第10話
自室の扉を開けると待ちかまえていたサビ柄の子猫が足にまとわりついてきた。トラ柄の方は相変わらず、即席の寝床で身を丸めている。
相変わらず正反対な気質に苦笑し、だけどその笑みを名付けてやれていない後ろめたさから打ち消した。本当なら今からでも考案すべきところだが、差し迫った時間がそれを許さない。
足下に気をつけつつ、カーテンの隙間から細い日の差し込む部屋を横切った。仄かに明かりを灯したディスプレイの前で立ち止まって、そこへ投げかけるべき挨拶に詰まる。
出会った日から声を交わせる距離にいるのが当たり前で、たった半日離れるのもこれが初めてだった。だから距離感が掴めず、最後にはぎこちなくありきたりな文句を口にする。
「……ただいま」
その声で、たった今気づいたと言わんばかりの仕草と共に空を見上げていたアステルの横顔がこちらへと傾いた。
「おかえりなさい。無事で良かった……カナタさん」
微笑むのと同時に柔らかな長髪が幾筋か肩から垂れる。
カナタの筋張っていた肩や背中から急激に力が抜けていった。両親とも帰りの遅い彼にとって小学生以来の遣り取りなのに、安堵さえ覚えて椅子に身を沈める。
「心配したってのはこっちの台詞だ……というか、どうしてまた森の中なんぞにいる?」
仮想空間の山林は外の時間を反映して薄らいだ日光のほとんどを枝葉と幹が遮っていた。そこだけ夜を先取りしたように鬱蒼と茂る樹林が闇を抱え込んでいる。
そうして生まれた暗闇にただ一カ所だけ、温かくも力強い黄金色の夕明かりを湛える円形の大地があった。より正確には巨大な構造物の名残として鎮座するそこにアステルは後ろ手をついて腰を下ろしている。
「ここは苔がふかふかで絨毯みたいだから、座り心地が良いんですよ。……あと寝心地も」
要するにアステルの昼寝スポットなのだとカナタは解釈した。しかし、それでもまだ引っかかっている。
「本当にそれだけか? だって、そこは俺たちが……」
カナタが全て声に出してしまう前に、アステルは苔の隙間から覗く木目を指でなぞって「はい」と頷く。
「ここはわたしたちが初めて出会った場所……わたしにとっては初めて明確な意識が目覚めた場所でもあります。切り株の上で誕生したって、何だか昔話みたいじゃないですか?」
流れ星から生まれた事実の方がよほど神秘的で夢想めいていると思ったが、敢えて口にはしなかった。その切り株が単なる樹木の残骸でないことをカナタは知っていたから。
「その木は……もう切り株しか残ってないが、元々は仮想空間で初めて育った植物なんだ。いろいろと試している内に少し調整をしくじってそんな大きさになって。その頃は俺もまだ手探りの状態だったからな」
「ということは、この木はわたしがいるこの島にとっても始まりの場所だったんですね。昔話というよりは神話みたいです。この星の創世神話ですね」
静謐な面持ちで、そんな台詞も本心からアステルは口にしてしまう。
「そこまで大げさなものでもないだろう」
カナタは喉で笑ったものの、悪い心地はしなかった。
「まぁ、他の植物の生育を妨げたから、最後には切り落としてしまったんだがな」
「それでも切り株は残したんですね?」
「山を中心に島全体へと根が広がっているんだ。それを安易に消去したらどんな影響を及ぼすのか、俺にも予測ができない」
地盤沈下程度ならまだしも、大規模な土砂崩れが多発すれば対応は追いつかなくなる。最悪の場合、一から島を作り直す必要にだって迫られたかもしれない。
「知りませんでした……そんなに大事な場所だったんですね」
「別に保護しているわけじゃないし、ただ朽ちていくに任せているだけなんだがな」
カナタが素っ気なく返すとアステルは黙して再び、苔生した大樹の断面を撫でる。指先の感触に捜し物を求めるような仕草が数回続き、やがて満足したのか空へと目を戻した。
宵が迫り、夕映えが血の色で世界を浸してもアステルの瞳は移ろわない。透き通った膜の内側だけに高らかな蒼穹を宿していた。
「……カナタさん」
「どうした?」
アステルはカナタの正面に向き直ると正座になり、深く頭を下げてこう懇願する。
「実はカナタさんに一つ頼みたいことがあるんです。きっとこれがわたしからの最後のお願いだから」
「交換条件だ。俺の頼みを聞いてくれるなら、お前の願いも聞いてやろう」
アステルとの会話ですっかり和んでしまったが、カナタは天田を家の外に待たせていた。羽を休めるにしてもそろそろこの辺りが刻限だ。
「まずはお前の頼みとやらから話せ」
その提案がアステルには予想外だったのか、ひとときカナタの表情を窺った。しかしすぐさま笑顔を綻ばせ、首肯する。
「分かりました。では、わたしの頼みからお話しします。実はこれから、わたしは自分の使命を果たしに行こうと思うんです。カナタさんにはそのお手伝いをしてもらいたくて」
「使命? また何かを思い出したのか?」
物々しいその単語にカナタが狼狽えるとアステルは俯いて、しかしまた決然とした面持ちで彼に向き直る。
「カナタさん。あの車が飛び込んできたのも、通信が途絶えたのに原因があります。全て、わたしの片割れのせいなんです。わたしを生み出したおぞましいものが、あなたの住む世界を蹂躙しているんです」
それが天田たちに癌細胞や悪性新生物と名付けられたものであることは疑いようがなかった。
「気づいていたのか。いや、お前の場合は思い出したって方が適切か?」
「どちらとも、です。電車が止まり出してから少しずつその存在を感じ出してはいました。どこか自分によく似ていて、だけど決して相容れない何かの存在を」
今朝、カナタが冗談のつもりで、電車を止めた犯人がアステルなのではないかと口にしてみた。下らない軽口だとは彼女も理解していただろうに見せたあの狼狽。あからさまに思うところがある様子だった。
あの時点でアステルは暴走する悪性新生物の存在に薄々感づいていたのだ。
「昼間の車が飛び出してくる直前に、ようやくその正体が掴めたんです。相手がしようとすることも理解できたから、咄嗟にあなたをあの場から退避させられた」
その説明にも矛盾はない。アステルの鬼気迫る指示がなければカナタは自動車の落下に巻き込まれていてもおかしくはなかった。
「ですから」
以上の話を総括するべくアステルは青い瞳にカナタを透かす。
「そうしたことを踏まえてカナタさん、わたしはあなたにお願いしたいんです。ここは敵の本体から遠過ぎます。わたしち力が届かないんです。でもわたしは自分で移動できないから、そこまであなたに連れて行ってもらいたい」
「…………」
これから行おうとしていたことが、全てアステルの口から語られていた。
現在、軒並みの通信施設は悪性新生物に掌握されている。遠方からでは悪性新生物が住まう設備に接続することすら叶わないのだった。
だが天田の手を借りればその施設にも問題なく入り込める。
「分かってるよ。これからそのコンピュータごとお前をそいつに一番近い場所まで送り届ければ良いんだろう?」
さすがに物分かりが良過ぎたらしく、アステルは頷きながらも苦笑していた。
「もちろんです。だけどカナタさん、どこまでお見通しなんですか? もしかして聞く前から、わたしの頼み事も分かっていたんじゃ……」
「さてな。どうだか」
冗談めかして肩を竦めて見せたら、やっぱりアステルは可笑しそうに微笑むのだった。
「もう! あと少し、ご自分のこととか話してくれたって良いでしょうに」
そこに僅かながら恨めしさが入り交じるのは幾らかカナタの気のせいでもあった。
「悪いな。物心ついたときからこういう性分なんだ。変えようったって、そうそう変わらない」
「知ってましたよ。今更ですし。それより、わたしからのお願いはこれで以上です。だからカナタさん。次はあなたの頼みごとを聞かせて下さい」
言われるまで、正直カナタは失念していた。
カナタの方からは天田の依頼を受けてくれないか訊ねてみようと思っていたのだ。それが彼女の方から打ち出されてしまったのだから、よもやカナタに頼むべきことなどあるはずがない。
そのはずなのにカナタは全く異質な願いを欲していた。
それを叶えるために頭を巡らせ、記憶をひっくり返し、自身の願いをこじつける。
「なぁアステル。お前まだ仮想空間の名前を決めていなかったよな? だから俺の願いはそれだ。お前の件が済んだら、その空間の名前を決めて俺に伝えろ。嫌とは言わせないぞ」
突拍子もなくてさしたる重要性も感じられない、ひとまず口にしてみただけの願い。本当に伝えたいことを仮託しただけの願いごとだった。
それでも、アステルは頷いてくれると信じて。
「そうですね。もう以前から、約束していたんですから。きっと……いいえ、必ずあなたに伝えます」
決意で凝り固まっていた彼女の雰囲気がその瞬間だけ柔らかに崩れた。
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