第4話

 神殿にあるあの棺のような装置は一つだけではなかった。ノゾミに案内されて通った玉座の裏の通路は空間が捻じくれていて、彼女に意思が別々の部屋へと繋げる。

 同じ方向へと同じだけ歩いても行き場所が変わるその仕組みにオニワカは首を捻ってばかりいたが、ともかくそうしてたどり着いた部屋にも例の装置は置かれていた。『希』とは刻印されていないものの柩にしか見えないその形状は見間違えようがない。そこで寝ろと指示されているのだと気づいて、彼は装置の中で一晩を過ごした。

 目覚めてみると装置の蓋は既に開いている。頭上では何の飾りもない真っ白な天井に備えつけられた天窓が淡い光を湛えていた。

体を起こしながらその調子を確かめる。やはり体中の疲労感は抜け落ちていて、空腹感も眠気も尽く漂白されていた。ただあまり眠った、といった感覚はなくて単純な睡眠ではないのかもしれないとオニワカは考える。

未だに謎の多い装置で、まだオニワカもその機能を把握し仕切れていなかった。こんなものが備わっているこの神殿自体にも正直疑問を抱かざるを得ないのだが、今は押し込めて置こうと心に決める。昨日、ノゾミとした約束を果たしに行かねばならなかった。

 装置から出て部屋の片隅に揃えていた靴を履く。それから簡単に襟元を直し、オニワカはその部屋を後にした。

 そして玉座の間で彼を待ちかまえていたのは、目玉が裏返りかねない衝撃だった。

 朝の柔らかい日差しを縒り合わせたような長髪を垂らしてノゾミがお辞儀してくる。

「おはよう、おにわか」

「……は?」

 お辞儀まではまだ分かる。昨日、装置の中で閲覧した映像には、礼儀の教育に関するものもあった。むしろできない方が問題と言って良い。

 だけど、一つだけどうしても納得行かない。

「あの、ノゾミ……?」

「どうかしたか、おにわか? ねむったのなら、たいちょうはばんぜんなはずだが」

 などと赤い眼差しで彼を窺いながら、片言とはいえ気遣ってくれる少女は昨日まで言葉を話せなかった。それどころかその存在さえ知らない、はずだったのだが。

 なぜ話せる?

「もしかして、おかしいのはわたしのほうなのか?」

「いえいえ、そんなことは……むしろ、完璧過ぎるというか……」

 そんなオニワカの呟きに対しても、ノゾミは不思議そうにして目を細めるだけだった。そこで彼もようやく信じ難いという思いは飲み下して、理解が及んでくる。

「ノゾミ。その言葉はどのようにして覚えたのでしょうか?」

「なにをいっている? おにわかがおしえてくれたのだろう?」

「あぁ、やっぱり……」

 昨晩、オニワカはノゾミに基礎的な文法や語彙を教授した。なるべく早い内に言語を習得させたかったからだ。いくつか覚えのない単語も聞こえたが、どこかで自分が口にしていたのだと考えれば得心できる。

 彼女が教えられた翌日に使いこなしてしまっているという点を除けば、だが。

 さらに言うのなら、当然の如く使われてしまっている文法など数ヶ月がかりで会得させるつもりでいた。会話の中で自主的に習得してしまうなど全く想像の埒外なのだ。

「えっと……」

「どうした? もしかしてわたしがつかっていることばにまちがいがあるのか?」

 むしろ、間違いが無さ過ぎるからこそ、オニワカは戸惑っているのだが。

「ノゾミの話している単語にも、話し方にも間違いはありませんよ」

 素直にこう評価するしかない。

「そうか。ならよかった」

 強いて言うのなら、オニワカを参考にしたせいなのか若干の男言葉になってはいたが、気になるほどではない。それどころか、どことなく泰然とした雰囲気のあるノゾミには似つかわしくさえあった。

 彼女は得意そうな笑顔で、口元に笑みを浮かべながら言う。

「それなら、これからすぐにまちのせいびをはじめたい。おにわかもてつだってくれるか?」

「もちろんです、セ――」

 誰かの、名前を呼びかけようとしていた。

「せ……?」

 ノゾミに首を傾げられてオニワカは我に返る。

何と呼ぶつもりだったのだろうか? 思い出せないけれども大切なことに思えて、オニワカは記憶を探ろうと躍起になる、がすぐに中断した。

 目の前の少女以外に一体誰がいるというのか、しっかりしろと自分に言い聞かせて彼は言葉を続ける。

「ノゾミ、俺に任せてください」

 そう言われはしたものの、ノゾミもオニワカの態度が気掛かりですぐに返事はできなかった。あからさま過ぎた沈黙にどんな意味があったのかと彼をつぶさに観察してくる。

 その瞳の静かに燃える炎の色に己の髄までをなめ上げられた気がして、オニワカは目を背けた。そうすることしかできなかった。

「早く、始めましょうよ」

 答えられない申し訳なさを押し殺して言う。

「……そうだな」

 不満そうにしながらもノゾミは視線を打ち切ってくれて、オニワカは胸を撫で下ろした。もう彼女もそんな彼には目もくれずローブとマントの裾を引きずっていき、玉座に腰掛ける。分厚い布にくるまれただけの華奢な体は、体型に合わないそこに座ると殊更に小ささが際立った。ノゾミの実年齢は未だに知れないが、彼女を置き去りにした両親の心境はオニワカに推し量れないものだった。

 それを責めるのではなく、ただ疑問に思いながら、オニワカは玉座の隣に立つ。

「すぐおわる。すこしまっていてくれ」

「承知しました」

 オニワカが言うとノゾミは頷き、見えない何かに手を翳す。そしてか細い指を丸め、握りしめた。

 それが起動の合図だった。

 ノゾミの眼前、そのやや上方に幾つかの光が瞬いて集束し、現れた結晶が削り出されて薄く広い板を形づくる。向こう側の壁を見通せるほどに透き通ったそれには光が灯され、像を結びある光景を描き出した。

 まだオニワカには見慣れていなくて、映し出された光景がどこなのかすぐには直感できなかった。けれどもじっと見つめている内にそこがどこか思い至る。

 一人で辿り着き、それからノゾミと二人で巡った景色。

 見間違えたとは思わない。

「これって……もしかして、町の全景……ですか?」

 彼の質問に、ノゾミは顔を上げて声も表情もないまま頷く。その赤い瞳に心の内を見透かされたような心地がして、オニワカはそれ以上の質問をする気になれなかった。

「これをつかって、まちにいへんがないかをたしかめる」

 ノゾミは町を上空から見下ろす結晶の中の映像を普段の眠たげな目つきからは考えられない真剣な眼差しで注視する。彼女にとっては大切な願いのための資源であり、損なわれいるのならばすぐにでも改修する必要があったから。

 だから、その視線の先にオニワカも目をやりつつ訊ねる。

「どこか、おかしなところはありますか?」

 ノゾミは首を横に振った。

「まだ、みつからない。けれども、もうすこしさがしてみる」

 それっきりノゾミは黙り込んで結晶の中を巡っていく映像に再び意識を引きずり込まれていった。オニワカもそれに口出しする気になれず黙って映像を閲覧していく彼女の姿を眺める。

 町の全貌を確認し、それから民家の屋内の様子とオニワカには概要も分からない幾つかの数値を確認した。一連の作業が終わると、少女は結晶を消して玉座から立ち上がる。

その細い足でしっかりと床を踏み、それからオニワカへと一瞥をくれた。

「これでおわりだ。おおきなもんだいはなかったから、いつもどおりにまちのなかをせいびしていく」

「え、あ、はい」

 うまく状況を呑み込めていないオニワカをしり目に、ノゾミは神殿の出口へと向かっていった。その白い髪が描く軌跡をオニワカも追いかけていく。

 外に出てみると、日はオニワカが想像していたよりもずっと高い位置にあった。一日の内で最も明るい陽光が二人に降り注ぎ、弾んで散らばる。

 目まぐるしいほどの光を浴びて、先に歩き出したノゾミは長髪も肌も自ら煌めくようだった。オニワカがしばらく動き出せずにいると、彼女は踵を返して来た道を戻り間近から、怪訝そうに真紅の双眸で覗き込んでくる。

「やっぱり、ちょうしがわるいのか?」

「い、いえ、そんなわけでは……」

 オニワカは奇妙な気恥ずかしさを紛らわそうと頭を掻き、それからノゾミを急かそうと彼女の背を押した。彼女は納得が行かない様子で彼の顔を見つめようとしたが、転びそうになるので前に向き直り歩みを再開する。

「これから、いえのなかをそうじしていく」

「というと、この町にある民家のことですか?」

 そう訊ねたオニワカは、民家などという単語をノゾミに教えていなかったことを思い出す。しくじったかと、彼は自分の発言を反省していたが、彼女は会話の流れから語義を予測してしまっていた。

「そのとおりだ。いつか、ひとがかえってきたときのために、いえをきれいにしていないといけない」

 オニワカの方を見上げて言うノゾミは何でもないことのように頷いていたが、オニワカは口ごもる。

 彼はこの町の中に、どれだけの民家が存在していたのかを思い出していた。一階建てのものなどなく低くても二階、場所によっては四つの階層が連なっているものだってある。

「今まではそれを一人で?」

 オニワカの質問に、ノゾミは僅か答え倦ねてから返事をした。

「いちにちで、すべてをおえていたわけではない。すべきことはほかにもあるからな」

 そんなノゾミの謙遜とも違う言い様に、ようやくオニワカは目の前の人物を一人の少女として捉え直す。一晩での言語の習得や神殿で見せた町の映像、それから『魔王』という称号のこともあってどこか人間離れした印象を受けていたが、彼女だって人並みの弱さも持つ人間なのだ。

「すると、俺が来たからには全ての家を一日で掃除するのですか?」

 これにもノゾミは首を横に振って答える。

「いや、はやくおわらせて、あいたじかんはべつのことにつかいたい」

「別のこと?」

「そのときになったらはなす」

 いつになく要領を得ない質問にオニワカが聞き返しても、ノゾミはむず痒そうにするだけだった。彼の方を見ようともしない。そんな様を目にしたオニワカはただ事情を察したふうを装ってそれらしい素振りだけを見せた。

「そういうことでしたら、しかたありませんね。のんびりそのときを待ちましょう」

 すると今度はノゾミの方から、その赤い目に恨めしげな光を宿して彼を睨みつけてくる。オニワカが事態の全体像を呑み込めずに目をくれてもノゾミは不機嫌そうにしてそっぽを向くだけだった。

「あの、何かお気に召さないことがあるのでしたら……」

「いらない」

 気まずさから出た気遣いもぴしゃりと遮られて、オニワカはそれ以上の言及ができなくなる。そのまま一人歩を早めたノゾミのあとを追いかけていくことしかできなかった。



「ここで最後ですかね……っと」

 掃除のために部屋の隅に寄せていた机と椅子の一揃いをオニワカは元あった位地に戻していた。

 広くはない部屋である。

 そこは町の途切れ目の手前に建つ民家の三階だった。最上階に当たるその部屋は書斎として使われていたのか、左右の壁には本棚が立ち、その奥に文机が置かれている。

 机の正面に備え付けられた窓から陽光が流れ込み、舞い上がった埃を輝かせていた。

「あぁ。いつもはつくえをうごかしたりできないから、たすかった」

 額を拭うオニワカの後ろでノゾミが、縁に雑巾を掛けたバケツと箒を持ち上げながら言う。

 その白い髪に付着していた埃をオニワカが摘むと、彼女はくすぐったそうにしながらも礼を述べた。

「ありがとう」

「お役に立てたのなら何よりです」

 言いながらオニワカは足下のちりとりを塵が落ちないように持ち上げつつ、室内を見回す。

「ここから人がいなくなってから、どれくらいになるのですか?」

 この書斎には本棚があっても本がない。机の引き出しを覗いても人が住んでいた痕跡を見つけることは叶わなかった。

 それはここへ至るまでに訪れた他の建築物にしても同様である。

「もう長らく誰も住んでいないようですが」

 オニワカの言葉に、ノゾミは苦々しく表情を歪める。

「わたしがであるくようになったころには、もうだれもいなかった」

 つまりノゾミは映像の中でしか人他人を見たことがない。この町の隆盛を目にしたこともないのだった。

 だから理想を思い描くこともできないはずなのに邁進している。それは果たしてどんな心地なのだろうかと訊ね掛けたオニワカは、けれどもノゾミが俯いてしまうと言葉を続けられなくなった。彼女の姿がどうしてか痛ましくて目線を追うのも気が引けて、オニワカは独り階段の方へと歩き出す。

その後ろに小さな足音が続くのを聞いて、彼は僅かに足取りを早めた。

 この町の家屋は階段も表の通りと同じ石材から形成されている。その踏み心地が単なる石、と呼ぶには反動が少なくて本当は石を模しただけのまるで別の物質なのではないかと密かに疑いながら階段を下っていた。

 急というほどでもない段差を下り切り、二階の居間を経由してさらに下層にある客間へと向かう。一階まで来ると上がり框に腰掛けて靴を履き、屋外に出た。

 傾きかけた日を見上げながら、オニワカは深く息を吸う。色づき始めた太陽に染め上げられている空気は、肺に染み渡って感覚を研ぎ澄まさせた。

 そして、感づく。

 町の境界の向こう側、吹き荒れる風の付近に先刻まではなかった臭いを。気配を。

 ごみが散るのにも構わずちりとりを放り投げて、オニワカは猛烈な勢いで最初の一歩を踏み出していた。そこから一息に急加速して呼びかけてくるノゾミの声も追い風も置き去りに通りを疾駆する。

 ほとんど宙を飛ぶようにして走り抜けた彼は、すぐに石畳の途切れ目に至り、異変を目にした。

 町と森を遮る濃霧、その境目から鎧を纏った人の手がはみ出している。一瞬、そう錯覚したオニワカは近づいていき、腕が濃霧から突き出されているのではないと気づく。

 状況はより酷かった。

 千切れた腕の肘から先が、無惨に投げ出されているのだ。もう一歩、歩み寄った彼は腕の断面を目にして顔をしかめる。

 そこに露わになった赤い血と肉があったから、ではない。鎧の中に残る腕の皮膚が黒かったからだ。それが人間ではない、という可能性に思い至ったオニワカは籠手の形状もよく観察する。

 見覚えがあった。草原で行われた掃討作戦の最中、彼はその鎧に包まれた身を何とも打ち砕いた。

「魔物……? でも、なぜこんなことに……」

 もしや人間側の大軍が攻めてきたのではないかと、オニワカは霧の向こうに目を凝らす。しかし大きな戦いがあったのなら、音なり熱気なりで気づくはずで、だけど人の息遣いは感じられなかった。

 そもそも、オニワカが見るにこれは魔物が町に侵入しようとしてその身が爆ぜたようだった。人にできる仕業ではない。

「だけど、だったらどうなって――」

 一人で考え込もうとしたオニワカの背中を、小さくはない衝撃がはね飛ばした。

「おおっと!?」

 吹き抜けていく重たい疾風の勢いを頬に感じながら振り向くと、不機嫌そうな赤い視線が彼を貫く。

「いきなりはしりだすな」

 その口調はオニワカへの責める態度を隠そうともしない。平坦なことが多かったノゾミには珍しいはっきりと感情の起伏を感じさせる口振りで、オニワカの反発する心など忽ち萎えてしまった。

「すみません」

 彼が素直に謝るとノゾミは振りかざした怒りの向ける先を見失って、もどかしそうにしながら口を開閉する。つんのめっていた感情をどうにか引き戻しながらも居心地悪そうにして目を伏せ右往左往させていた。

 ノゾミはまだ落ちていたものの正体に気づいていない。

 だからオニワカは触れようか触れまいか躊躇っていたのだが、遠ざけてもいずれ接することになる気がして、思い切って打ち明けた。

「えぇと、魔物の腕が落ちていまして」

 彼が手で足下にあるその腕を示すと、それにつられてノゾミも視線を落とす。そしてそこにある魔物の残骸を目撃して目を細めた。

「なんだ、まものとは? にんげんとはちがうのか?」

 ノゾミはごく自然に訝しげにしていて、演技をしている様子ではない。ただ初めて目にしたものを不思議がっているだけらしくて、オニワカは尚更に眉根の皺を深くする。

「魔物を知らないのですか?」

 あなたが操っているのでしょう?

 とまではさすがに訊けない。けれども、踏み込まずにだっていられなかった。だって、魔物は『魔王』が操っている、というのがこの世界を築く大前提なのだから。

 しかしノゾミには関係なかった。

「しらない」

 そんな世界の事情は、ずっとこの町と神殿に閉じこもり続けていた少女とは無関係に動いてきたのだから。

 とはいえ、ノゾミも全く無知のまま生かされてきたわけではない。

「……もしかして、こいつは、こいつらが、まちのそとにはびこっているばけものなのか?」

「はい、その通りです」

 それを聞いた瞬間にノゾミの瞳に浮かんだ色を、オニワカは何とも説明できない。ただ燃え上がったものは怒りで、それから満ちていったものが憎しみだということだけは察し得た。目の色が瞬くようなその変化に、言葉を失う。

「こいつらだ。こいつらがこのまちをすいたいさせた。そしていまも、はってんをはばんでいる」

 ノゾミの発言は、少なくともこの少女が魔物を敵対視しているのだと、そう思い知らされるには十分なものだった。しかし当然疑問は残る。

「魔物がノゾミの敵……」

 本当にそうなのだとしたら、村人の言い分はどうなる? 本当に正しいのはどちらだ?

 明確に対立した両者の発言を省みる。オニワカは『魔王』が魔物を操るという説に疑問を感じていたが、事実無根だとまでは断定していない。だからよく吟味しようかとも考えたのだが、そうしている内に昨日誓った決意を思い出す。

 ノゾミを信じようと、彼は決めたのだから。

「では、近隣の魔物を排除すればよろしいのですね?」

 けれどもオニワカが従おうとしている少女は、彼の方を見て激しく首を横に振った。その表情は鬼気迫っていて、ノゾミは心臓の動悸を堪え切れずにひたすら慌てる。

「だめだっ、やめろ!」

 叫ぶ彼女の声はどんな耳鳴りよりも甲高く響いて、オニワカの心をざわめかせた。訴えてくる少女の瞳に光るものを見つけて、声も掛けあぐねる。

「おにわかはしらないだろうけど、こいつらがみんなを、ここにいたひとをころしたんだ。まちをでたしゅんかんにみんなみんなころされたんだ!」

 掠れた言葉は痛切に響き、喉を締めつけられた心地がする。

「このまちにいれば、おそわれないから。だからここからでていくな! でて、いかないでくれ……っ」

 懇願の言葉はオニワカの足下に落ちて彼の足にしがみついた。ノゾミは古傷が開いたように青白い顔で歯を食いしばり、とても離れる気になんてさせてくれない。

「分かりましたよ。魔物をこちらから狩りに行くことはしません」

 そう言った途端にノゾミの表情が和んでオニワカの気も軽くなった。このまま誤魔化しきってしまおうと、おどおどしたノゾミの頭をくしゃりと髪が崩れるまで撫で回す。突然のことに赤面しながらも目を細める彼女は容姿以上に幼く映った。

「それに、そもそも俺はここまで魔物を狩りながら進んできたのですから、滅多なことじゃやられませんよ」

「ほんとうか? おにわかは、いなくなったりしないんだな?」

 見上げてくる彼女の目が疑い深そうにオニワカのことを睨んでくるので、思わず苦笑してしまう。

「本当ですって。まだ出逢って日が浅いことは承知していますが、信頼してくださいよ、俺のこと」

 オニワカがそう伝えてもまだノゾミは納得していない様子だった。不貞腐れたふうに目を細めながら指摘してくる。

「おにわかはまちからでていかない、とはいってない。なにかあったら、そとにでるつもりなんだな?」

「……う。それはですね」

 意図してぼかしていたことを見抜かれて、オニワカは口ごもる。ノゾミが恐れていることも、常に心のどこかでは検討していた。

「そうなんだな?」

 ノゾミに詰め寄られて服を掴まれ、オニワカは逃げ出せなくなる。それでも最後の抵抗で空を見上げ視線を逸らそうとしたが、無駄な悪足掻きだった。

「まぁ、その、そうなりますね」

 原則としてオニワカは人に嘘がつけない。相手がノゾミなら尚更である。

「ごめんなさい」

 他にどうすることもできなく頭を垂れるオニワカに、ノゾミは喚き立てるようなことはしなかった。彼の服から手を離すと、慎重に赤い瞳でオニワカの内側を覗き込んでくる。

「だったら……」

 口を開いたノゾミの、水の波紋のように染み渡っていく声にオニワカは顔を上げた。

「だったら、いくなとはいわないから。でていっても、かならずかえってきてほしい」

「それは……」

 魔物程度に遅れを取るつもりなどない。それでも絶対はないのが戦場だった。万が一、という可能性も片隅にはあって即答はし兼ねたのだが、ノゾミと目が合い息を呑む。

「おねがいだ……」

 否定など許してくれそうにない切実さと今にも脆く崩れ去ってしまいそうな危うさで見つめられていた。その不安定な瞳に縋られて、オニワカは決意を固め直す。

「分かりました。何があっても、必ず生還してまいります」

 だから、もうそんな目をしないでください。

 オニワカが伝えたらノゾミは少し驚いたような顔をしてから真顔に戻り、口元を緩ませると一度だけ深く頷く。

その反応に満足してオニワカは彼女の手を取り、片づけていた民家の方へと引き返した。

「さて、それでは後片づけに戻りましょう。そうしたら今日の作業はもう終わりです」

 彼に引かれるノゾミは前のめりにつまずきそうになりながらオニワカに追い縋る。しかし、そこから歩を急いで彼の半歩先まで進み出ると彼の顔を赤い眼で訴えてきた。

「まだ、おわってない。さいごにはなのせわをしないと」



 始めに取りかかったのは町中にある花壇だった。通りに面する一つの他にも、探せば日当たりの良い場所や悪い場所で、花が甘い匂いを漂わせていたり青葉が日に向けて大きく広げられていたりした。

 意外なほど多いその数に驚きつつそれぞれを巡っていって、最後に昨日も世話をしていた表通りの花壇を訪れる。切り出された石の枠に囲まれる小規模な土の池は今日もたくさんの花を抱えて町を見守っていた。

「ここに咲いている花は、どんな花なのですか?」

 オニワカは身を屈めたノゾミの傍らに立って訊ねる。彼女はしばらく顔を上げようとしなかったが、ずっと黙っているわけでもなかった。

「ひとつだけ、しっていることがある」

 薄く白い花弁状の萼片が複雑に広がりつつ何枚も重なる中心に鮮やかな赤が燃えている。その軸には濃紫の雄しべが茂り、それに囲まれてひっそりと赤い毛玉が顔を覗かせていた。その花を指で撫でながら、ノゾミは呟く。

「このはなにはどくがある。みをまもるためにそなえたどくだ」

 不意にノゾミが呟いたその発言を耳にした途端、オニワカはほとんど無意識にノゾミへ手を伸ばそうとしていた。そんな花には触れさせられないと過保護であることも自覚した上で、それでも看過できなかった。

 けれど。

「へいきだ」

 とオニワカのお節介を拒絶するようにノゾミは言った。その声に手を払われて、オニワカは僅かに硬直しながらもすぐに手を引く。

「だけど、毒があるのですよね?」

 花に触れたノゾミの指先を逐一観察しながら、オニワカは確認する。その問い詰めているのと変わらぬ勢いにも、だけどノゾミは動じなかった。

「このはなは、くきのなかをしろいえきたいがとおっている。そこにどくがふくまれているんだ。だからはなをたおらなければ、どくはでてこない」

 冷静なノゾミに宥められて、オニワカも自身の知識を紐解く。自然界に存在する毒に詳しくはないが、確かに彼女の言う通りの情報が脳内に保存されていた。

「まぁ、それでしたら……」

 納得し掛けたオニワカは、けれどあることに思い至る。

「どこでそのような知識を? 映像での教育にはそんな内容まであるのですか?」

 そうして口調にも表れるくらい高まり出したオニワカの憂慮を、ノゾミは拭わない。

「いいや。よわったはなをとりのぞくために、このはなをおったんだ。そうしたらどくにふれて、てがはれた」

 そのときのことを思い出したノゾミが、今はもうしみだって残っていない白い手の甲を見下ろす。

「はじめて、いたいおもいをした。すこしだけ、ないた」

 そう言って回顧するノゾミの唇は微かな笑みを浮かべている。かつての自分の無知を微笑ましく思い、それを堪え切れなかったからだ。

「たいしたけがじゃない。ねむればすぐになおったし、まなぶためには、やすいだいしょうだった」

 そうは言われても傷の一つだって彼女につけたくないオニワカは気が気ではない。

「そんな! だって手を怪我したのでしょう? 痛かったのですよね!?」

 もはや詰め寄らずにはおけなくなった彼に、ノゾミは半ばまで振り返って横顔を見せた。はにかむその表情で「いいんだ」と語る。

「みているだけではまなべないものだった。これがいたみなのだとしることができた」

 それからノゾミは既にそこにない傷を愛おしむように手の甲をもう片方の手で包む。

「これもきっと、おくりものだ。はなのたねもそだてるどうぐもあって、そのつかいかたもおそわっていた」

 そのことは、町の家屋を整備している最中にオニワカも教えられていた。通りの花壇に程近い民家の裏に小屋があって園芸用具はその中に纏められているのを目にしている。

「それなのにどくのことをしらされなかったのは、いきものがそういうものなのだと、おかあさんたちがおしえるためだったのだとおもう」

 目を瞑り、傷ついた自らの手の内にノゾミが感じようとしているものは姿なき親の面影だった。

「みんなひっしでいきてるんだな。だから、あのどくはあんなにいたかったんだ」

 伏せられた瞼の奥に立ち入れないものを感じて、オニワカは口を噤む。

ノゾミは自分にも両親がいて、だけど見知らぬ場所に消えてしまっていることを知っていた。それだけでなく、映像でノゾミに微笑みかけるのが彼女の母親だと誰に教わったわけでもなく直感していた。

 それでも、やはりその存在を実感できる場面にノゾミは恵まれてきていないのだ。

「わたしも、もうすこし、いきるかくごをきめないとな」

 その言葉の意味は中々オニワカの胸中に染み込んでこなかったけど、この少女の人柄については教えられた気がした。ノゾミはただ守られているだけの可憐な少女ではないのだ。

 度々忘れてしまうその事実を思い知らされながら、それでもオニワカは思ってしまう。

 こんな少女に傷ついて欲しくない。この世の悪だとか欲望だとかに、そういったものから遠ざかって汚されずにいてもらいたいと。

 無謀な上に傲慢だと自覚はしていたからこそ、殊更に力強く。

「俺があなたを守りますから、そんなに急ぐ必要はありません」

 できるだけ、無垢でいてくれるように。



 ところが、オニワカはそんな望みは願ってから二日足らずで翻すことに相成った。

「やっぱり、働くと腹一杯食事を取りたくなりますよね」

 仕事を終えて神殿に帰ってきたオニワカは玉座に腰掛けたノゾミに話題を降る。彼よりも草臥れていた彼女は足を投げ出して脱力していたが、オニワカの言葉に力なく顔を上げた。

「しょくじ?」

「え? ……あぁ、そういえば教えてない単語でしたね」

 付け加えるなら、オニワカがノゾミの前で使ったことのない単語でもある。この神殿では装置に眠れば空腹を癒せてしまうため、食事はまるで役に立たない行為なのだった。

 しかし、それではあまりに物寂しいと感じてしまうのが人の性である。

「ええと、食事というのはですね、ものを噛んで飲み込み、栄養を接種することでして……」

 十分ほどをかけてオニワカが説明すると、ノゾミはふんふんと頷いていた。幾らか曖昧になってしまったが、そこはノゾミの頭脳を信じて話を進める。

「そして、外の世界では一仕事を終えたあとに集まって食事をすることがあり、それを宴会だとかうたげと呼ぶのです」

 一通りの解説を聞いたノゾミは何でもないことのように告げた。

「えんかい……というのはわからないが、おにわかのいうしょくじとやらについては、やりかたをまなんでいるぞ」

「そ、それは本当ですか?」

 ここで生活するにあたって、食事は娯楽以上の必要性を感じられない行為だったからオニワカは驚く。けれどもノゾミはもちろんだと言わんばかりに何度も頷いた。

「あたりまえだ。おかあさんたちはひととおりのぎょうぎさほうについて、えいぞうにのこしていってくれた」

 その割には無鉄砲だったり強引過ぎたりする言動が目立ちやしないだろうか、とはオニワカは口にしない。

「そうですか。では明日、俺が獣の一匹でも仕留めて気ましょう」

「まちからでるつもりなのか?」

 いやによく鋭く勘を働かせたノゾミが涙目になってオニワカを睨めつけてくる。オニワカの残りの半日はノゾミを納得させて宥めることに終始した。

 次の朝、前日よりも早く目覚めた二人の作業時間は前倒しとなり、オニワカはそうして開けた空き時間を利用して狩りに出た。漂う魔物の気配に反してなぜか襲われることもなく、一抱えもある大きな野鳥を一羽持ち帰る。

 神殿に持ち帰ったら、ノゾミは玉座に腰掛けて透明な結晶の板に町の様子を映していた。しかしオニワカが肩に担ぐ、濃紺の体躯から青い羽と縞模様の長い尾を生やした鳥を目にした途端、表情を一変させる。

「おにわか。なんだそれは!」

 ノゾミはすぐさま結晶を消し去り、玉座から立ち上がる。そして例の如くマントとローブの裾を引きずりながらオニワカがいる戸口まで駆け寄ってきた。

「なんだそれは!!」

 聞こえなかったのか、とでも言いたげにノゾミが問いを繰り返す。オニワカは頭を掻き、想定外のノゾミの好奇心に苦笑しながら答えた。

「山にいた鳥です。甲高い声で鳴く奴で、比較的苦労せずに見つけ出すことができました」

 そんな彼からの教えを話半分に聞き流して、ノゾミの注意は鳥にのみ引き付けられていく。

「あたまがないぞ? どうしてだ?」

「えぇっと、それはですね、捕まえるときに足で蹴り飛ばしてしまいまして」

 その際に首から血の吹き上がる、中々に凄惨な光景を思い出してオニワカの笑みは一層苦々しいものになった。しかし、そんなことはお構いなしにノゾミは「そうかそうか」と言ってすぐにまた他の部位の観察に入る。

「あの、熱心になっているところ申し訳ないのですが……」

 仕留めた獲物を無駄にするのも忍びない。オニワカはマントと純白の髪を舞わせてついてくる少女を取り巻きに、日の暮れかけた町に出た。



 青紫色の薄闇に沈んだ町は冷たい夜の気配が漂う。

 オニワカは近くの家の竈に火を灯し、戸口から漏れ出るその明かりに照らされつつ屋外で羽を毟っていた。

 景気よくオニワカが散らす夜と同じ色の羽毛をノゾミは目で追い、舞い降りてきた一つをすくい上げる。彼女の手よりも幅のあるそれは獣脂の臭いに包まれていて、ノゾミは鼻を近づけては顔をしかめた。屋内から漏れてくる炎の色より鮮烈な赤い瞳を細めて、彼女は懸命に羽を矯めつ眇めつする。

「かるいんだな、このたいもう。だけどがんじょうだ。こんなものがなければ、そらはとべないのか」

 空を飛ぶことに憧れでもあるのか、口惜しそうにノゾミはそう漏らす。オニワカはそんなノゾミを励ましたい一心で、気づいたらこんなことを言ってしまっていた。

「大丈夫ですよ。そんなものがなくても、人は空を飛べますから。そういう乗り物を作れば良いのです」

「のりもの?」

 訊ねられて、オニワカは「えぇ」と答える。

「風の力を使い、金属の羽で飛ぶ……」

 自分で話している内に、その記憶の出所が分からなくなてしまった。それと同時に、語る口振りも尻すぼみになる。

「おにわか。ほんとうにそんなものがそんざいするのか?」

 弱るオニワカに、不安をぶつけてくるノゾミ。その上目遣いはまるで助けを求めているようで、見つめられながらではとても否定なんてできない。

 けれども、そんな目つきとは関係なしに、なぜかオニワカははっきりとこう断言できた。

「はい。必ず実在しますし、作れば空を飛べるようになります」

 そうして勢いを増したオニワカに、ノゾミはむしろ目を丸くしてしまう。

「そ、そうなのか……。おにわかはそんなものを……」

 ただ、受け取ったものはあって、ノゾミは目を伏せて熟慮し出した。本当にそんなものが存在するのか、ではなく、どうすればそれが作れるのか、を考えるために。

「……その、かぜのちからというのがわからない。おにわかはなにかしらないのか?」

 訊ね掛けてくるノゾミの目に、オニワカはなんとか応えたくなって知識を底から総浚いする。しかし内容が専門的なこともあってオニワカに返せるものはなかった。

「すみません。俺にはない知識のようです」

 するとノゾミは、それも仕方ない、といったふうに頷いて咳払いした。

「だったら、おにわか! はやく、このとりのかいたいをすすめよう!」

「……そうですね」

 物静かそうに見えて意外と溌剌としたところのあるノゾミである。彼女のころころと変わる表情に振り回されるこの状況に何か懐かしさを駆り立てられながらも、オニワカは手早く羽を毟っていった。

「では、さっさと片づけましょうか」

 その言葉に隣でぶんぶん首を縦に振るノゾミに見守られつつ、オニワカは両の羽と足を綺麗に引きちぎる。そこでふと思い立ってノゾミの方を見やった。

「あの、俺は手で千切ってますけど、ノゾミが捌くときには包丁で切り落としてくださいね」

 易々と手で解体できてしまうのは、規格外に強いオニワカの怪力ありきの話である。しかし、そんな忠言もそっちのけでノゾミはオニワカから預かっていた羽と足にまじまじと見入っていた。

「ここが……こうで……。あぁ、そうか。このほねがここをささえてるのか」

「……いえ、お気に召したのなら、それで良いのですけどね!?」

 どの道、この調子なら頼まれずとも勝手に学び取るだろうと信じて、オニワカは解体作業に戻ることにした。

「ここからは包丁が欲しいので、屋内に入りますよ」

 言いながらオニワカが、竈から溢れる火の輝きで淡く照らし出された室内に入っていくとノゾミも無言でついてきた。

 その家は、内装の種類に富む町の民家の中でも特に生活臭を感じさせる部類に入る。薄い暗闇で隠された壁や床には煤や焦げといった汚れが目立ち、二階や三階に上がっても寝室を兼ねた居間しかない。その割に土間に備わった竈や流しは大型のものが整えられていて、生活に不可欠な設備は文句なしに充実している。

 元々はどんな人間が住んでいたのだろうかと考えながら、オニワカは流しの傍らに木製のまな板を置いた。それから、どこからかノゾミの持ち出してきた包丁に手を伸ばす、途中で躊躇う。

「どうした?」

「いえ。大したことではないのですが」

 首を傾げてくるノゾミと出逢う前、イブキから槍を借りようとしたときのことを思い出していた。刃物を持てばまた発作を起こすのではないかと、危惧がオニワカの脳裏を掠める。

 だから彼は言い聞かせた。

 包丁は人を殺すための武器ではない。これを持つことが殺人には繋がらないのだと。

 そんな思考が一巡りして、オニワカはノゾミから包丁を受け取った。

「……よし」

 体にも意識にも異変を感じなかったために、思わずオニワカはそう呟く。その様にノゾミはより困惑を深めていたのだが、彼はただにこやかに笑いかけるのみだった。

「それでは切っていきますよ」

「おぉ! ついにか!!」

 オニワカの宣言に、ノゾミはあっさりとそれまでの云々など放り出して彼の手元に見入る。さほど手際の良い自信がなかったオニワカは若干気恥ずかしく思いながらも鳥の首もとに薄く包丁を突き立てた。そこから腹へと赤い線を走らせる。

 丸裸になった鳥のピンク色の肌に切り口は開かれ、オニワカはそこに指を入れると手で押し広げていった。そうして血が充溢してくる様までをノゾミは丹念に眺めている。

「……あの、怖くはないのですか? 気持ち悪くは?」

 手を止めたオニワカが隣に立つノゾミに目を向けると、彼女も視線を返してくる。その頬を温かな火の色に染めながら、ノゾミは首を横に振った。その拍子に、紫色のローブと違って暗中だと映える白い髪が大きく振れる。

「とても、きょうみぶかい」

「そうでしょうね」

 そんなつもりがなくとも深く頷いてしまうオニワカである。先ほどからノゾミの好奇心を目の当たりにし続けていれば疑う気にもなれなかった。

「なら、試しにご自分でもやって見ますか?」

 さすがにこれには辟易するかとも考えていたが、予想は完全に外れてしまうのだった。

「いいのか!?」

 目の中に星でも瞬いていそうな表情でノゾミは迫ってくる。服にしがみつかれてオニワカは大いに戸惑ったが、冷静に対処するようにと自分に言い聞かせた。

 思考を巡らせて、喉元に食いつかんばかりの勢いのノゾミの肩を掴む。

「……まずはですね、俺から離れてください。刃物を持ってるんですから、何かあったら怪我しますよ」

「おにわかがもっていても、か?」

 顔を寄せたままの少女に言われて、確かに自分がそんな失態を犯すことはないだろうと気づいてしまう。例え今事故があっても確実にどちらとも無傷のまま切り抜けられる自信はあったが、そこでオニワカはふと考え直した。

 これからノゾミはオニワカとだけ関わっていくわけではない。できる限り多くの人間と付き合い、その中で彼女なりにやり繰りしていかなければならない。

 そのためには、相手がオニワカだという前提は不都合極まりなかった。

「俺だって完璧じゃありませんよ。誰にも万が一ということはあるのですから」

 彼の、そんな曖昧に真実をぼかして都合良く変換した事実を、しかしノゾミは疑おうともしなかった。

「そうか。ではしかたがないな」

 驚くほど素直に、オニワカの発言を丸ごと飲み込んで彼を信じる。その心情をむず痒く思いながらも、オニワカは自身の道を貫いた。

「はい。だから、俺から離れてください」

 そうして彼に言われるまでもなくノゾミはオニワカから一歩距離を取り、そこでオニワカも初めて肩の力を抜く。

「それでは、始めましょうか。まずは鳥の腹を開いてください」

 指示を出しながらオニワカが横にずれると、ノゾミがその空白に入り込んで鳥の腹に両手の指を突き立てる。その感触を不気味に感じながらも、指で腹の傷口を広げてその中身を露わにしていった。

「これでいいのか?」

 ぬらりと光る臓器から目を離し、ノゾミはオニワカに見上げてくる。特に問題は見受けられなかったから、オニワカは彼女の瞳を見返してから確かにこう告げた。

「えぇ。それで大丈夫です」

 オニワカの、たったそれだけ言葉にもノゾミは嬉しそうに微笑む。そのことをやはりまたこそばゆく感じながらオニワカは助言を続けた。

「では、腹の中に中身の詰まった袋のような臓器があると思うのでそれを……」

「これか?」

 彼の説明を待つまでもなく、ノゾミが言いたかった臓物を鷲掴みにするのでオニワカは無言で頷く。

「ではそれを、傷つけないようにしながら切り取ってください」

「わかった」

 言われて僅か尻込みするノゾミに彼は大丈夫だと再び首肯して見せる。

 するとノゾミは惚けたような顔になってから口元を引き締め、真剣な目つきに戻ると鳥の腹を見据える。慣れない刃物を震わせながら、見つけた袋状の臓器の端に切っ先を入れた。そこから額を汗で湿らせつつ切り口を奥へ奥へと広げていく。

「その調子です頑張ってください」

 傷をつけるほどに滲み出してくる血の色に顔を青くしながら、それでもノゾミは刃を止めなかった。オニワカに言われた通り臓器をえぐり出し、両手で持ち上げて本体の傍らに据え置く。

「わ、あ……」

 手の残る粘膜の感触、そして血の滑り気。ノゾミは臓器を離した手を、その赤い目に映して彼女の丸い肩は微かに震えていた。

 そろそろ、頃合いだろう。

 限界を感じたオニワカはノゾミの肩に手を添える。すると彼女は小さく跳ねて、それから傍らの彼の顔を覗いてきた。

「おにわか。まだ、おわってない」

 そう呟くノゾミの目は危うい均衡を保っていて強がっているのが見え透え、オニワカはもう良いのだと笑いながら口を開く。

「良いのですよ。完璧な人なんていないんですから。最初はできなくても、繰り返してだましだましできるようになれば良いのです」

 オニワカが言うと辛いところで堪えていたノゾミの瞳は揺らぎ、不安そうにしてから訊ねてきた。

「でも、わたしは、わたしは……っ!」

 そんな憂いの表れに、オニワカはただ首を横に振ることでのみ意志を示す。そんな少年の気遣いにノゾミは逆らえず、抱えていたものを抑え切れなくなって脇に退いた。

「それでは残りは俺が捌くので」

 言うが早いか、オニワカは手早く残りの内蔵も取り除き、かつて鳥だったものを食われるのを待つだけの肉塊に変えていく。それを端から眺めるノゾミの目にこれまでほどの威勢はやはり残っていなかったが、それでも決して目を離そうとはしなかった。

「おにわか。つぎはなにをするんだ?」

 肉と皮の食べられるものと、幾らかの骨ばかりがまな板の上に置かれている。こちらの下準備はこれで終わりだ。

「そこ……部屋の隅に、麻袋が入っていると思うのですけど分かりますか」

 彼が部屋の暗がりの集う角を指さすと、火の揺らめきが映り込んでいたノゾミの目はそちらに向く。目当てのものを見つけるとすぐに駆け寄って、拾い上げた。

「これか?」

 肩越しに振り返ってくるノゾミへとオニワカは深く首を縦に下ろす。

「はい。その袋の中に山菜が入っていると思いますので、それを灰汁抜きでしましょう」

 言いながら向かいにある竈に乗せられた鉄鍋の前まで歩いていく。その隣にすぐさまノゾミが並び、麻袋の口を両手で広げてぐつぐつに煮立った鍋の中に見入る。

「このなかにいれるんだよな?」

「えぇ。もう全部洗ってありますから、全部入れちゃってください」

 そう指示を出してオニワカが横に退くと、ノゾミは何だか張り切った様子で鍋の正面に立ち、背伸びをして鍋に袋を傾けた。その踵が上がれば上がるほどに袋の中身は零れ出し滴が跳ねて鍋の底に沈んでいく。大したことをしているわけでもないのにオニワカまで汗が滲んできた。

「おにわか。てだすけはいらないからな」

「……はい。分かってますよ」

 ノゾミがそれなりに強情なのは熟知している。しかし彼女はそれだけの、『魔王』だなんて呼称がまるで似合わない少女なのだ。だから放っては置けなくて過保護になるオニワカなのだが、今だけは老婆心を抑えて見守ろうと心に決めた。

「……っと。これでぜんぶだ」

 軽く袋を揺さぶって残りの中身も振り落とす。そして困難、などあろうはずもない作業が終わり、ノゾミはオニワカに手渡されて鍋に蓋をした。

「これでしばらくしたら、山菜から灰汁が出てくるはずですから、そうしたらお湯を捨てますよ」

 彼に言われて、ノゾミは思わず息をつき額を拭う。それから白い髪を揺らしてオニワカを一瞥すると口元が綻んだ。そのまま相好を崩れていって、気恥ずかしそうにしながらも誇らしげな笑い声を漏らす。

「えへっ」

 その微笑が、その表情を作った達成感が、落ち込んだノゾミを心配していたオニワカの心までも温めた。

 それからはオニワカが鍋の中のものざるに流し込んで改めて水を張り、鳥の骨から出汁を取る。そこから余分な油や灰汁も除くと塩を使って簡単に味を付け、山菜も全て鍋に入れてしまうと蓋をした。しばらくすると具材が煮えて流れ出した鳥の肉汁と山菜の芳しい匂いが腹に貯まってくる。生まれてからこの方、ほとんど食事という行為をしてこなかったノゾミでさえも食欲をそそられて、ふらふらと鍋の中に飛び込んでしまいそうだった。

「……おにわか。まだなのか?」

 辛うじて涎を垂らすことだけは堪えてノゾミが言う。オニワカに向けた質問なのだが、彼女の目は鍋から離れようとしなかった。

「そろそろですね。運びましょうか」

 鍋の両側にある木の取っ手を掴んで運び、靴を脱いて座敷に上がる。二つ並んだ長机の端に陣取って鍋を置き、二人で向かい合ってそれを囲んだ。

「おにわか、はやく! はやく!! すごくおなかがそわそわしてるんだ」

 ノゾミはもう食欲を隠そうともしないでオニワカにねだってくる。彼の方もそろそろ飢えが限界に近づいていたために急ぎ鍋の蓋を開け放った。白い湯気が見る見る湧き出して立ち上り、顔を覆う。そこに漂う剥き出しの鶏がらの香りが二人の鼻孔を刺激した。

 そして現れた中身はまだぐつぐつと煮えて、柔らかくなった山菜を鳥の油と出汁を染めている。塩だけの味付けがそれを殺すこともなく引き立てていた。

「結構、うまくできたと思いますよ」

 オニワカはそんな自己評価を下しながら、小皿に幾らかの山菜と肉をよそっていく。

 そうして自分の目の前に置かれた取り分を見つめるノゾミはやや難しそうな顔をしていて、オニワカは思わず見直してしまった。見間違いかとも思ったが、その表情はやはり曇っている。

 どうかしましたか、と彼が訊ね掛けるよりも早くノゾミが口を開いた。

「わたしは、こいつらのいのちをくらおうとしているのだな」

「えぇ、それはそうですけど」

 何を今更、口走りそうになったオニワカは口を噤む。

「わたしはいままで、ほかのいのちをくらわずともいきてこれた。これからもそうしていけた」

 言われて初めて、ノゾミが食って食われて連鎖から遠ざけられていたことを思い出す。そこから自分が殺さないと生きていけない世界に引きずり込んだのはオニワカだ。

「申し訳ありません」

 気がつくと堪らなくなり謝っていた。綺麗なままでいてもらいたいなんて願いながら、この有り様だ。オニワカが来なければノゾミは彼の望む通りに無垢なままでいただろうに。

見ていられなくなって目を背けようとしたら、鍋から溢れる湯気の向こうに視線を感じる。

「いいや。おにわかをせめているわけじゃない。だってあたりまえのことなんだろう?」

 そういうノゾミの眼差しは炎の色の影が過ぎっていても分かるほどに優しげで、気怠げだった。どの道、こうなっていたとでも言いたげに。

「わたしはこれまで、ちゃんといきてこなかったんだ。おにわかといるうちに、それがわかってきた。だからこれから、とりもどしていく」

 その宣言を最後にノゾミは小皿を持ち上げる。止める間もなかった。彼女は逆手に持った箸で肉と山菜を煮汁ごと掻き込む。何度も咀嚼してものの噛み潰し方を覚えて、目尻に小さく光るものを滲ませながらも飲み下した。ノゾミの細い首もとがごくりと喉を鳴して震え、ゆっくりと肉片を受け入れていく。

「……やっぱりまだ、なれないな」

 それでもやり切った顔で笑い掛けてくる少女に、オニワカはただ頷くしかなかった。

「そんなかおしないでくれ、おにわか。なんだか、みたされていくかんじがする……まんぞく、してるんだ。これがしょくじか」

 感慨深げに呟いてまたノゾミは食事を再開する。好き嫌いの分かれる鳥の皮も癖の強い山菜も心の底から美味だと言わんばかりに笑みを浮かべて食した。汁も飲んで、これまで一度も食べものの香りなんて嗅いだことのない小さな鼻から息を漏らす。

「良いのですか? 良かったのですか本当に? 気が進まないのなら無理をせずとも……」

 けれどノゾミはの暗闇の中で煌めく白の長髪ごと首を横に振った。それからいつか出会った頃よりずっと深い色を宿すようになった赤い双眸でオニワカを見据える。

「おにわか。これがせいぶつのいとなみなのだろう? いきるための、こういなのだろう? だったら、それをしてこなかったいままでのわたしは、ほんとうのいみでいきてこなかったんだ」

 そして僅かに汗ばんだ表情で無理にでも笑顔を作って言う。

「だから、うけいれる。きたなさも、きれいさもぜんぶせおって、それでもわたしはいきていく。きれいなだけの、いきてないにんぎょうにはなりたくない!」

 訴えられて、その言葉のどこかが強く響いた。見つめてくるノゾミの痛切な眼差しに射抜かれたらオニワカはもう抵抗できない。その瞳の赤に、ひたすら圧倒されていく。

「これはわたしのわがままかもしれない。けれども、ほんねなんだ。だから、すこしで――」

「――いえ、ノゾミの願いは決して我が儘などではありません。ちゃんと生きていたいって、そんな当たり前のことに抵抗を抱いていた俺こそ、独善的過ぎました」

 オニワカの独白に目を丸くしたノゾミだが、すぐにかぶりを否定し出す。

「いや、それはわたしが、じぶんのきもちをしっかりと、つたえられなかったせいで……」

 だが今更何を言われたところでオニワカは筋金入りの頑固者だった。

「関係ありません。言われずとも読み取るべきでした。できなかった俺の責任です。だから、好きな獣を何でも一つおっしゃってください。今から狩ってきます」

「え? え……? さきにめのまえのなべをたべないか?」

 目を白黒させながもオニワカを窺うノゾミを置き去りにして、彼は一人町を飛び出す。



 日々は滞りなく過ぎ、不器用なりにオニワカは新しい生活を築いていった。やがてノゾミも滑舌になり、オニワカの知る限りの語彙を使いこなすようになる。

 そんな中での何気ない一日に、事件は起きた。

 その日も町の整備を終え、オニワカは借り受けていた神殿の小部屋に戻っていた。そこで彼が壁に寄りかかり腰を下ろしたとき、声が掛けられる。

「オニワカ。入るぞ?」

 つられてオニワカが出所を見やると、扉のない戸口の闇の向こうからノゾミが頭を覗かせていた。彼女はおどおどとしながら室内を見回しながら入室してくる。

「どうかしましたか?」

 壁際にいるオニワカと目が合うと彼女は、なぜだが緊張した面もちになって、それを抑え込むように怪訝な表情を作り訊ねてくる。

「そんなところで何をしているんだ?」

 とは、装置の中で眠るわけでもなくその脇に座っているだけのオニワカに向けた質問だった。しかしながら答えるに足る動機のないオニワカは肩を竦めて笑う。

「なに、大したことじゃありません。偶にこうして、普通に眠りたいときもあるのですよ。それよりノゾミはどうしてこちらに?」

 再び降りかかってくる彼の質疑に、ノゾミは居心地悪そうにして白い髪の毛先を指で弄んだ。そちらに目線を下ろしたままオニワカの方を見ずに彼女は呟く。

「こっちも大したことではない。けれども、ついて来て欲しいところがあるんだ」

 それだけを言うとオニワカの返事も待とうとせずに彼女は踵を返そうとする。

「え……っと、はい? 構いませんけど、一体どちらへ?」

 その背中をオニワカが慌てて追いかけ出すのも折り込み済みで、ノゾミは振り返ろうともせずに先を急ぎ出してしまった。

 やがて通路が途切れて玉座の間に出てくるとオニワカが追いつく。

「どうしたのですか、いきなり? そんなに慌てなければならないような用事が?」

 至極当然の疑問としてオニワカはそう訊ねるのだが、ノゾミはまだ目を背けようとする。しかし、二人して足踏みしている内に観念して、じっと思い詰めた瞳で彼を見上げてきた。

「この日の、今になってようやく決心がついた」

 それまでの表情を拭い去って、口元を苦々しげに歪める。

「オニワカ。わたしはこの町を蘇らせたい。お母さんたちが暮らしていた頃のように」

 そこで一端言葉を切り、もう一度通路の中へ踏み込んでいく。歩きながらノゾミは次の言葉を練った。

「けれどもわたしは、町から出られないんだ。そして魔物を退けられるほどの力もわたしにはない」

「それは、そうかもしれませんね」

 オニワカの返事にノゾミは頷き、それから言葉を続ける。

「だけど、それでもわたしはこの無人の町を復活させたい。そのためには人がいるから――」

 だから、と思い切って言い切って、通路の終わりに開かれた光をくぐる。

 その先にあった部屋で振り返り、オニワカに告げた。変わらず小さな部屋に備えられた天蓋つきのベッドを指で示して願う。

「わたしと、子を成してほしい」

 このとき白んだ視界の中で立ち眩みを起こしたオニワカのことを誰が責められよう。

 よろけた彼は一歩、二歩と下がって戸口間際の壁に背を預けた。しかしそれでも、髪と同じくらいに白かった頬に朱の差したノゾミが寂しそうな顔で覗いてきて息が落ち着かない。

「すまない。けれども、他に方法が思いつかなくて」

 そこに色香を感じないわけではなかった。だけどそれ以上にオニワカの心を埋め尽くしていくものがある。

 疼くのは、彼が生まれる前から心の底に埋め込まれていた命令。その性根を縛るもの。

「……ダメ、ですよ」

 溢れる忌避感を暴力的にならないようにと押し殺す。けれど、それでも抑えきれないどころか、一度堰を切ってしまうともう止まらなくなった。

「ダメに決まってるじゃないですか!? だって俺はっ、俺は……!!」

 俺は――?

 その先が続かない。肝心な、最も捨て置けない理由があるのに思い出せない。

 言いたいことが、言わなければならないことがあったはずなのに。

 そう思って、どうにかそれを伝えたくて顔を上げたら、初めて見る少女の表情と目が合う。

 自分の身に起きたことが信じられないとでも言うように、否、信じたくなくて呆然とオニワカを見つめている。

 そんなノゾミの、瞳に広がる赤い海の奥底に陰が浸食していった。何度も揺らぎ、繰り返し溢れそうになる。やがて、いつの間にか色を失っていた頬を光るものが伝っていった。顎に流れて、手の甲に落ち、ノゾミはそれを不思議そうに見下ろす。

「あれ……?」

 遠くで鳴る風の音にもかき消されてしまいそうな囁き声だった。直後、彼女の体は電流が走り抜けたように震え上がり跳ねて、それが納まるのも待たずにオニワカの脇を走り抜けていく。

 出所の知れない気持ちと戦っていたオニワカは、それを引き留めようとすることも叶わなかった。ただ遅すぎた手を延ばした姿勢のまま、じっと少女の行く末を見つめていることしかできなかった。



 オニワカの許から逃げ出してしまったノゾミは玉座で一つだけ指示を飛ばすと、そのまま神殿を飛び出した。

 明かりのない山の夜は体が溶け出してしまいそうなほど深く濃密な闇に満たされるのだが、この町は違う。踏み出す先は月より優しい色合いの光を帯びて夜を遠ざけていた。ノゾミの指示によって町を構成する石材そのものが明かりを灯したからだ。

 オニワカも感づいている節はあったが、この町を作る石には特殊な細工が無数に施されている。望めば冬の冷気を癒すことも、夏の熱気を宥めることだってできた。ノゾミの手入れがなくとも風化しなければ色褪せもしない。

 実のところ、そうした事実に気づいたのはオニワカと暮らし始めてからだった。彼から教わった言葉が自然に彼女の中でそんな思考を成していた。

 けれども親の代までは伝わっていたのかもしれない知識をノゾミは何一つ伝えられていない。共に暮らしていた記憶さえ彼女にはない。

 今回のこともそのせいだろうかと思い悩みながら、町の外れにある花壇まで駆けていく。

 そこはオニワカにさえ教えていない、崖の縁にある花壇だった。石の道が途切れて整備されていない地面にはノゾミの腰よりも高く雑草が茂り、鋭く天を突いている。

 その只中に彼女自身が草を刈り土を耕して切り開いた花園があった。埋めたのも町の中でノゾミが見つけた、雑草と呼んで差し支えない野辺の花々である。

 遺された種の花ほど華々しくはなかった。それでも見劣りすることもない、とノゾミは思っている。

細く緩やかに曲がった茎の先に淡い白や黄や紫の花をこしらえて、両腕で抱えられるだけしかない方形の空間を彩っている。どれも小振りでどことなく恥ずかしげ、町にある花壇のような鮮烈さはないが、その控えめな佇まいがノゾミは気に入っている。

 そんな花の彩りを後目に眺めながら、ノゾミは崖から足を投げ出して座り込む。唯一大きさの合う革靴の爪先が風の流れに振れた。

 この外部から隔てる暴風を作り出したのも当然両親やその仲間たちなのだろうとノゾミは推測している。これがあるおかげで、外の天候がどれだけ崩れようともこの町には雨も雪も降り注がない。一歩外に踏み出せば徘徊している魔物たちを寄せ付けず、住人が消えた町の形を保つ、偉大なこの町の守りである。

 消失したのなら、ノゾミに命はなかった。

 だって彼女には修復が行えないから。

 そのやり方を教えてくれる人間がいなかった。そのための言葉だって教えてくれる者はいなかった。それでも苦に思わずにいられたのは、ずっと独りでいたせいだ。

 孤独という言葉の意味さえ知らずに生きてきた。その感覚を覚えたのはオニワカが訪れてから。彼がいて癒えるものがあって、反対に、いなければ損なわれるものもあって。

それが、そういう名で呼ばれる感情なのだと初めて知った

 オニワカがもたらしたものはあまりにも大きい。

彼の見せる表情や態度も、それを受けた自身の感情もどれだって興味深かった。オニワカの中には装置に収録された映像からでは学び取れない不思議が一杯に詰まっていた。

 そして今だって、ノゾミは触れたことのない感情に弄ばれている。これまではほとんど何をしても二つ返事で了承していたオニワカが見せた、あの態度。

 明確な、拒絶。

 どうしてこんなことになったのだろうと、ノゾミは理由を探っていた。探さないと、怖くてじっとなんてしていられなかった。彼女はオニワカを、唯一傍にいてくれるあの少年を失いたくなかった。そんなことにだってようやく気づかされたばかりだ。

 オニワカはノゾミに、言い尽くせないほどのたくさんを運んできてくれた。オニワカがいなければ世界の広ささえ知らない身の上だったのに。

 そこでノゾミは、そうだ、と思い至る。

 オニワカが与えてくれたものは計り知れないけど。

 だったら、自分が彼に何を返してやれないか、と。

 今までは一方的に与えられるだけだった。もらったものに、礼一つ返せずに。

 そんな自分がオニワカから離れたくないのなら、精一杯彼の期待に応えなくてはならない。否、応えたい。

 まだ足りない自身の語彙をもどかしく思いながらも頭中の言葉を掻き集める。オニワカとの記憶を並べて必死に探す。

 彼の望みはどこにある?



 星空の下の夜は存外冷え込んで、オニワカが吐く息も微かに白く色づいている。

 町中を探し回ってそれでもノゾミを見つけられずに彼は町から外れた草むらを掻き分けながら進んでいた。町から届く淡い白光のおかげで風に揺れる草の深緑まで視認できる。これで見つからなかったら今度はどこを探すべきなのかと頭を悩ませながらも周囲には気を配り続けていた。

 そんな最中にふと、もし探し出せたとして、それで何を話したら良いのかと頭の片隅で誰かが呟く。今、こちらから出向いてもノゾミを傷つけるだけじゃないのか? と。

 寝室らしき部屋へと連れられていったあのとき、我が身に起きた心情の変化をオニワカ自身も理解できずにいた。今までなら、誰かから何かを頼まれれば、それが人の殺傷でもない限り彼は必ず応えていた。自惚れなどではなく、そうせざるを得ないのが彼の性根だ。

 人の期待に応えたい。人の役に立ちたい。普段はそう思えていて、なのにノゾミからあの頼みをされた瞬間にそれが反転した。体を内側から引き割こうとするようにオニワカを人に従わせていたものが反発を始めた。

 ただただ気持ち悪かった。心に別の何かが巣くっていて、それがオニワカの頭と体と心とを乗っ取ろうとしていた。あれは何なのだと、かつてない不快感を思い出して、気がつく。

 以前にも、あれほどではないけれども耐え難い苦しみを味わってきた。

 例えばノゾミに鳥を捌かせたとき。

彼は顔面蒼白の彼女を見て反対されても包丁を取り上げた。そうしなければ不安定な心境にあったノゾミが怪我をするか、そうでなくとも心に傷を残すと思った。

 ノゾミが傷ついてしまうと、そう考えたのだ。

 だったら、今回のことにだって納得が行く。自分がノゾミと交わっても、彼女は決して幸せになれない。ひたすらに彼女を傷つけてしまうだけだ。

 だから今回もノゾミを守るためにはこうするしかなかったのだ。

 そうやって結論づけて、知らず止めていた足でオニワカは再び歩き出そうする。けれどもその耳に草を踏み分けてくる音が聞こえて彼とそちらへと振り向いた。

「オニワカ」

 そこに立っていた、夜に溶け込むローブを纏い星光よりも眩い長髪を撫でつける少女とオニワカは視線を交わし合う。その真紅の輝きに見入られて、彼はただ頷いた。

「教えてほしい。オニワカの願いは何だ? お前は何を欲している?」

 ノゾミの真剣そのものといった表情と向き合い、オニワカは思わず破顔してしまった。だってちょうど今、その問いの答えを認識したところなのだから。

「あなたが無事でいることですよ。ノゾミ」

 そんな、ひたすらにノゾミを慮ったような台詞に彼女の表情が淡く崩れていく。

「気なんか遣わないで良い。わたしはオニワカの、心からの願いが聴きたいんだっ!」

 憤り、それでいて泣き出しそうでもあるノゾミの面差しを見つめて、だけどやはりオニワカは笑みを崩さず、ただ頷く。

「はい。だから、あなたが傷つかず、できるだけ幸せでいてくれることが俺の望みです」

 変わらない、それどころかより踏み込んだ答えを返されて、ノゾミは震える瞼を見開いていた。唖然として表情からも色を失ったまま、閉じ切らない唇の奥に言葉未満の声を反芻させる。

「……わ……たしは、……どうして……?」


 ――『終わり』はその翌日から始まった。

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