第7話
「……あぁ? 久々に更新が……」
ふと気になって覗いたチャット。長らくその投稿が途絶えていたそこに、ごく最近管理者による書き込みが為されていた。
「と思ったらそこそこ前の日付だな。最近は忙しかったから……見落としていたか」
シロコ宅を訪問してきたカナタは自室のチェアに例の如く腰掛け、弛み切った気分と姿勢でコンピュータに向かっていた。
のんびりと過ごす間に室内は薄暗く沈みいき、ディスプレイの明かりが煌々とカナタの顔を照らしている。西日に染まったカーテンは赤く燃え上がるようだった。
「前々から気になっていたんですけど、そのウェブサイトは一体……?」
カナタの独り言に気を引かれたのか、アステルが仮想空間のウィンドウを表示させ訊ねてくる。当たり前の如くカナタのコンピュータを操ってくる彼女だったが、カナタの方ももはや言及する気もなくなっていた。
「まだ話していなかったか。お前がいるそこを作るときに、このチャットの管理人から指導を受けたんだ」
カナタとて、全くの独学でアステルの住む仮想空間を作り上げたわけではない。一般的でない理論に関しては件の管理人による投稿を参考にし、また時には質問も投げかけた。
「でなければさすがに、一介の高校生でしかない俺にはコンピュータで再現した脳の挙動なんて知りようがないからな。少し前までは頻繁に話を聞いていた」
「なるほど、そんなことが……」
現在のアステルは内装を終えたログハウスで一人、居間の椅子の一つに腰を下ろしている。淡い橙の光に照らされ、揃えた膝の上に両手をついた彼女はテーブルに置いた端末を覗き込みながら小首を傾げた。
「それで、その方は何とおっしゃってるんです?」
「ええとだな、『出会われた方は連絡を下さい』とだけ書いてある」
何のことか、さっぱりだった。『誰と』を意味する目的語が抜け落ちている。
「カナタさんだったら心当たり、あるんじゃないですか? その方の話に注目していたんですよね?」
「とは言っても、俺はこの人がどんな職業で何をしているのかさえ聞かずにいたからな。発言からして、まず間違いなく研究職だとは思うが……」
インターネット上での付き合いらしく、互いに現実の身分は明かしていない。だからアステルが眉を顰めてこう訊ねてくるのも無理らしからぬことだった。
「では、どうしてカナタさんはその方の話を信用したんです?」
「その辺りの説明は難しくてな、信じたっていうよりは……そうだな。憧れた、とでもいうべきか。その人自身だとか、或いはその人の話す、言葉がなくても通じ合える世界に」
シロコとの関係が断裂してからまだ間もなかったカナタにはそれが天啓のように思えた。進むべき道がそこにあると確信さえしたのだった。
「何だか今のカナタさん、楽しそうな顔しています」
不意に、アステルの思案顔が崩れて、目元と頬がくにゃりと弛む。彼女の方こそ楽しそうに微笑みながら、テーブルに頬杖をついた。
「わたしはやっぱり、カナタさんになら分かると思いますよ、その方の真意が。こんなに素敵な場所が作れるようになるまで、その方の話を聞いてきたんですから。思い出して下さい。きっと手がかりはあるはずです」
「何を無責任な……」
悪態をつきながらも言われると記憶を探ってしまう。これまで目にしてきた教えは数え切れず、一つ一つ思い起こしていけば手がかりも掴めるように思えてしまったから。
「あの人が話していたこと、ね……」
真っ先に思いついた、というよりこれに関連しなかったことのない話題と言えば電子の意識に関する仮説だった。偶然ここを見つけて半信半疑ながらもその説に聞き入り、初めて質問を投げ掛けた。
管理人とカナタの遣り取りはそこに始まる。
「確か、人間もそんなふうになれるのか、とそんなことを訊いたのが最初の質問だったな」
「その方は何と返されたんです?」
やたらにこにこと楽しそうにしているアステルに、当時のことを思い出して失笑しながらカナタは語り出す。
「分からない、だとさ。ただ挑んでみる価値はあるってノリノリで考察を始めてたな」
まず対象となる人間の脳のニューラルネットワークを写し取るところから始まるわけだが、当然ながら元の意識が維持されなければ意味がない。でありながら同時に電子の世界へと適応していける環境が必要になるわけで、管理人とカナタはその後も落ち合い、しばしば夜通しで話し込んだ。
「最初は俺が一方的に話を聞いてたんだが、書籍を紹介されて勉強している内にどうにかついていけるようになった。それから議論を重ねて今の仮想空間の骨組みを組み上げていったんだ」
話が一区切りつくとほくほく顔のアステルが堰切って好き勝手言い始める
「その頃のカナタさん、わたしも見てみたかったです! 今みたいに楽しそうにしているところ、あまり見せてくれないんですから」
チャット上でとは言え、ここ数年来で最も多く言葉を交わしていた時期だった。難解ながら心躍る遣り取りで、回想すれば自然と笑みが漏れ出てしまうのだ。
「まぁ、楽しかったことは否定しない。だがその気持ちの悪い笑みは止めろ。俺なんか見ていて何がおもしろい? 少しはお前なりの趣味でも見つけてみたらどうなんだ」
少々苛立たしげに、アステルを突き放そうと言いつけたら拗ねたような声を上げる。
「それは確かに、見つけられれば良いな、とは思いますよ。でも、嬉しそうにしたり楽しそうにしたりする人を見て自分も気分がよくなるのは自然なことでしょう?」
途中からやはり微笑んでそう言うアステルをカナタは素直に受け入れられない。
「お前って本当に他人に構うのが好きだよな……だけど、自分のことについてももう少し真剣に考えろよ? もし仮にその仮想空間が機能不全に陥ったらどうするつもりだ?」
未だにカナタはアステルの正体を見抜けたわけではない。人為的に生まれたのか、自然の作用なのか、それさえはっきりとはしていないのだ。だから時折不安になる。
いつか唐突にカナタの前から姿を消してしまうのではないか、と。
だが当のアステルはいつものどこか抜けている、しかし人懐っこい笑みで真っ直ぐに我が道を行こうとする。
「分かってます……けど、わたしは望まれて生きる存在でありたいんです。だからまずは……そうですね! 自分が力になれる場面を見つけられたら良いなと思います!」
「何だそりゃ。返事になって──」
彼女の騒がしく大げさな反応に文句をつけようとして、カナタは口を噤む。
管理人が言う何者かとの『出会い』。そんなものの相手がいるとしたら。
知らぬ間に閉じていた目をアステルに戻すと、瞳の奥に広がる青空へ意識を吸い取られる。見ていられなくて、カナタは無意識に目を逸らしていた。
「それで、管理人からのメッセージの件だが……悪い。やっぱり俺には分からなさそうだ」
咄嗟に逃げ出す選択肢しか思いつかず、真実に背を向けてしまう。
その不自然さを自覚するあまり咄嗟に弁明を口にしようとするが思い浮かぶ言葉はなく、ただ硬い唇を噛み締めるばかりだった。
その様に何を勘違いしたのか、アステルは慌てて場を取り繕おうとする。
「そんなこともありますよ! 答えるのが難しい問題だってあります! わたしなんて未だに自分の正体が分からないんですから!」
「その件についてはもう少し焦ろよ……」
ほとほと呆れ果てた、と言う代わりに肩を竦めてみせるとアステルははにかむ。
そんな他愛ない仕草を目にしながら、やはりカナタは事実を胸の内にだけにしばらく留めていようと決心した。
まだ別れる心積もりも、失う覚悟もできていない。
しかし翌日の朝、カナタの頭からは管理人のことなど跡形もなく追いやられていた。カーテンさえ開かず、薄暗い部屋でコンピュータに向かっている。その姿を画面の向こうに広がる目映い草原から少女が、カナタの背後からは子猫が不安げに見守っていた。
「電車が止まっている、というのはそんなに大変なことなのですか? これまでにも起きていたことですよね?」
無数に表示されたブラウザのウィンドウとタブの傍ら、カナタの険しい表情に気圧されたアステルが問いかける。カナタは如何にも不機嫌そうな目つきを向けて、それから八つ当たりするような自分の態度に嫌気が差し目を閉じた。
「前に話したか覚えていないが、一日止まっただけでも相当な非常事態なんだ。それが連日、電車どころかバスもタクシーも止まっているなると、さすがに……な。何かがおかしい」
もはや恒例となりつつある休校によって生まれた時間を費やし、カナタはネット上のニュースサイトを片っ端から覗いていた。報道機関だけでなくソースの不明瞭な電子掲示板にまで手を広げた数時間はしかし、ほぼ徒労に終わってしまっている。
「噂レベルならいろいろと出回ってるんだがな。はっきりしたことは何も分からん」
連日、運行を休止する度に取り留めのない理由を述べていた鉄道会社がシステムの異常を認めたのは今日になってのことだった。現在は『原因を究明中』だと発表している。
だがそんな調査が進められる傍らで運行を見送る路線は広がりつつあった。
「大規模なテロだなんて言説も飛び交っているようだが、その割には犯行声明も要求も出ていない。だとするならまた別の事情か……もしくは、犯人が潜んでいるのかもな」
そこで何となしにアステルへと目が行ってカナタは意地悪く冷笑してみせた。
「な、何です?」
視線に貫かれた彼女が息を呑む。その反応を十分眺めて、引きつけてからカナタは再び口を開いた。
「やっぱり、お前だったりしないのか?」
「──!?」
アステルは目を見張り、青い水面のような瞳をおろおろと右往左往させる。
「ちっ、違います。違います、よね……?」
「何でお前が自信なさそうなんだよ!?」
不安げな上目遣いを向けられるとカナタまで落ち着かなくなる。からかったつもりでいたのに酷くまずいことを口にしてしまった、そんな予感がした。
「お前なわけないだろう。それとも何だ。気がかりなことでもあるのか?」
「ええと、それが……」
唇が薄く開こうとしたのに途中でまた引き結ばれ、それから彼女はうなだれてしまう。考え込んだ様子であることは見て取れ、しかしその接し方が分からずにカナタは意識を開きっぱなしにしていたブラウザに引き戻した。とは言っても気になるサイトは既に一巡し終えている。
情報収集というよりは単なる暇潰しのつもりで転がしていたラジオを引き寄せる。この古めかしいメディアは報道の主軸がネットに移り変わっても細々と今の時代まで存続してきた。
何かの拍子に外れてしまっていた電池を押し込み、そこに蓋もしないまま電源を入れる。
流れ出す番組内では若い女性のパーソナリティーが自分の趣味を全開にしていた。やたらと古めかしく風変わりな音楽が流され、戸惑いながらもカナタは耳を傾ける。
程なくして番組は終了し、無機質な男性の声によるニュースへと移り変わった。やはり真っ先に取り上げられるのは交通網の異変だ。自らの調べを終えたカナタにとってはその追認にしかならない。
しかし続く報道は興味深い内容だった。
『先月に完成したニューロコンピュータ『英知』に異常が発生していることが明らかとなりました』
「……ん?」
椅子にもたれる内に重みを増していた瞼を擦り、背もたれから上体を引き剥がす。
『責任者によりますと、『英知』の入力装置に異常が生じており、現在研究チームはその原因の解明に努めているとのことです。各分野でのスケジュールの遅れが懸念されています』
「遅れるのか……」
『英知』は脳のニューラルネットワークから発想を得たニューロコンピュータの一種だった。
ニューロコンピュータの出現は早く半世紀も前には実機が稼働していたが、その名前が知られるようになったのは近年の出来事だ。圧倒的な情報処理能力で世界を席巻した量子コンピュータに対し、少量の情報から最大限の予測を導き出すコンピュータとして名乗りを上げたのだ。
その独特なアプローチが注目され、大きな発展が期待される分野である。
その発展というのが、皮質を中心とした大脳の再現となっているため、そろそろ人工の意識の創造にも成功するのではないかと噂されている。そうなれば既存の意識を写し取ることにも近づくため、電子の世界に旅立つことを夢見るカナタは、密かに期待を寄せていたのだった。
だからその裏返しとして、進行が遅れるとなれば落胆せずにはいられない。
「……まぁ、今の俺にはもっと興味深い観察対象もいるし……」
自分を慰めながら窺ったアステルの横顔は未だに煩悶から抜け出せていないようだった。
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