第5話

『金を貸して欲しい。明日、校舎裏の部室棟前まで来て』

 そんなメールが届いたのは、シロコと連絡先を交換してから一週間も経たない帰り道での出来事だった。結局、子猫を飼おうか散々に迷って連絡を先延ばしにしていたらシロコの方からそんな頼みごとをしてきたのである。

 家路の途中でそれを目にしたカナタはまず見間違いを疑い、何度も文面と送信者の名前を見直した。けれども内容が書き換わるはずもなく、よろけるようにして近くの民家の石塀に背中を押し当てる。その格好のまま何かしら、より具体的には件の頼みごとを打ち消すメールなり電話なりが来るのを待ちわびていた。

 けれども赤らんでいた空は徐々に暗く沈みいく。

 そんな様子がよほど怪訝に思えたらしく、アステルが気遣わしげに顔を覗き込んできた。

 カナタはメールフォルダの前面に表示されたウィンドウを睨みつけているようで、その実、何も見てはいない。

「……カナタさん?」

 その声で初めてカナタはアステルの視線を意識した。少女の眼差しがどうにかしてカナタの苦悩を伺い知ろうとしていることに気づいて、我に返る。

 指で頬や目尻に触れてみると、その輪郭は深く硬く歪んでいた。

「……あぁ。追加の課題が出されてな。その分量が存外に多いから、ちょっとな……」

 そんな言い逃れが通じるとは思えなかったが、咄嗟な誤魔化しに走ってしまう。アステルはそこからすらカナタの心情を読み取ったようで、凪いだ青色の瞳を沈鬱そうに細めるとカナタに手を伸ばそうとして、引っ込めた。微かに寂しそう目を自らの手に落とし、それからこちらに向き直って一言ずつ区切って、問いかけてくる。

「シロコさんからの、連絡が届いたんですよね?」

 こうも筒抜けだと一時でも隠そうとした自分が滑稽に思えてくる。

「……そうだよ。あいつの端末からメールが送られてきた。その内容がまぁ、少しばかり予想外でな」

「お聞きしても、よろしいですか?」

 ちょっと丁寧過ぎるくらいの敬語はアステルなりに気遣おうとした表れらしい。拒絶すれば聞かなかったことにもしてもらえただろうけど、それは寂し過ぎるように思えてカナタは口走ってしまった。

「あいつから金をせびられた。その受け渡しのために校舎裏まで来いと連絡が来た」

 書かれている文章をそのまま読み上げて、アステルの反応を待つ。

「……あの、それはシロコさんが助けを求めている、ということなんですか?」

「そうだな。内容をそのままに受け止めるのであれば、そういう受け止め方もできる」

「違うんですね?」

 強まった口調の問いかけはカナタに確認しているだけでしかなく、何か強い確信を抱いてるようだった。果たしてアステルにシロコの胸中が読み取れるのだろうかと、疑問に思いながらこんな問いかけをしてしまう。

「違うんだとしたら、お前は何だと思っている?」

 これにはアステルも即答せず、悩ましげに「それは……」と切り出すのに手間取った。それでも返事を保留することはなく、少しずつだがこぼしてくる。

「何となく……違うんです。シロコさんらしくない。あの方はカナタさんとの打ち解け方に迷っているようでした。それでも、必死に何かを伝えようとしていて……謝る? それとも違うような……」

 そこから先は放っていても混迷に沈み込むだけだろう。ともかく一番肝心な点に於いてはカナタと同意見だからアステルの呟きを打ち切る。

「お前の言っている通りだろう。これはシロコが俺を頼ろうとして送ったメールじゃない。それどころか、シロコ本人が送ってきたものでもないだろう」

 もちろん送信者のアドレスはシロコのものだが、そんなのは問題にもならない。その内容だけで断言できてしまうから。

「あいつが俺に、こうも厚かましく接してくるはずがないんだ。よくて誰かに書かされているか……そうでなければ、あいつの端末を他の誰かが操作しているか」

 冷静に言い切ってしまうカナタだったが、無論ただ事ではない。聞いていたアステルの方は唇を戦慄かせて竦み上がり、そんな状態からすぐさま気持ちを切り替えると目つきを精一杯の覚悟で引き締めた。

「カナタさん、あの――」

「分かっている。分かっているつもりだ。お前が言いたいことも、俺にして欲しいことも」

 見過ごしてはならないと、助けてあげたいと、アステルは言っている。そのためになりふり構わずカナタにも助力を求めようとしていた。事前にカナタは手を出さないと宣言していたのにも関わらず。

 それを愚かしいと断じることはきっと、簡単で。

 けれど、カナタは自分の向かう先を決め倦ねて、制服越しにざらついた石塀の感触に背中を押し当てる。

「今更あいつがどうなっていようが知ったことじゃない。そういう関係だったんだ。俺はそれを破るつもりなんてなかった」

 それなのに踏み込んでしまえば良いのでは、なんて妥協する気持ちが芽生えつつある。今はそれを意地と、それからこれまでの惰性で押し止めているけれど、ひどく気持ちが悪い。それまでのあり方とは決定的に相違した判断だから、受け入れられずにカナタの頭は反芻していた。

「言っておくが、俺だけが納得していたわけでもない。あいつはあいつで不明瞭な罪悪感に苛まれて、俺に触れられずにいた」

「……だから、だったんですね。時々シロコさんが怒っているのか、なんて聞いていたのは」

「だろうな。あいつも馬鹿な奴だと思うよ。けれど、俺だって未だにどこか、裏切られたような心地でいるんだ」

 何を話しているんだ、と止めさせようとする理性が働く。けれど口が止まらず、半端に切れ切れの話をしている自分が情けなかった。

 そんな躊躇いはしかし、アステルの一言に断ち切られる。

「聞かせて下さい」

 それまで当て所もなく赤黒い空を眺めていたカナタの目はそれに引きつけられて画面に落ちた。屹然とした物言いに似合わず、アステルは朗らかにほぐれそうな笑みを浮かべている。

「これまで、ずっと立ち入ろうがどうか迷っていました。けれども見て見ぬ振りはもう止めにします。聞かせて下さい。カナタさんとシロコさんの間に何があったんですか?」

 実のところ、そうまで踏み込まれてもまだカナタには迷いがあった。人に話すようなことではない。明かしてもどうにもならないし、慰めだとか励ましだとか、そんなものも期待しているわけでもない。それならば馬鹿にされそうな愚を犯すよりは心の内に秘めていた方がずっと和やかにいられる、というのに。

 或いはこの少女なら受け止めてくれるかもしれない。

 一度、そう思ってしまうともう手に負えなかった。止めどない言葉が溢れ出す。

「俺とあいつがいつから疎遠になったのかは話していたか?」

「いいえ、具体的には。ですけれど、時々話していらしたことから推測するに、カナタさんが中学校に入ったばかりの頃ですよね?」

 確かに話していたような気もしたが、そこまで漏らしていたのなら隠し立てする意味などなかったのかもしれない。思っていた以上に自分は心を許していたと気づかされてカナタは失笑してしまう。

「そうだよ。転機はそこで訪れた。けれどもそうなる前兆はもっと前から……それこそ、俺が小学校にいた頃からあったのかもしれない」

 思い出す。遠い昔にも、過ぎ去ったばかりの昨日にも思える日々のことを。

「俺はな、今のこの有様からは想像し辛いだろうが……よく、からかわれる立場だったんだ。小柄だったし、それから性格も当時はひ弱だったから付け込みやすかったんだろう」

「そんなに、意外というほどでもありませんよ。カナタさんには時折、とても繊細なところがありますから。普段はそれをずっと押し隠そうとしているようですけど」

 繊細、とは物は言い様である。聞こえは良いが打たれ弱いことに変わりははない。

「小学校の頃から下らないことでからかわれてはいた。ただその頃はまだ笑って受け流せたんだ。それが中学に入って新しい人間が加わると、どうにもな」

 からかわれた、と見るか、詰られた、罵られたと受け取るかのは主観の問題でしかない。カナタの中でのその一線をある時期から周囲の人間は乗り越えてしまった。

「ガキの中にもどうしてか他人を先導する奴がいるんだよ。そいつが俺を暇つぶしのおもちゃにして、周りもそれに従って……少しばかり、度が過ぎた」

 詰まるところ、周りも自分も子供だったのだろう。周囲は自分たちがしていることに自覚を持たなかったし、カナタもまた。

「抵抗するって考えが浮かんだのは随分と後になってからのことだった。たぶん、もっと早くそうしていられたなら、話は拗れずに済んだのかもしれない」

 だけど、何もかもが手遅れだった。カナタは追い詰められて周りが見えず、だから傍にいると思いこんでいた人間の心持ちにも気づけなかった。

「あるとき、限界が訪れて俺は暴力に訴えた」

 当時のことを思い出しながら言葉にしてアステルに伝えていく。

 切っ掛けが何だったのかはもう、覚えていない。ただ昼休みのあるときに自分の席に収まっていたはずのカナタは気がつくと滅茶苦茶にはねのけられた机と椅子の中心、教室中の視線を集めてそこで追い詰めた相手を睨みつけていた。

 リーダー格であったその少年は倒れた机にもたれ掛かって体を強ばらせ、澱んだ黒い目でカナタを見上げている。そこへとカナタは手近な椅子を両手で掴み上げ、振り回し、大上段に振りかぶって踏み込んだ。

 その行く先に。

「シロコが立ちふさがったんだよ。馬鹿みたいに震えて唇も真っ青なくせに俺を止めようと掴み懸かってきた」

 カナタはそこで正気に帰り、振り上げていた椅子の重さに引きずられて背中側へと倒れた。尻餅をつき、そこで攻撃を阻止したシロコの顔を見上げてさすがに気づかされる。

「あいつにとってそのリーダー格が大事な存在になっていたらしい。……少なくとも冴えない幼馴染みよりはな」

 彼女は間違いなく憎々しげにカナタを睨みつけていたから。

「そしてたぶん、今でもその関係は変わっていない」

 だってその男こそが恐らくは、今回シロコが身を呈して守ろうとしている相手なのだから。

「悪いな、面白味のない話で。つまるところはシロコが、俺をいじめていた相手を庇ったって言う、ただそれだけの話なんだ」

 もう少し悲劇的な一幕でもあれば様になっただろうに、この話には続きさえなかった。

「……カナタさん」

 不意の声につられて通信端末の画面へと目を引きつけられる。

 いつの間にか夕日は没し、宵闇が密度を増しつつあった。暗闇の中には点々と白く外灯が浮かび上がり、夜闇に慣れつつあった目は画面の明るさにさえ眩んでしまう。

 思わず手で顔を覆い、やがて目の奥に溢れる光が引いていくと、小さな画面に映り込む少女が佇んでいた。彼女は悲しそうにも嬉しそうにも見える複雑な笑みを浮かべて、はにかむようにカナタを見上げる。

「ごめんなさい。それからありがとうございます。何となくですけど、分かった気がしました。カナタさんが普段、何を考えているのか。どうしてそうしているのか」

「そう易々と分かられて溜まるか」

 思わずまた憎まれ口を叩いてしまうのは少しばかりの気恥ずかしさとむずがゆさから来る照れ隠しだ。きっとそんなこともお見通しのアステルはにこにことカナタに微笑むばかりで、それが尚更にカナタを居たたまれなくさせる。

 本当にもう堪えられる気がしなくてカナタは声を張り上げた。

「ともかく、だ! その一件があってから俺はお前がいるその空間を作り始めた。現実から逃避するためにな! それからはお前も知って通りだからこれでこの話は終わりだ良いな?」

 そのまま通信端末も仕舞い込もうとするカナタなのだが「待って下さい!」との声に引き留められる。

「まだ何かあるのか?」

 可能な限り苛立たしげに応じた。端末の画面に目を落としながらもし諭したりしてこようとしたら容赦なく電源を落とそうと決める。

 言外にそうやって脅すために鋭い視線を差し向けたら、柔和な面立ちに見つめられて気勢を削がれた。何とか決意を纏め上げてもう一度睨みつけてやろうとするのだが、それさえも底知れない瞳の色に包まれていく。抱えた敵意ごと抱き留められて、刺々しい感情を慰撫されてカナタは黙り込むしかなくなってしまった。

「そんなに気を悪くしないで下さいよ」

「別に機嫌が悪くなったわけじゃない。……ただ、何と言うんだ、その……まぁ、少しは話を聞いてやろうかという気にでもなっただけだ。良いからさっさと吐け」

 余計なことにまで口出しされたくなかったからカナタは話を急かす。そんな有様にアステルは困ったような表情を見せること数秒、躊躇ってその迷いを疑問に変え、投げかけてくる。

「もし、嫌だったなら、すぐにでも話を遮って下さって良いですから、最後にこれだけは聞かせて欲しいんです。よろしいでしょうか?」

「良いから話して見ろ。じゃないと俺も判断が下せない」

「えへへ……ありがとうございます」

 ぶっきらぼうなカナタの物言いにアステルの堅かった面立ちが幾らか和らぐ。

「この空間……わたしがいる、ここのことです。カナタさんと話していて、あなたの願いを聞いている内にどうしても不思議に感じて、だから最初にわたしに言っていたことを思い出したんです」

「思い出した……?」

 この場面で引き合いに出されるような台詞には心当たりがなかった。

「カナタさんはわたしにこう言ったんですよ。覚えていますか? わたしが『最初の星』だって。あの言葉の意味がずっと引っかかっていたんです」

「あぁ……」

 言っていた、そういえば、そんなことも。

 慌てていた記憶はあるが、だからといってよくも吐けた台詞だと我ながら辟易してしまう。カナタが苦渋の表情を浮かべているとアステルも微笑に苦みを混ぜて「やっぱり」と呟いた。

「思い当たるところがあったみたいですね。その言葉の意味について考えて、何となく結論のようなものが出たんです」

 アステルの強い色の瞳に見入られてカナタは押し黙る。

 彼女は決定的なことを暴こうとしていた。四年間保ってきたカナタの在り方に取り返しのつかない亀裂を穿つ致命的な楔を打ち込もうとしていた。

 怖い。

 不穏な予感がカナタの背筋を這い上がって喉元に充溢し、やめろ、と言葉を吐かせようとする。止めなければ今までのようにはいられなくなる。

 それなのにもう少しだけ聞いていたいと願う気持ちが彼を踏みとどまらせた。

 アステルの眼差しはカナタの内心を見透かしたように細められ、慎重に言葉を紡ぎ出す。

「この空間は本当は、幾つもの端末を繋げるためのものなんじゃないですか? いつか人が『こちら側』に進出してきたとき、多くの人が集う場所にしたくてカナタさんはここを作ったんですよね?」

 そこでアステルは息をつき、最後に口にしようかと逡巡する間を挟んで唇を引き締める。

「カナタさんは一人でここを作ったのかもしれません。だけど、あなたが目指した理想郷は一つきりの星が浮かぶ空じゃなかった。カナタさんは、本当は……人との繋がりを求めていたんじゃないですか?」

 とうとう口に出された、と降参し掛ける心を押し止めて重苦しい口調で訊ねる。

「どうして、そう思った? 一体、何を根拠に?」

 なんて無駄な悪足掻きだろうと自覚はしていたけれども今更止められない。アステルと目を合わせないように俯いていたら彼女の声音が頬を撫でてきた。

「理由なら幾らでもあります。ここは人を受け入れるための空間ですし、この星はカナタさんのコンピュータを象徴するもの。他に新しく星が加わるのだとしたら、それは別のコンピュータでしかあり得ませんから」

「だとしても、何のために俺がそこを作ったって言うんだ?」

 間髪入れずにアステルを問いつめると、珍しく返答に窮したのか口を開いても声を発さなかった。困り顔で唇を湿らせ、やがて唸りながらもカナタに応じてくる。

「そこが実は、よく分かってないんですよ。この世界に人を呼んで、語らうだけなら方法は他に幾らでもあると思うんです。だから、この世界の中にいないとできない何かが……」

 そこまで言われて、堅く引き結んでいようとしたカナタの唇が綻んだ。もはや答えにたどり着かれているようなものなのに、隠し通そうとしている自分が馬鹿馬鹿しくて。

「カナタさん?」

 アステルは怪訝そうな目をカナタに投げ掛けてくるが応じることなく彼は彼女の発言を遮る。

「アステル。その世界にいないとできないことじゃない。正確には、そこに入れるようでなければできないことが俺はしたいんだ」

「どういうことです?」

 話についてこれてない様子のアステルに、カナタは「思い出せ」と命じる。

「俺がお前を、電子の世界の意識だと認めた理由はなんだった? 一つはお前がその世界に入れたことだ。そしてもう一つは――」

「言葉が通じ合わずとも分かり合えること?」

 おずおずと、自分の発言の真偽を自分でも信じられないままアステルは語る。それは彼女の表情に小さな波紋を生み出し、やがて静かに落ち着いていった。

「……そうですか。では、初めの招待したかったのはシロコさん何ですね」

 これにはカナタは舌打ちをして顔をしかめる。

「そうだよ」

 全くの図星だったからだ。

「分からなかったんだ。もしかしたら分かりたくなかったのかもしれない。シロコの奴が何を考えているのか。あいつが例えば……例えば、俺のことをどう思っているのか、だとか」

 言っていて何もかもが赤裸々なことに気づき端末を投げ捨てたくなる。さすがにそんな痴態までは見せられなかったが、相手がアステルでなければどうなっていたか分からない。

「カナタさんはシロコさんのこと、どう思ってるんですか?」

「また答えにくい質問を……」

 だが、ここまで明かしたのなら全て吐き出した方が楽になる。

「幼馴染み……ってことにはなるが、なんて説明すれば良いのか分からない。もしかしたら兄弟だとか……そんな印象だったのかもな。何となく、理由もないのに俺は、あいつが傍にいるものだと思っていたんだ」

 きっとそれこそがカナタにとっての最大の過ちだった。はっきりと自分の前に立ちふさがる前まではシロコの心情など考えもしなかった。

「いっしょにいるのが、当たり前だったんだよ」

 だから彼女が立ちはだかったとき、カナタが咄嗟に思ったことは。

「裏切られた、だなんて思っちまったんだ。後から考えてみればまるっきり俺の独りよがりでしかなかったわけなんだがな」

 それでも一度思ってしまったこと、抱いた感情は理屈じゃ打ち消せない。三年経って、四年経って今に至ってもカナタは心のどこかでシロコを許せずにいた。

「なぁアステル。もしかしたら電子の意識のお前には想像し難いかもしれないが、人間って奴は理不尽なんだ。駄目だと分かっていてもどうしようもなく身勝手に振る舞うことがあるんだよ」

 そんなことをまるで懺悔するように語って一体アステルからどんな台詞を引き出そうというのか。目的はないけど、ただ語るためだけに語る。

「俺があいつの、言葉にならない思いを知りたいって言うのも結局、現実逃避だ。もしかしたらまだ……って、そんなふうにありもしない幻想に、すがりついているだけでしかない」

 分かっていた。

 シロコが自分だけの一番を見つけていたこと。その人のためにならカナタにだって、敵意を突きつけること。既に思い知らされた事実でしかない。

「それでも、好かれたかった」

 口に出してみて発言の馬鹿馬鹿しさに震えた。そう思っていられたのはその直後だけで、瞼がやけに固くなって熱を持ち始めて、自分がどんな顔をしているのか自覚した。

あまりにも情けなくて、こんなことなら話すんじゃなかったと後悔しようしたら次のアステルの台詞が打ち砕く。

「知ってましたよ。カナタさんは優しいんです」

 変わらぬ微笑のままアステルにそう告げられて、思わずカナタは「へ?」など間抜けな声を漏らしていた。けれどもアステルはそこで言葉を止めずに滔々と語り始める。

「もしかしたら……いえ、きっと確実にカナタさんは気づいていなかったでしょうけど、分かりますか? 誰かを助けようとするときに、あなたがどんな顔をしていたのか」

 何のことかさえ把握できずにカナタはぼろほろの表情と眼差しでアステルに疑念を差し向けるけど、彼女は動じない。「やっぱりです」と虚を衝かれたカナタの反応に満足した様子で、だから彼女は目にしてきた全てを明かす。

「本当は、カナタさんは誰かを助けようとするとき、そして誰かに礼を言われたとき、嬉しさを隠し切れないって顔をしてたんです。だってそうじゃなきゃ幾らわたしのお願いだからってあんなにもあっさりと誰かに手を差し伸べたりできませんよ、普通は」

 また馬鹿な話を始めたと切り捨てることだってできたはずなのに、カナタは正面から反論せずにはいられない。

「待てよ。だったら俺はどうして今まで困った人が見つけても手を出せずにいたんだ。本当に俺が……お前のいうよな誰かを助けることに喜びを見出せていたんだったら、最初から手を伸ばさずにはいられないだろう!?」

 鬼気迫ったカナタの詰問にもアステルの微笑は揺るがない。それどころか一層優しげに花開いて彼を労ってくる。

「仕方ないですよ。カナタさんは人を怖がっているんですから。そのために言葉を使わずとも分かり合える術さえ求めたんですから」

 それは今し方カナタ自身が明かした内心で、当然反駁するなどできるはずもない。だというのに黙ってもいられずにカナタが唇を戦慄かせていたら、彼女はまた口を開いた。

「嘘だと思うなら思い返して下さい。あなたはどうしてわたしに何か言われるよりも早く子猫を助けて上げたんですか? あなたが冷淡な人間だったらそんなことはしないはずです!」

「そんな、わけ……っ」

 打ち消しの言葉なんて幾らでも並び立てられたはずだ。人と猫は違うだろうだとか一時の気まぐれだとか、幾らだって言い訳はできたはずなのだった。

 そうだっていうのに。

「俺が……? まさかな。そんな……」

 散々に馬鹿にして否定し続けてきたアステルの過大評価が彼に降りかかろうとしている。

「でも……それじゃあ……俺はどうすれば……?」

「簡単です。カナタさんがやりたいと思うことをやれば良いんです。あなたの本音に従えばいいんです!」

 力強いアステルの言葉、底知れない青い瞳に湛えた精一杯の訴えをカナタは直視してしまう。それを真正面から受け取ってしまう。

「ねぇ、行きましょう? カナタさん」

 彼女が風に舞い上がる木漏れ日色の長髪を撫でつけ、残る手で差し伸べてきた誘いに、カナタは――


「出かけている?」

 街灯の光からちょうど外れてしまった暗闇の中で、カナタはインターフォンに耳を傾けていた。そこから聞こえてくるのは厳しくて、しかしやや臆病そうな女性の声だ。

『えぇ。ごめんなさいね。うちの子、高校のお友達と出歩いてばかりいて……』

「いえ、こちらこそ連絡もせずに訪れてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」

 どこかぎこちない会話を終えて、カナタはその家を後にする。学校のある街中と違って暗い夜道にはもう方々の民家の窓から明かりがこぼれていた。談笑だとか叱りつける声だとか、そんな和やか喧噪が耳に届いて一人歩くカナタを侘びしい心地にさせる。

「……ったく、何をやってるんだか俺は」

 誰に聞かせるつもりもない愚痴なのだったが、今はそれを独り言にさせない相手がいた。

「なんだか、カナタさんが敬語を話してるところって新鮮ですね! 普段はちょっとぶっきらぼう言葉遣いのことが多いですから」

 ポケットにしまったままのそれからやたらと無邪気に威勢の良い声が響く。

「うるせぇな。こっちが素なんだよ。大人の相手をしているときだけは常識に則ってるんだ」

「そんなに怒ることないじゃないですか。それに知ってますってば」

 普段は年中頭の中に花畑でも拵えていそうな少女なのに、時折思慮深い瞳でこちらを覗き込む。そしてカナタ自身でも自覚できていない胸の奥底に手を伸ばし、分け入ってくるのだ。

「本当はシロコさんのお母さんとだって気負わずに話したいんですよね」

「……お前は、どうしたらそんな馬鹿馬鹿しい発想に至れるんだ?」

 なんて反抗しようとするけれど声は力なく消沈していく。却って認めているようなもので、今更誤魔化そうとしている自分に笑ってしまった。

「お前の言う通りかもな。あの人と他人行儀で話しているとさすがに物寂しい」

 カナタの親は家を留守にしていることが多かった。だから、一時期は毎日のように訪れていたシロコの母にもう一人の母親らしき印象を勝手に抱いていたのだ。

 それが遠のいて、今し方そのことをはっきりと目の当たりにして、カナタは落ち込んでいた。

「俺もまぁ、大概馬鹿だとは思うがな……」

「平気ですよ、カナタさん。まだ、あの人もあなたも同じ世界の、それも歩いてだって行ける場所を生きてるんですから。カナタさんが望めば、何度だってきっとやり直せます」

「気楽に言ってくれるがな。俺みたいに人付き合いを嫌っていた人間が、そうそう易々と一度失った関係を修復していけるはずないだろう」

 もはや体面も気にしないカナタの文句を、しかしアステルは額面通りには受け取らない。

「そうですよね。今はカナタさん、シロコさんのことで必死なんですから!」

 もし、アステルに触れられたのなら、カナタはきっと彼女のこめかみを両の拳で挟み込んでいただろう。だが、それができないから別のやり口で脅しをかけるまでだ。

「良いか? もしまだ余計なことを口にするようなら気温の設定を限界まで下げてお前の家が埋もれるまで雪を降らすからな、覚悟しておけよ」

「カナタさん、鬼畜って呼ばれたことありません?」

 それには答えず他愛ないじゃれ合いを打ち切ると、急ぎ足で歩を進める。

「どこ行くんですかカナタさん?」

「家に帰るだけだ。少しやらなきゃならないことがある」

 短い家路を駆け抜けて玄関に上がると靴を脱ぎ捨て、急く気持ちのまま自室に飛び込んだ。

 アステルがやってきてからコンピュータ自体も仮想世界も常時稼働し続けている。カナタはこれまで表示させてこなかったツールバーにあるアイコンの一つを選択した。

「あれ? えぇっと……カナタさん、空に何かが浮かんでます。何でしょうか、あれ」

 黄金色の長髪に包まれた背中を画面に向けて、アステルは宵空を見上げている。より正確にはその先に浮かんでいるはずのこのシステムの根幹を。

「そんなに早く気づけるもんなのか?」

「はい。うまく言葉にはできませんが、この世界とわたしは緩やかに繋がっているんです。だからどこかに変化が起きれば空気を伝って、わたしにもそのことが感じられるというか……」

 その辺りのことは用事が片づいたあとにでもじっくりと聞き出したいところだが、今はともかく時間が惜しい。好奇心を抑えつけ、カナタはアステルに鋭く指示を飛ばした。

「だったらそこに向かっていってくれ。お前が望めばその空間の重力はお前を縛らない。自由に飛べるはずだ」

「心得ています。少し待っていて下さいね。すぐに飛んでいきますから」

 宣言すると同時にアステルから髪と同じ色に輝く粒子が振りまかれて彼女の体が微かに浮かび上がる。目視できたのはそこまでで、気がついたときには一条の光芒が夜の闇を切り裂いていた。

 帚星は星の大気が続く境界線まで舞い上がる。星の全体像が青白い光に縁取られて見て取れるそこで、アステルは目指していたものを見つけた。

「えぇと……なんて形容したら良いのか分からないんですけど、何だかおかしな図形のようなものがありました」

「それで合っている」

 アステルが言う図形とは、彼女の現在地辺りを中心とした銀河の略図だ。とは言っても今は彼女がいる星一つしかないのだが、いずれは多くの星を取り込むつもりでいる。

 実際の地球だったなら成層圏のそのまた上、熱圏と宇宙の狭間に当たるそこでアステルはその縮図を眺めていた。お人好しが過ぎてやや野暮ったいアステルも惑星の纏う光の中にあれば神秘的に見える。

「綺麗です。今まではあんまりこの辺りまで出てこなかったんですけど、今度からもっと飛んでみようかな」

「好きにすると良い。たが今はお前が見つけた図の方に集中しろ。そいつはそっち側から幾つかの重大な機能を操るためコンソールになっている。もうシロコの連絡先はそっちに送ってあるから、できるはずだ」

 省かれた説明にアステルが怪訝そうな顔で首を傾げる。

「何をですか?」

 予想していた通りの質問にカナタの口元が歪んだ。喜びの笑みの形に。

「決まってるだろ。シロコの端末をその世界に取り込むんだよ」

 事態をまだ飲み込み切れていないアステルは淡い色の瞳を丸くして小刻みに瞬きを繰り返す。

「え? え……? シロコさんから許可は取ったんですか?」

「そんな暇があるように見えたか?」

 当たり前の如く質問で返してくるカナタにアステルの狼狽は加速する。

「で、でもそれだと、クラッキングしていることになりませんか? 以前、カナタさんだって今の時代にそんなことはできない、と……」

「そこらへんに関しては俺も考えたんだがな、前も話した通り、ソフトウェアでさえないお前みたいなのを人間は観測できていないんだよ」

 たった今こうしてアステルと話せているのも彼女がこの仮想空間に紛れ込んできたおかげだ。この外に出られてしまうとどんなソフトウェアでもアステルの行方は追えなくなってしまう。

「だからお前はセキュリティにも検出されない。そんで今のところ、俺が思いつく限りだとあいつの端末をそこに取り込むのが最善の策なんだ」

 敢えて目的をぼかしたのだが、アステルは言葉の裏を見抜いてすぐさまに付け足してくる。

「シロコさん助けるための、ですよね?」

 もはや舌打ちする気にもなれなかった。

「そうだよ。あの馬鹿をクソったれな状況から引きずり出すにはこうする必要があると言っている。分かったら黙って引き受けろ!」

 カナタがあらん限りの苛立ちを込めて吐き散らす宣言に少女の微笑みはどうしてか深まっていく。

「はいっ!」

 その偽らない笑顔に、結局のところカナタは刺々しい表情を緩めてしまうのだった。

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