたリュックサックを引きずり出して背負い、それからコンピュータのケースを手繰り寄せた。

 片手でどうしても時間を要したから音を立てないように細心の注意は払い、膝を支えに抱え上げるとトランクの蓋を閉じる。そして施錠もしないまま車の物陰にしゃがみ込んだ。

 不安定だった体勢を整えていると自分の呼吸する音すらうるさく感じる。両手に抱え直したコンピュータのケースは冷たくて胸に当たると鼓動が鈍い痛みを刻んだ。

 この施設の監視カメラ類は漏れなく機能を喪失している。緻密なネットワークを構築していたことが災いし、悪性新生物が一網打尽にしてしまったのである。

 加えて元々セキュリティを機械に任せていたばかりに警備員の巡回は穴だらけとなっている。夜明け前ともなればそれ以外の人間も寝付いてしまうため、カナタの侵入を阻めるものはいなかった。

 尤も眠気に襲われているのはカナタも同条件だ。しょぼつく瞼を二の腕に押し付けて拭い、物陰から顔を覗かせる。

 暗闇に茫洋と白い建築物が浮かび上がっていた。

 一度深く腹を膨らませて息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出す。夜気の冷たさに肺が縮み込んで、胸が酷く締め付けられる心地を味わった。

 心づもりも覚悟も完璧とはいかなかったが、それでも一カ所に留まっていられるのはここらが限度だ。踏ん切りをつけ、車体の影から一思いに飛び出す。

 この施設の母屋まで、距離は十メートル程度。

 息を止め、薄闇に包まれた遮蔽物のない駐車場を音もなく駆け抜けた。

 建物に近づくとしゃがみ込み、背中から白く塗り立てられた壁に張り付いて息を整える。激しく出入りする吐息は喉の奥を痛めつけたが、それに勝る緊張が感覚を研ぎ澄ませた。

 音沙汰がないか付近に目を配り、僅かな物音を聞きつけてじっと息を潜ませる。

「天田さん……状況が分かってるんですか? お上はもうかんかんですよ! 今朝もかたっ苦しいスーツを着込んだ役人が押し掛けてきて! 散々何度も、どうにかならないのか! って……」

 窓を開く音に続いて、響いてきたのはそんな糾弾の叫びだった。後半は単なる愚痴にしかなっていないが、それは本来なら天田が背負うべきだった責任の重さを物語っているのかもしれない。

「悪かったとは思っていますよ。それでも私なりに解決策を模索していたら君に任せるしかなくなったのです。君を信頼しているからこその任せられたのであって……」

「そんな甘言には騙されませんよ。天田さん、いつもそうやって事務仕事ばかり押し付けてくるじゃないですか」

 想像した通りで、天田の部下には同情したくなる。しかし、だからといってカナタに何ができるわけでもなく、再び窓が閉められるまでの間、天田の職場事情に辟易していた。

 話し声が聞こえなくなると僅かに腰を浮かせ、屈んだ姿勢のまま前進を始める。壁沿いに建物の周りを半周して、たどり着いたのは天田から教えられていた裏口だった。

 非常口、赤い文字で示された金属製の扉には認証用のパネルが取り付けられていたが、機能はしていない。残る物理的な施錠も、天田から預かった鍵で難なく突破した。

 無事に不法侵入を果たし、見通そうとした通路は深い闇に満たされている。その横幅はせいぜい大人二人がすれ違える程度で施設の規模の割には狭い。

 カナタは足早に、事前に教え込まれていた道順を辿っていった。

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