第2話

 カナタが通学に使う電車は地元から発車したばかりだと車内に空席が多い。まだまだこの辺りは田舎で、交通網もまばらだったから大概の住人は自家用車に頼っているせいだ。

 そのおかげでビル群とは無縁の山野をどこまでも遠く見渡すことができる。

 春が終わり初夏に入ろうとするこの時期にもなれば、枝一杯に新緑が漲り騒がしいほどに山肌が彩られていた。

 そんな光景を見せてやろうか、なんて気まぐれを起こして。

「おぉ……よく見えます!」

 声の源は、かつて携帯電話と呼ばれていた通信端末。現代のそれは音声や目の動きといった手に頼らない入力方法を用いる小型のコンピュータにほど近い。

 そのカメラが肩越しに外の景色が写せるように制服姿のカナタは列車の長椅子に腰掛けたまま、端末をやや高い位置に掲げていた。手の中の画面が表示するウィンドウには、目の前の青空よりも深い色の瞳を輝かせた、あどけない少女の笑顔が映し出されている。その反応が予想以上に色よくて、どうしてだかむず痒くなったカナタは憎まれ口を叩いてしまった。

「もう少し静かに話せないのか? 騒がしいのは好きじゃない」

「あはは……ごめんなさい」

 少し照れ臭そうにして、それから殊勝に目を伏せるとアステルは頭を下げた。その言葉が向かう先はもうカナタが繰る小鳥型のアバターではない。

「ですけど、わたしがいる世界の外側に広がる景色は本当に多彩で……こんなにも、知らない光景があるんだなって」

「気に入ったようで何よりだ。カメラの映像もしっかりとそっちに送られてるようだな。お前の方に設けた端末はどうなっている?」

「良好です! 今もばっちりとカナタさんの顔が見えてますよ!」

 現実世界のタブレット端末に似せた画面を見つめてアステルは言う。車窓の外を背景にした少年の顔は愛想のない仏頂面だった。

「カナタさんの顔って全然鳥に似てないですね……何だか別人みたいです」

「悪かったな」

 反射的にそんな悪態をついてしまうと、アステルは微笑を僅かに曇らせて謝罪してくる。

「ごめんなさい、悪く言ったつもりじゃなかったんです」

 その素直さを前にするとカナタの方が気まずくなってしまい仕方なく背後の眺めに目をやった。

「別に、謝るようなことでもないだろう?」

「そうかもしれません。ですけど、もし傷つけたまま見過ごしたら、わたしはわたしを許せなくなりますから」

 だからわたしはこうするしかないんです、と最後は冗談めかしてアステルは微笑む。

「……どうして俺はこんなのを拾っちまったのか」

 愚痴のような呟きには少なからず自嘲の色合いが混じり込む。自問しながらも答えははっきりと自覚していて、おまけにその内容が禄でもないから溜め息しか出てこない。

「馬鹿だなぁ俺も」

 それでも思ってしまったから。

 彼女になら、手を差し伸べても良いのでは、と。

 人間相手ならこうはならない。

「何か悩み事ですか?」

「大したことじゃない。昼は何を食おうか考えてたんだ」

「……そうですか」

 アステルはカナタの内面を見透かしたように不服そうな顔をしているように見えたけれども、さすがにそれはないだろうと言い聞かせる。

 落ち着いて考えれば、アステルがここに降り立っているのは到底信じ難い状況だった。例えるなら未確認の異星人が偶然窓から迷い込んできて、あまつさえ日本語で挨拶してきたほどの。

 冷静になるほど早とちりではないのかと、これまでの判断を疑ってしまう。

「こ、怖いですよカナタさん。睨まないで下さい……」

 画面の中で身を硬くしているアステルは鬱陶しいほどに人間らしかった。

「うるせぇな。寝不足で目つきが悪くなってるんだよ」

「そっちの方が問題ですよ! 体壊したら大変じゃないですか!?」

 口喧しいアステルはきっとカナタ自身よりもカナタの身を案じている。それがどうしようもなくくすぐったいから認めてしまうのも気恥ずかしくて、皮肉を口にするしかなかった。

「そんなもん気にしてられるか。やりたいことがやれなくなるだろう?」

「気にしてなかったら、いつかそれどころじゃなくなりますよ。カナタさんのご両親はよく家を空けていらっしゃいますよね。もし倒れて誰にも見つからなかったらどうするんですか?」

「別に、それなら……いや」

 まだ言い返したかった、けれどもここで反発ばかりしていたら自分が惨めに過ぎる。

 喜んでいたのだった。心配されるのが、嬉しかったから。

「……馬鹿馬鹿しい」

 口答えするのも情けなくて、浮かせていた腰を下ろす。

 そのままむすっとして唇を固く引き結んでしまい、その様子を間近から伺っていたアステルの面立ちが陰った。

「……あの、ごめんなさい。少し、いいえ、とても言い過ぎてしまいました」

「だから、お前が謝るようなことじゃない。謝らなくて良いから、その代わり、もっと自分に自信を持て」

 本当に、謝罪にせねばならないのはむしろカナタの方なのだから。

 そんなこと思いながら彼女の方を見やると。

「か、カナタさんはやっぱり優しいです……」

 千里歩いた砂漠の果てにオアシスを見つけたような顔のアステルがいた。

「体調を気にすれば良いんだったか」

 見なかったことにしてカナタは瞼を閉じる。

「えぇ!? いえ、良いですよ!? 良いんですけど……分かりました。駅に着いたら起こしますからねっ!?」



「おぉ! 見えてきましたよ! あそこが目的地ですね!?」

「その通りだが」

 例によって静かにしろと叱りつけるのは自制して、整備された大通りから一本外れた、それでも人通りの多い道を行く。幅にゆとりのある歩道を行き交うのは制服姿の学生が大半だったが、スーツ姿の人影も珍しくはなかった。比較的商社も数多い一帯のために社会人も多くが通り抜けていくのだ。

 そんな中で喚き立てるのは、さすがのカナタも気が引けた。

 通信端末を耳元に当てて通話する振りをしながらアステルに言い聞かせる。

「良いか? 喋るなとは言わん。だから声を出すな」

「喋るなって言うのより酷くありません?」

 理不尽な命令に対するアステルの抗議は聞かなかったことにして、通信端末をスラックスのポケットにしまい込む。しまい込んだのだが、懐からくぐもった声が漏れ出してやたらと目立ち始めてしまった。

 仕方なく取り出し、幾らか集まった注目を煩わしく思いながら訴えに応じる。

「何だ。まだ何か言いたいことがあるのか?」

「分かってて言ってますよね、それ!?」

「まだ何か言いたいことがあるのか?」

 カナタの悪びれない態度にアステルといえども唸って不満を表明するのだが、この偏屈少年はそんな程度で動じない。目線で、さっさと話せと言わんばかりに促されて、溜め息を一つつくと、アステルの方が譲歩した。

「ところであそこはどのような場所なんでしょうか? どうみても出無精のカナタさんを日の下に引きずり出すなんて……」

「お前な。さすがにそんなこと──」

 知らないはずがないだろう、と続けそうになってカナタは言葉を飲み込む。

 まさか本当に知らないのか? 

 そんな疑問が一つ沸き上がって。

 出自も正体も不明なアステルの一般常識を推し量るのに、これは良い機会だった。

「まず、教育の制度についてはどこまで知っている?」

「学校制度ですね? ええと、尋常小学校から始まって、高等小学校、中学校、高等学校、帝国大学――」

「待て待ていつの時代の話をしている!?」

 反射的に聞き返してしまったカナタにまたしても注目が集まって、さしもの彼も首を低くして声を抑える。

「今のは冗談で言ったんだよな? それともまさか……本気で?」

「間違ってましたか?」

 画面を覗き込むと、ぼんやりした顔で首を傾げてくる少女に舌打ちすることだけは堪えるカナタである。

「あったよ、そんな制度も。ただし一世紀以上前にな。というか、お前はむしろどこでそんな知識を仕入れた?」

「どこで、ってはっきり答えられそうなことは覚えてないですけど、ただ教育制度のことについて考えたら思い浮かんできたのがその内容で……」

 他に適当な知識があるだろうに、と独りごちたカナタはふとあるアステルの発言を思い出す。

「そう言えばお前、記憶……というか、お前の場合はデータになるのか? ともかく、その一部が破損してるんだったよな」

 珍妙に偏った知識はその辺りの影響と考えるのが妥当だろうか。

 未だに彼女の話がどこまで真実なのか、掴み切れていないカナタだが、それでもアステルが嘘をつくとは思えなかった。

 もしそうなのだとして結果がこれなら滑稽にもほどがある。

 だから、この話は真実だろうと根拠もなく思って彼は告げた。

「安物だが、そのコンピュータには電子辞書が入っている。俺と話せない間はそれでも読んで勉強しとけ。もしかしたら、記憶を取り戻す手がかりにもなるかもしれないし」

 カナタが言うとアステルは「わぁ……」と感嘆の声を上げる。そこまで予想していたのだが、急に彼女は黙り込んでしまうから端末から顔を離し画面を見つめた。

 晴れ空色の瞳に綺羅星でも流れ込んだような煌めきが溢れている。

「あっ、ありがとうございます! やっぱりカナタさんは良い人です!!」

 目を合わせた瞬間には予想できた発言なのに、面と向かい合って口にされると溜まらなかった。顔を背け、弛みそうになる表情を歪めて足下を睨む。

「俺のどこを見たらそう思えるんだか……その青い目玉は飾り物なんじゃないか?」

「えへへ……どうなんでしょうね」

 精一杯の皮肉にも頬を緩めたまま微笑まれたら、もはや打つ手がなかった。

「あぁ……もう、分かったよ。話を戻す。それで、俺が今向かっている先だったよな?」

「あ、はい! そうですそうです。すっかり脱線してしまいました。ごめんなさい! わたしの方から質問したのに」

 アステルの謝罪には適当な相づちを打って応じ、気にすることでもないからと聞き流した。それよりも見失った話の糸口を迷いながら手繰る。

「さっきも話していた通りなんだが……俺の行く先は学校だ。もっと言うと高校だな。正式には高等学校だが普通の会話の中では高校としか呼ばん」

「こ、高等学校……ってそれじゃあカナタさん、もの凄いエリートだったんですか!?」

「だから時代が違うと言っているだろう!? 今の高等学校はお前の知識の中学校相当だ。今の時代、ほぼ間違いなく誰でも卒業している」

 確かにカナタだってややこしいとは思わないでもない。だが、歴史の授業でしか習わない知識は一般的に会話に用いられない。

「全く、どんな知識の偏り方してるんだよ……」

「そんなにおかしいですかね」

 アステルは顎に手を当てて、あまり自覚がない様子だった。

「……まぁ、そのことについてはひとまず置いておく。ともかく俺は、その学校の二年なんだ」

 言いながら整備された歩道の先にそびえる、渡り廊下で複雑に繋がれた三棟の建築物を見据えた。建物の正面と通路はガラス張りで柱がやたらと色彩豊かに行き交い、狭苦しい自室が好きなカナタとしては怖気にさえ見舞われるほど開放的な外観をしている。

 この校舎を見上げてきた年月も短くはないのだが、改めて眺めてみても慣れ親しめそうにはなかった。

「あまり好きじゃないんですか、学校?」

 伺ってくるアステルの目つきが心配げで、そんなにも難解な顔をしていたのかと自分で自分の表情が気になってしまう。なるべくいつもの仏頂面を装うようにしながら校舎に目を向けた。

「好きな奴の方が少ないだろう。遊びに行っているんじゃないんだから」

「ですけど、カナタさんが選んだ学校なんですよね?」

「一応、そういうことにはなっているがな。もう昔と比べると随分児童数が減ってるんだ。その受け入れ先だって当然数を減らしている。だから学校側も生徒も、お互いに選り好みしている余裕なんてない」

 二十一世紀に入ってから本格化した少子化は一部の悲観論者が唱えるほど悪化はしなかった。人口の減少はゆっくりと収束して、しかし右肩上がりにもならず低い基準を維持している。

 現代のこの国はその間隙を機械に任せることで労働力を補っていた。その結果、先進各国で頻発した技術革命による失職が最小限度で収まったのは皮肉としか言いようがないが。

「するとカナタさんは試験を受けることなく今の学校に入学したんですか?」

「そもそも俺が通っている学校は中高一貫だからな。中等部が終わったら高等部に上がるだけだ。コースの振り分けをする試験程度なら受けたがな」

 言うと今度は「中高一貫?」と漏らした。カナタは説明を面倒に思いながらも訊ねられたら捨て置けなくて、そんな自分に呆れつつ言って聞かせる。

「文字通り、中学校と高校が一つに纏まっている学校のことだ。さっきも話した通り、児童数が減っているからな。学校の側は年齢が低い内から生徒を取り込もうとしてるんだよ」

「今はその中高一貫という制度が一般的なんですか?」

「そうだな。小学から取り込んでいるところもあるが、中高を一組にするのが一般的だ。その二つを独立させている学校は探してもまず見つからないだろう」

 主流がそちらに移るということは、それ以外が異端として排斥されることだ。社会全体がそちらに合わせるから、特殊な事情でもない限り不便さばかりが際立ってしまう。

「ま、今時高校の時分からスキルを身につけて就職する奴らが大半だからな。少しでも職業訓練に時間を割ける中高一貫の方が生徒も学校も好都合なんだろうよ」

 カナタは進学を目指していたら、あくまでも他人事として空々しく言い捨てる。その説明を聞き終えたアステルは、神妙な顔をしてふと、こんなことを呟いた。

「ずっと同じ場所に……ですか。逃げ出したくなったり、新しい場所に憧れたりすることはないんでしょうか?」

「……さて、どうだろうな」

 正しく自分がそうしようとしていたことを、けれども結果的にはそうしなかったことをカナタは密かに胸中へと仕舞い込む。ありふれた三文芝居以下の自分語りに酔う趣味はなかった。

「遅れそうだから少し急ぐ。繰り返すが、学校に着いたら話しかけるなよ」

 そんな台詞で会話を断ち切り、今度こそカナタは通信端末をポケットに押し込む。そこから交わされる言葉はなく、カナタは急ぎ足で通行人たちを抜き去っていった。



 程々に清潔で日の光が満ち溢れる教室へとできるだけ音を立てずに扉を引いて身を滑り込ませる。集まった僅かな視線も相手がカナタだと知ると興味を失って、程なく霧散していった。

 毎朝、挨拶を交わしているような学友も持ち合わせていないカナタである。

 自分の座席へと一直線に向かっていって椅子や机が昨日と変わりないことを確かめた。机の中に私物をしまうのは嫌っていたから、学生鞄をそのまま机の脇のフックに掛けると自身も座席に腰を下ろす。

 カナタは特に事情がなければ始業の直前に登校するようにしていた。だから大して待たされずに教壇側の扉が開かれて、そろそろ停年だろうと囁かれている男性教諭が入室してくる。

 教師は年齢に似付かわしい落ち着きある歩調で壇上まで上がり、諸々の連絡を始めた。友人がいないものだからそれを聞き流すわけにもいかず、頬杖をつきながらも片耳をそばだてる。

 やがて朝礼が終わりその日の授業が開始した。その大半を不真面目とは取られない程度に板書を取り、席の近いもの同士で会話を強要される授業だと相手を見据えて圧迫しながらやり過ごす。休憩はとある人物の管理するチャットを覗き、ほぼ無言のまま放課後前の清掃の時間を迎えた。

 カナタは一人で渡り廊下の端を担当している。誰に強要されたわけでもなく、彼自身が自ら買って出た掃除場所だった。作業量はやや多いものの、集団行動を要求されないのが最大の魅力である。

「――……っ! ――さんっ!!」

 ガラス張りの壁が途切れた暗がりに入った途端、ポケットから喚き声が漏れ出し始めた。彼は周囲に人がいないことを確かめると近くの柱の陰に隠れる。

「どうした? 学校にいる間は黙っていろと命じたはずだが」

 そんなカナタの不愛想極まりない返答にもアステルはめげない。青い瞳を目一杯に見開いて陽光に溶け出しそうな長髪を振り乱し、彼に訴えかけてきた。

「な、何かっ、おかしかったですよ!? あなたもっ、あなたの周りの方々もっ!」

「というと?」

 この期に及んでも飄々としているカナタにアステルはやり切れなさを覚えて溜まらず吼える。

「どうして誰とも話さないんです? どうして誰からも話しかけられないんですか!? 何があったんです!?」

「何もなかったよ。ただ俺が誰とも話したくなくて……人付き合いが悪かったってだけだ」

 周りの連中もカナタもお互いに関わり合いになるほど暇ではない。隠れた柱に背を預け、そこにもたれ掛かりながら彼は呟いた。

「お前みたいに、わざわざ注意してくる奴なんて滅多にいないからな」

 若干の皮肉も込めて視線を寄越すと、アステルの表情が想外に苦しげでカナタは目を見張る。なぜお前がそんな顔をするんだ、と密かな動揺を押し隠しながらも訊ねずにはいられなかった。

「何だよ? お前にも痛覚があるのか? 幾ら体があっても仮想の肉体に痛みなんて――」

「違います」

 そう否定しながらもやはりどこか苦しげに痛みを堪えるような面立ちでアステルはカナタを見つめている。その大きな瞳が憂いに細められて泣き出しそうで、カナタはひたすらに当惑するしかなかった。

「なぁ、何なんだよ? 痛くないのなら他にどんなことで苦しんでるんだ? なぜそんな顔をする?」

「それは……その、わたしにも分かりません」

 そんな曖昧な返事に憤って不意に怒鳴り散らしかけたのを喉に詰まった言葉が塞ぐ。

 目にしてしまったから。

 心底申し訳なさそうにしてアステルが目を伏せたのを。

「本当に、ごめんなさい……なんて言葉にしたら良いのか分からなくて。それでも、止められないんです」

 なんて謝罪が彼女の口の中では何度も反芻されて、カナタは言葉に詰まる。しばらく項垂れるアステルを見つめては唇を噛み締めていたけど、とうとう話しかける取っ掛かりは見つからなかった。

「……また後で話しかけてこい。今は掃除を続けるから」

 思っていたよりも力が篭もらなくて、いつになく優しげな語調でカナタは語りかける。そこにアステルの風音のように掠れた「……はい」の返事が続いて、少しだけ頬を弛めたカナタは無言のまま通信端末をポケットに戻した。

「本当に、人間みたいな奴だ」

 思わず呟いてしまうのは、それまでの遣り取りを思い出してしまったから。先ほどのアステルの表情をもう一度思い返し溜め息を漏らす。

「あいつはどこからやってきたんだ?」

 アステルは一般に流通するソフトウェアではなかった。授業の合間にネット中を浚ったというのに、制作者も同型のソフトウェアを開発したという情報も見つからないのだから。

 考え得る可能性としてはどこかの企業か、はたまたそこに依頼された研究団体が秘密裏に開発する人口無脳。孤独を抱えがちな現代人にとって、表面上は人間と遜色ない会話を交わせる人工無脳は一定の需要を獲得していた。今でも定期的に新しいモデルが発表されている。

 これだって企業からすれば重大な機密事項だった。もしカナタの手にあることが知られたらどうなるか分からない。

 分からないけれども、だ。

 ――本物の電子の意識かもしれない。

 それは世界中の研究者が追い求める新たな生命の誕生。紛れもなく途方もない、掛け値なしの奇跡だ。事実だとしたら事態は一高校生のカナタが手に負えるものではない。

 だというのに。

「本当に、参った」

 アステルには変わることなく自分のコンピュータにいて欲しい。

 そんな他愛もない欲求が芽生えてしまって打ち消せない。自分でも理解しかねる心境を苦々しく思いながら、カナタは掃除に戻っていった。



「この時期はまだこんなもんだよな」

 言いながら、赤みが薄まって夜の気配が濃くなる空を見上げる。西の空には宵の明星が小さく煌めき、散らばった雲の切れ端が赤熱するように照り映えていた。

 あと少し季節が巡れば、この時間でも空はアステルの瞳の色を宿している。そんな空を見上げても、一日はまだまだ続いていくように感じられてしまうのだろう。

 ちょうど今カナタが全身に行き渡った達成感と疲労感のあまり呆けているのとは反対に。

「わぁ……おっきな欠伸ですね」

「あぁ?」

 間延びした吐息を噛み切ると、もはや手に握っているのが恒例となった通信端末に鋭い一瞥をくれる。アステルから困惑気味な抗議の声が響いた。

「だ、だから睨まないで下さいよぅ……」

「睨んでるわけじゃねぇ……って前にも言っただろう」

 なぜだか既視感を覚える遣り取りに、アステルが先んじてカナタの台詞を横取りする。

「目つき悪いだけだって言うんでしょう? 分かってます。でもカナタさんのはそれだけじゃありませんよね」

「どういうことだ?」

 実際に眠たかったから眠気を隠しもせず薄目でアステルを見やる。それで続きを促されたと悟った彼女は一つ頷いてこんなことを言い出した。

「カナタさんは無意識に、周りを威圧してしまってるんですよ。何と言えば良いのでしょう……他人に隙を見られてしまうことを極端に嫌っているような……」

「…………」

 図星だったから、反論の一つも叶わず黙り込んでしまう、そんな自分の分かりやすい反応に心底嫌気が差してカナタは遠くを見つめた。

「だったら、どうだって言うんだ」

「それは……その、わたしが口出しできる問題でも、ないんですけど……」

「だったら最初から黙ってろ」

 そんな小学生並みの癇癪で話題を断ち切ると苛立った気のままに急ぎ足で歩みを再開する。昇降口前の階段を駆け下り、学校の正門に続く道へと進んでいった。

 道の左手にグラウンドが広がっている。サッカー部と野球部と陸上部が活動したら隙間などなくなるのだが、得体の知れない部員の姿もちらほらと伺えた。

その反対には簡素な屋根が並ぶ駐輪場に自転車がひしめき合っている。この時間になると帰宅部が捌けてグラウンド近くの固まりを残すばかりだが三十分前なら違った。鮨詰めになった中から自分の愛車を引きずり出す学生の群れを気が済むまで観察できる。

「あの、ところでカナタさん。あちらに何やらお困りの方がいるようなのですが……」

 無関心に通り過ぎようとしていたカナタだったが、その言葉に引き留められて、思わず溜め息をつく。倒れて重なる自転車の山付近に、それと格闘する人影を見つけてしまったから。

 その女子は制服を着崩し、そのくせにスカートだけは膝丈のままにしてあって、不良になるには臆病な性根が垣間見える。全体的な印象としては野暮ったく、その顔に見覚えがあったから顔を背けずにはいられない。

「お知り合い……のようですね。困っているみたいですし、助けてさしあげては?」

「…………」

 割り切れずに、かといってやり切れず、カナタは唇を噛みしめる。

 見捨てることには抵抗があった。けれど同じだけ関わり合いにもなるのも気が引けてしまう。

 初めは怪訝そうにしていたアステルも、カナタの表情が歪むのを目にしてしまえば読み取れるものがあった。まず気遣わしげな眼差しを向けてきて、やがてその色合いが変じる。

「……カナタさん」

「なんだ?」

 常のままぶっきらぼうな声と共にアステルへ視線を寄越すと、頑な意志を感じさせる瞳で返される。

「わたしは、助けてあげられたなら、と思います。もちろんわたしには現実の肉体がありません。だから、カナタさんに頼るしかないのですけれど……」

 言われて横目に女子生徒の様子を窺ってしまって、カナタは少なからず後悔した。彼女は折り重なった群れから自分の自転車だけを引きずり出そうとして、無意味に体力の浪費している。

 つまりは一人だとどうすることもできなくて。

 アステルは手を貸したがっているけど、それはカナタにしか実行できなくて。

「……言っておくが、俺はお前の希望を叶えるだけだからな」

 その前置きを聞いただけなのに驚きが広がってアステルの表情は解れ、そこに明るい笑みが満ちて彩られた。カナタが苦渋の顔で返しても彼女の笑顔は深まるばかりだった。

「はい! 仕方ないですよね? わたしは体がないんですから!」

 誇らしげに言うことでもないだろうと苦笑しつつ、通信端末はしまった。息を深々と吸って吐き、覚悟を決めると女生徒に駆け寄っていく。

 黒のショートカットの彼女は、カナタの接近に気づくと自身の自転車の荷台を引き掴んだまま顔を上げた。そして相手がカナタだと知ると睨むように目を細めてくる。

「……何か用?」

 剣呑さを装った声は似合わなさ過ぎて、この少女と付き合いが途絶えて久しいカナタでさえ吹き出しそうになった。それに応じようかと迷ったのも束の間、どうせ低級な言い合いにしかならないのだから、黙って折り重なった山の裾野に手をつける。

 その一台を立て直すと傍らから驚愕する声が上がった。

「ほんとに、何なのあんた……!?」

 彼女は未確認飛行物体でも目撃したような目を向けてくるが、カナタは手を止めない。倒れた列の一台ずつを順番に持ち上げ、絡まった部品を解きながら起きあがらせていった。しかし少女はいつまでもその作業を不服そうに傍観するばかりだからやがてカナタも毒づいてしまう。

「何やってんだシロコ。お前の自転車だろう? とっとと手伝え」

 命令口調のカナタに、この一応は幼馴染みと呼ばれる関係性の少女はより一層唇を尖らせる。

「何で全部、わたしたちが整理しなきゃなんないの!? わたしの自転車はこの一台だけだし!」 

「お前な……」

気弱なくせに頑固で、おまけに素直でもない少女の反発に付き合うつもりはない。このまま黙殺してしまおうかとも考えたが、さすがにそれでは自分の目的が勘違いされかねないと踏んで作業を続けたまま応じた。

「自転車一台が何キロあると思ってるんだ? 男の俺だってお前の一台だけを引っ張り出すことはできない」

 顔も向けずに言うと、「ぐぅ……」と威嚇なのか呻きなのか判別し難い声が響いてくる。

「だいたい昔から物臭過ぎるんだ、お前は」

 なんて、終いには余計な文句まで付け加えてしまうとシロコの目尻が憤慨に釣り上がった。

「今更幼馴染み面しないでよっ! 今のわたしのことなんて何も知らないくせに!!」

 握り拳を自分の両膝に振り下ろしながら言う彼女は心なしか自棄的で、八つ当たりじみた雰囲気を纏っていた。実際、高校に上がってからは成績の差でカナタとシロコは別のクラスに振り分けられていたし、だから彼女の気苦労など知る由もない。

 付け加えるのならそうして開いた距離を詰めてまで手を差し伸べる気概もなかった。

「良いから黙ってお前も手伝え」

 努めて冷静に、怒りか悲しみか、そんな出所の知れない感情が沸き出したりしないように自身を押し殺して言う。我を見失いたくなかったし、言い合っても無駄でしかないと分かり切っていたから無駄口も叩かない。返事がなくともカナタが一人で淡々と自転車を引き上がらせていたら、やがてシロコも隣に並んできた。カナタが手こずっていた絡み合う自転車のフレームとペダルをうまく解いて以降は彼と協力し始める。

「――やっぱりまだ恨んでる……よね」

 立て直していく作業の途中で手も止めないままにシロコが漏らしたそんな呟き。カナタは不覚にも息を呑んで彼女の横顔を見つめてしまう。

 シロコは、どちらかと言えば小柄な体で下から自転車を押し上げていて彼の方を見ようともしていなかった。だからその眼差しはカナタからほとんど見えず、仕方なしに彼も自分の手元に視線を戻す。掴んでいた一台を一息に引き上げるとそこで一息をついた。茜色の薄まる空を見上げながら自身を落ち着けるように呟く。

「……さぁてな。何の話をしてるんだか」



 画面の向こうで切り株に腰掛け、夜空を見上げていたアステルが首を傾げて横目にこちらを見やった。

「今日もお疲れですか?」

「誰かさんのせいでな」

 背もたれに身を預け、目を腕で覆いながらカナタは言い捨てる。アステルはそれを微苦笑で受け流し、奇妙な方向に話題を振り出した。

「シロコさん……でしたか? あの方とは、お知り合いなんですか?」

「……まぁな。幼馴染みって奴だ。家が近所で、小学校も同じだったから昔はよく遊んでいたんだよ」

 カナタが心の底から鬱屈そうに言うから、好ましい関係にないことはアステルにも伝わる。それでも気になった彼女が口を開こうとすると、事前に察したカナタが顔を上げた。

「言っておくが、俺はあいつを嫌っているわけじゃない。ただまぁ……他の奴らと同じく、関わり合いになるのが面倒なだけだ」

「それを嫌っているというのでは?」

 指摘するアステルだが、カナタは受け答えするのも煩わしい。眠りを妨げられた獣のように唸り声を上げ、その気だるさを引きずりながら無愛想に応答した。

「ようするに、他と比べてシロコだけを特別に嫌ってるわけじゃないってことだ」

 言い方を変えると人間全般を嫌っているとも解釈できてしまえるのだが、アステルもその辺りは心得ている。カナタを相手に無闇な説教を垂れようとはせず、代わりに語調を和らげた。

「わたし、実は安心したんですよね。カナタさんがわたしのお願いをすぐに聞いてくれて」

「……何が言いたい?」

 訊ねながらも薄々言外の意味に気づいていたから、カナタの声音は低くなる。彼威圧したつもりでいたのだが、微笑むアステルはまるで怯まなかった

「つまりですね、カナタさんは優しいってことですっ!」

 聞いているだけで頬が熱くなる台詞を、曇りなく華やぐ笑顔で言われるのだから堪らない。アステルの双眸から逃げるように俯き、カナタは言い捨てた。

「お前は少し恥だとか、そんな感情を持ったらどうだ?」

「恥ずかしがるようなことではありません! カナタさんってば全く素直じゃないんですから。せめてわたしが訴えていかないと」

 もはやカナタは言葉も出ない。喉がひくひくと震えて、言い掛けていた声も考えも全部引っ込んでしまった。

「いや、あの……カナタさん? わたし、何かまずいことを言ってしまいましたか?」

 機嫌を損ねたとでも勘違いしたアステルが首を竦めながらこちらを伺ってくる。

 その上目遣いはカナタの好感を買おうとしていようにも、不興を恐れているようにも見えた。

「……お前、実はわざとやっていたりしないよな?」

「何のことです?」

 訊ね返してくるアステルの表情は柔和な反面でどこか抜けていて、見つめていると疑る自分が馬鹿馬鹿しくなる。結局自分の浅知恵など純真さの前では卑小にしかならないのだと結論づけ、気を取り直した。こんな戯れのためにコンピュータを立ち上げたわけではない。

「今日はお前の家でも作るか」

「イエ、ですか……?」

 アステルは首を傾げ、目線で疑問を訴えてくる。あからさまに理解していない様子で、カナタの方が焦らされた。

「まさか何のことか、分からないわけじゃないだろ?」

 訊かれたアステルは「えぇっと……」と前置きしながら目を瞑る。

「イエとは、主に血縁のあるもの同士で構成される最小の生活共同体……ですか?」

「そうだな。その通りだ」

 辞書のどこから引用してきたのか、間違いでもない語義だったから肯定してしまう。さて、どうやって訂正したものかと思案するカナタだが、そんな余裕はすぐさま吹き飛ばされた。

「だけど、わたしに兄弟姉妹はいない……はず、だと思います……し! つまりはその、これはカナタさんからのプロポ――」

「違う! 断じて違う! てか、できるわけねぇだろ!?」

 柄にもなく反射的に怒鳴ってしまうカナタの顔を、アステルが不安そうに覗き込んでくる。

「そ、そんなにわたし、嫌われてたんですか……?」

 それはそれで違うのだが、ここで素直に気に入っているなど言えたのなら、カナタは今頃学校でも孤立していない。話を逸らしていく方針で行こうと心に決める。

「アステル、少し考えてみろ。俺とお前は文字通り、住む世界が違う。それを乗り越える手段も模索されていないわけではないが……」

 主流からはかけ離れた分野だった。本気で研究しているものなどカナタの知る限りでは一人しかいない。形にしようとする研究は積み重ねられてきたが、その道のりがまだ果てし無く行き先が遠いことをカナタはよく知っている。

「それなのに、どうやって家族になるって言うんだ?」

 酷い言い草でも、間違ったことは話していない。だからカナタは、アステルが黙して考え込むの目にすると内心で胸を撫で下ろした。

やや沈黙があって、彼女が「それでも」と口にするまでは。

「例え会えなくても、話せなくても、人の縁が切れるとは限らないと思います」

「そんなこと――」

 お前に何が分かる? 

 なんて、咄嗟に語気荒く言い返しかけてカナタは口を噤んだ。自身と落ち着けようと呼吸を整えながら、早まりそうになる口調に気をつけて語り聞かせていく。

「会わなくなって、そのまま途切れていく関係なんて山ほどあるぞ。俺だってガキの頃の友達はもう何人か、連絡もつかない」

 触れ合わない時間が積み重なるほどに関係は磨耗していく。霧散するまでそう長くはない。

 だから間違いなのだとカナタは再び訴えようとして、青く澄んだ双眸に魅入られた。

「それでも、信じることができれば結果は違うと思います。きっと相手もまだ自分を覚えていてくれるって信じ続ければ、必ず報われる日はやって来ると思います」

 そうまで言い切れてしまう強さが眩しくて、溜まらずカナタは顔を背けてしまう。

「お前がそう思えるのは、人と関わっていないから……人のことを知らないからだ」

 苦し紛れに、そんな捨て台詞まで吐き出して。

 その様子にはっとしたアステルは表情を曇らせ、やがて熱く湿った口調でこう漏らす。

「……ごめんなさい。わたしは違うんですよね。人間じゃないんです。だから人のことなんて何も分からないのかも知れません。偉そうなこと言いました。ごめんなさい」

 だなんて、鬱々とした眼差しを伏せながら語られて、カナタは思い至る。

 自分の間違いに。

 この少女をあくまでもプログラムの類だと考えていたことに。

 しかし、現実に目の前にいるのは自ら物思い、人や自身を儚みさえする一人の少女だった。たとえ彼女自身が否定しようとも、その華奢な体躯と、ころころ変わる表情は色とりどりの感情で満たされている。

「……なぁ、アステル。お前は俺が、どんな場所にするつもりでその空間を作ってきたのだと思う?」

 安易に懺悔もできなくて、カナタは唐突にそう切り出した。

「その空間って……わたしがいる、この星のことですか?」

 問われたアステルの方はというと、いきなりに過ぎる質問を飲み込めずに戸惑っている。だからカナタはなるべくかみ砕いて言い聞かせた。

「その星だけじゃない。そこが浮かんでいる小さな宇宙……世界のことだ。今のところはお前がいる星とその周辺しかないが、いずれは新しい星を取り込んで拡張するつもりでいる」

 言われて、アステルは画面から目を離し、空を仰ぐ。そこにまだ星は瞬いていないけど、彼女の瞳の中では無数の光が煌めいているように見えた。

「それなら、ここはこれから少しずつ賑やかになっていくんですね……」

「そうなるのはまだまだ先になるがな。それよりもここを作った目的だ。実のところ、お前が入ってきたのは予想外だったんだ。俺はもっと別のものを受け入れるためにその世界を作った」

「別のもの?」

 訊ねられ、その透明な目に覗かれてカナタは言葉に詰まる。

 まだ、誰にも話せずに言えることだった。カナタが一人で押し進めてきたことだった。

 掲げた理想が遠過ぎて、夢物語にしか聞こえないから。

 これまで通りならそうだったというのに。

「前に話したことの延長として、生きている人の脳のニューラルネットワークをコンピュータに写し取ろうとする研究がある。まだまだ不完全で、取り込んだ直後に崩壊したり歪な形になったり、問題点も多いらしいがな」

「でも、それって……!」

 意外と聡明なアステルはすぐさま、その研究が導き出す成果に思い当たる。

「お前のいる世界へと人が入り込めるようになるんだ。俺もそこへ行きたい。それが実現したときのことを考えて俺はそこを作った。……ある人の協力を借りてだがな」

 こんな全くの願望を語る羽目になるから触れずにいたのだが、もはや止むを得ない。それに真剣な眼差しで話に聞き入るアステルになら不思議と躊躇も後悔もなく全てを吐き出せた。

「さっきも話した通り、例の研究は不完全だ。コピーした人の意識は安定しない。だから現実に似せた世界で、現実に似せた体を与えることで意識を固定させようとした。お前がいる空間はそのために作ったんだ」

 言葉を区切り、一つ息をつく。続く台詞こそがこんな遠回りした話の核心だったから。

 真正面から晴れ空色の瞳を見据えると、彼女は息を飲んだ。

「――良いかアステル? その世界に入れたのも、そこで人の体を与えられたのも、お前が俺たちと同等の、そうでなければ似通った心の持ち主だと認められたからだ。お前がそこにいられるのはその証なんだよ」

 だから自信を持て。お前にはその資格があるんだ、と。

 声にする勇気まではなくて、だから代わりに力を込めた目でアステルを見つめる。彼女はまるで自分のことを言われているのだと分からないように戸惑い、それから震えた瞼が微かに見開かれた。

 アステルの唇が何か紡ごうとして言葉未満の声が喉から押し出される。しかし彼女は最後に深々と息をついて呼吸と気持ちを整え、カナタに目を向けると柔らかに相好を崩した。

「何て説明したら良いか、分からないんです。けれども、温かいので胸が一杯になって、それで……」

 頬を赤く上気させたアステルは胸に手を当てて、そこにあると信じられているものを慈しむ。

 その笑顔は混じり気がなくて可憐過ぎて、ひねくれ者のカナタでも口出しできなかった。

「わたし、分かった気がします。……いいえ、分かりました」

 突然気丈な口調になったことに驚いて彼女を見やると、宵闇の中でも揺るがない眼光に射抜かれる。その眼差しは普段の優しさに加えて、頑ななまでの決意まで滲ませていた。

「どうしたんだ? らしくない顔をして」

 カナタが思わずそう口走ってしまうと、アステルは僅かに唇を尖らせ、それから苦笑いのために弛める。だがその表情すらも打ち消して引き結び、真剣な眼差しがカナタを捉えた。 

「わたしがちゃんとした自我を手に入れられたのはここに落ちてきてからなんです。最初の頃は自分が何者なのかも分からなくて、だから何がしたいのかなんて分かるわけがなかった」

「それが、今は違う、と?」

 投げ掛けられた問いにアステルは威勢良く「はい!」と頷く。そして爛々と輝いた晴れ空色の瞳に彼を映して語り出した。

「きっとわたしはまだまだ不完全で、思い出せていないことがたくさんあります。それでもしたいことが……しなければならないと思えることが見つかったんです」

 そんなことをこの世にただ一つの至宝でも見つけたように言うものだから、ひねくれ者のカナタは溜まらず顔を背けてしまう。だけどアステルは聞いて欲しそうに彼を見つめていて、無視もできずに溜め息をついた。それから。

「俺はそいつを聞かせてもらえるのか?」

 カナタが訊ねると、アステルはくすぐったそうに一頻り笑みをこぼした。それから自身の口元に人差し指を立てる。

「それはまだ秘密ですっ!」

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