第4話

 しかしながら明くる日、教室の窓際に自席で頬杖をついていたカナタをわざわざ呼び出す人間が現れた。呼び声は聞こえてはいたけれども煩わしくて無視しようとしたら、ご丁寧にも名前さえ知らぬクラスメートの女子がカナタの肩を叩いてくる。

「呼んでるよ。行かなくて良いの?」

 別段、構う必要などありはしなかった、のだが。

 こうまでされては、気が付かなかったと言い逃れもできない。

「今更、俺に何の用があるってんだか……」

 悪態を吐き散らしはしたがやむを得ずカナタは立ち上がった。

「ご、ごめんなさい」

 染み着きつつあった習慣からポケットに目線を下ろそうとしたら、カナタの肩を叩いた女子と目が合う。

「わたしはその、じゃあこの辺で……」

 ひきつった顔で怯えを誤魔化し、彼女は急ぎ足で立ち去っていってしまった。その背中を見送りながら会話せずに済んだことを密かに喜ぶ。面倒が少ないのに越したことはない。

「さて……」

 爪先を戸口に向けると。

 カナタを睨み殺そうとでもするような険しい顔が待ちわびていた。

 無論、見なかったことにして座席に戻り――

「ちょっとあんた! こんだけ呼び掛けてるんだからせめて返事くらいしなさいよ!!」

「何だ、全く。騒がしい奴だ」

 とうとう堪忍の緒が切れたらしく教室に踏み込んでくるシロコを、カナタは自分の席で待った。その傲岸さにも腹が立ったのか尚更に鼻息荒く、足音もうるさいほど立てながら彼の隣まで歩いてくる。

「それで、何の用があってきた? お前の方からやってくるなんていつ以来になるのやら」

 カナタの方から近づいたのだってここ数年では駐輪場での一度限りだったが、アステルの訪れが転機となったらしい。それはカナタの側からはもちろん、目の前の少女にとっても。

「あんた、猫拾ったんでしょ?」

 単刀直入な話題の切り出し方にカナタは顔を上げる。どこで聞いた? なんて間抜けな質問が危うく口から飛び出そうになって吐息ごと飲み下した。

 あの辺りは田舎らしく近所付き合いが親密で、おまけにシロコもカナタが頼った獣医とは知り合いなのだ。話を聞く機会など幾らでもあっただろう。

だからおかしなことではない。努めて心と声を落ち着けて、できるだけ冷ややかにシロコを一瞥しながら言う。

「それで?」

 だからお前に何の関係がある?

 そう暗に訊ね、より正確には関わるなと拒絶さえしたつもりなのだが、シロコはたじろがなかった。カナタの態度など気にも留めず自分の用件だけを伝えてくる。

「その猫、あたしが預かろうか?」

 申し出は意外なほどにあっさりと願っていた通りで、だからカナタは身構えてしまう。

「お前の猫好きは知っているよ。だがどうしてまた俺の面倒事なんかに首を突っ込もうと思ったんだ? 言っておくが見返りなんぞ期待しても用意はないからな」

「逆よ。この前の自転車の件であたしが助けてもらったんだから、今度はあたしがその借りを返しに来たの。あんたの世話になりっぱなしなんてイヤだから」

「……なるほど」

 忌々しげに告げられて、カナタもシロコの言わんとしているところが理解できてしまう。シロコとて、できるならカナタとは無縁でいたいのだろう。そこに彼女自身の動物に偏った優しさも相まってここを訪れた、と考えればカナタも得心が行く。

「良いだろう」

 自ら頼るのは気が引けたが、相手の側から持ち掛けられるのなら悪くはない。

「どこか時間が空いているときにでも俺の家に来い。というか、こんな話題なら最初から俺の家を訪ねていれば良かっただろうに」

「昨日にもう行った。けれどあんた、出かけてたでしょ? どこに行ってたの? 引きこもりのくせに」

 引きこもり、という言われようには反発を覚えたが、あながち間違いでもない。

 極度の出不精であるカナタは用事がなければまず外出しようともしなかった。あったとしてもできる限り、家で済ませてしまおうとする。

 ……本来は今だって変わらずその性分でいたのだが。

「最近、口うるさい居候……というか、まぁ、友達みたいなのができてな。そいつの頼みごとで忙しいんだよ」

「何それ……って、あぁそうだっけ。あんた、最近よく女の子と電話してるらしいよね。その子の言うこと聞いてるんだぁ?」

 言いたいことは伝わってきた。シロコが「その子」と指し示している相手も間違ってはいない。しかし確実に誤解されている関係性を、敢えて訂正しようという気力も湧かなかった。それらしく適当に相槌を打ってやり過ごす。

「……つまんないの」

 色よい反応が得られないと知るや不満そうにする。そこでシロコが押し黙り会話が途絶えた。

「そろそろ頃合いか」

 元々、三年間以上まともに口も利かなかった間柄なのだから、最初から雑談が成り立つするはずもない。

「だったらそうだな、今週の土曜辺りにでも取りに来てくれ。午前中は家にいるから」

「分かった。お互い、言っておくけど、今回限りだからね?」

 そんな冷え切った関係の確認にもカナタは顔さえ合わせることなく応じた。

「言われるまでもない」


 放課後の廊下、その末端にある誰も寄りつかない一区画。研ぎ澄まされた空の色をはめ込んだ窓から青い影が床に投じられるている。そんな一角の柱に背を預けていると以前同様、人気のない空間に、どんな悪意でも溶け出してしまう日溜まりのように明るい声が響き渡った。

「カナタさんカナタさん! やったじゃないですか! 仲直りの大チャンスですよこれはっ!!」

 予想はできていたことなのに、改めて直面すると頭が痛む反応だった。

「何だ。その……とりあえず、人に聞かれると厄介だから声量を慎め」

 真っ先にそれだけを手元の通信端末に向けて言いつけるとアステルは悪戯を叱られたように気まずそうな素振りを見せる。しかしあくまでも素振りだけで、そのささやかな意思表示え終えると同時にまた口を開いた。

「良かったです良かったです!! 昨日、カナタさんの話を聞いていたからシロコさんが来たときはどうなるものかと思ったんです! けれども、思ったよりも親しげでしたし……」

「親しげだと? どんな耳してたらそんなふうに聞こえるんだか」

 アステルの思考は相変わらず、おめでたい脳内変換をこなして見せる。何かと訂正したくはあったがどこから手をつけたものかと悩んでいる内に、止めどなく溜め息がこぼれてきた。

 その様子を見かねて、さすがに認識のずれを悟ったアステルの笑みが崩れる。けれども感化されたわけでもなく、表情に迷いを滲ませつつも彼の目を覗き込んできた。

「それでも、仲が悪いわけじゃないんですよね……?」

「だからそうだと前から言っているだろう。俺とあいつは互いに無関心なだけだ」

 相変わらずなカナタの主張に今や、アステルの困惑を晴らす説得力はない。

「互いを嫌い合ってもいないのに、あんな顔するんですね……」

「あんな顔?」

 カナタが怪訝な目を向けるとアステルは我に返って、背筋をなぞられたが如く動揺する。ほとんど無意識の呟きだったために、カナタの指摘を反芻してようやくその内容を自覚した。

「で、どんな顔なんだ?」

「どんな、って訊かれても口での説明が難しいんですけど、というかカナタさん、自覚なかったんですか?」

「だから、どんな顔だよ?」

 しかしカナタが語調を強めて質問を重ねてもアステルは途方に暮れてしまう。アステルにはまだ目にしたものを言い表すに相応しい経験が不足していた。

「だってカナタさん、イヤそうで、何か言いたげで、それから、それから……」

「……まぁ良い」

 問い詰めたい衝動は衰えていないものの、今のアステルからは答えを引き出せそうにない。それに彼女から聞いておきたい話が他にだってあった。

「猫の方はどうだ? どっちも部屋からは出ていないんだろう?」

 今、カナタの手の平に収まる機器に映し出された少女は本来自宅にあるコンピュータ上の仮想空間内を生きている。その内部の様子が動画のように仕立て上げられ、送信されてきたのが通信端末に映るアステルの正体だった。本当の彼女は自宅にいるのだから、コンピュータのカメラに頼れば部屋にいる子猫たちを見張ることができる。

「えぇ、はい。トラ柄の子はあんまり段ボール箱から出ていません。サビ柄の子は探検し疲れたようで、カナタさんのベッドで丸くなっています」

「概ね昨日の通りだな」

 ならば心配するべきことは何もない。幸い、貰ってきた空き段ボール箱に丸めた新聞紙を敷き詰めただけのトイレでも二匹は嫌がらなかったし、噛まれると厄介な電子機器も部屋の外に出してある。カナタが急いで帰宅する必要はなかった。

「――あ。ですけどカナタさん」

 通信端末をしまいかけていたカナタは、仕方なく持ち直してアステルと向き合う。

「まだ何かあるのか?」

 うんざりとした声音は常のことだからアステルも意に介さない。

「シロコさんに、預ける猫の数は伝えてあるんですか? わたしが聞いていた限りだと日にち以外は取り決めていなかったようですが……」

「どうだったかな」

 なんてとぼけたことを言いながらもカナタにだって覚えはある。早く会話を切り上げたくて打ち合わせする間も気が急いていた。

「生き物のことですし、あまりぞんざいには扱えませんよ。ちゃんと情報交換しておかないと」

「……まぁ、お前の言いたいことは分かるよ」

 否定したい自分もいたが、今回に限ってはアステルが全面的に正しい。例え今回限りの付き合いでしかなくとも、シロコと接するのを嫌って猫が不都合を被るのは不本意だった。

 とは言え、やはりまだ躊躇う気持ちも打ち消し切れなくて、それがカナタの足を引き留める。

「なぁアステル。どうしても行かないといけないのかな」

 そんな問いを口に出してしまって自分の情けなさを思い知り、カナタは溜まらず唇を噛みしめた。食い込んだ歯からじわりと痛みが染み渡り、それでも悔しさは拭えない。

「……悪かった。今のは聞かなかったことにしてくれ」

 他人に丸投げできる決断ではなかったし自身の中にあるそんな弱さをカナタは認められない。

「あの、カナタさんの方から行かずとも待っていればシロコさんがまた訪ねてくるんじゃ――」

「いいや、俺から行く」

 そう頑なに言い切らせたのはカナタの意地だった。

「大丈夫だ、大したことじゃない」

 強く自分に言い聞かせて、カナタはシロコを探しに廊下を立ち去った。


 カナタの通う学校は中等部と高等部で校舎が分割されている上に、高等部内でもさらに二分されている。その振り分けは学科に対応しており、カナタがいるのは大学進学を志す進学科棟だった。そこは三角形に並ぶ校舎の最奥、表門の真正面にあり、その右手前に中等部棟、そして左手前には就職を目指す普通科棟が並んでいる。進学科と普通科は制服こそ共通だが教室も課された授業も別個で、三年間のどこでも交わることはない。そのせいか学年を重ねる毎に壁が生まれて、カナタに限らず他学科の校舎は歩き慣れなかった。

 シロコがどのクラスに属しているのか、程度の情報もカナタは耳に入れていない。その状態で聞き込みもしないまま歩いて回り、最後に至った結論は以下のようなものだった。

「あいつ、もう帰ったのかもな」

 自分の教室の自分の座席に戻ってきて、半ば崩れ落ちるように腰を下ろす。若々しさに欠ける息をつき、くたびれた足を放り出しながら窓の外に目をやった。

 意を決した頃には青かった空も赤く色づいて黄金色の光をはらんでいる。

「シロコの奴、どこにもいなかったし」

 普通科のカリキュラムを把握しているわけではないが、授業時間は間違いなく進学科の方が長い。授業が続いている教室は一つもなかったし、ならば下校していない方が不自然だった。

「でも、先日駐輪場でお会いしたときは今よりも遅い時間でしたよね。部活動? などで居残っているのでは?」

「あいつは中学の間中、帰宅部だった。たぶん今も変わってないし、この間は何か用事でもあったんだろう」

 シロコはカナタとは似て非なる理由から、進んで人の輪に混ざろうとしない。その性分が高校に上がったくらいで突然矯正されるものだとは思えなかった。

「ま、時間はあるし今日無理に会いに行くこともないだろう。明日にでもまた探しに行くよ」

「……カナタさんって一度決めると、本当に頑固なんですね……」

 アステルが漏らしたのは独り言だと思って聞き流し、カナタは教室を出る。

 この学校の昇降口は進学科棟の一階にあって、カナタたち二年の使う教室は三階にあった。エレベーターはあるものの狭い空間に誰かと閉じ込められるなど耐え難く、カナタは普段から階段を好んでいる。その日も気怠いながらも階段を駆け下りていった。背負った学生鞄の重さに振り回されながら一階に降り立ち、せっかちな性格から早足で玄関まで歩いていく。

 靴をつっかえて開放された扉を抜け、中学棟の窓ガラスに散らされて降り注ぐ西日に目を細めた。手で庇を作り、玄関口に立ったまま駐輪場に目を凝らす。

「見つかりましたか? シロコさんか、シロコさんの自転車は」

 ポケットにしまったままなのにアステルはカナタの行動を見越してそんな質問まで投げかけてくる。そこまで自分は単純なのだろうかと苦笑を禁じ得なかった。

「俺もあいつの自転車をはっきりと覚えているわけではない。だが、もしかしたら」

 遠目で夕明かりに照らされながらも見覚えのある色と形を目で確かめて確信へと変える。

「そういえば、裏門の方は確かめてなかったな」

 そこは全面ガラス張りの正門側に広がるグラウンドの反対に位置し、校舎内からは全容が見通せない。けれどもその一帯には運動部の部室が寄せ集められたプレハブ小屋を幾つも擁していて、立ち入る生徒の数も少なくなかった。

 万年帰宅部のカナタにとっては魔境にも等しい空間だが、当初の方針を曲げたくもない。

 昇降口前の階段を二段飛ばしで駆け下り、立ち並んだ校舎の中心にある小さな広場へと降り立った。中央に立つねじ曲がった柱のようなオブジェが背の高い影を伸ばしている。

 そこから進学科棟の裏に続く煉瓦を詰めて形作られた通路がカナタの目指す先に通じていた。

「あっちに行くのは入学部以来か……妙なのに絡まれない良いが」

 アステルと出会ってから、こうした独り言めいた口数が増えてきている。

「でしたら、人に訊ねてみては? そちらの方が時間も掛かりませんし、カナタさんが行きたくない場所にだって――」

「俺にそんなことができると思ってるのか?」

「……そうでしたね」

 にべもなく断られてアステルの語調が沈む。彼女だって理解はしていた。カナタは他人と関わりを嫌う。特に誰かを頼る、だなんて形式ではまず人を寄せ付けない。

「……お前、何か失礼なこと考えてないか?」

「なっ、何のことです!?」

 絶望的なまでに誤魔化しの下手なアステルである。しかし、そんな彼女だからこそ警戒する気にもなれなくて、カナタは肩肘張らずに済んでいるのだった。

「お前って絶対に人間として生まれていたら苦労してたよな」

「それってどういう意味ですか?」

「貶してるわけじゃないんだよ」

 本心から、カナタはそう思う。カナタ自身が小器用になってしまった分、不器用なくらいに馬鹿正直で素直な人格には憧れを抱いた。

「ほら、聞いたことないか? 馬鹿な子ほど可愛いとも言うだろう」

「わたしって本当に貶されていないんですよね?」

 訝るアステルの疑問は捨て置いて、赤やら黄やらの煉瓦で舗装された通路を抜けた。

 閉ざされた裏門に通じるアスファルトの道は校舎の周りを迂回して地下にある駐車場に延びている。そこに囲まれて校舎側の整備もされていない剥き出しの地べたに二階建ての長屋が二棟寄り添い合っていた。急拵えにしか見えない白い壁面には何カ所も大きな凹みが穿たれ、ガムテープで補修されている。悪天候程度でなら倒れることはないだろうが、冬場は壁の薄さを恨む羽目になるのかもしれない。

 行き交う生徒は運動部が大半で、さすがにカナタほど小柄なものはいなかった。しかし練習していなければならない時間に道草を食っている生徒たちだからなのか、スポーツマンらしい爽やかさに欠ける。彼らの見定めようとしてくる視線を避けていると、やがて人気が少ない校舎と部室棟の合間に追いやられた。

こちら側の壁面に扉はなく、使われなくなったサッカーゴールや用途の分からない鉄パイプ、ネットの固まりが打ち捨てられている。うら寂しい一帯で人気はなく、役目を終えた備品が外からの人目も遮っていた。

 沸き上がった安心感に安堵の息さえ漏らしてしまい、自分の性分にうんざりさせられる。

「……なんて様だ、まったく」

 人探しをしているというのに人気がなく見通しも悪い場所にいてはどうしようもない。

「カナタさん。疲れているんだったら休むことも肝要ですよ?」

「お前は意外……でもなんでもなく、お節介焼きだよな」

 嫌みのつもりではなく、本当に心の底から感想として口にしたらなぜだかアステルの反応は色よかった。

「当然です! 誰かに何かをしようとするのは当たり前のことじゃないですか」

 そうですよね? とアステルは念でも押すようにして訊ねてくる。聞かなかったことにしてカナタは指示だけを飛ばした。

「お前もこの前の猫を見つけたときみたいに耳を澄ませていろ。シロコの声が聞こえたんなら俺に――」

「聞こえましたよ」

 あまりにもあっけらかんと、さも当然の如くそんな返事をされてカナタは言葉を失う。けれどもそんなのは一瞬のことで、すぐに気を取り直すと手早く要求を突きつけた。

「だったら場所を教えてくれ」

「もちろんです。……けど、ちょっと様子がおかしそうなんです」

「俺の知ったことか。良いからさっさと教えろ」

 例によって傲岸なカナタの取り付く島もない態度に気圧されてアステルは萎れる。しかしポケットにしまわれたままの画面に映り込む彼女の反応をカナタが知り得るはずもなく、その口からは無理矢理に言葉が絞り出された。

「カナタさんから向かって右手前方に音源があります。建物の向こうでしょうから距離は遠いと思いますが……」

 それならばこちらから出向くしかあるまい、と心中に湧く気だるさを噛み殺して重たい足を動かし始める。

 部室棟の壁沿いに、捨て置かれた用具の隙間を潜り抜けていった。向かいの校舎の窓は高く、こちら側がほとんど覗かれないためなのか、惣菜やパンのパッケージ、ビニール袋などが放棄されている。日当たりが悪く湿った土の上には足跡もあって、立ち入る人間の存在を示唆していた。やがて突き当たりに学校を囲う生け垣が見えてくる。カナタはもう一度アステルに案内を求めた。

「近づいているのか?」

「はい。ですが、あちらからも接近しています。このまま進むとはち合わせるかもしれません」

「だったら好都合だ」

 散らばったゴミへの不快感から小走りになって草を踏み分けていく。少女の金切り声はそんな中でカナタの鼓膜を痛打してきた。

 その異様さを怪訝に思ってカナタは咄嗟に――

「カナタさん!? どこに行くんですか?」

 踵を返し駆け出していた。

「良いから、今は黙ってろ!!」

 いつになく鬼気迫った声でそう言いつけて来た道を戻ると、壁際に積み上げられた緑色のネットの山を見つける。色褪せて泥がこびり付いたそれはカナタの腰ほどまでの高さで、考える間もなく彼はその陰に身を隠した。

 程なくして幾つもの足音が道の先に殺到し、罵声が痛いほど甲高く響き渡る。

「なんで分かんないの!? わたしには関係ないって言ってるでしょッ!?」

 その声の主に気づいたアステルが何か言い掛けたのをカナタは事前に制した。

「でも、シロコさんが……」

 アステルの訴えも黙殺し、カナタは壁に背中を押しつけると抱え込んだ両膝の間に顔を埋める。できれば耳も塞いでしまいたかったが、会話の内容が気になり我知らず耳を欹てて(そばだてて)いた。

「わたしはあのバカが払えなかった分を肩代わりしようって言っただけ! そいつらは関係ないでしょ!?」

「だから関係あるって言ってんじゃねぇかよ。あいつはこいつらとも勝負してたの。それで負けたんだから払うのは当たり前だろう?」

 シロコと思しき少女に応答する男の方は、恥ずかしげもなく黄色い声で笑うから気分が悪くなる。しかし、そんなものを霞ませてしまう怒声が再びカナタの耳朶を貫いた。

「嘘ッ! あのバカに勝ったのはあんただけだった! なのに、なんであんた以外の三人にまで払わないといけないわけッ!?」

「違うんだって。あいつが勝ってたのは総合での話。こいつらはあいつと個別で競ってたの」

「それだって、どうせあんたたちが適当なこと言って後から自分たちが都合の良いように仕向けただけじゃない!! いつものやり方でしょ!?」

 怒濤の勢いで畳みかけ、シロコは相手の反論を封じにかかる。

「もう一度言うけど、これ以上はわたしと関係ないの!! 関わって来ないでッ!!」

「別に、今返せないっ言うんなら俺たちそれでも良いけど?」

 けれども軽薄そうな男はやはり嘲るような調子のまま後ろに控えた取り巻きたちに命じる。

「俺の代わりにやっといてくんない? 来週までに払わせれば良いから」

 それを言い残すと一人が立ち去っていく足音がした。幸い、カナタがいる方角とは反対に向かってくれて彼は息を潜めたままその場に留まる。それから居残ったシロコと取り巻きたちの間で僅かな遣り取りがなされたが小声過ぎてカナタのいる位置からは聞き取れなかった。

「……何で、わたしがこんなことに」

 取り巻きが自分たちのリーダーを追っていき、取り残されたシロコは独り呟く。それから彼らとは反対の道筋を、つまりはカナタがいる方向へと歩き出してきた。

 逃げ出さなければ見つかるが一本道で物陰から飛び出せば当然見つかる。などとカナタが考えている間にも足音は迫り、そのまま硬直して息を押し殺している間にカナタの眼前を通り過ぎ――なかった。

 カナタのいる何歩か先のところで立ち止まり、気づいて肩越しに冷たく見下ろしてくる。

「盗み聞きしてたの?」

 状況だけ見れば正しくその通りで、だけどカナタにも言い分がある。シロコだってまさかカナタが助けに入るだなんて期待は微塵もしていないだろうし、だから事実をそのままに述べようと決めた。

「猫の件について、具体的に話を詰めに来ただけだ。ここに隠れたのは成り行きでしかない」

「……でしょうね。あんただから、そんなとこだろうと思ってた」

 妙な間を挟んでシロコは前に向き直り、それでもまだやり切れなさそうにして遠く空を扇いだ。赤い夕焼けは町を照らし出せるほど明るくなくて、地上の陰影が深まる中、空だけが光をはらんでいる。

「ごめん。今は猫のこと、話せる気分じゃないから」

 詰まった喉からそれだけの台詞を絞り出し、シロコは薄まる明かりの中へと歩き出した。置き去りにされた影法師だけが長くカナタの目に焼き付く。


 その日の帰り道は日が落ちていつもより肌寒く、家へと続く小道は古ぼけた街灯の白々しい明かりに照らされていた。しかしアスファルトに広がる朧気な光の輪は頼りなく、その外に掻き消せない暗闇がわだかまっている。

 そうした宵闇の中に踏み出していくカナタは知らずポケットにしまったものを握り込んでいた。我に返って手を引き抜こうとすると、そこから声が漏れ出してくる。

「……ねぇ、カナタさん」

 彼女が言いたいことまで全てが察せてしまい、カナタは手元から前方に目線を引き戻す。何気ないふうを装うとしたらずっと固い声でこう返していた。

「関わるつもりはないからな」

「でも、カナタさんは……」

「シロコの幼馴染みだから、ってか?」

「ちがっ――」

 素っ気ない返しにアステルが反駁しようとするのを遮ってカナタは言葉を押しつける。

「前にも話しただろう? あいつと俺はもう無関係なんだ。お互いにそれで納得したし、だからあいつも俺に助けなんか求めなかった。それで良いだろう?」

 気を抜いたら八つ当たりじみた罵りに変わりそうで、だから必死に自分を律しながらも口は噤めない。

「アステル、これだけは言っておく。お前がどれだけ頼み込もうと、シロコの件に首を突っ込むことはない!」

 言い切った瞬間にカナタの首や肩から力が抜けた。そこで初めて彼は自分が力を込めて、威圧するように言いつけていたことを自覚する。アステルはすっかり萎縮してしまっていた。

 ――そう、一瞬でもカナタが感じたのは、彼が彼女を侮っていたからだ。

「……そうですね。カナタさんに無理強いはできません。だから今度は、わたし自身がどうにかできないか、考えてみます」

 声音は静かに大人びていて、巡る決意はカナタに口を挟ませない。拒絶しているわけでもないのに、今のままのカナタを寄せ付けない意志がアステルから滲んでいた。

「口で言って通じる奴らじゃないぞ。何か、方策はあるのか?」

 訊いてなんになる? どうせ協力もしないのに。

 そんなカナタ自身の自分を責め苛む声さえ打ち消すようにしてアステルは。

「……はい」

 とだけ肯定する。実のところ、彼女の中でもまだ煮詰めは足りていなかった。だというのにそんな不安すらねじ伏せて彼女は怯まずたじろがない。

「お前、あいつがどういう状況に置かれているのか、分かってるのか?」

「もちろんです。シロコさんのご友人が賭け事をして負けました。その支払いをシロコさんが肩代わりしようとしています。そこに問題が生じたんですよね?」

 その通りだった。人間の、そんな黒い部分をアステルが理解できているとは思っていなくてカナタは驚愕する。善意の塊のような少女だったから賭け事もいじめもカツアゲも、根本のところで頭がついて行かないものだと思っていた。

「ご友人のためにあんなに必死になれるなんて、やっぱりシロコさんも良い人ですよ!」

「…………」

 やはりアステルはアステルだった。

「……まぁ、概ねお前の理解で間違っていないよ。付け加えるのなら、賭けの内容ってのはおそらくテストの点数だな」

「えぇと、それは試験の点数を競って、ということですか?」

 頭の中にはさぞ華やかな花畑を拵えていそうなアステルだが、案外理髪で飲み込みは早い。だから大枠の背景は省き、人間の立ち位置だけを教える。

「シロコと話していた中で一人偉そうな奴がいただろう? あいつは進学科の所属で、恐らくは取り巻きの連中が普通科だ」

「……どうしてそんなことが分かるんですか?」

「良いから黙って聞いていろ」

 進学科と普通科は個人の希望を挟まず、中等部最後の試験内容によってのみ選り分けられる。そこで一定以上の成績を収めたものが進学科所属となり、以降の三年間は別々のカリキュラムを与えられた。そんな制度故に進学科の一部には自分たちの所属を鼻にかけ、普通科に対して横暴に振る舞うものもいる。そうした人間の典型として普通科に取り巻きを設けるのだった。

「人間ってのは人に従うのも従わせるのも好きならしくてな。あんな頭の悪そうなリーダーでも地位さえあれば人は集まるんだ。その集団がシロコの敵の正体だろう」

 従う側も従わせる側も気色悪くてカナタは距離を置いていたが、同じ学校に通っていれば嫌でも視界に入ってくる。誰しもが目を逸らしてやり過ごすしかない、小さな社会の暗部だった。

 しかし、この問題の救えなさはそんなところにあるのではない。

「言っておくが、確かにあいつらは都合の良いカモを付け狙っている。だが単純に虐げる側と虐げられる側で分かれているわけでもないんだ」

「どういうことですか?」

 人間関係とそこにまつわる心理の、得体の知れなさに触れたことのないアステルの声は柔らかい。だから彼女には黙っていれば良かった、と後悔する反面でやはり今の内に事態を把握させてもおきたい。

「純粋な被害者もいないわけじゃない。シロコの奴……もまぁ、どうせこちらに該当するんだろう。だがな」

 そこから先を語るには僅かな逡巡があって、けれどもここまで語れば後戻りはできなかった。

「取り巻きになっているのは被害者に加害者にも回る連中なんだ。意志の弱い人間が状況に流されて他人を攻撃したりされたりする。同じ穴の狢なんだよ」

 だから手に負えない。どちらも状況の一部でしかなくて、手を差し伸べても解決するのは一時的。またしばらくしたら同じことが繰り返される。

 そのときには被害者と加害者の構図が逆転していることなど珍しくとも何ともない。

「アステル。お前が助けようとしているシロコの友人ってのは哀れなだけの被害者じゃない。一ヶ月も経てばバカ面のリーダーの子分になっている。それからまた同類を弄ぶんだろう」

 カナタはシロコが「あのバカ」と呼び、庇っている相手に心当たりがある。そいつの人となりは嫌というほど思い知らされた過去があり、手助けするシロコの気が知れなかった。

「関わっても後悔するだけだ。必ず最後には馬鹿を見る。だから、止めておけ。お前が関わるほど奴らに価値はない」

 語りはそんなつもりなくとも熱が籠もって、どうにか届いてくれるようにとカナタは願った。アステルを醜い人の欲望と願望が入り交じった中になんて招き入れたくない。

 それでもカナタにだって分かってはいた。

「カナタさんってやっぱり、根は優しいですよね」

 アステルがどういう性分で、何を思い何を守ろうとしている少女なのか。

「ありがとうございます。だけど、ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しいんです。けれども」

 その先はもう聞く前から予想できてしまって、カナタは電源を落としてしまおうかとも思い悩んだ。だが聴かずに済ませるのも卑怯に思えて、うなだれながらも耳を傾ける。

「力になれたら、って思います。助けられないなら、せめて支えになれたら、って。もう出会ってしまってるんです。全部知って、それなのに何もしなかったら、わたしは自分が受け入れられなくなる」

 見えないけれどもアステルがどんな表情でそれを言ったのかはカナタにも分かる気がする。きっと穏やかさの下に勇壮な決意と優しさを秘め、いつもと変わらぬ微笑でそんな台詞を言ってのけたのだ。

「任せて下さい! わたしだってやるときはやるんですからね!」

「…………」

 彼女のその強さが眩しくて、カナタは何と返して良いかも分からずに返事を保留した。その代わりに沈黙を埋めようとして話を戻す。

「それで、お前はどんな方法であいつを助けるつもりなんだ?」

 アステルは「うーん」と切り出し方に迷い、一つ一つ言葉を選び出してくる。

「まだ具体的なやり方まで決めたわけじゃないんです。けれどもわたしの主張を押し通すのに、必要な突破口は見つけています」

 その言い方がアステルにしては随分と物々しく、やはり彼女には似つかわしくないのではないかと無責任な思いがカナタの胸中を過ぎる。それを握り潰し、しかし黙ってもいられなくて質問が口をつき先走っていた。

「突破口って、どうするつもりなんだ? お前のことだから無闇に人を傷つけたりはしないだろうが……お前自身も含めて、あんまり誰かが危ない目に遭う方法だったら俺も黙って見ていられない」

「あはは……心配してくれるのは嬉しいんですけど、わたしの能力はそんなに危ないものじゃありませんよ」

「能力?」

 飛び出した単語が場違いに思えて、反射的に問い詰めてしまう。普段叩いているような憎まれ口も忘れ、カナタは通信端末を引きずり出すと画面に映る少女を見据えた。

「お前、そこから外に干渉する方法なんて持ち合わせていなかっただろう。それとも……思い出したのか? 何かが分かったのか?」

 早口になるのはそれだけカナタがこの少女を見極めかねているからだ。どうしたら生まれ、どんな特性を持つのか、不明な点があまりにも多過ぎる。

「あのっ、そんなに慌てなくてもちゃんと説明しますから、だから落ち着いて……っ!」

 アステルはカナタの剣幕と呼んでも差し支えない気迫に怯えて身を竦めていた。そこでカナタも自身を省み、画面から顔を離してみたが、好奇心までは打ち消せない。

「悪かったよ、少し冷静になる。だけどお前の能力って何なんだ? そいつはお前の根幹に迫るものなのか?」

「えぇっと、あんまり冷静になれていないような……」

 言われるまでもなくその自覚はあって、しかし指摘されたところで収まるものでもない。それを目にしたアステルの笑みは一層複雑そうな色合いを帯び、この話題に見切りをつけた。

「わたしの能力ですけど、いつから使えるようになったのかは分かりません。でも、いつの間にかできるようになっていたことでしたから、元々わたしに備わっていたんだと思います」

 それはつまり、アステルの能力とやらが彼女の成り立ちを解き明かす鍵になることの証明だ。

「それで、どんなものなんだ?」

「だから少し落ち着いてって……難しいんでしたね。だけど、期待するほど大したものじゃないですよ」

 それでも良いから、とカナタが続きをねだるとアステルはやや照れ臭そうにしながらも頷く。はにかみつつ能力とやらの内容を打ち明けてくれた。

「わたしの能力というのは、例えばカナタさんのコンピュータや端末を操れるというものです」

「なんだと!?」

 カナタはほとんどいきり立つようにして立ち止まり声を張り上げてしまう。その反応を予想していたのかいなかったのか、アステルは頭を抱えて身を小さく丸めた。

「……す、済まなかったな。脅かすつもりはなかったんだ。だけど、それよりもハードを操るだと? 具体的には何ができるんだ?」

 そして抑えようとしてもやはり高ぶった好奇心や知識欲までは誤魔化せないカナタである。しかしこの場合に限ってはそれも無理がなくて、というのもアステルの能力は今や危険性の高さから駆逐されつつある技能に似ていたからだ。

「もしかして、そのコンピュータも自在に操れるのか?」

「自在に、というのがどれほどかにも依りますけど、たぶん思いつくことなら一通り」

「だったらそのコンピュータから俺のケータイにメールを送って見せてほしい」

 命じられたアステルの返事代わりに通信端末が鳴って、電子メールの受信を告げる。到着したばかりのそれを開くと『今のカナタさんは少し恐いです』と些細な抗議が記されていた。

「悪かったな!?」

「ごめんなさいごめんなさい!」

 畏縮し切ったままそんなことを言われてはさしものカナタも気が引ける。腑に落ちないものを感じながらも言及は避け、話を引き戻した。

「それで、お前の能力の話だが、こんなことが幾らでも好きなだけ行えるのか?」

「そうですけど……」

 アステルは怪訝そうにして、何か問題が? とでも聞きたげカナタの表情を伺ってくる。まるで事態の重大さが理解できていないと知ってカナタは偏頭痛持ちでもないのに頭の痛さでへたり込みそうにだった。

「やっぱこいつは頭ん中が花畑だ……脳天気ってレベルじゃねぇ……」

「そ、そこまで失望されるようなことですか……」

 この少女が極度の世間知らずだったと思いだし、どうやって説明したら良いものかとカナタは頭を悩ます。その能力に対する認識だけでも、何とか正してやらねばならなかった。

「なぁアステル、お前は現代社会で一番替えの利かないものは何だと思う?」

 少し迷ってから、それでもはっきりとしない口調でアステルは答える。

「人だと思います……けど、違うんですよね?」

 首を傾げるアステルにカナタは頷いて苦々しいものを噛みしめながらも事実を告げる。

「システムなんだ。今の社会を支える無数のコンピュータ……そいつを複雑なシステムが動かしている」

 カナタの住む時代にデジタルやアナログといった言葉は死語と成り果てていた。そうした区分が意義を失うほどに思いつく限りの物品が電子化されているからだ。

「実際、そうすることで人間側の負担は着実に減らされてきた」

 そうした変革に反発もありはしたのだ。けれども圧倒的な情報の取り扱い安さともう一つ、決定的な要素が時代への反動を容易く押し潰してしまった。

「安全だったんだよ、何よりもな」

 人間がコンピュータに競り勝てる時代はとうに過ぎ去った。人間のミスさえも予測して補填し、コンピュータは責務を完遂する。セキュリティに関してもそれは同様であり、所有や使用に著しい制限を設けられた大規模量子コンピュータが情報通信局の下で全国に配備され、この国から騒乱の種を一つ残らず洗い出し排除していた。

「今の時代はその信頼性によって成り立っている。……分かるか? お前の能力とやらがもし社会の運営に関わる機器や設備まで操れたのなら、どうなるのか」

 さすがにこうまで言われたら聡いアステルは察してしまったらしく唖然としてカナタを見上げている。

「お前の能力は、この時代の社会を転覆することだって目論める。それだけ危険な代物なのかもしれないんだ」

 無論、アステルがそんなことをするとはカナタにも思えない。しかしそんな能力があるというだけでもう、人々は彼女を放っておけないだろう。

「わたし、もしかして大変なものを抱えてしまって……!?」

 おおよその事情を把握したらしいアステルは涙目で自分の手元とカナタを見比べる。まだ力の及ぶ範囲を知らない段階で脅し過ぎただろうかと少しカナタは反省した。

「ひとまずはその認識さえあれば良い。それがあるのなら……言うまでもないだろうが、誰にも教えるなよ? 知れ渡ったらどうなるのか、俺にも分からん」

「は、はいっ!」

 息でも詰まってしまいそうな上擦り方のアステルに苦笑しつつ、カナタは宵の暗がりに続く家路を急いだ。

 薄く曇った空に一等星が一つ煌めいている。



 シロコのいざこざを目撃した翌日は電車が一部運休で午前中は再開の見込みがないらしい。電車通学の生徒が多いカナタの学校はもろにその煽りを受けてしまい臨時休校となっていた。

 かといって有意義な余暇の過ごし方に心当たりがあるでもなく、自重を支えることにさえ倦んだカナタは椅子の背もたれに身を預けてしまう。

「電車が運休とはなぁ……お前、なにもしてないのか?」

 冗談めかしていったつもりだが、当の少女は酷く怯えた目でカナタを非難してきた。

「そっ、そんなこと……非道いです。絶対にするわけないじゃないですかっ! それにわたし、昨日カナタさんに教えたのに……」

「教えただと? お前が俺に?」

 退屈を紛らわすためだけに会話していたカナタの頭は鈍くて、すぐには記憶を掘り起こせない。しかし思案している内にアステルの方が堪えかねて声を張り上げた。

「カナタさんがわたしに、この能力が大変なものなのだと教えて下さった、そのあとのことです! わたしはここから出られないから――」

「あぁ……あぁ、はいはい。分かった分かった思い出した」

 白熱するアステルの語気を押し留めるつもりで発言を遮ったのだが、神経を逆撫でしているようにしか聞こえない。金色の柔らかな長髪を逆立てる勢いで膨れ上がるアステルの憤慨は、しかし無反応のカナタを前にすると萎んでいってしまった。それを見計らったわけではないが、空気が静まったのを察知してカナタは沈黙に言葉を差し挟む。

「お前がそこから出られないって話だろ? 今のところ、その空間は他の機器と繋がってないから外への干渉もできないっていう」

「……覚えてるじゃないですか」

 言外に、意地悪、と言われた気がしたがカナタはアステルから目を逸らしつつ話を続ける。

「そんで、そいつがお前に立ちはだかる最大の課題でもある、と」

 もちろんシロコの一件での話だが、それを直接口にするのは躊躇われた。

「そうなんですよね。このままだとわたしは手出しができません。けれども、カナタさんの話を聞いたら違う方法を模索した方が良い気もしてきて……」

 そのまま物思いに沈んでいってしまうアステルを視界の隅に捉えながらも素知らぬ振りをして彼は押し黙る。アステルの能力は安易に取り扱える代物ではなかったし、それに何より手は出さないと明言した自分がとやかく言うのはおこがましくも感じた。

 こんな禄でもない案件でなければ、何も考えずに手助けできたのに。

「アステル、何でお前は……」

「はい?」

 知らずにこぼしてしまったらしい問いを打ち消そうとする声に、玄関のチャイムが被さった。来客など久しく迎えたことのないカナタは訝しく思いながらも立ち上がる。

「宅配便か? 何にせよ珍しいな。ちょっと行ってくるから、お前はここで猫を見張っていてくれ」

「了解です。あぁ、でも念のために扉は閉めていってくださいね」

「分かってる」

 部屋を出る間際、ふと振り返ってカナタは室内の猫たちに目をやる。

 サビ柄の猫はこれまで同様に大して広くもないカナタの部屋を念入りに落とし物でも捜すように歩き回っていた。それと対照的にトラ柄の方はカナタが百均ショップで買ってきた座布団に丸くなって一日の大半を昼寝して過ごす。ごく稀に動いたと思ったら日当たりの良い位置まで座布団を引きずっていくだけなのだから筋金入りだった。

 廊下に出ると後ろでに扉を閉めて、玄関に向かう。チャイムは断続的に、こちらの反応を伺おうと鳴らされているからまだ相手は立ち去っていない。実のところ、概ね誰かは予想がついていたから急がない。全く呑気に歩いていくと、扉越しに少女の声が聞こえてきた。

「ね、ねぇ!? いないの!?」

「うるっせぇな……」

 カナタは気怠げに呟きながらも解錠して、扉を押し開こうとした。

「いっ……!?」

 重たい感触に跳ね返され、鈍い音と呻き声に慌てて扉を引き戻す。

 仕方なく足音が一、二歩退いていくのを待ち、改めて扉を開くと今度はぶつかることはなかった。遮るもののない日光が顔に降りかかって目が眩む。

「っあぁ……良く晴れた日だな」

 重たく疼く目で雲一つない空に見ほれていると頬に視線を感じた気がした。無難にやり過ごせやしないかと思案する。

「ちょっと! 少しくらい謝ったらどうなの!?」

 その甲高い、至極真っ当な反論に顔をしかめてカナタは限界を悟る。

「あぁ……その、うん。すまなかったな、遅くなって。少し作業に熱中していたもんだから」

「そっちじゃない! ……いや、そっちも何だけど、それよりも他に! あるでしょ!?」

 赤くなった額と鼻頭を押さえるシロコの目尻には涙が溜まっていて、扉の衝突の威力はそれなりだったらしい。ここで口論を繰り広げる気力などなく、殊勝に頭を下げた。

「すまなかったな」

「なっ、何よいきなり……」

 神妙なカナタによほど意表を突かれたようでシロコは目を丸くする。訝しみつつも気勢を削がれたらしく、有耶無耶な気分を吐息に混ぜて霧散させた。

 そうなるのを見計らい、カナタは改めて私服姿の幼馴染みに向き直る。

「猫のことだろ? お前、この手のことになると本当に熱心になるもんな」

「悪い!?」

 鋭い目つきを突きつけてくる少女に、こんなところでまで怒ることもなかろうに、と苦笑してしまう。或いはまたからかわれたとでも思ったのだろうかとそんな思いつきを打ち消し切れずにカナタは少し反省させられた。

「これでも誉めてるつもりなんだよ。それよりお前、今日中に猫を引き取っていくつもりなのか?」

「ううん、まだそこまでは。今日は、ちゃんと話せなかった分、猫の体調だとか大きさだとかを自分の目で確かめに来ただけだから」

 そう言うシロコの目は心なしか輝いていて、普段覗かせている棘が根こそぎ抜け落ちている。昔から猫には目がない少女なのだ。カナタとしては従順な犬の方がまだしも可愛げがあるように思えるのだが、考えてみるとサビ柄の子猫はそこいらの犬より人懐っこかった。

 愛嬌を振りまくのならシロコのような人間だけにすれば良いのに。

「ま、猫もお前に飼われた方が幸せだろう。取り敢えず中に入れよ。二匹とも俺の部屋にいる」

 言いながらカナタが玄関口から退き、入るように促すと曰く物言いたげシロコの視線を突き立てられた。

「何だよ?」

「……これが三年間ぼっちだった奴のデリカシーなのね」

 そっぽを向いて俯き加減に溜め息をつくシロコの訴えは婉曲過ぎて、咄嗟に意味が読み取れない。それなのに考えてまで理解しようとする努力も馬鹿馬鹿しくてカナタは黙殺すると廊下に踵を返していった。その背を厳めしい顔をしたシロコが追いかけていき、二人して短い廊下を進む。薄暗いそこでの会話はなく、カナタも黙々と足を進めていき自室の扉に手をかけた。

 開け放って、初めてそれから失態に気づく。

「おかえりなさい、カナタさん! あ――」

「何、今の声は? え――」

 カナタが止める間もなく部屋に踏み込んでしまったシロコと画面の向こうにいる少女が目を合わせること数秒。

「シロコさんですね!? カナタさんのお友達の!!」

 歓喜に染まったアステルの問いかけに。

「「違うッ!!」」

 否定する二人の声が重なった。


「……ねぇわざと分かり辛い説明してない?」

「それはお前に理解力が欠けていておまけに俺の話をまともに聞かないからだ。猫にしか興味がないなら最初から聞いてくるな」

 椅子に腰掛けたカナタの辛辣というよりは罵倒に近い文句に、床に這い蹲り猫を追いかけていたシロコが振り向く。無論、そんな視線など意にも介さないつもりだったのだが意外なところから叱責が飛んできた。

「駄目ですよカナタさん、せっかくシロコさんの方からやってきてくれたのに。本当はもっと優しいじゃないですか?」

 落ち着いて諭すような言い聞かせ方で下手に反論すればカナタの方が幼稚そうに見えてしまう。しかし、だからといって認めるのは断固として認められずにカナタも言い返した。

「良いか? この際だからはっきりと言っておくがな。俺が優しく見えるのだとしたら、それはお前がそう思いたいからだ。俺を美化し過ぎているんだ」

「どういう意味です?」

 神妙な面立ちになったアステルは静かな双眸でカナタを見つめてくる。その奥深い青色に吸い込まれて我を忘れそうになり、カナタは咄嗟に目を逸らした。

「そのままの意味だよ。結果的に俺はお前を助けた形になったからな。一応は恩人である俺を優しいだとか何だとか、そういう人間なんだと思いたがっているんだろう?」

 なんて話している内に生温かい不快感が喉元にわだかまって、カナタは唸り声を上げる。喉に力を込めて歯を食いしばり、こみ上げてくるものが弱まった瞬間に口を開いた。

「ともかく、だな。そんな空間に縛り付けられていなかったら、本当に優しい人間にだって出会えるから。だから俺みたいな人間におかしな期待をかけてくるのはやめろ」

 言い切った途端に沈黙が訪れて、自覚していた以上に声を張り上げていたカナタは耳鳴りに包まれる。鈍い痺れがしばらく鼓膜に付きまとって、カナタの気まずさを一層深めた。

 無言の時間はゆっくり過ぎ去り、やがて蚊帳の外にいたシロコがおずおずと手を上げる。

「わ、わたしってもしかして帰った方が良い?」

 その空気を読んでいるようでまるで読めていない質問は少なからずカナタの癇にさわり、それ以上にアステルを恐縮させた。

「ご、ごめんなさい! こんな雰囲気にするつもりじゃなくて……」

「何でお前が謝るんだ馬鹿! 俺の発言が原因だろうが。……ということで、すまなかったな」

 そうして置かないとアステルの気が済まないだろうからカナタは先んじて頭まで下げる。その真意に気づいたのかどうか、アステルはあわあわとどちらに声を掛けるべきか迷って最後には自分も頭を下げた。

 その一連の流れを見ていてシロコの表情は見る見る渋いものになっていく。

「あんたたちって仲悪いの? それとも良いの?」

 これに対するカナタとアステルの反応はまちまちで。

「見ての通りだ」

 と肩を竦ませて言うカナタの奥では画面の中の少女が邪気も疑念もない笑みを咲かす。

「大の仲良しです!!」

「どうしたらそう思えるんだッ!?」

 肩越しに背後を振り返ってカナタが睨みを利かせるとアステルは怯えた素振りを見せたがすぐに気を取り直して「絶対に仲良しです! 間違いありません!」などと断言する。

 その好意を間近から受け止めたカナタは何か反駁しようとして虚しく空気を噛みしめた。純粋な好意への対処法をカナタはこれまで人生から学べてきていない。

「……何となく、分かった気がするわ。あんたたちの関係」

「待ってくれ、待つんだシロコ。今のお前は恐らく勘違いしている。俺とアステルは普段からこんなやり取りをしているわけでは……」

 しかしカナタの弁解にもシロコは取り合わず、愉しそうに喉を鳴らして笑うばかりだった。

「ぼっちだと思ってたけど、ちゃんと話せる相手見つけてたんだ。だったら……そっか。うん、良かった」

 そんなことを言い出したシロコの目つきは柔らかくて、言葉遣いに険がない。

 しかしそれが罪悪感に基づいた発言だと気づいていたカナタには、黙って頷く気になどなれなかった。わざとらしく溜め息をつき、肘掛けに頬杖をつく。

「言っておくが俺は一人でいたいから一人でいるんだ。生まれつきの性分でな。……小学校の頃だって、お前くらいしか友達いなかったろう?」

 その言葉の真意に気づけないアステルは不思議そうにカナタを眺めていたが、シロコの方は違った。気遣われたのだ、と気づいて赤面しそれから気まずそうにカナタを睨みつける。

「知ってるしそんなこと! わたしがいなかったらずっと一人で機械ばっか弄くってたくせに!!」

 それだけを言い捨てるとシロコは荷物を纏め、カナタの部屋の戸口に向かう。扉から半身踏み出したところで足を止め、短めな黒い髪を指先で弄びつつ視線を寄越してきた。

「猫のことだけど、オスとメスが一匹ずつ、ね。両方ともわたしが預かって良いの?」

「そうしてくれ。生き物を飼うなんて俺には――」

 言い掛けたところで椅子に座るカナタの膝にサビ柄の猫が飛び乗ってくる。何かを期待するような目で見上げられて喉までせり上がっていた言葉は消沈してしまった。

 決まり悪さを隠し切れず、発言諸共飲み下してカナタは返事に窮する。

「まだ決まってないんなら、意思が固まってから電話して。それまではこっちも待ってるから」

 言われて机の上にある自身の通信端末を一瞥する。そこにはつい今し方まで記されていなかったシロコのメールアドレスと電話番号が収められている。

 本当にこれで良かったのか?

 問いかけたのはシロコに対してである以上に、受け入れつつある自分に向けて。

 シロコとの不干渉は中学校から知らず知らずお互いが不干渉を守っていた境界だった。そのはずなのに、猫を拾ったと言うだけで随分と呆気なく綻んでしまっている。

 自分はこれまで人との関わり避け続けてきたのに。

 それでも、それだからこそ馴染んだ通信端末に手を延ばし掛けて、カナタは躊躇う。

「カナタさん?」

 気遣わしげにこちらを伺ってくる少女の青い瞳は、きっとカナタの葛藤を見透かしている。事情なんて知らなくても、この多感な少女に隠し事など無意味だった。あまりにも彼女はカナタの心に触れ過ぎている。それなのに。

「……いいや、何でもないよ」

 強がるだけで無駄に終わるとは知りながらも少し無理をして笑みを顔に張り付ける。

「ただ、ちょっとぼうっとしていただけだ」

 触れたらきっと苦々しい気持ちになると思っていた。それなのに実際には、恐れていたものが去来してこない。どこか現実味に欠けた心地に包まれつつ、新しい繋がりを手に取ってカナタは息をつく。

「分かったよシロコ。早い内に決めるつもりだから、それまで待っていて欲しい」

「むっふっふ……ようやくカナタも、猫の魅力に気づいたみたいね。もし飼うんなら名前もちゃんとつけてあげなきゃ駄目だよ」

 そう楽しそうに言うシロコは幼い頃のような悪戯っぽさで笑う。堅苦しくこと構えていた自分が馬鹿らしくなってカナタも失笑した。

「大きなお世話だ」

「今はまだ素直になれないのならそのままで良いよ。だけどその強がりもいつまで持つんだろうね? それじゃあ、わたしはこの辺で!」

 好き勝手に言いたいことを言うとシロコは今日一番の浮ついた足取りで廊下を走り去っていってしまった。しばらくして「お邪魔しました!」という挨拶が響いて扉のしまる音がする。

「……猫が関わるだけで、よくもあんなに機嫌良くなれるもんだ」

「カナタさんのコンピュータ好きも相当なものだと思いますけどね」

 事実、その通りだという自覚くらいはカナタにもあった。誰にでも使えるインターフェイスと仕事でも休暇でも持て余すほどの拡張性、汎用性がポケット一つに収まる時代、持ち運べないコンピュータに出番はない。

 だから飛び切りの不満を視線に込めて、鋭く差し向けるだけに留めたカナタである。

「ひぃっ!?」

 ……未だに不意の睨みが効いてしまうのもどうかとは思ったが。

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