第8話
日を跨いでも結局、電車が動き出すことはなかった。これまで通りに学校も休み。いい加減に教師らは補習授業の計画を立て始める頃合いだろうから喜びよりは溜め息が溢れ出る。
どうにも報道機関の動きも鈍く、目新しい情報は上がらない。アステルも昨日から深刻そうに顔をしかめたままで、暇を持て余したカナタは膝の上の子猫を弄くり回していた。
サビ柄のそいつは甘えたがりでさしものカナタも愛着が湧いてしまう。シロコに言われるまでもなく名前も与えるつもりでいたのだが、これといった妙案はまだ浮かんでいなかった。
やはり、アステルに相談しようか。
そんなことを考える自分に気づいてやるせなさに蝕まれ、いつものチャットを開く。もし他に話し相手がいれば気も紛れるのではないかと、安直な思いつきのためだ。
しかしそこは利用者が極端に少なく、管理人かカナタの同類ばかりが月に何度かの遣り取りを交わすだけの場所だった。一時期はカナタから繰り返し管理人に教授を請うこともあったが、仮想空間が完成した今、その会話もほとんど途絶えている。
だから、めぼしい書き込みなど早々見当たらないだろうと期待はせずに置いたのだが、それでもアステルのことがあり、気がかりでサイトを開いたカナタは凍り付く。
『以前、ここで私に質問していた方などは、心当たりありませんか?』
確かにそう記されていた。このチャットの利用者は少ない。その中でも管理人の話に興味を持ち、質問していく輩はさらに絞られる。もちろん、それがカナタだという保証はなかった。それでも管理人の候補にぐらいは上がっているだろう。
「……こっちも無視はできない、よな」
カナタにとって、その管理人は尊敬すべき師匠であり、なおかつ夢を与え、その成就にも協力して暮れた恩人でもある。無視するのは心苦しかったが、ただ一つだけ些末ながら重大な懸念があった。そのせいで黙っていようかとも迷っていたのだが。
「あーっと……なぁ、アステル? 考え事の最中に悪いが、少し相談したいことがある」
「……はい? どうしたんです?」
案外、思索の世界からあっさりと帰還した彼女がカナタに目線を返してくる。それに頷き掛けると、言葉に迷い、二の足を踏みながらもカナタは応じた。
「落ち着いて聞いてくれ。昨日の管理人の話……もしかしたら該当するのは、俺たちなのかもしれない」
「つまり……その人は、わたしたちに会いたがっているんですね?」
「もしかしたらな。或いは、そうなのかもしれない」
しかし話が厄介になるのは、ここからだった。
「ここからはある程度は俺の推測混じりになるが、あの人はアステル、お前の出生に関わっている。でなければ、あんな書き込みはしない。あの人はお前の存在を知っているんだから」
彼女の存在に気づいている。それだけでも関係者だと断定する証拠としては十分だった。アステルはこれまで一度たりともその存在を確認されなかった、電子の意識なのだから。
「さて、本題はここからだ」
椅子にしどけなく背をもたせ掛けていたカナタは、そこで居住まいを正し、アステルを見据える。緊張は彼女ちも伝わり、その薄い唇が引き結ばれて微かに鬱血した。
「お前は自分が俺に話した、自我が芽生えるまでの話を覚えているな?」
「はい。傍に気持ち悪いものがあって……って話ですよね?」
「その通りだ。あの話によれば、お前はその気持ち悪いものから逃れようとして自我に目覚めた。そしてあの人がお前の誕生に関わっていたら、その気持ち悪いものはあの人の手元にある可能性が高いんだよ」
果たしてそれが、人の手で所有できるような代物なのかは定かでないが、身近にあるのは確実と言えた。
「そして、お前は研究者からすると垂涎ものの観察対象なんだ。あの人はお前を取り戻すつもりでいるかもしれない。もしそうなったら、お前の行き先は……」
そこから先はもう言葉を継がずとも、アステルだって思い及んでいた。そのことをカナタは合わせた目から察し、その怯え切った瞳に続きを語れなくなる。
「わたし、また元の場所に引き戻されるかもしれないんですね」
敢えて迂遠な表現で彼女は言い表した。しかしその目はまだまだ恐怖から抜け出せていない。
正直なところ、カナタにはアステルの恐れる『気持ち悪いもの』の禍々しさが未だに察し切れていない。それでも振りかざされた刃を見上げるような恐怖と、他では決して見せることのない嫌悪感なら伝わってきた。その異常性は肌を削りながら染み込んできて、ともかく忌むべきものだという認識をカナタにもたらす。
「そうだ。だから俺は必ずしも連絡を取ることが最善の選択肢だとは思っていない。お前の判断を加味した上で――」
「――やります!」
高らかに宣言した彼女の瞳は今日も澄み渡り、どこまでも見通せてしまえそうだった。だけどその底は奥深過ぎて、どれだけ目を凝らしても覗けない。
「良いのか? 言っておくが、俺にだって実際に会ったらお前がどう取り扱われるのか分からないんだぞ。どうにかお前のことを誤魔化せるのかも……何とも言えない」
連絡を取った時点でそれらしい存在と接触したことは明かしたに等しい。だとするならば、それが勘違いだったと思い込ませる必要が出てくるかもしれなかったが、考えるまでもなく難しい立ち回りが要求された。
「それに相手は研究職か……そうでなくとも、知識欲と好奇心の塊だ。万が一、相手の手元に渡れば散々に観察されるだろうし、実験の対象にだって……」
熱心に引き留めようとしている語り口調を自覚し、カナタは硬直する。喉の奥から漏れ出した吐息を噛み切り、居心地悪く視線を傍らに投げた。
「まぁ……何だ。お前はそこら辺、よく考えて結論を出したのか?」
問いかけてやるとアステルは「少し、決心が揺らぎました」と返してくる。
「またここに戻れなくなってしまうのは……寂しいですね」
ぽつりと机の上に落ちた呟きは掠れた響きで、カナタの注意を惹きつける。
「だったら……!」
再びアステルに向けられた眼差しを、揺るぎなく力強ささえ感じさせる微笑が出迎えた。
「気になることがありまして、もしその方が何かご存じなら、お訊ねしたいんです」
打ち明けられて、そうだった、とカナタは口を噤んでしまう。自身の浅慮を思い知って、それ以上には言葉を継げなくなる。
アステルには記憶がなかった。自分が何者なのかさえ、彼女は覚えていないのだから。
「そりゃまぁ……気になるよな。俺だって、昔のことを忘れたまま平然としてはいられないだろうし」
「あっ、あの、違いますよ! いえ、やっぱり違わないのかもしれませんが……わたしが知りたいのは、自分の正体じゃありません」
椅子から飛び跳ねそうな勢いのアステルに言われて、カナタも戸惑う。
「だったら……何のために?」
無意識に口にしていた問いは、だからこそ本心に忠実だった。やや責めるような口調のそれにアステルは却って表情を和ませ、ふにゃりと相好を崩す。
「決まってるじゃないですか。それは、それは……」
しかし彼女は俯いて暫し、その目元を柔らかな前髪で覆ってしまった。淡く光を発するようなそれが晴れたらまた決意漲る双眸にカナタの仏頂面が映り込む。
「わたしが生まれたとき傍にいた、あの嫌なもの。あれがどうなっているのか、今も動いているのか、どうしても気がかりなんです。もしまだ生きているようなら、わたしがどうにか止めてしまいたい」
「何だか、お前にしては随分と物騒な物言いだな」
率直な感想を言うとアステルは照れ臭そうに苦笑する。
「何でこんなに気になるのか、わたしも分からないんです。だけどともかく放っておきたくない」
宣言するアステルはそれでも気丈そうで、普段よりどことなく硬質な態度だった。
「まぁ、お前なりに事情があることは察せたよ。良いだろう。連絡してみる」
久しく使っていなかった自転車は、潤滑油を差してもペダルを踏み込む度に悲鳴を上げた。出不精のカナタも同様に疲弊しながら、錆び付いたそれにしがみつく。
「ペダルが固い……たかが二年で、ここまで動かなくなるもんなのか」
「わたしが思うにはカナタさんの運動不足も関係していると思うのですが……」
「知るか!」
理不尽に喚き散らしてもただただ喉が枯れ果てるばかりだった。頂点を通り過ぎたのに緩まない日差しから目を逸らそうとして、うなだれる。
「家からここまで、どれだけ距離があると思ってるんだ……」
「ポケットの中からだとあまり距離は実感できないのですが、そろそろ出発してから一時間になります。少しペースが落ちているようですし、休憩を挟んでは?」
「いいや、どうせもう少しなんだ。ここまで来れば走り切る」
住宅地の中を抜ける道路から見上げた空には、自動車の行き交う高架が走っていた。そこが境界線となって家々は途切れ、代わりに家電量販店や大規模な公衆浴場といった大型の商業施設が点々と立ち並ぶ。
その中に混じる所謂『道の駅』が、ある人と約束を取り交わした待ち合わせの場所だった。
「それにしても連絡を取ってから返信が来るまで、早かったですよね」
「通知が来るようにでも設定していたんだろう。それより連絡を試みたその日の内に待ち合わせまですることの方が驚きだ」
今日は土日でも祝日でもなく、大半の人間は学校か会社で過ごすありふれた平日だった。よほど暇なのか、さもなくば変則的な生活を送っているのか、社会から外れた時間を生きる人物であることは間違いない。
「カナタさんよりも自由人なんですね!」
「誰が自由人だ。俺は常識の範囲内で活動している。……平日の昼間から呼び出してくるあの人に関しては、何とも言えないが」
そこで一旦会話が途切れ、カナタは黙々と自転車を走らせることに集中した。
彼が今走る歩道の隣、二車線ある車道は目に見えて空いていた。時折疾走していく非自動運転車とどこかの店から垂れ流される音楽がいやに気に障る。
そんなことを考えている内に高架目前の十字路で信号に捕まり、カナタは通信端末(リンクス)を引っ張り出した。
「どうかしましたか?」
画面の中に顔を出してくるアステルへ、カナタは素っ気なく「大したことじゃない」と肩を竦める。
「ただ少し気になることがな」
半ば独り言のように呟き、新しいニュースを確認しようとして。
――大地が震えた。
そう感じたのは頭上から響き渡る音のせいだけでもなかった。
断続的に衝突音と、そこに纏わる衝撃や甲高い金属の悲鳴が鼓膜を削り取っていく。その間隔は徐々に詰まり、最後には一続きの轟音となって耳から脳へと貫いていった。
聴覚が急速に失われていく世界で、車のクラクションに紛れて鋭い声が飛ぶ。
「カナタさん! 走って! 橋の下まで!!」
一瞬、橋が何のことか分からず、そしてまだ目の前の信号が赤だったためにカナタは戸惑った。
だが見下ろした端末の画面から更迭さえ穿てそうなアステルの視線に射抜かれる。その普段からはかけ離れた気迫がカナタを突き動かした。
「もう――――どうにでもなれッ!!」
咄嗟に自転車のままでは走り出せないと判断したカナタは飛び降りて倒れかかる自転車を後ろ足で蹴り飛ばす。その勢いを利用して初めの一歩、そこからは無我夢中で手足を振り乱した。
その最中に頭上で何かが打ち破られ、引き裂かれながら一際高く掠れた叫びを上げる。
振り返ると空が遮られ、高架から飛び出してきた物体が、道路の向かいに聳えた電柱をへし折るところだった。その勢いに振り回され、弧を描きながらも自重がその物体を地に引きずり落とす。
電柱に衝突した影響か速度が弱まっていたらしく、投げ出された自転車の傍に頭から突っ込みアスファルトを粉砕した。ともすれば足が浮き上がりそうな衝撃にカナタは歯を食いしばって耐える。
その巨体が地面に突き刺さった、かのように見えたのはそのフロント部分が半ばまで潰れていたからだ。縦にひっくり返ると軽く跳ねて、軋む車体は緩く回転しながら停止する。
抉れてめくれたパーツや剥き出しになった内部の構造は次第に黒煙を纏うようになり、爆発を恐れたカナタは忽ち後ずさった。そこで荒い息を整えながらカナタは、目の前の状況を整理しようとする。
「く、車が落ちてきた……?」
どうしてこんなことに、と端末に語りかけようとしたカナタは暫し画面に目を落としたまま固まる。
「おい、アステル?」
呼びかけてもも黒く塗り潰されたウィンドウは、そこに映っているはずのどこかあどけない容貌はカナタに応えてくれなかった。その言い訳のように通信が途絶したという簡素なメッセージが表示される。
たったそれだけのことなのに。
体の芯から底冷えしてきて、独り佇んでいることもままならなくなった。
急に世界が遠のき、自分だけが取り越されていく感覚に肌を蝕まれる。
「……何やってるんだ、俺は」
馬鹿なことを考えるなと自身を叱りつけて、気を抜けば薄らいでいってしまいそうな意識を繋ぎ止める。浮ついていた足が地べたの感触を取り戻して、幾らか気分が和らいだ。
それから改めて前方を眺めても動悸はぶり返さない。
潰れた鼻先から煙を上げる自動車だったが、その動力は電気でしかなかった。ガソリンが用いられていないのだから、大規模な爆発も炎上もあり得ない。
ならばひとまず事故車から怪我人を助け出さないと。
はやる気持ちを押し殺してカナタは通信端末から病院に救急車を要請しようとする。しかし何度緊時用の番号を入力しても通話は成立する前から途絶し、まるで繋がらなかった。
「くそッ!」
思わず投げ捨ててしまいそうになった端末をカナタは乱雑にポケットへ押し込む。
それから車の往来に用心しつつ車道を横断した。事故車に近づきながら何度も声を掛け、返事がないか耳を澄ませる。
「――れっ! ……られ……んだ!!」
エアバッグにでも口元を圧迫されているのか、くぐもってはいた。それでも期待していた以上の威勢はあって、強ばっていた肺から緩い吐息が漏れ出してしまう。
「引っ張り出したら死んでいた、ってことはなさそうだ」
皮肉ぽく言ってしまいこんだ端末に目を下ろし、溜め息をこぼすとドアに近づいていった。
そうやって手を差し伸べることを習慣づけさせた少女に、カナタはこんなことを思ってしまう。お前が背中を押してくれたなら、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます