第6話

 林を突っ切り大草原を抜けて記憶にある自身の足跡を辿り続けてきた。今はイブキと話しながら歩いていたあの森の中をオニワカは全速力で駆け抜けている。

 足元は木の根と茸が行き交い、そこに苔がまとわりついてさすがに走り辛くはあった。頭上で幾重にも重なる枝と葉が日の光を遮って肌寒く、空気はどことなく湿っている。

 一度行く先を見失えば二度と出てくることは叶わそうな森だったが、オニワカは立ち止まらない。自分の直感を疑ってはいなかったし、迷っても一昼夜かけて走り続ければオニワカに行き来できない距離などなかった。

「あと、少しだ……」

 その確かな記憶の通りに駆け抜けていった彼はやがて、枝葉と幹の彼方に溢れる白い光を見つける。初めは瞬きの度に見失ってしまいそうだったその煌めきは、一歩地を蹴る毎に輝きを強めた。暗さに慣れた目には眩しいほど、強くその明るさを主張し始める。

 全て最初から予想したとおりだったから、オニワカは驚きも喜びもしない。立ちふさがる木の幹を避け、一息で残りの距離を走破した。

 肩で負ってしまった僅かな枝の葉を散らしつつ、オニワカはいつかフソウと出会った小道に飛び出す。土塊を撒き散らしながら立ち止まったそこは、森に切り開かれた人気のない街道だった。以前よりも雑草が増している。季節が巡ってこの一帯も夏を迎え、緑が葉を広げ、水と日光を取り合いながら勢力を広げていたのだ。

標高が高く寒冷なままだった町にいると気づけない時の流れである。

 まるで独り時間に取り残されたようで、抱いた寂しさが奇妙に胸を引っ掻いた。もちろんそんなことは後回しにするべきで、オニワカは村へ向けて一気に街道を上っていく。

 そうして彼が守衛に挟まれて村の門をくぐったのは、日もそろそろ赤らみ始める頃合いだった。

 決して数は多くない民家や馬小屋、それから旅人向けの商店などが魔物の侵入を阻む高い柵に囲まれている。気になったのはその柵の所々に穴が空いていたことだった。急ごしらえの補繕でどうにかへし折られた隙間を埋めているけれども効果は怪しい。家屋の幾つかも打ち崩され、村を歩く人々にも重たい陰が付きまとっていた。

「まさか、襲撃にあった……?」

 心に生まれた憂慮を噛み潰して、オニワカは村にいるはずのイブキの姿を探し求める。

 向かいにはオニワカが使わなかった門があった。分厚い金属板から鍛え上げられたそれは大鎌の魔物さえ届きそうにない背丈を誇っていて、その隅に夜間用の小さな扉が備わっている。

今はそこも彼の背後に聳える門も日暮れに備えてゆっくりと閉じられつつあった。

 オニワカが寝泊まりした宿も記憶通りに営業を続けている。横長の平屋の脇に幾つもの荷車や馬車がひとかたまりになっていて、人の往来は途絶えていないらしい。

 しかし、その中には。

「フソウの馬車は……もうないのか」

 かつてオニワカが運んだものは見つからない。内心肩を落としつつも彼は気を持ち直して捜索を再開した。あの人の良さそうな行商人と再会するために、ここを訪れたわけではないのだから。

 しばらくその場で周囲を眺めていたが、それらしき人影は見つからなかった。やむを得ずに門の守衛たちの許へと話を聞きに行く。

「あの、すみません」

「うん?」

 簡略な鎧を纏う二人の守衛の片割れが眉を顰めて応じてくれた。

「どうかしたのか?」

 鱗を継ぎ接ぎした兜の奥から飛んでくる目つきは鋭い。だがノゾミのことで頭が一杯のオニワカが気にするはずもなく、単刀直入に質問をぶつけにいった。

「この村の自警団の団長はどこにいらっしゃいますか? できるなら俺をそこまで案内して頂きたい」

 臆するどころかずいと迫ってくるオニワカの気迫に守衛は圧倒される。溜まらずたじろぎ後ずさりしたものの、その矜持にかけて自分の任を忘れることはなかった。

「何のためだ? お前は確か門を潜るときに平原の戦いに参加したと言っていたが、目当てはその報酬か?」

 無論、そんな目的があったわけではないオニワカだが、その理由は通じるし具合が良い。迷わず「そうです」と彼が伝えると守衛は隣にいた相棒と何言か耳打ちして相談を交わすと、オニワカに向き直り彼を見据えた。

「分かった。本当かどうかはイブキさんなら見分けられるからな。案内を連れてくるまで、そこで待っていろ」



 それから西日の勢いがさらに弱まるほどの時間を経て、どこか頼りなげな青年が連れられてきた。背丈はオニワカと同程度で、麻と綿で編まれた普段着姿の細身を見ていると本当に自警団員なのかと疑いたくなる。

 けれども、オニワカは彼が戦う姿を戦場で目撃していた。

「こんばんは。あなたは平原の戦いで、斧を振るう魔物に殺されかけていた……」

 そしてオニワカが窮地から救い出した、あの若い兵だった。戦場に入ると最初に助けた人物だから、オニワカもその顔を覚えている。

 だから、自惚れていたわけではないが、多少は感謝の言葉も来るものだとオニワカは考えていたのだった。

 彼の予想したものを含む眼差しが、ほんの瞬きの間しか保たれないとも思わずに。

「何してるんですか、逃げてっ! 早くここから逃げてください!!」

 もう成人していてもおかしくなさそうなのに垢抜けない青年の面差しが引きつっている。

 一体何に?

 と思考を張り巡らしても、思いつくものは何もなかった。だからオニワカは素直に問い質そうとして慌てることもなく質問していく。

「どうして? 何か起きたんですか?」

 けれども青年はそんなオニワカの態度さえも苛立たしげにして、或いはもどかしそうにして詰め寄ってきた。

「良いからっ! あなたがオニワカさん何ですよね!? 僕を助けてくれた方で間違いないんですよね!?」

 その異常とも言える剣幕にさしものオニワカも気圧される。そこにただならぬものを感じて、ひとまずは退散しようと決断した。そのついでに事情が聞きたくて、青年を引き連れていこうとしたオニワカだが、足音に気づく。

オニワカの決断が遅過ぎたのか、はたまた青年が騒ぎ過ぎたのか。

 いずれにせよ、既に手遅れであることに変わりはない。

「よう、オニワカ」

 と聞き覚えのある、男の低い声がオニワカの背中を叩いた。反射的に、望んでいた再会だと思ってオニワカは振り返る。

「イブキ! 久々――」

 突き出された銀色の切っ先からオニワカは咄嗟の反応で首を傾げて免れた。そのまま短刀が振り下ろされるよりも早く体を逸らしながら斜め後方に飛びずさり、さらに跳ねていって距離を取る。

 事態の把握を後にして動いていたオニワカは、その身に起きたことを理解しても納得がついてこなくて、こう訊ねるしかない。

「どうしたんだよ、イブキ? 何で? 一体どういうことだ?」

 泣き出しそうな顔のオニワカと相対したイブキは、追いかけようともせずに腰から抜いた短刀を低く構える。オニワカを遙かに越す巨体の頂上から見下ろしてくる頭は、冷徹な殺意と憤怒を目に宿している。

「くたばっちまったもんかと思ってたよ、オニワカ。まさか本当に生きてるとはな。お告げの通りってわけだ」

 などと語るイブキの表情にははっきりとした憎しみが滲んでていて、ただ目を合わせるだけでも辛い。何もかもが理解の外で、狼狽していることしかオニワカには許されなかった。

「教えてくれよ、どういうことなんだイブキ……? お告げだと? それがどうかしたのか?」

 構えを崩さぬまま、イブキは答える。

「お告げってのはな、神様から下されるものなんだ。ある日突然頭に語りかけてきて、嵐が迫っていることや魔物の襲撃を教えてくれる。しかも外れたことがねぇんだよ」

 だから、今回もそれに従ってオニワカに攻撃を加えているのだと、イブキの目をそう言っていた。

「待ってくれよ!? 俺がどう言われていたのかは知らないけど、狙われることなんてしてない! 一体、どんな理由があって……!?」

 そんな訴えをされても、イブキは心底腹立たしそうにして吐き捨てるのみだ。

「魔物の襲撃が増えたんだ! オニワカ、てめぇが『魔王』の手先だからだろう!? お前のせいで、『魔王』が力を取り戻しつつあるって、そうお告げにはあったんだ!!」

「そんな……」

 あまりにも一方的な言い分で、反論の余地なんて幾らでもあるように思えた、けれども。

 もしかしたら?

 そんな迷いがオニワカの喉をひきつらせる。

 神殿のある町の周辺にはオニワカでさえ尻込みするほどの魔物が集まっていた。あの群れが集結したのは、オニワカが神殿を訪れてからのことである。

 おまけに彼はノゾミと生活を供にしていて。

 『魔王』と呼ばれているはずの少女と過ごして、どうして手下でないと言い切れる?

「どうだ、見ろ!? やっぱり、てめぇのせいで、村は! 村はっ、こんなことに……!!」

 口答えも、できたはずだった。けれどもイブキの怒る目が本物で、村には襲撃の傷跡が残っていて、立ち尽くして非難の言葉を浴びても抗えない。

 そうしている間にイブキは鋭い声で指示を飛ばし、呼びかけられた男たちがオニワカを囲ってきた。続々と自分に向けられていく槍と剣の包囲網の中心で、だが彼は動き出せない。

 思い出してしまうのは時折フソウの見せた悲しげな顔や、イブキが剥き出しにした『魔王』への憎しみだった。それを引き起こしたの全て、魔物と呼ばれる化け物たちの所業である。

 それを自分が悪化させているかもしれない、だなんて考えたくもない可能性だが、否定材料がなかった。打ち消すには何もかもを知らな過ぎて、そこに頭を引きずられてしまう。

「オニワカ。お前に最後の恩情をくれてやる。俺たちは神様から、できることなら捕らえろ、それができなければ殺せと仰せつかっている。だから生きたきゃ黙って捕まれ」

 そうすべきなのかもしれない、と心の中で誰かが囁く。投げかけられた言葉はきっと助けた誰かからの恩返しで,彼らの心情を鑑みれば悪くない処遇に思える。

 イブキらも、できる限りの譲歩はしてくれているのだ。

 ――それでも。

「ごめん、イブキ。俺は捕まれないよ。それに殺されもしない」

「あ?」

 俄に周囲がざわめいて殺気立ち、各々手持ちの武器を構え直す。

「本当にごめん、イブキ。でもな」

 分からないことばかりの世界でも、オニワカには一つだけ確信できることがあった。

「俺にはあんたたちよりも大切なものがあるんだよ」

 胸の奥底に刻み込まれている。他にどれだけを犠牲にしてでもあの少女を守り抜くようにと。オニワカの意思ではどうにもならないところで、そう宿命づけられている。

 そして何より、そんなこと以上に、オニワカ自身がノゾミのことを見捨てたくない。

「だから、退け」

 怯えるでもなく、威嚇するでもなく、黒い礼服を着た決して大柄ではない少年がその場を圧倒する。そこにいた誰よりも彼の意志は強大で、絶対的だった。

「そ、そうかよ……だがな、こっちだって加減はできねぇぞ!? かかれッ!!」

 ――という指令が飛ばされるや否や、オニワカをぐるりと囲み、槍の穂先が迫ってきた。全方位から逃げ場を潰して、殺しに来ているのだ。たった一カ所、直上を除けば。

 だがオニワカは微塵の驕りも挟まずに、この程度で捕まるとは考えていなかった。

そして、そのことをイブキにも見抜かれていると、そう確信している。

 だから無理矢理にでも、取るべき手段は一つしかないと決心したときには自ら迫る槍に突進していた。持ち前の速度を生かし、囲い切られる寸前に槍の一本に手を添えて軌道を逸らし僅かな血路をこじ開ける。その隙間へと、押し寄せる刃が服を掠めていくのにも構わず踏み込んで槍を伸ばす腕の下の死角に潜り込んだ。突進の勢いは殺さずに足の一本を軸にして裏拳を振り回し、鎧では隠し切れない無防備な脇腹に叩き込む。

 打撃の衝撃は皮膚を越えて骨と内蔵に伝播し、鈍く重く相手の全身を麻痺させていった。

「――っ!?」

 殴りつけられた兵は不意に重みを増した体に身悶えしながら、隣にいた兵士を巻き込んで横様に吹っ飛ばされた。

 魔物のときと違い肉体を粉砕してはいないし殺してもいないが、四肢を投げ出した相手は地べたにうずくまって動かない。痛み以上の疲労感に似た気怠さが今はその男を襲っていた。

 容易に包囲を突破されてしまった兵たちの間ではさすがに分かりやすく動揺が広がったが、味方は殺されてはいない。そう気づくとすぐに士気を取り戻して槍兵の背後に構えていた男らの長剣が一斉に振り下ろされ――る前に、接近を終えていたオニワカの拳が乱舞して全員の顎を撃ち抜いてしまった。

 倒れ行く彼らの合間を抜けると、ようやく目の前が開ける。案の定、弓を持ったイブキが一人で歯噛みしていた。

「もう良いだろうイブキ? これ以上はやっても無駄だ」

 二重に囲っていたにも関わらずあっさりとイブキは自分までの道を切り開かれていた。平原の戦い時点からのことではあるが、イブキだって勝ち目の薄さに自覚はあったのだ。

 それでもこうして包囲を抜けられた以上、もう人海戦術は通じない。

 そこまでを見切った上でイブキはこう決断せざるを得なかった。

「……退け、お前ら。まともな人間が、適う相手じゃねぇ」

 含みのある言い方は、しかし全く諦めているふうではない。オニワカのことを人間ではないと強調する一方で、それ以外ならば比類する力があるとでも暗に語っているようだった。

「まだ、何か手があるのか?」

 立ち退いていく兵たちを警戒しつつ脱出路を探していたオニワカが目を向ける。その先にはオニワカと同じく取り残されたイブキが、やつれた顔で空を見上げていた。漂う雲さえ血の色に染め上げる、一度目にすれば忘れられない夕空だった。

「……結局、頼んなきゃなんねぇのか」

 黄昏の空を仰ぐイブキの出で立ちも燃えつき掛けた太陽の色に塗り上げられている。その最後の輝きの色が彼の全身を激しく全身を燃やしていた。

 イブキがそれまで密かに祈りの言葉を唱えていたこと、そしてたった今それを読み上げ終えたことに気づいたときにはもう遅い。イブキは口の中で思わずこぼした愚痴を噛み殺し、天空に拳を突きつけた。

「さぁ、力を貸してくれ」

 その一言が引き金だった。

 イブキが目を閉じると、彼に降りかかる夕明かりの垂れ幕が輝きを増す。より密に、なお眩しくイブキを光の血流に取り込んで、その周囲にまで赤が振りまかれる。

 網膜に植え付けられる鮮烈すぎる色に苦しみながらもオニワカはその光景から目を離せずにいた。逃げなければ、という以上に働いてしまっている思いがあったから。

 助けなければ。

 あの光は、良くない。

 赤熱したように輝く光を皮膚が焼けただれそうなほど間近から見つめているのに、寒気がせり上がってきた。背や腕に容赦なく爪を突き立てて、悪寒が這い上がってくる。

 だから、その煌めきを食い止めようと思っていた矢先だった。火の粉のような残滓を散らして、光が収束し一気に途絶える。

 逃げることもできず、かといって事態を飲み込めないまま攻撃にも移れずにオニワカは立ち尽くしていた。何の反応も取れないまま凝視していた、と思っていたら。

「――っ――!?」

 夕空を仰いでいる。

 直後背中から地面に叩きつけられて自重と加速度が体を潰し、土の臭いとそこに混じるごつごつとした石の固さがオニワカを迎えた。衝撃に呼気さえも絞り出されて、オニワカは胸を押さえながら咳き込む。

 荒ぶった呼吸を意識して鼻から入れ、口から吐き出すように制御しつつ前を睨んだ。

「何を、した?」

 訊ねても、刃が中程で砕けた剣を握るイブキは不敵に笑うだけだ。オニワカは苦々しく思いながらも自分の胸元を見やった。右の脇から左の肩口にかけて、纏っている礼服がずたぼろに破れてシャツにも鋭い切り口が走り、裂傷の走った素肌を晒している。

 最も深く切り込まれた脇の傷は皮膚を通り越し肉にさえ達していた。

 その傷口をまじまじと観察して、ようやくイブキの表情にも笑み以外のものが浮かぶ。

「どうにも、マジで人間じゃなかったらしいな。今の一撃も威力は逸らしたみてぇだし。さすがは『魔王』の手下ってところか」

 言い捨てるイブキの目は憎しみに濁りながらもオニワカの皮膚に隠されていたその奥を見つめていた。

 溢れ出す赤い血に無機質な黒い筋繊維がしとどに濡れている。

 おまけに傷ついた傍から治癒が始まり、露出していた筋肉の表面を毛細血管が行き交って脂肪が包み込み、その上へとさらに伸長してきた皮膚が覆い隠してしまった。肌さえも傷跡だって残さずに復元され、オニワカの体は元の有様を取り戻す。

 しかし、その様に誰よりも呆然として、立ち上がれずにいたのはオニワカだった。

「どうなっている……?」

 そんな彼の隙は余りにも大き過ぎて、反応が遅れる。波打つような風の動きを頬に感じて顔を上げると、肉薄したイブキの槍がオニワカをめがけて撃ち出されるところだった。

「――ッァアアアア!!」

 裂帛がそのまま勢いとなった一閃はもはやいなせない。

 オニワカは無理を承知で横様に体を投げ出し、直撃だけは免れる。けれども胴を庇った腕は衣服ごと肌を切り裂かれてその下の僅かな脂肪も抉り取られた。

 穿たれた傷の奥にはやはり黒い繊維が寄り集まっている。そこへまた赤い血液が流れ込み、恐るべき速度で修復されるところまでまるで先刻の再現だった。

 転げ回るように後ずさり、退避しながらもオニワカの注意はそこから離れない。

「俺は人じゃないのか……?」

 こんな機能がついているなんて知らなかった。自分の体がまるで見知らぬものになったようでよそよそしく、歯の付け根の震えが止まらない。

そんなオニワカの姿をイブキは冷酷な目で見下ろしていた。

「そんな有り様でもこっちの攻撃は防いでくんのかよ。やっぱ、てめぇ相手に手加減はできそうにねぇや。神様の力ってのも案外頼りねぇものなんだな」

 イブキが愚痴をこぼすと、それに反発するようにまた光が降り注いでくる。今度は濁りきってどす黒い、腐った血の色の奔流だった。

 一呼吸分ほどイブキを覆い、前回と同じく僅かな片鱗を残して瞬時に消え去る。

 そこから現れたイブキは全身の筋肉が膨張して、元からの巨躯も膨れ上がった。鎧から露出した肌には血管が浮き上がり、血走った目に映る眼光は荒れ狂っている。

「……オニワカ。こっちも長くは持ちそうにねぇんだ。だから手早くお前のことも片づけさせてもらう」

 と言い終えるよりも、オニワカの体が吹っ飛ばされる方が早かった。町を囲う柵に背中をぶつけて打撃の威力との間に体を擦り潰されそうになり、声を上げることも叶わない。ずり落ちて地べたに尻をつき、背後の柵にもたれかかった。町の中心部から吹き飛ばされてきたオニワカを受け止めたというのにびくともしていない。これも神様の加護とやら働いているからだろうか、と霞む意識で考えていた。

 まるで自分を追い込む罠のようだなんて思って、まさしくその通りなのだと気づく。否が応でも軋む全身に耐えて立ち上がるしかなかった。

 目の前の敵を倒すしかないのだとイブキの姿を見据える。

 巻き上がっていた砂煙を風が拭うと、腕を突き出した格好の男が一人立っていた。その拳があったはずの場所を目にして、オニワカは愕然とする。

「……っ、イブキ。少し、待て。今のまま暴れ回ったら、お前も死ぬぞ!」

 今のイブキの一撃は『まともな人間』が腕に受けたなら肩ごと消し飛ばされるだけの威力が籠められていた。そうではないオニワカもイブキの拳を受け止めた腕が垂れ下がったままでいて、動けてしまえるのが奇跡的なくらいだ。単純な衝撃には相当の耐性を持つ構造ならしい、というのが自身の体に下した評価である。

 けれども、『まともな人間』のイブキは事情が違った。その腕は自らの打撃の反動を受け止め切れずに肘から先が赤く濡れた肉塊に成り下がっている。

 その様を自ら目撃した上で、しかしイブキは不敵に笑うのだ。

「神様だって、俺の体をただ頑丈で力強くしたわけじゃねぇんだよ」

 その言葉を証明するように膨れ上がった肉と脂肪の先端から指の骨が突き出てきた。そこに神経が絡み付き、それを肉が追従して最後には皮膚が覆っていく。

「それじゃあ、さっさと終わりにしようか」

 なんて聞こえるよりもやはり、吹き付けるイブキの纏った風を頬に感じる方が早かった。眼前に出現した巨体を睨みながらオニワカは直感だけで半身に構えて受け流すことに徹する、のと同時に大岩も割り砕かんばかりの衝撃に見舞われた。彼の背中は再び背後の柵に叩きつけられて、いなし切れない威力が震えとなり四肢の先や脳にまで駆け上がってくる。直に脳を揺さぶられ意識は弾け飛ぶ寸前にあったが力づくで繋ぎ止めた。

これは全力の一撃じゃない。だからオニワカの腹を蹴飛ばしたイブキの足は無事で、すぐにでも次がやってくる。

「こんの……っ!」

 全身ごと横様に身を投げ出した。オニワカの頭があった空間をイブキの拳が蹂躙しながらオニワカの頬を掠める。互いの皮膚は削ぎ落とされてどちらのものとも分からない血が舞った。

 受け身を取る余裕もなく地に伏したオニワカは側頭部を強かに打ち付けてしまい、見える世界の色が氾濫する。混濁する視界と意識の中で必死になって飛び上がって後退し、イブキから距離を取った。

 今にも崩れ落ちそうになる膝にどうにか力を込めて、オニワカは前を見据える。

 そこではイブキが拳を振るった腕の再生を待っていた。その眼前には人の頭ほどの風穴を空けられた柵が捻じくれている。

「すげーな、神様ってのは。お前みたいな化け物相手でも一方的に追いつめれるんだから」

 イブキは無事な方の手で投げ渡された剣を受け取りながらオニワカに一瞥をくれてきた。

「これなら、お前みたいな奴らを全員殺せる。この村の敵は、『魔王』の城に集まってる魔物だって、全部片づけられる……」

 そこでイブキの姿勢が崩れ、膝をついて咽せ始める。それから苦しそうに息を整えていたがその目からは光が失われていない。

「それから、そいつらを操ってるって言う『魔王』も殺し――」

「――もし、『魔王』が年端も行かない、何の力もない少女だとしてもか?」

 この世の全てを恨むように低く重たい呻りがイブキの発言を遮った。

「神様とやらが『魔王』だと言えば、抵抗もできない女の子だとしてもお前は殺すのか?」

 短い言葉に『魔王』も魔物も霞む威圧的な暴力が籠められていて、低く響き渡り村中を静まり返らせる。しかし、そんな中でもイブキだけは最後まで抗おうとした。

「当たり前だ! どんな奴だろうが、知ったことじゃねぇ。そいつが魔物を操ってんだ! だったら、死んでいった奴らのためにもそうする義務が俺にはある!!」

 そう吐き出させたのは、他でもないイブキの意地だった。数多くの仲間を失いながら、それでも戦い続けた自警団団長たるものの矜持だった。

 だからどうやっても口を止めることができなかったイブキは、言い切って初めて自身の宣言の意味を知る。

「……対象……害……がいち……排……に……」

 赤く仄かに、オニワカの肢体が光を放ち始めていた。

 日が山陰に没し闇に沈んでいく世界の中で、一際煌めく血の輝きだけが密度を増しながら燃えたぎる。赤い、などと表現するだけでは足りないほどに鮮烈で、目にその存在を焼き付ける色の名は『紅』。

 炎より澄み切りながらも血より色濃い、紅蓮の色。

 礼服に覆われていない手からも顔からも、また衣類の切れ目に覗く素肌からさえ『紅』が溢れ出し、肌色を切り裂いて浸食する。

 やがてその灼熱はオニワカの瞳孔にさえ宿り、彼の意思を食い潰していった。

「お前、本当にオニワカ、なのか?」

 そう紅の瞳に問いかけるが、炎熱が支配する目は個人としてのイブキなどもはや映さない。今のオニワカにとって、イブキはノゾミに殺意を向けた害悪でしかないのだから。

「おい、返事――!?」

 イブキの台詞は喉の奥からせり上がる最中に断ち切られた。その手にあったはずの剣の切っ先が自身の胸板から生えていて、彼はゆっくりと我が身に起きた事態を理解していく。イブキが、背後に立つ真紅の仄明かりに包まれた化け物の姿を肩越しに窺おうとした。

「オ……」

 そうイブキが何かを発しようとした途端に周囲の建物か半ばまで余波で吹き飛んだ。人々は薙ぎ払われてオニワカの踏む地面から砂煙が波状に舞い上がり広がっていく。

 その中心にいたイブキ自身もただ戸惑っていることしかできなかった。だが、やがて振動が伝わり切った彼の体は仰け反り、その全身に張り巡らされた血管が腫れ上がる。

 直後、彼の目が色を失ったのと同時に、目や鼻や口や耳から粉微塵になった肉と血飛沫が吹き出した。

 周囲を我が身の内容物で染めながらイブキの腕は垂れ下がり、オニワカに小突かれて前のめりに倒れ込んでいく。

既に息絶えていたイブキの肉体はぐしゃりと力なく四肢を投げ出して血溜まりに沈み込んだ。誰もがその様を、人であることを捨てた自警団長が鬼に殺された様を、息を呑み眺めている。

 鉄臭くて生ぬるい風が沈黙を埋め、赤熱していたオニワカは次第に鎮まっていった。彼は紅の鬼から徐々に人の肌を持った存在へと立ち返る。

 しばらくして落ち着き、その頭でオニワカは目の前の光景を自分の目で確かめた。

 彼が放った剣を受けて全身の穴から赤黒い液体を吹き出す、かつての知人だったものの成れの果てを。

「――っ、あぁ、あぁあああああああああああああああ

ッ!?」

 血に塗れた自身の手の平、それから微かに記憶に残るイブキの肉の感触。砕け散っていく骨と臓物の音。

 それら全てに怯えて、人に戻ったオニワカは絶叫しながら駆け出した。歪んだ柵の穴を抜けて町を飛び出し、誰もいない場所を目指す。

 それを止められるものも、追いかける勇気のあるものもそこにはいなかった。



 一つの夜を越えて空の彼方に仄かな青が満ち溢れ出す。山の上空に高らかな鳥の叫びが響き渡る頃、オニワカは神殿のある町の通りで膝をつきうなだれていた。

 まだ薄暗い町並みは濃紺の闇に沈没していて、膝と手に触れる足下の石は氷みたいに冷たい。それでもオニワカの内から滲み出す熱病めいた疲労感を打ち消すには遠く及ばなかった。

 心も体も草臥れ果てていたが、それもそのはずだと、町に辿り着くまでの道中を思い出す。

 何もかもを理解できないまま村を脱したオニワカは真っ直ぐに山野を駆け抜け、町のある山を登った。その中腹に至った頃、枝葉の隙間から頂点を通り過ぎた太陽が覗いていたことを覚えている。

ともかく早く帰りたかったオニワカは無心に斜面を駆け上っていて、何の気もなしに比較的固そうな地面を踏み締めた。

 その瞬間のことだった。

 足下の山肌が割れた。土が盛り上がってそこから裂け目が走り、広がったそこへと雪崩れ込んでいく土の流れから刃が二本飛び出す。

 その出現より早く樹木の上に退避していたオニワカはじっとその正体を見極めていた。

 土中から出現した土と同色のそれは鋸状になった刃同士を素早く噛み合わせて獲物を求めたが、甲高い音だけを鳴り響かせる。耳をつんざくそれに顔をしかめながらもなおオニワカが観察を続けていると、刃の根本に片側ずつ一対の目を見つけた。

 オニワカの拳ほどもあるその眼球はほとんど退化し消えかけている、と知れたのはそいつの頭の全体像を見て取れたからである。

 オニワカの背丈ほどもある刃だ、と思っていたのそいつの備える大顎だった。その根本の間には牙のない口がぬめり気を帯びて光を放ち、堅い甲殻に覆われた頭だけを突き出して獲物を待ちわびている。

 その一匹を相手にするために地面に下りるのは躊躇われた。他に何匹が待ち構えているか分からないのだ。

 だからオニワカは木から木へと跳ねて渡り歩き出したのだが、魔物たちには見越されている判断だった。

 飛び移った木の幹に爪先が触れた途端、異様な軟らかさ怖気が走った。それと思っていた表面が蠢き、幾つもの甲羅が重ね合わさった虫のような魔物の背だったと知る。

 その体が縮んで堅く丸まり。

爆発した。

 その衝撃にオニワカは宙に吹き飛ばされて脳震盪まで起こし、危うく意識を刈り取られかける。しかし飛び散った甲羅の破片に衣服と肌を切り裂かれ、走った痛みがオニワカをぼやけた覚醒させた。

 身動きの取れない空中で身を捻り地面と衝突する部位だけは調節する。頭を庇うようにして構えた腕から柔らかい土に飛び込むや否やその反発を利用して上体を撥ね上げつつ飛び退る。それと時を同じくしてオニワカの落下した地面から大顎が突き出され、もうそこにはいない少年を挟もうとしていた。

彼はそれに構わず全速力を以てして土を蹴り飛ばし始める。

 魔物たちがオニワカを頂上に寄せ付けまいとしているのは明らかだった。

 募る危機感に応じて、またオニワカの体が仄かに赤く発光を始める。それに合わせて彼の足も腕も腰も首さえ限界まで駆動してそれらを制御する思考回路も加速を始め、発生した排熱が浮き上がった全身の血管で冷却される。

木も地も時には現れた魔物でさえ足場としてオニワカは駆け上がり出す。その踏みしめた地点は爆砕されてすり鉢状に穿たれ、そんな彼の軌道を予想して地面を突き破ってくる魔物の顎さえ無惨に打ち砕かれてしいく。

 霧が晴れていたのは幸いだった。山中でも速度を落とさないで済む。魔物らだって動きやすくなるはずだが、発揮される全力の違いを踏まえればオニワカの方が利点は多かった。

 山頂に近づいていくに連れて木や藪の陰から魔物が飛び出してくる頻度が増す。イブキと同じように血管が腫れ上がり運動性が増したそれらを、しかしオニワカは微塵の容赦も情けもなく血肉の沼に鎮めていった。

 鬼と化した彼は合理的に論理的に最適な手段で敵を葬り去っていく。

 やがて目にした魔物を一匹残らず狩り尽くしたオニワカは、山林の途切れ目近くに辿り着いた。藪の中に身を潜めて、町がある平野の方角を見据える。

 魔物と戦っている間に日は暮れて、頼りになるのは月と星から注ぐ微かな明かりだけだった。しかしながらオニワカの優秀な目は僅かな光を掻き集めて暗闇の彼方まで見通す。

 霧に覆われていないそこは荒野と呼んでも差し支えない様相だった。

 土塊の湿った素肌を晒して雑草にさえ恵まれない。町を包む暴風が湿気の大半を追いやってしまうために中々霧が晴れず、日の光の恩恵に預かれないことが原因だった。

 だが、そうして見えている平野は一部分でしかない。

 眼前の光景にオニワカの自信や達成感は見る見る失われていった。

 この荒野へと登り詰めるまでオニワカは衣服の色をも返り血に染め切るほど魔物を屠っている。少なからずこの一帯の魔物の勢力は削げたはずだと、そう自負していたの。

 けれども、違った。

 大地を覆い尽くすほどの魔物の群れ。

 それが密集して濛々と砂煙を立てながら前進していた。その目指す先にはノゾミの住まう町があり、異形の生物の波は先頭からそこへと追いやられていく。

 そして一歩でも踏み入れた途端に彼らの体は爆ぜた。

 魔物たちの行く手を遮る暴風はその破片にさえも侵入を許さずに平野へと撒き散らしていく。

隔たる風の壁はこうして魔物たちを押し留めていたのだった。町に築かれていた死体の山はそれでも押し返し切れなかった魔物の残骸である。

 この町の作り手はこうして押し寄せる魔物たちを追い払い、容赦なく殺す防備を整えたのだ。町に住まう人々にとって魔物は敵でしかなかったから。

 だから、魔物はノゾミにも害する存在だから。

 オニワカの覚悟は決まる。

 収まりかけていた肌の色がまた一層明るく輝き始める。彼の血液の色が研ぎ澄まされて全身を覆い、目にも流れ込んで瞳孔を満たす。

 自らの熱により陽炎が揺らめく中、『紅之鬼若』の本性たる姿を顕にした彼は草むらを飛び出し、溢れる魔物の塊に突貫していった。



 そうやって心を無にして戦い続ければ、或いは忘れられるとでも思っていたのかもしれない。肉を打ち砕き続ければ、手に残るイブキの肉の感触だって拭えるんじゃないか、と。

 そう考えて自身を鼓舞して、町の外に無数の死骸の山を築いた。

 だけど、どれだけ戦っても、何体を殴り殺しても知人を殺した記憶も感触も固化していくばかりで忘れられない。

 誰一人殺したくなんてなかった。どんな人間も目の前で死なせたくなんてなかったのだ。

 だから怖くて、人を殺すために生み出された武器は持てなかった。例え魔物を殺すためにだとしても、槍も剣も元来は殺人の道具でしかないから。

 なのにオニワカは剣を握ってしまった。

 それどころか人に向けて振るってしまった。

 誰かを死なせないために、必死になって戦ったことだってある。

 魔物に襲われていたフソウを助けたいと思った気持ちは偽物じゃなかった。大平原でイブキの自警団に加わったときだって持てる力の全てを使って駆けずり回り、倒されそうになっている団員たちを助けて回った。彼らや、それ以外にも数多くの人々を傷つけるという魔物たちを片っ端から殺して回ったのだ。

 なのに、オニワカはとうとう目の前で人を死なせてしまった。

 自分に職を与え、時には案じてくれもした男を。

 他でもない、自分の手で。

「何でだよ……っ」

 問いかけたって誰も答えない。この場にはその答えを知らないオニワカ自身しかいないのだから。

 それでも、問わずにはいられない。

「何でなんだよ……!!」

 こんなはずじゃなかった。誰一人だって死なせるつもりはなかったのだ。

 けれども事実、殺してしまった。

 ノゾミを殺すつもりでいると、イブキにそう伝えられた瞬間にあらゆる感情が抜け落ちていった。訳の分からない映像が幾つも駆け巡り殺すことしか考えられなくなった。

 それからはどこか冷めた目で、よく見知った男を殺すのに最適の移動速度と角度を算出し、その通り動いていく自分を無情に客観視していた。イブキの脇を通り抜けながら剣を奪い、背後から串刺しにするのを止めようとさえ思えなかった。

 あんなものが、こんなものが、人間であるはずがない。

「何なんだよ俺は……!?」

 手の甲が濡れる。最初は一粒。やがてぼろぼろと何滴も。

 自分が親しくなった相手を自分で殺して。

 それなのにこんなものまで溢れてくる自らの卑しさが、ただただ憎らしい。人を殺すしかないのなら、せめてずっと鬼でいられたら良いのに、後になったら嘆くこの偽善が恨めしくて仕方がない。

 なぜこんな心身が与えられたのか?

 誰がこんな出来損ないの心と身体を寄越したのか?

 どうしようもなく自分とその作り手が憎らしくて、だけど気づいてしまう。

「――っ! オニワカっ!!」

 遠くから呼びかけてくる声に。

 町の果て、純白の扉が開かれて、それよりも無垢な心と長髪を持った少女が駆けて寄ってくる。

 その姿が、無事なままでいるのが目に入った途端に、気づいてしまったのだ。

 イブキを捨て置けば、いつか必ず彼女に牙を向いていた。イブキだけじゃない、ノゾミに向けられる幾千もの憎しみを薙ぎ払えるのは自分しかいないのだ。

 そして、そうまでしてでもオニワカは彼女を失いたくないのだと。

「……ノゾミ。ただいま、帰りました!」

「うん! おかえりっ、オニワカ!」

 彼女は叫びながら必死に腕を振り、白い髪を舞わせながら走ってくる。その足が以外にも速くて、オニワカは慌てて目を拭い涙の余韻を掻き消した。

 彼はノゾミに笑顔でいてほしくて、そのためには泣いている姿なんて見せたくない。

 ノゾミが無事でいてくれるなら、自分は鬼にでも人にでもなろう、と。そう決心してオニワカは大切な少女を出迎えに行った。

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