第3話
「ごめんなさいね。助かったよ」
還暦を迎えて久しいらしい年配の女性に言われて、カナタは暮れかけの夕空に目を逸らした。
「あぁっと、これは……いえ、単なる気まぐれですから」
まさかお星さまの導きだとか、画面の向こうにいる少女の頼みを聞いただけだなんて明かしてもカナタの正気が疑われるだけだ。彼自身の意思ではないとはいえ、せっかく人を助けた後にそんな目で見られるのは物悲しい。だから曖昧なことを言ってカナタが誤魔化すと、女性は分かっているとばかりに頷いて、人の良さそうな顔に笑みを浮かべた。それから会釈して、やや古ぼけたアパートの管理室へと帰って行く。
その後ろ姿が見えなくなるのを見計らって、カナタは問いかけた。
「終わったぞ」
言いながら懐より通信端末を引っ張り出す。つい今し方までカナタは、アステルに頼まれ、先ほどの老婆と金網に絡み付いた蔓を取り除いていたのだった。
だが画面に映るのは、山林から注ぐせせらぎの畔に建ったログハウスのみで肝心のアステルが見当たらない。そこは住処のないアステルのためにカナタが設置したばかりの小屋で、当初は家具一つなかった。近頃のアステルはその整理に明け暮れていて、また飽きたらず没頭しているらしいと知る。
しばらくするとその扉の開く音が聞こえ、同時に彼女の声で謝罪の文句が飛び出してくる。
「ごめんなさい! わたしが頼んだことなのに、別の用事にかまけていて。えぇと、それでも話は聞いていたんです。すごく熱心に働いてましたよね……お疲れさまでした」
アステルは近く木の根本に立てかけられていたタブレット型端末を手に取り、一生に一度の幸福を手にしたような笑顔で覗き込んでくる。
「お待たせしました!」
「大して待ってないよ。……なんて気遣いが俺の口から出ると思ったら大間違いだからな」
カナタとしては最大限に皮肉っぽく言い放ったつもりなのだが、それでもアステルは笑みを深めるばかりだ。
「だから、つまりカナタさんはわたしを待っていてくれたんですよね?」
「……そうかもな」
怯むどころか嬉しそうにさえするアステルの表情を苦々しげに見下ろしつつカナタも自らの家路に戻った。自宅にほど近く駅から遠い街路に入ったとき、アステルは沈黙するカナタに向けてこんなことを言い出す。
「カナタさんってあれこれ言いながらも、真剣にわたしのお願いを聞いてくれますよね」
「っるせぇな……」
実際、その通りだったから煙たげに返事をしてしまう。腹立ったまま夕闇の深まる道の先を睨みつけた。一度や二度では済まなかったから、なおさら忌々しげに。
「……なぁ、アステル。そろそろ教えてくれよ。一体どういうつもりなんだ?」
「何のことです?」
とぼけているのか本当に分からないのか、不思議そうにするアステルにまたしても苛立つ。カナタはそんな憤りを奥歯で噛み潰して会話を押し進めた。
「この頃、ずっと俺に……その、人助けみたいなことをやらせているだろう? それがどうしてなのかと聞いている」
自覚がないはずがない。先ほどの老婆は知り合いでも何でもなかった。偶々一人で作業しているのを見かけ、アステルから助けないかと提案されたのだ。カナタもこれが今回限りならば納得していただろう。しかしシロコとの一件に始まり、荷物運びやら道案内やら、アステルは何かとカナタに人助けを依頼していた。
「幾らお前でも、何か目的があるだろう? どうなんだよ」
問われたアステルは珍しく口ごもって明快に答えない。
「わたしには、ほら……肉体がありませんから。それで、カナタさんに頼るしかなくて……」
そう言われてしまうとカナタにも反論が思いつかなくなるのだが。こいつならばあり得てしまう、と思わせられる程度にアステルはお節介焼きで、。カナタにも要らぬ気遣いをしていた。
ただ、そう分かっていながらもカナタは冷ややかに言い放つ。
「人に構ってないで、まず自分のことをどうにかしたらどうだ? 少しずつデータ……というか記憶も、取り戻しつつあるんだろう?」
この問いにアステルは微笑みかけたまま困惑して、表情を決めかね目を伏せてしまう。
「それはまぁ、そうなんですけど……はっきりしなくて。何を思い出しているのかも分からないんです……」
「分からん感覚だな。そんな状況だったら、もっと不安になるもんじゃないのか?」
知らぬ場所にたどり着いて、自身の記憶もない。知り合いなど当然いるはずもなく、だったらアステルは何を拠り所にしているのだろうか。
カナタなりに彼女を気遣っているつもりだが、アステルは緩慢にかぶりを振る。
「忘れた記憶は、忘れた記憶です。わたしは今自分が生きるこの時間を全うしたい。だからわたしは今、自分がやりたいと思ったことをやっているまでです」
そう言い切らせたのはアステルの本音で、気負わずに彼女は笑ってみせる。それが弱みや本心の全てだとは思っていないカナタだが、この場では「そうか」とだけ頷いておいた。
それから再び空を見上げて、すっかり赤らんだその色合いに時間の経過を思い知らされる。
「あっという間に感じていたが……案外、時間を食っていたみたいだな」
悪くない心地なのは久々に体を動かしたからなのか、それとも。
「ところでカナタさん」
「なんだ?」
一人で物思いに耽っていたカナタは不機嫌を隠そうともせずに低い声で訊ねる。そんな反応にも慣れつつあったアステルはやや怯むだけで淀みなく自身の疑問をぶつけていった。
「ずっと気になっていたんですけど、この空間? それとも世界と呼ぶべきでしょうか……ともかく、ここの呼び名は何と言うんですか?」
「別に、何とも」
即答されてアステルは露骨にがっかりした顔をする。
「もったいないですよ! せっかく、こんなに美しい世界を作ったのに名前がないままでは」
「名前ってそこまで重要なのか……?」
こだわるべきものを見つけられなくて、カナタの応答はどうしても投げやりになる。アステルはそうしたカナタの対応がまた気に入らなくて、しかし文句を言える立場でもなく気がついたらこんなことを口走っていた。
「だったら! だったらっ、わたしが名前をつけても良いですか!?」
「……ほう? お前が?」
仮想空間の云々よりもアステルがつける名前、という点に関心を引かれてカナタは彼女に一瞥をくれてやる。それを挑発と受け取ったのかアステルは「うぐ……」と緊張した面もちで唇を『へ』の字に曲げた。
「あ、あんまり期待はしないでくださいよ……?」
「大事な名前なんじゃなかったのか?」
予防線を張ろうとしてさらなる質問で追いつめられ、いよいよ固かった表情が泣き出しそうになる。そうさせた自覚はないカナタだったが、涙目で見上げられるとさすがに気まずかった。
溜め息をつき、頭を掻きつつ諦めを滲ませ、優しさを装った口調で告げる。
「一応、俺は開発している最中に『楽園』と呼んでいた。大した由来があるわけじゃないがな。もし決まらないようだったらそれを参考にしろ」
そうして教えたら教えたでまたアステルは不満げに唇を尖らせ、カナタを見上げてくる。
「名前、もうあるんじゃないですか。それならわたしが名付けなくても……」
「全く呼称がないのも不便だから、試しにつけただけなんだよ。最終的にその呼称も使わなくなって、今は仮想空間としか呼んでない」
あの仮想空間はある人物の研究を参考にしつつも、カナタが一人で地道に作り上げてきた。呼び合う仲間もいないのだから、呼称など当然廃れてしまう。だが今は事情が違った。
「お前もいることだし、確かに名前ぐらいつけておくべきなのかもな」
取り留めない独り言のつもりでいたのだが、アステルには賛同と受け取られた。上擦った声で彼女は了承してくる。
「はっ、はい! お任せ下さい!」
そんな少女の反応がおもしろくて、思わず吹き出してしまうカナタである。
「何だ急に……忙しない奴だな」
今し方まで泣きそうな顔をしていたくせに、と心中で毒づきつつ、いつの間にか止めていた歩みを再開した。田圃に面する道路から民家の隙間の路地を抜けて、辛うじて自動車一台の通れる小道に入る。住宅街の間隙を、水が真緑の貯水池や材木の腐った廃屋が埋めていて、やたらとうら寂しい一帯だった。
そのおかげか、鼓膜を震わすか細い声音にカナタは気づく。
「アステル。今、何か言ったか?」
「はい? ……特にわたしは何も話していませんけど、カナタさんの聞き間違いではなくて?」
どうだろうかとカナタは耳に残る感覚を呼び起こそうとして、中断する。耳元を擽るような声が、というよりは鳴き声がまた聞こえてきたせいだ。
「どうにも、俺の気のせい、ってわけじゃなさそうだな」
無視だってできたはずなのにどうしようもなく気掛かりで辺りを見回す。しかし夕日も建物に隠れる裏道では視覚に頼ろうにも限界があった。春先とは言え、夜の訪れと共に迫りくる肌寒さのあまり手をポケットにしまうと、しばらく暖めて端末ごと引き抜き、アステルに訊ねる。
「お前にも聞こえるだろう? 何となくだが気になるんだ。場所が分かるようなら教えてくれ」
カナタの側が珍しくアステルを頼ったものだから彼女は戸惑いつつも、その応答は早かった。
「確かにもう冷えてきましたからね……大丈夫です、聞こえましたよ。逆算すれば何とかなるかもしれません。少し待っていて下さい」
自信満々に言うアステルがなぜだか微笑ましく感じて、カナタはまた密かに笑い声を漏らす。この少女の性格がこの頃になってようやく掴めた気がしていた。言葉を尽くせばあれこれと言い様はあるだろうが、一言で纏めると。
「お人好しだよな」
気分共々弛んでいた口から思わずそんな言葉がこぼれてしまってカナタははっとなる。アステルに聞かれてないだろうかと手の中に握った通信端末を覗いたら、彼女は物々しい顔つきで目を瞑り、地べたに手を添えていた。その姿からすぐにはアステルのしていることが連想できなかったが、思い返して、そうかと一人得心する。未だにカナタは信じ切れていないが、彼女はそうして他の電子の意識と意思を交わすのだ。
言葉に頼らず直に相手の心に触れる意志疎通。
それは、それこそがカナタの追い求めてきた一つの理想であり、幻想だった。
たった今その幻想がカナタの前に顕現している。
「できましたよ――って、どうかしましたか?」
アステルの澄み切った青い双眸と目が合うとカナタは苦笑を浮かべ、肩を竦める。そうやって皮肉っぽい表情で誤魔化すと怪訝な顔をされつつも追及には至らなかった。
「何だか、よく分かりませんけど、ともかく音の発信源を探りに行きませんか?」
「あぁ、そうだな。そうしよう」
確と頷いて見せたカナタと視線を交わすとアステルは気を取り直す。。
「こちら側に外の景色を映してください。そちらの方が案内しやすいので」
「こうか?」
使用するカメラを画面の上部から端末の裏側のものに切り替える。カナタの姿が見えなくなった代わりに正面の景色を共有したアステルは「少しお待ちください」と応じた。
「えぇっと……ですね。あっちの方角だったので音源があるのは……」
アステルは自身のタブレット型端末を操作して縮尺を変えながら呟く。
「分かりましたよ。お地蔵が入っている小屋です。その辺りから鳴き声がしています」
言われてカナタも掲げていた通信端末を下ろした。目視で探し始めて程なく、道の端の生け垣に埋もれて佇む、膝ほどの高さの小屋を見つける。そこでは赤い前垂れを掛けた地蔵がにこやかに小道を見守っていた。
「そこか……ありがとうな、アステル」
通信端末のカメラをまた正面側に切り替えると、目が合ってアステルが照れ笑いを浮かべる。
「お安いご用です。いつでもまた頼ってください!」
そのいかにもな発言と笑顔に照れ臭いものを感じて返答は肩を竦めるに留めた。
「しかし、面倒なことになったな」
遠目でもしかしたら、と思ったのだが近づいていくに従ってそれは確信へと変わる。
生け垣の濃緑の葉が分厚く照り輝いていた。その一区画が切り取られ、そこに収まった小屋は年月が経ているようで建材の木目が色褪せている。それでも穴も空かなければひび割れもしていない小さな屋根の下に匿われるものは二つ。
本来、そこにいるべき地蔵と。
「段ボール……だよな」
片腕でも抱えられそうなそこから、例の鳴き声は響いてきていた。近づけば近づくほどに、まだか弱く不器用に震えながらもはっきりと。
小屋に押し込められた段ボール箱の中身を覗いて思わず溜め息を漏らしてしまう。
「やっぱり捨て猫かよ……」
敷き詰められたタオルの上に、柔らかな毛の固まりが二匹身を寄せ合っている。一匹は黒色に赤みがった焦げ茶が入り交じっていて、もう一匹は金茶の地に淡い茶色の縞模様が連なる毛並みだった。捨てられて間もないのか、どちらもカナタを見つけるといっそう喧しく鳴きながら彼を見上げてくる。
「猫ですか……初めて出会いました。わたしも見てみたいです」
「好きにしろよ。ほら」
カメラをまた裏面のものへと切り替えた。好奇心に彩られていたアステルの表情にやがて等分の恐怖と興味とが入り乱れ、最後に柔らかく緩む。
「生き物の子供とは可愛いらしいものなんですね」
その穏やかな笑みを見ていると、どうしても茶々を入れたくなるのがカナタの性分である。
「法的には俺もまだ未成年なんだけどな」
「え?」
露骨に硬直してしまうのも、そこからあやふやな笑みで何かを誤魔化そうとするのも分かりやすくておもしろい。
「わ、わたしはカナタさんにも愛らしいところはあると思うんですけど……ほ、本当ですからねっ? でもカナタさんが子供って……あぁ、ごめんなさい、疑ってしまって……」
一人悄げてしまうアステルの姿に、ほくそ笑むカナタの顔は今カメラに映っていない。ただあまり長く続けていてもこの少女の素直さにはやられてしまうから適当なところで切り上げた。
「さてと。ここでじっとしていても仕方ないし……ま、動くか」
「――あのっ!」
勢いよく飛び出した掛け声は、屈んだ姿のカナタを目にして萎む。
「うん? どうかしたのか?」
カメラを元に戻してからアステルに呼び掛けると、驚いたような、戸惑ったような上目遣いがカナタを見つめてくる。その面差しが何か言いたげに見えて、彼は彼女の発言を待った。
けれどもアステルは黙したまま、抱えた言葉を吐き出そうとしない。
「まぁ何か用件があるんならまた後にしてくれ」
言いながら、声を掛けられて止めていた手で改めて小屋から段ボール箱を引き出した。片腕にも抱えられる大きさだが、慎重に両腕で持ち上げる。箱が揺れると幾分かか細い鳴き声が漏れ出て、カナタは殊更に肝を冷やすのだった。
色褪せた彼方の空には幾百もの星が瞬き始めている。
帰宅しても別段カナタを出迎えるものはいない。両親とも帰りは遅かったし他に兄弟姉妹がいるわけでもなかった。カナタとしてもそちらの方が性分に適ってはいるので不満はない。
「ようやく帰ってきたか」
ひとまず子猫の入った段ボールは上がり框に置き、自身も靴を脱いだ。
「長い一日でしたね」
「まだ終わってはいないがな」
それでも長かった、と形容せざるを得ない。
結局、子猫を見つけたカナタは荷物を置きに家に帰るとそのまま近所の動物病院を尋ねた。
もう日は沈んでいたが幸いなことにカナタは遅くまで開いている病院に心当たりがある。そこに猫を預けて検査の間に餌と皿を調達し、帰りにまた猫を引き取ってきたのだ。
経費がかさみ、高校生のカナタには手痛い出費だった。
「少し食費にも手を出しちまったな……」
親が食事を用意できないカナタは、毎月食費を渡されている。そことは別に小遣いももらっていたのだが、その大半は既にコンピュータの周辺機器へと費やしていた。
月末はもう近いし焦るほどでもないが、不本意ではある。
「ですけど、今回のことは止むを得なかったのでは?」
下駄箱の上に置いた通信端末から投げ掛けられるアステルの慰めもカナタの苦笑を誘うものでしかない。
「言い訳にするつもりはない。こいつらを拾ったのも、そのために金を使ったのも全部俺の身勝手だ」
嫌なら最初から見捨てれば良かったんだ、と付け足すカナタの口振りは自ら突き放すように冷めている。だがその目つきは普段よりも険が抜けて、連れ帰った子猫たちを眺めていた。
「カナタさんは動物がお好きなんですか?」
「嫌ってるわけじゃないよ。だが特別好きでもない」
何気なく言うカナタに、アステルは明らかな疑問が見え隠れする視線を寄せていたが、その詳細を彼は問い質さない。それよりも先に猫の入った段ボール箱を部屋まで引き入れ、コンピュータをサスペンションから叩き起こした。アステルは勝手に画面とカメラを通信端末から本体のコンピュータの側に戻す。それを横目に見ながら、カナタは唸っていた。
「……あんまり触ったら、怖がらせるよな」
伸ばした人差し指の先を宙に彷徨わせていると、くすりと微かな笑い声が耳をくすぐる。
「あっ、ご、ごめんなさい! これは別にカナタさんを馬鹿にしているわけじゃなくて」
「だったら、何がおかしいって言うんだ?」
腹立たしさを視線に乗せてアステルに差し向けると、どこか恥ずかしげな彼女の表情が目に入った。目を合わせることさえ恥じらいながらも彼女はこんなことをぽつりと呟く。
「……さっきのカナタさんが、可愛くて」
死角から強襲してきた回答に、カナタも言葉を詰まらせた。こんなことで下手な誤魔化し言う少女でもないと分かっていたから尚更に、カナタは忌々しげな目をアステルに向ける。
「や、あの、本当に可愛かったんです。だからつい笑ってしまって」
何を勘違いしたのか、ここでまさかの追撃である。自覚がないだけに容赦もない。追い詰められたカナタは野暮ったい一般論を持ち出して盾にするしかなかった。
「あのな。ある程度の歳の男は大抵、可愛いと言われても誉め言葉とは受け取れないんだよ」
「あ、あの……はい。ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなくて……」
案の定アステルが萎縮してしまい殊更に惨めな気分を味わったカナタは自分に言い聞かせる。もう無意味にからかうのはよそう、と守れるはずのない教訓を心に決め、話を逸らした。
「それより猫のことなんだがな」
カナタが意見を求めるためにそこで言葉を区切ると、アステルの切り替えは早い。
「水を飲ませて、それからトイレの場所を覚えさせないといけない、とも病院で言われましたよね。ですが……」
アステルが口ごもったのも尤もで、カナタも段ポールの中身に目を移す。
「寝てるよな」
明るい地に縞模様の入ったトラ柄の猫が、黒と焦げ茶色――こちらはサビと通称される――毛色の猫に抱きついている。トラ柄の方は寝息で髭を震わせ、対照的にサビ柄は息ができているのか不安なるほど微かに腹を上下させていた。
「ええと、オレンジ色の方が雄で、焦げ茶色の方が雌なんですよね?」
「あぁ。どちらもその毛色にありがちな性別なんだそうだ」
それから何となくカナタもアステルも心地良さげに寝息を立てる猫たちに見入った。アステルの話していた通りに動物の赤子は、カナタのような冷血でも虜にできる魅力がある。
「――ともかく、今は起こすべきじゃないな」
「そうですね。寝かして置いてあげましょう」
二人で静かに頷き合って、カナタは定位置の座席に腰を下ろした。深々と腰掛けて頭ごともたれ掛かり、疲労の篭もった息を吐き出す。
「……今日はよく動いた」
アステルの頼みごとに加えて捨て猫の世話までしたのだから、出不精のカナタとしては異例としか言いようがない。学校の課題だとかこれからの猫の扱いだとか、考えねばならないことはまだ多いけれども、今だけはゆっくりと眠りたかった。
「カナタさん。せめて汗を流して、それから布団に入るべきです」
「……そうだな」
幾ら座り心地が良かろうと椅子で眠ったら疲れはとれない。腰を上げてふと、振り返った。
「早い内にあいつらの行き先も決めてやらないとな」
子猫たちは昼間に泣き叫んでいたのが嘘のように寝入って、起きる気配がない。もしかしたらカナタ以上に疲弊しているのかもしれなかった。
だって彼らは下いた場所から追いやられて、今はここにしか居場所がないのだから。
「わたしと同じなんですね……」
「え?」
画面に振り返るとアステルは同情とも違う、嬉しさを分かち合っているような微笑で子猫たちを見つめている。しかしカナタに見られていると気づくと我に返った様子で取り繕い、「何でもありません!」と声を張り上げた。
「それよりもカナタさん。あの子たちをこれからどうするのか、妙案はあるんですか?」
「それは……」
意図せずシロコの顔が思い浮かんだ。
今更そんなものを頼ってどうしようというのか。躍起になってカナタはその想像を振り払い、別の算段を頭の中に列挙しようとする、のだが。
「何も思いつかん。さすがに動物を二匹も突然飼い始めるわけにはいかないだろうが……」
考えている内に思考が鈍ってくる。どうにも今は頭が働いてくれなかった。
「そうですよね。ごめんなさい、疲れているのにこんなことを訊ねて。カナタさんは早くお休みになられた方が良いです」
「言われずともそのつもりだ」
仮想空間の整備やらコンピュータの電源やらアステルに委ねて、カナタは風呂場へと重たい体を引きずっていった。
「ふぁあ……」
起き抜けの意識はあやふやで、頬を包む毛布が心地よい。まだ夢の世界に傾いた微睡みの中で顔に触れるそれをたぐり寄せようとして、ふと思い至った。
はて、自分は毛布など用意していただろうか、と。
その疑問が解決されるより早く、ぬめりとした感触が耳たぶに纏わりついて。
「ふっ、ぅう!?」
「――動いたら駄目です!!」
悲鳴を上げながら飛び退こうとしたカナタに鋭い指示が差し向けられる。その声に全身の筋肉が強ばって硬直し、もたげかけていた頭を枕に沈めた。
しかし未だ混乱は収まらず、もぞもぞと動く毛布もどきを指先でつつく。
その正体に気づくとカナタは気が弛み、ついでに長い嘆息まで口かれ漏れた。触れていたものを両手に包み込むと、その毛が覆う温かい痩躯を顔から引き剥がす。
頭上に掲げて朝日に照らせば、そいつは紛れもなくサビ柄の元捨て猫だ。
「どうやったらそのなりで、ここまで登って来れるんだか」
窓から注ぐ白光を浴びた子猫はその毛を黄金に煌めかせて「なー」と応じてくる。
聞き及んだ程度の話なのだが、猫の鳴き声にも種類があって、気分を表すとのことだった。その中から「なー」がどんな意味なのかを思い出し、カナタは失笑してしまう。
「餌を寄越せ、ってか。そりゃそうだ。昨日は何も食ってないんだからな」
当然の欲求ではあるのだが、そのために起こされたかと考えると心中は複雑なものになる。訴える当てのない不満を抱えながらベッドを抜け出し、抱えた子猫を床に下ろした。
兄弟よりも活発ならしいそいつは床のにおいを嗅ぐとカナタを見上げる。丸い瞳はどこか眠たげで、幼さのせいか猫にありがちな眼光の鋭さが欠けていた。やがて歩み去っていく茶色の縞が走った黒い背中を見つめながら、獣医による子猫講座を思い出す。
「その子たちはまだ、離乳はしてないんですよね?」
「らしいな」
アステルからの質問にカナタは一度頷いたものの、「だが」と言葉を挟んで補足を付け加えた。
「そろそろ乳離れする頃合いだそうだ。数日はミルクのままだが、徐々に離乳食を与えていかないといけないらしい」
それは子猫が母親やほ乳瓶なしでも栄養を得ていける生物としての境界線であり、同時に新しく餌や皿を買い与えなければならなくなる飼い主としての境界線でもあった。果たして元の飼い主が慈悲からそこまで育て上げたのか、それとも新たな手間と出費を嫌ってそこで手放したのかはカナタにも知り得ない。
いずれにせよ。
「里親が見つかるまで面倒を見るだけだ」
幸いなことに昨日の時点で両親からは「好きにしたら良い」とのお達しを得ている。信頼されているからこそ、だとは思っているが、無関心に過ぎやしないかとも訴えたい。
どちらだったとしてもやはり、カナタに文句を言うつもりはないのだろうが。
「確か買ってきたものの中に食い物が……」
昨日買い集めてきたビニール袋の中身を漁った。その片手間にアステルへと訊ねてみる。
「昨晩の猫の様子はどうだった? 俺は思ったよりも熟睡したらしく、何も覚えてないんだ」
「カナタさんが寝てからですよね? でしたら、何もありませんでしたよ。その子が起きたのも今し方のことですし」
つまりは悪戯されたりも怪我したりもしていないようだった。ひとまず胸を撫で下ろす。
「猫とは言ってもまだ子供ってことか」
段ボール箱に一瞥をくれると、トラ柄の子猫はまだ健やかに高らかな寝息を上げていた。その子猫とは思い難いふてぶてしさにカナタは感心してしまう。
「俺でも周りが動き出せば起きるものなんだが……」
トラ柄のそいつは目覚めた自分の兄弟やカナタなど意にも介さず惰眠を貪っていた。
「こっちの子の方がよく育つんでしょうか。睡眠時間も長いみたいですし」
「そいつは現時点でも既に大きいがな。横幅が」
捨てられていた割にトラ柄は肉付きが良かった。腹や足は皮膚が摘めてしまう。
なんてことを考えている内に、思い出したことがありカナタは立ち上がった。
「確か、ミルクは冷蔵庫に入れてあったな」
本音を言えば自室から出るのも億劫だったが、それではまともに生活して行けなくなる。
仕方なくリビングにある冷蔵庫まで猫のミルクを取りに向かった。人の出入りが極端に少なく、故に埃さえ舞う灰色の廊下を通り抜ける。目当ての紙パックは複数並べてあって、その一本を取り出し自室に引き返した。
「さて、トラ柄はいるとして、茶色い方はどこに行った……?」
扉を開けるなり室内に視線を巡らせる。だが踏み入ろうとしたカナタを制止する声があった
「待っていてください。少しだけそこにいたら……」
「どういうこと――」
意図を問いただすまでもなくベッドの下からサビ柄の猫が現れる。カナタの許まで駆け寄ってくると、体を彼に擦り付けてきた。気の抜けた調子で喉まで鳴らすものだからカナタでさえ引き剥がすのは躊躇われ、苦い顔で言いつける。
「お前の兄だか弟だか知らんが、そいつも起こしてきてやれ」
返事は形容し難い甘ったるい鳴き声で、カナタの方を見ようともしなければ当然離れようともしない。
「すっかり気に入られてしまいましたね、カナタさん」
「人を見る目のない猫だ」
冷たく言い捨てながらも足下には気をつけつつ、昨日買った動物用品入りのビニール袋を引き寄せる。そこから器を二つ取り出してトレーの上に並べ、それぞれに牛乳を注いだ。カナタの腿に寄りかかっていたサビ柄の猫はそれに引きつけられてふらふらと彼の足を離れ、容器に顔を突っ込んで鼻と髭をミルクで濡らす。
「んで、もう一匹は……」
段ボール箱で丸くなっているトラ柄はカナタに覗き込まれても微動だにしない。試しに息を吹きかけてみても、くすぐったそうに耳をはためかせるだけだった。
「中々起きませんね……」
「だったら引きずり出すまでだ」
多少起こすのは気が引けないでもなかったが、構わず猫の両脇から腕を滑り込ませて抱え上げる。それでもトラ柄は全身を弛緩させたままでいたが、差し込む日光が顔に当たると眩しそうに欠伸をした。
およそ猫らしくない挙動は無防備に過ぎて、それでも獣なのかと問いつめてやりたくなる。
「猫って……こんな生き物だったんですね……!」
どう足掻いても画面から出られないアステルは触りたいのを必死に堪えながらもやはり物欲しそうに猫を見つめていた。無気力の固まりのようなそいつは、世話好きな彼女の心を見事に掴んで見せたらしい。
「悪いがそっちに動物ができるのはまだ先だ」
「……べっ、別にこれは、ねだっているわけではなくて……」
必死に言い逃れようとするアステルの目は隠しようもないほどに泳いでいる。いつの間にそんな遠慮を覚えたのかと微笑ましい以上に悩ましく感じるカナタだったが、一旦後回しにしておこうと決める。
「それより、お前の家の方はどうなってるんだ?」
訊ねられたアステルはすぐに表情を一変させて、明るい笑顔を咲き誇らせた。
「わたしなりにがんばって内装を整えて見たんですよ! 見たいですか? 見てみたいですか?」
勿体ぶって自慢するアステルを眺めていたら、意地悪を働く気も失せる――
「いや、別に」
――なんてことはなかった。
「えっ、あの! 実は結構な自信作でして……」
始めは威勢の良かった声も表情も、目に見えて消沈していく。目を伏せて声量もか細く掻き消えそうで、向かい合っていると良心を刺激された。やがて罪悪感が膨れ上がり、同じことをまた繰り返す自分を嘆きながらも発言を翻すしかなくなる。
「悪かったよ、冗談だ。見せてくれ。俺もお前の住む部屋ってのが見てみたい」
急に殊勝になったカナタを怪しんで、アステルはふくれっ面になりながら彼の表情を伺ってくる。カナタが苦笑を打ち消して頭を垂れると、今度は却ってアステルの方が狼狽し始めて、髪を振り乱しかぶりを振った。
「いえいえ、疑ってるわけじゃなくてちょっと驚いてしまったんです! それで、ええと、わたしのお家の中ですよね。是非見て下さい! 最初にカナタさんに見せたかったんです」
取り繕われただけの面もちはすぐさま本音の喜びに呑み込まれて彩られる。その小さな背をカナタに向けると身軽に飛んで跳ねながら、ログハウスまで駆けていった。
「そんなに慌てることもないだろうに……」
離れていく背中を眺めながら、カナタは久しぶりに鳥型アバターを生成する。地べたで軽く羽ばたいて挙動を確かめると、アステルを追いかけて軽やかに舞い上がった。
アステルのログハウスは外観こそ変わらず、連なる木々の奥、せせらぎの音を浴びながら佇んでいた。霧が薄れて朝露に濡れた木造一階建ては森の隠れ家といった趣で冒険心をくすぐられる反面、気が落ち着きもする。
急ぐことなく林の中を飛翔するカナタに、アステルは扉を開けたまま戸口に立って手招きしていた。
「久々に見ますね、その格好。出会ったばかりのことを思い出します」
そう言ってにこやかな顔で伸ばされるアステルの手をかわして旋回し彼女の肩へと降り立つ。
「良いからさっさと案内しろ」
「……少しくらい触らせてくれても良くありませんか?」
間近から不満げに見やってくるアステルの眼差しを黙殺して、彼女が動き出すのを待つ。やがてアステルの方が折れて残念そうに嘆息しながらもカナタに告げた。
「分かりましたよ。それじゃあ中に案内しますから……と言っても、すぐそこなんですけどね」
「あぁ、そうしてくれ」
位置から言えばカナタのアバターは振り向くだけでアステルの室内を視界に収めてしまえるのだが、それでは無粋極まりない。目を瞑り待っていると彼女の肩が上下して、それに扉の閉まる音が続いた。到着したのかと思って瞼を開いたら扉が眼前にある。そこから目まぐるしく視界が流転して過ぎ去り、暖色系の明かりに目が眩んだ。
振り返って風をはらんだスカートが舞い降りない内に、アステルは目の前を手で指し示す。
「これがわたしのお家です!」
何よりもまず彼女の要望があって広めに間取りを確保した居間が目に飛び込んできた。薄らいだ夕日色の明かりに照らされているのは、五人で囲んでも十人で囲んでも余裕があり余る木製のテーブルである。同じく木製の丸椅子が間隔を空けながら幾つも備わっていて、その総数は当然カナタたちの人数に収まっていない。
「ごめんなさい。わたしのお家として作っていただいたのに、こんな形にしてしまって……」
唐突な謝罪にカナタが、隣にあるアステルの横顔に目をくれると幼さを残しながらも整った容貌は存外真剣に室内に鎮座するテーブルを見据えていた。
だけどその口元は柔らかい。
「それでも、わたしはできるだけたくさんの人と時間や笑顔を分かち合いたい。いつになるかは分かりません。だけどここで、もしたくさんの方々と語り合えたのなら、わたしは誰よりも幸せになれます」
アステルの自分の胸元に目を下ろしてそこに手を当て、それから困ったように、可笑しそうにカナタの側へと首を傾けながら相好を崩す。
「もしかしたらこれは、傲慢なのかもしれませんね。きっと、この世の中にはどうしたって分かり合えない人もいる。だとしても、皆で作って、皆で分かち合う幸せがわたしは欲しいんです」
垂れかかってきた金糸よりも滑らかな髪の流れが鳥の姿のカナタを撫でた。それからその額に微かな硬い感触が当たって、カナタはアステルと頭を触れ合わせる。
「……やっと触らせてくれましたね、カナタさん」
紡がれた言葉は睦言よりも優しく、親愛に満ちている。
「勝手にしろ」
それだけを言うとカナタももう僅かに深く彼女の金色の長髪に身を埋めてしまった。そうして交わされた体温が一人と一羽の間で共有され、じわりと熱を増す。彼はあくまでも画面の外側の存在でしかないはずなのに、妙に温かいものが胸に溜まった。
言葉が出ない
不意に襲来してきた狂おしさに、そうなるほどの切なさに身を打たれて溜まらず飛び退いた。
「い、良いから早く次を案内しろ!」
カナタの挙動がいきなりに過ぎて、アステルは見開いた目を向けてくる。けれども次第に口元が弛まり、差し込んだ木漏れ日に綻んだ花のような微笑を湛えた。
「はいっ!」
精一杯に頷かれて、カナタは画面の外へと俯いてしまう。アステルは自分の気持ちを隠そうとしなくて、全力で顔や声や全身に表してくる。それがカナタには刺激的過ぎて、真正面から向き合えなかった。
そんなアステルの笑顔が「あ」などという間抜けな呟きに伴って失われる。
「その……カナタさん」
彼女は複雑そうに唇をひきつらせ、その重苦しい口振りがカナタの不安をも誘う。
「何だよ出し抜けに、深刻そうな顔して……」
「ですけどね、カナタさん。これから、猫の居住まいを整えるんですよね? そのあと学校もあるのに……」
言われて、時計に目をくれたカナタの頭から血が引いていった。
「――今朝は遅れてしまいましたね。申し訳ありません、変なことに時間を使わせてしまい」
アステルがそう言ってきたのは放課後に正門を抜けた先でのことだった。その落ち込んだ声音に同情したわけではないが、カナタは通信端末を取り出すことなく否定しようと応じる。
「謝られるようなことをされた覚えはない。お前が落ち込む必要も、だ。見せろって頼んだのは俺の方だからな」
声色ばかりは荒々しい返答にアステルは黙りこくる。それならそれで構うまい、とカナタの方も黙したまま、仄かな夕明かりに染まる家路を歩いていた。
カナタの通う学校があるその町は、都心から少し外れてベッドタウンとの境目にある。集まる企業は中小の域を抜け出し、その多くがそれぞれの分野で先駆者となることを目論んでいた。急速に新技術の開発と実用化を進めるベンチャーも混じっていて、そうした努力の結晶は先月完成されたニューロコンピュータにも組み込まれている。
「なぁアステル。お前は案外ここいらで作られたのかもな」
意味もなく漏らした、そんな呟きにもアステルは律儀に答えてくる。
「わたしもはっきりと思い出したわけじゃありませんけど、きっと違います。わたしは作られたんじゃなく勝手に生まれたんです」
その質問は何気ないようで彼女の核心に肉薄しており、無関心を装っていたカナタも堪え切れずに通信端末を引っ張り出した。そして、そこに写る少女のなぜだか怯えているように見える空色の瞳を見つめて問い詰める。
「思い出したのか、お前? 一体どうやって生まれたんだ!?」
そうやってカナタの口から質問を押し出すのは彼の個人的な熱意であり好奇心だった。アステルが語っているのは何億もの資金が投じられてさえ見つからなかった奇跡の概要であり、そこに至るための手がかりなのだから。
「ごめんなさい。だけどわたしも、全然ちゃんと思い出せていなくて、まだまだ期待できるものでは……!」
頭上の晴天が映り込んだような双眸が必死に抗議してきてもカナタは怯まない。
「それでも良いから!」
と念を押すとやがてアステルの表情が苦渋に染まり、それから泣き出しそうな上目遣いでカナタの顔を覗いた。すると彼の意気込みを察し、答えざるを得なくなる。
「本当に、大したことじゃないんです。それに誉められたことでもありません。だから、どうか他の人には話さないと約束して頂けますか?」
「分かったよ。他の奴には話さない」
カナタが二つ返事で深く頷いてみせるとアステルも覚悟を決める。俯くと何度か深呼吸を繰り返して顔を上げ、顔にかかった煌めく涙の筋のような長髪を払った。
「最初はすぐ傍に、凄く嫌なものがあったんです。わたしはその傍にいるのが耐えられなくて、必死に逃げ出そう反発した」
思い出すごとに、アステルの表情を薄暗いものが覆っていく。自らの肩を掻き抱いてきつく指を食い込ませながらも言葉だけは止め処なく彼女の口から溢れ出た。
「何度も何度も足掻いて闇雲に逃れようとしました。そうしていないと、たぶんわたしは吸収されていたんです。だから何度も足掻きました。わたしがわたしなのだと感じられるようになったのはそんな最中のことです」
「それで? それからどうなった?」
まだ飢えを満たせずに食いつきに行くカナタをアステルは苦笑しながらも見やったが口は止めなかった。
「もがく途中にその凄くいやなものから遠のいていました。言葉を理解できるようになったのはその辺りからだったと思います。わたしはそこから自分を切り離して、たくさんの声に導かれ、さまよっている内に辿り着いたのがこの星だったんです」
語り終えた今でもその記憶が頭のどこかにこびりついているのか、アステルの唇は青ざめていた。笑っては見せるものの、どこか力のない面もちで「これがわたしの取り戻した記憶です」と彼女は話を締めくくる。
「……ごめんなさい。なんだか、曖昧な話ばかりでしたよね……」
申し訳なさそうにしているアステルを見て、カナタも徐々に熱が冷めていく。冷静な判断力を取り戻してくると自分がどんなことを強要していたのかに思い至り、気まずさが募った。
それと同じくらい、アステルへの苛立ちも。理不尽だ、とは思いながらも。
「謝るなよバカ。今のはお前が俺に怒らなきゃいけない場面だろう? なのに、何で申し訳なさそうにしてるんだ。イヤだったらイヤだと、はっきり言い返せ!」
「違います、カナタさん。わたしにはこれぐらいしか、あなたに返せるものがないから……」
本当に、我ながら理不尽だとは感じながらもカナタは自分を引き留められない。
「だとしても、だ。一言、嫌だ、と口で言うくらいはできただろう? なのになぜ黙っていた?」
その双眸が済まなさそうに背けられるのも構わず、カナタは頭を下げる。
「悪かった。そんな顔させるつもりじゃなかったんだ。何かの形で詫びはするから、今は俺を許して欲しい」
人目もはばからない唐突なカナタの行いに、アステルは絶句して呆然と彼を瞳に映していた。夕焼け色の帰途を急ぐ学生や社会人は少なからずカナタに目を向けたが、それでも彼は自身の行動をはばからない。
「本当に、済まなかった。以後気をつける」
「……そんな……そこまで、しなくても良いじゃないですか!? 何してるんです!? 早く頭を上げて下さい!!」
ここに来て突然声を荒げ出したアステルにカナタは僅かだが、眉を顰める。
「待てよお前、怒るなら自分のために怒れよ……?」
「わたしはっ、わたしは……っ! ともかくお願いですから、顔を上げて下さい!!」
そんなことを今度は本格的に泣き出しそうな涙声で言われて、渋々カナタは顔を上げる。
「俺にはお前の行動原理が読めそうにない……今の、怒るところじゃなかったろう?」
「それは、その……」
別段、困る要素があったとは思えないのだが、アステルはは戸惑い返答し倦ねる。しばらくはカナタの方を伺いながら思案する様子でいて、落ち着きなく苦悩していた。
けれどもカナタが黙したまま待っていると、アステルの瞳の奥に何かが固まっていく。それが纏まるのと同時に彼女はカナタを見返した。
「わたしはもう自分のしたいことを、自分のしたい通りにしているんです。それがカナタさんの癪に障ったのならごめんなさい。ただ、わたしとしてはカナタさんに頼まれて、その通りに動けたのが嬉しくて」
だから、という呟きが風に紛れたら、アステルはじっと真剣な眼差しでカナタを見据える。
「もしもわたしに自分を大切にしろというなら、どうかわたしをあなたの傍に置かせてください。それがきっとわたしの望みを果たす一番の近道になるんです」
「お前の望み……?」
未だに彼女は教えてくれていないその内容。今度も彼女は頷くばかりでその詳細を語ろうとはしてくれない。
「教えてはくれないのか? そうしてくれたら、俺にだって協力してやれるかもしれないのに」
けれどアステルは笑んだまま首を横に振って目元の憂いを隠すように視線を落とした。
「説明が難しいんです。何となく、こんなことがしたいのかなってことがあるだけで。それだって合っているのかは分かりません」
「そんなの……」
そんな望みをアステルはどうやって叶えようというのか?
一人で押し進める作業はときに過酷で、起きる不都合の全てを自分で解決しなければならない。足枷がない代わりに支える仲間もいないのだから。完成系が見えない仮想空間を一人で構築してきたカナタには始まる前からその険しさが見渡せる。
けれどもよりによって、自ら孤独を選んできたカナタが説得しても心に響く言葉を紡げるとは思えなかった。
「それよりもカナタさん」
アステルの方から話題を変えようとしてきてくれて、カナタは密かに胸を撫で下ろす。声に出して返事をするのが億劫で目線だけで続きを促したら、彼女はカナタの視線を探るようにしてから話を再開した。
「猫たちの里親は見つかりそうなんですか?」
「また面倒な話題を持ち出してきたな……」
思わず愚痴で返したけれど、目を逸らしてもいられない課題なのだから嘆いてはいられない。
「考えてはいるんだが、どれもなぁ……」
「何がご不満なんですか?」
それを話すことは弱みを見せることにも思われたが、相変わらず敵意や邪気とは無縁な透き通った青い瞳で見つめられると警戒心が解れてしまう。そうでなくとも顔を見るだけで心の奥底まで推し量れてしまう相手だったから、用心するのも馬鹿馬鹿しくて正直に明かした。
「里親に直接渡すにしろ、どこかの仲介人を頼るにしろ、生き物の命を預けるわけだろ?」
「えぇ、はい。そうですけど、それが……?」
さすがにこれだけでは理解されないらしく、未だに疑問を抱えた目で見つめられる。首まで傾げられて、いよいよカナタは観念して白状した。
「信用できる相手なのか、直接相手と話し合って確かめなきゃなんねぇんだ……」
そこまで話すと得心がいったようで疑問に曇っていたアステルの表情も晴れる。
「そっか。カナタさん、人と話すの苦手……というよりは嫌っていますもんね」
そこまで明け透けに語られると却って気が緩んでしまう。カナタは苦笑しながらも「そうだよ」と認めて、残りの悩みまで語ってしまうことにした。
「だからできるだけ会わずに大まかな相手の選定だけでも済ませてしまいたいんだがな。その方法が思いつかなくて」
「知り合いの方の伝手を辿ってみては? 元々見知っている方からの紹介でしたら、きっと信頼できる里親さんが見つかりますよね?」
そんなアステルの意見は妥当であるが故に、カナタは表情を歪ませてしまう。
「お前、人と話すのが嫌いだって言っている人間にそんな知り合いができるとでも思っているのか?」
「……そうですね」
倦怠感溢れるカナタの言葉は自慢にならない説得力に満ちていて、アステルの笑みにも苦いものが混じる。しかし彼女はそこで「ですけどね」と言葉と態度を翻してカナタに向き直った。
「昨日駆け込んだ動物病院の獣医さんとは顔見知りのようでしたよね? それに猫を拾ってからの行動も迅速でしたし、もしかして同じようなことが以前にもあったのでは?」
「……俺はお前が、そんなに勘の良い奴だとは思っていなかったよ」
嫌みでもなく、ただただ純粋な感心からそう口にすると画面の中でアステルは腕を組む。
「むっふっふ! わたしだって一日中ここでお昼寝しているわけじゃありませんからね!」
「何だその笑い方」
ほとんど反射的に口をついて出た冷やかしだったが、アステルはさほど腹を立てた様子でもなかった。それどころかカナタの言い回しに突き放そうとするものを感じたようで物憂げな目を向けてくる。
「隠し事をされるのは少しだけ、寂しいですよ。どうしても嫌でないのなら、わたしにカナタさんの昔のことを教えて下さいませんか?」
真摯な瞳は下らない思惑による牽制よりも、カナタの反論を封じる。目を逸らしたくらいではアステルの懇願を打ち払えなくて、カナタは躊躇しながらも沈黙を貫けはしなかった。
「……別に、無理してまで隠したいわけじゃねぇよ。ただ、昔の自分のことなんて話すのが気恥ずかしいだけだ」
無論、そんなわけがない。それだけであるはずがない。けれどもアステルは心底嬉しそうにして頷いてくるものだから、固かった顔の筋肉は解れてしまう。
「大丈夫です。分かってますよ。カナタさんが恥ずかしがり屋なくらいもう、お見通しです!」
そんな慰めじみた冗談まで掛けられてカナタは目も顔も合わせていられずに俯く。あまりにも自分が情けないからそうしたのだけれど、それを違う意味にとったらしいアステルはこうも付け足した。
「えぇと……ですね、どのみちわたしには口外できる相手がいませんから。本当に、心配する必要なんてないんですよ」
彼女のその声音には自嘲めいた響きがあって余計にカナタの胸に不甲斐なさが募る。しかしそれ以上に、こうまで言わせてまで黙ってはいられないという矜持が彼の気概を奮い起こした。
「この間、倒れていた自転車の立て直してやる手伝いをしたあいつのこと、覚えているか?」
それはアステルがカナタと学校に連れられていった初日の日の出来事で、彼女にとっても印象深い出来事だった。だからアステルはすぐに元気よく「もちろんです!」と答えて、彼女の名前を読み上げる。
「シルコさんのことですね?」
脱力した足がもつれて転び掛けた。
「そんなに甘ったるそうな名前じゃない! シロコだ。確か漢字では『思』う『路』の『子』と書く」
あいつをどう贔屓目に見てもその理知的な名前は似付かわしくない、というのがカナタの印象ではある。けれど話したところで理由に言及されたりなんてしたらひたすらに面倒でしかないから胸の内にしまっておいた。
「ともかく、そいつが昔、俺と帰って……って聞いてるのか?」
視線を右往左往させて落ち着かないアステルに思わずカナタは睨みを利かせる。返ってきたのはおろおろと、取り返しのつかない過ちを犯したとばかりに震える呟き声だった。
「な、名前を間違えるなんて大変なご無礼を……わたし、シロコさんと会ったら何て話せば……!?」
縋りつくように言われても、カナタはまるで共感しない。
「汁粉だと甘過ぎるから……そうだな。あいつには青汁辺りがお似合いだ。苦いし良い薬にもなる」
カナタが皮肉をたっぷり利かせても事情を知らないアステルに通じるはずもない。
不思議そうにして彼女が向けてくる眼差しを振り払うと改めて話を仕切り直した。
「ともかく、だな。……シロコは猫が好きな奴だった。二度目なんだ、俺が捨て猫を見つけるのは。一度目のときはシロコも一緒で、あいつが服を汚しながら猫を抱え上げて動物病院まで運んでいった」
「それにカナタさんも同行したから、獣医さんとも面識ができたんですね?」
「さぁてな。もう昔の話しだ」
これ以上、同じ話を続けたくはなかった。だからきっぱりと言い捨ててはみるけれど、案の定というべきか「それなら!」とアステルはカナタに持ちかけてくる。
「猫の里親を探すのに、シロコさんを頼ってみては? 猫が好きな方でしたら里親になってくれるかもしれませんし、そうでなくてもきっと手伝ってくれますよ」
こういう話になると分かっていたから、カナタは話したがらなかったのだが、露骨に溜め息して見せてもアステルはへこたれない。その心根の意外な力強さには憧れることもあったが、今は煩わしくて仕方がなかった。
「あいつが俺の頼みを聞く保証はないし、おまけに俺の方もあんな奴を頼るのは御免だ。それなら見知らぬ相手とでも面会している方が幾分かマシだろうよ」
その言葉の裏に潜む頑なものには感づいたようで、にこやかだったアステルも表情が当惑に塗り潰される。
聞き辛そうにして、それでも放っては置けない様子で上目遣いにカナタを伺いながら訊ねてきた。
「もしかしてお二人はその……喧嘩をなさったのですか? それ以来、未だに仲直りできていないとか?」
カナタは浅はかな自分に向けて、嘲笑することしかできない。
「喧嘩にすらならなかったよ。俺は逃げ出したからな。それから互いに干渉を避けたまま、今に至る」
カナタ自身にだって自覚はある。もし自分に真正面からぶつかり合う度胸があれば、互いに大泣きして盛大に喧嘩することはあっても今ほど拗れはしなかった。
しなかった、と今更振り返っても悔やんでも過去は戻らないしそれを正す度胸も自分にはない。
「何にせよ、シロコを頼るのは無しだ。あいつと俺はそんな仲じゃない」
カナタは一方的に会話を打ち切ると通信端末の電源を落としてスラックスのポケットに押し込んでしまった。
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