第9話
神殿を出た時点で、オニワカには通りの先にいる人影が見えてしまっていた。彼の目は引き絞られて焦点を遠く伸ばし、相手の顔さえも判別してしまう。
「……落ち着け、まだ」
敵になったと決まったわけじゃない。
そんなふうに自分に言い聞かせ、オニワカは昼下がりの町並みを駆け抜けていった。
相手はオニワカの接近を感知して町に踏み入ることはしない。風の壁を抜けたところの草原に立ち、オニワカの到着を待っていた。
オニワカは止めてしまいそうになる足を、何もかも忘れようとして我武者羅に振り乱した。半ば滑空するように彼は石畳の末端まで駆け抜ける。辿り着いたそこで砂煙を上げながら地に足をつき、踏ん張って前進する勢いを殺した。何度か跳ねて草むらに降り立つ。
いよいよ間近にまで迫ってきた相手と、オニワカは二本足で立ち対峙することになった。
「……こんにちは」
つまらなくて惨めで無愛想でも、他にかけるべき言葉が思いつかない。
からからに乾いた喉と心から絞り出された一言は放られて相手の足元に落ちた。
それでも、オニワカと対峙する彼はにこやかに穏やかに挨拶を返してくるし。
「こんにちは、オニワカくん。久しぶりだね」
彼の優しげな目つきが今はただ辛かった。
「そうですね。もうあなたとは随分と顔を合わせていなかった」
幾らか頭髪に白髪の散った、壮年の男性へと呼びかける。
「久しぶりです、フソウ」
「全くだ」
フソウはこれまでに見せてくれたのと同じ和やかな雰囲気のまま、けれど服装だけは違っていた。
「修道服……? なんでフソウが?」
「あぁ、これのことかい?」
フソウは肩を竦めて、白を基調とした布地の多い服の襟を摘む。
「いつかも話した通り私は代々旅をしてきた一族なんだ。そして今でこそ行商で生きる糧を手に入れているけど、その昔は救世主の教えを広めながら遊行していたんだ」
「なるほど、だからあのときフソウは……」
オニワカはまだ出逢ったばかりの頃、フソウが宿屋の前で祈りを捧げていたことを思い出す。行商として食い扶持を稼ぐようになりながらも、フソウは未だにその血に刻まれた信仰を受け継いでいるのだ。
「現在はもう天にいる『神』の存在を信じないものはいなくなった。僧としての私の役目はとうに終わっているんだよ。だから、まさかこの服をまた引っ張り出すことになるとは思っても見なかったのだが……」
もう少なくない皺の重ねられた顔が草臥れた嘲笑を浮かべる。他でもない、フソウ自身に向けて。
彼は目を伏せ、沈んだ面持ちのまま訊ねてきた。
「君は自警団長を殺めたそうだね……本当かい?」
フソウにだってその答えは知らないわけではないだろうに。
それでも信じたくないから質問してきているのだとと気づいて、オニワカは口ごもってしまう、寸前で息を吐き出した。喉で振るわせ声にして、自分を叱咤する。
流した血から目を逸らすな、と。
「その通りですよ。俺がイブキを、殺しました」
やむを得ない状況ではあった。それでも手に掛けたという事実は消えない。
「……ごめんなさい」
あの瞬間から紛れもなくオニワカは人々の敵へと成り下がってしまったから。
閉じてしまいたくなる瞼に力を込めてフソウを見やる。彼は手の平をすり抜けてしまった大切なものを掴もうとでもするように、意味もなく虚空を握っては離していた。その目尻は今にも崩れ落ちそうで、一回り老け込んだ佇まいは頼りない。
「本当なんだね。そうか……君があの自警団長を……」
分かり切っていたはずの事実でも、命の恩人から殺人鬼になったと告白されるフソウの心情は推し量るには複雑過ぎた。だからフソウがまた顔を上げるとオニワカは無意識に身構えてしまう。
「オニワカくん。私はね、『魔王』の手下である君と交渉をしに来たんだ」
「交渉?」
いかにも商人らしくありながらもフソウにはまるで似つかわしくない単語だった。溜まらず聞き返すと、フソウは頷いて続ける。
「君は……まぁ、自覚はあるだろうが我々がどれだけ束になっても敵わない相手だ。君一人の存在が、我々の越えられない障害になっている」
「俺だって神様とやらが肉体を強化した軍勢に囲まれればどうなるか分かりませんよ?」
村で目にしたイブキの姿をオニワカは思い浮かべる。赤い閃光を浴びたイブキは全身の筋肉が隆起して血管も浮き上がり、オニワカの反応速度さえ振り切った。
だがフソウはこれに首を傾げて、それから何かを思い出したように笑って曖昧な表情で誤魔化す。
「一般的な『魔術』にそこまでの効力はないよ。人間の体には限界があるからね、そこを越えるような力を『神』は与えない。当然、君の実力に届くこともないはずだ」
「そう、ですか……」
明らかな認識の食い違いを感じながらも何とか表情は変えずに切り抜ける。
あの血の色の光は祈りに応じ降り注いできた。そしてイブキが得た力は再生するとはいえ彼自身の肉体をも破壊している。
だが、考えてみればそもそもの前提がおかしい。イブキは言っていたはずだ。実戦で頼りにできるような『魔術』は自分には使えないと。
おまけにイブキは光から得た力を、初めて振るった様子だった。
オニワカと出くわした、そのときに。
彼を殺す、そのためだけに。
「フソウ。『神』というのは俺を殺すためだけに誰かを駒にするような輩なのですか?」
「駒、とは随分な言い方をするね? 御使いに命じられたというだけだよ。私たちは神託に従うだけだし、必要ならばそのための力も与えられる」
その言い方にやはりすれ違いを感じて、オニワカは歯噛みする。フソウとは、というよりこの世界に住まう人々とはその辺りの価値観が全く食い違っていた。信仰を前提に説明されても、オニワカには納得できないのだ。
「イブキは俺に向けて自分の拳が砕けるほどの力をぶつけてきましたよ。その度に治ってはいましたけれどもっ、イブキの体なんて道具としか見ていない! あいつが振るっていたのはそういう類の力でした」
だからオニワカでさえ逃げ出すこともできずに殺し合うしかなくなった。
「フソウの信じる神様ってのは、本当に信用できる奴なんですか!? そいつの言ったことのためになら傷つくことだって厭わなくなるような、そんな価値のある奴なんですか!?」
息が荒れたのは、語気が予想外に強まったから。
衝動に任せて言い切ってしまい、オニワカは我に返って酷く後悔する。
信じるものを否定された人間は酷く攻撃的になることがある。ここでそうなられたらノゾミにまで危害が及びかねない。
そのとき、オニワカに眠る『鬼』は果たして目の前の男を見逃すだろうか――
そんなふうに考えたら吐き気さえ催す悪寒に見舞われて、オニワカは恐る恐るフソウの顔を覗いた。しかしフソウは驚いたことに和やかな微笑を微かに曇らせることしかしない。
「オニワカくん。一つだけ言わせてもらいたい。君が思っている以上に我々の救世主は人々に安寧と希望をもたらしてくれた。理由もなく『神』と崇め奉られ、尊敬を集めているわけじゃないんだ」
そこからは俯いて、オニワカと目を合わせないようにしながらも続きを語る。
「ただ、私の命を救ってくれたのはオニワカくん、君だよ。『神』ではなくてね。君がいなければ私はいつかの街道で私は孤独に死に晒していただろう」
それが小さくとも言い逃れのできない反逆なのだと、気づいたときにはオニワカはフソウの顔をまじまじと見つめていた。彼は言い辛そうにしながらも必死の言葉を紡いでいく。
「幸いにもここは、『神』の威力が及ばないようなんだ。『魔術』も何一つ発動しなかった。だから私は隠し立てするつもりはない」
そう宣言したフソウは浮かび上がった陰りを瞬きとともに打ち消し、オニワカを見据えた。その目が、普段は優しさに満ちていた眼差しが、今はオニワカを立ち退くことさえ許さない威圧感で彼を縛り付けてくる。
「いいかい? 私は君を、ここから連れ出せと命じられてきた。その後の生活と安全は保証する、という条件の下でだ。できるなら私はこれに従ってもらいたい」
語りかけてくるフソウの態度は切実そのもので、冗談や嘘の類でないことはいやが応でも伝わってくる。けれどもフソウが明かすと宣言していたのは、こんな表だった事情ではないようだった。
「そしてね、もし君が私に従ってくれなかった場合は、外に待ち構える連合軍が攻め込んでくる手はずになっている。これは私が帰らなかった場合も同様だ。そして……」
そこで区切ったのは息が続かなかった以上にフソウ自身がまだ、口に出すのを躊躇っているからだった。
それでも彼は唾を飲み下して喉を湿らせ、無理矢理に言葉を引きずり出す。
「全員が、これを体に植え付けられている」
そういってフソウは顎をもたげて、自分の喉の指で示した。
「――っ!?」
咄嗟に声が出なかった。フソウの喉にあるものを目にして、オニワカは信じられずにただ凝視する。
喉の付け根近くに白く陶磁器のような器官が浮き出ていた。
逆さに留まった蝉の羽のような形状ではあるものの、その光沢ある無機的な質感には紛れもなく見覚えがあってしまう。
「魔物の脳から出てきた……」
白い下垂体。
「あれと同じ……? だけど、どうして!?」
警戒心など忘れてオニワカはフソウに詰め寄ってしまう。そして喉元へ指を伸ばしてくる彼にフソウは目を丸くしていたが、それでも構わずにオニワカは見入った。
「やっぱり、同じだ……」
手で撫でた感触は魔物の下垂体と変わらず、曖昧だったオニワカの世界観に決定的な亀裂が走る。その軋みまでが聞こえてしまう。
「フソウ。これは一体何なんですか?」
オニワカの睨みと大差ない鋭過ぎる眼光を受けて、フソウはやや仰け反る。けれども自分の喉に触れて笑みを薄めると語り出した。
「生き物が体にこれをつけると、『神』の加護が得られるのだそうだ。何でも集団になっていれば、『神』の威光が届かないところでさえ『魔術』が使えるようになるらしい」
フソウがかなり噛み砕いた説明を試みているのはオニワカにも感じ取れたが、まだ意味が把握し切れない。
仮にフソウの言う通りだったとして、魔物の頭に入っていたあれの説明が付かなかった。それに『神』の威光が届くようになるとは一体どういう――
「……あ」
気づいてしまう。フソウが明かした事実の重たさに。
その確認のため、というよりは否定の言葉が欲しくてフソウに問いをぶつける。
「つまり、それをつけた連合軍が攻め入ってきたら……?」
「ここは『神』の勢力圏になる。今は私が祈っても光の一つだって見えやしないが、百人単位の軍隊が攻めてくれば雷や火柱だって生み出せるようになるだろう」
「だったら俺たちはもう追い詰められて……っ!!」
フソウが問題なく入って来られたのだから、風の防壁に人の軍隊の侵攻を止められるとは思えない。そうなればオニワカは『魔術』の生み出す雷や炎をかいくぐって、強化された兵士を相手にすることになる。
そして皮肉なことに、オニワカは彼らを倒せないわけではないのだ。ただ間違いなく手加減はできなくなる。
それは、つまり。
「俺は……何人を、何人を殺して……」
例の白い器官は宿主が死ねば停止する。そうなれば『神』の加護だって打ち消せてしまえるのだから。
その相手が誰であっても。
「フソウのそれはもう働いているのか?」
オニワカはフソウの目を見ながら訊ねる勇気が湧かず、前髪の影に俯いた眼差しを隠して問いかける。フソウは自失としているオニワカの肩を叩こうとしたけれど、やめた。
下手に慰めれば、オニワカのフソウへの情が深まるから。
それではこれから、彼が取らねばならない選択肢に差し支えた。
だから自身の心を殺してフソウは淡々と答える。
「あぁ、機能しているよ」
分かり切っていたはずの真実にオニワカは叩きのめされた。それでもフソウは言葉を止めない。語ることでしかフソウは恩を返せないから。
「ここに来る直前に天から光が降り注いで、気がついたら喉に植えつけられていた。その頃は何ともなかったが、今は血を抜かれているような脱力感がある」
言い換えれば、たった今着実にフソウの周囲から『神』の勢力圏が広がりつつある。
「私一人でも生きたままここに居座っていれば一通りの『魔術』が発動できるようになるだろう。そして働き出したこれをつけて町の外に出ようとしたら、身体が弾けるのだそうだ」
その光景を想像してオニワカはすぐに思い至った。フソウの首にあるのと同じものを頭に埋め込まれた魔物たちは、町を覆う風の障壁に触れた途端身体が破裂していた。同様の事態が今のフソウにも起こり得るのだ。
だからフソウはもう生きたままこの町から出ていけない。
それでもこの町を『神』の勢力圏に入れたくなければ、取れる選択はただ一つで。
「でも! だからってフソウを……だなんて」
思い当たってしまったその選択肢をオニワカは躍起になって否定しようとする。しかし、彼の胸の奥底にくすぶるものが逃避を許してくれなかった。
町から追い出すにも白い器官を停止させるにも、フソウを殺すしか方法はない。
それがノゾミを守るための最善手だったから。
「……っ、どうして……!?」
脂汗を滲ませながら葛藤に勝利しようとオニワカは決死の思いで正気を振りかざすが、勝てない。心が紅に浸食されていく。
「すまないね、オニワカくん」
フソウが謝ったのは、彼がここにいることがどうあっても『魔王』の不利にしか働かないからだ。この町にいてしまうだけで、フソウはノゾミを追いつめてしまう。
そしてそれが何を指し示しているのか、よく熟知していたからこそ謝る他なかったのだ。
「本当にすまない。私はここに来るまで君が正気を失ったものだと思っていた。けれども本当に譲れないものができたんだね?」
「やめ……ろ、フソウ……っ」
敬語なんて使う余裕はなかった。オニワカは後ずさりながら胸を掻き毟って熱を堪えようとする。目覚めかける鬼を御しようと歯を食いしばり、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて人の心を繋ぎ留める。
オニワカの肉体は繰り返し真紅に明滅した。
それでも後一歩のところで境界線に踏み留まる。生物だったなら本能と呼ばれているはずの根幹に植え付けられた衝動を噛み殺した。
「俺は……『鬼』なんかじゃ、ないんだ!」
自身に宿った、その証明の温もりを確かめていく。
「俺は、人間だ……!!」
その証拠が、確かな人の心の証が、幾らでも記憶に納められている。
フソウと交わした言葉は? 感情は?
たった今、こうしてオニワカの心を繋ぎ止めていた。
ノゾミと過ごした時間は? 与えたもの、授かったものは?
忘れられなくて、考えただけでも胸が切なくなった。
そうして築き上げてきた全てが、彼の奥底には眠っている。心を作る一つ一つが思い出として積み重なっている。
それを思い出せと自身に命じて。
オニワカは記憶の深淵へと意識の根を伸ばしていった。
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