第3話
初めは、ただ無愛想なだけだと思っていた。けれども繰り返し話しかけている内にオニワカは悟る。
「あなたはもしかして言葉が話せないのですか?」
「…………?」
少女は小首を傾げ、その赤い双眸でオニワカの表情を伺ってきた。そうするより他に、自分を伝える手段も、相手から伝えられる手段も持ち合わせていないのだ。
「そうですか」
困ったことではあったが、それでも接触を望むならオニワカの方がそれに適応していくしかない。
奇妙なことに彼は、目の前の玉座でうずくまる少女から離れようというつもりにはなれなかった。
まずは彼女の傍にいること。
それが彼の果たすべき第一歩であるように思えた。
「しかし、だとしたらこれまでどうやって生活を……」
覗き込んでくる少女の視線を振り払いオニワカは『魔王』の城、と呼ばれているはずの神殿内部を見回す。
室内の内装自体は外壁と同じく純白だった。そこに天井から淡い緑や青、それに茜や橙といった斜陽を思わせる色が降り注いで、神殿らしい雰囲気を引き立てている。
オニワカが入ってきた扉は独りでに閉まっており、その両脇には水路が通じていた。壁沿いに続くそこには、清水が玉座の後方から流れ出て、扉の近くの排水孔へと流れ込んでいる。ゆったりとしたその流れからは幾らかの花が顔を出していて、屋内ながら彩りを作り出していた。
そんな中で、生活を営める設備は皆無と言っても良い。
オニワカは戸惑い、どうやってここに住んでいたのだろうと考えて込んでいたら袖を引かれた。
「はい?」
振り返ると視界の隅で、玉座に座ったままの少女がオニワカの袖を引っ張っている。その目を何かを訴えかけるようで、彼は疑問に思うよりもよりも早く従っていた。
「何でしょうか」
オニワカが恭しく頭を垂れると少女は首を傾げたが、それから彼の意図を受け取ったようで頷き立ち上がる。
並んで立つと、彼女の背丈は彼の胸ほどまでしかない。その割に七色に照り映える白い髪は長くて、腰の辺りまで延びていた。それよりも長いマントやローブの裾は彼女背丈を越し、足下で固まりになっている。
それでも少女は気にせずに裾を引きずって、オニワカの袖を引っ張りながら歩き出す。
彼はと言えば、病的なまでに色白の少女に負担を掛からぬように連れられるまま付き従った。
少女は玉座を回り込み、その後ろの壁の前で立ち止まった。それとほぼ同時にオニワカも隣に並んで、彼女の横顔を眺める。
少女はオニワカの視線を気にした素振りも見せず、白磁よりも滑らかで濁りない壁に手の平を合わせた。ちょうどオニワカが扉に触れたのと同様に波紋が広がっていく。
それが行き渡ると、壁の一部が大人の背ほど四角く凹んでいき、その奥に隠されていた暗闇を曝け出した。
その光景にも少女は見慣れていて、目を丸くするオニワカとは対照的に無表情を貫く。
臆しもせずに消えた壁の向こうへと行き、オニワカもそれに続いていった。虹色の光が注ぐ玉座の間とは打って変わって、一歩踏み入った途端に光が途絶える。
しかし少女に引かれる感触だけを頼りに暗中を歩き進めていくと道の先に明かりが現れた。
やはり四角く切り取られたその向こうに溢れる光は自然に目に馴染み、新しい部屋の全景を浮き上がらせる。
仄かな夕焼け色に照らし出されたそこは、縦長の空間の大半が棺のような装置に占められていた。
金属とも違うやや柔らかな材質のそれは乳白色をしていて、今はその上半分になる右開きの蓋が開かれている。その中には白い気体が立ちこめていて、外見から内部の様子を伺い知ることはできなかった。
オニワカが訝しみながら観察していると、彼の傍らにいた少女はその装置の蓋がついていない側面に回り込んだ。そしてそこから装置内部に両手をつき、這うようにして中へと転がり込む。はみ出したマントとローブの裾を引きずり込んでから、見ていろとばかりにオニワカの方を向いてきた。少女の赤い瞳は白く色づいた空気の中にいても目立つ。
オニワカが頷くことを返事の変わりとすると、少女も頷き返してから目を瞑り、頭を横たえた。すると装置の蓋が独りで閉じていき、密封される寸前に紛れ込んだ余計な空気ごと白く吹き出す。
そして部屋のどこからか金属類の擦れる重低音が響き、眠っていた装置が欠伸をするように震えた。やがて室内は静まり返って、事情の飲み込めないオニワカだけがただ一人取り残される。
声を掛けようかと迷ったオニワカだが、ふと蓋に描かれている紋様らしきものが目に付いた。黒い曲線と直線が数本交差して、ひとかたまり図形を描いている。
最初は黒い固まりに程度としか認識していなかったそれは、そういうものとして見つめ直せば確かな意味を示した。
近寄って、そこにある文字を指でなぞり読み上げる。
「『希』」
たった一文字、描かれているのは希望を表したその一文字だった。そこに誰かが託した願いが強く染み着いているようで、目を離せない。
もう廃墟と化す寸前の町に残った、唯一の『希』。
こうなった経緯がまるで予想できずにいたが、大まかな経緯だけは予想がついてしまう。
疫病か、はたまた天災か、大きな脅威にこの町は晒されたのだ。そして、滅びを待つだけとなった住人らはこの装置にただ一人の『希』を秘めた。
恐らくはいつか復興するときを夢見て。
となると、この装置は少女を長らく守り続けてきたものだろうかと一歩踏み込んだ推測を試みていたら、気の抜けていく音がした。
それと気づいてオニワカが退くと、装置の蓋が開かれていく。やがて、そこから現れた『魔王』――と呼ばれている少女――の顔をオニワカは思わずじっと見つめてしまう。
彼女は一体何者なのだろう?
そう湧き上がった疑問をさらに深める。
そのどこに『希』たる素質が隠されているのだろう?
オニワカの視線に気づいた少女は、寝ぼけたような面差しで彼を見つめ返した。だが、やがてそうしていることにも飽きた彼女は装置から這いずり出てくる。
そしてオニワカの許にやってくるとまだ考え事をしている彼の肩を叩いた。何事かとオニワカが視線をくれると、少女は両手を目一杯に開きながら飛び跳ねて、何かを伝えようとしてする
だが。
「……あの、つまりはどういう意味なのでしょうか?」
オニワカの困惑を雰囲気で読み取ったのか、少女は焦れったそうにして二度、地団駄を踏んだ。しかしすぐに気を取り直すと、オニワカの後ろに回ると背中を押し始める。
「え? いや、だからあの!?」
少女とて言葉が理解できずともオニワカの狼狽が伝わらないはずはなかったが、今は意にも止めなかった。体当たりするように彼の体を押して装置の方へと追いやっていく。
なぜだか少女に逆らえないオニワカは押されるままにその方向へと歩いていき、やがて装置の傍らに立たされた。
「えぇと……ここに入れと?」
オニワカが言いながら装置の中身を指さすと、少女は力強く頷く。
「えぇっと……どうしようかな……」
オニワカがさらなる困惑の袋小路に迷い込んでいても、少女はお構いなしである。数歩下がると助走をつけてオニワカの背中に飛びつき、その勢いで彼ごと装置の内部へ飛び込んだ。
「うっ、ぎゃあ!?」
入ろうかどうかと体を傾けていたオニワカはそれに逆らうこともできずに倒れ込み、強かに脛を装置の縁に打ち付けてしまう。これには一騎当千のオニワカも涙ぐみ、苦痛に呻きながら装置の中で身悶えした。
「こ、これがっ、『魔王』の……力です、か……!?」
激痛に苛まれながらで、溜まらず少女に向けて恨めしげな視線を向けてしまう。一方、未だ彼の背中に手をついていた少女はと言えば。
「……? ……!?」
その視線に自らの凶行を自覚して素早く飛び退いた。初めはオニワカなんと接するべきだろうかと悩んでいたが、やがて居たたまれなさそうに目を背ける。
「い、今更知らないふりしても遅いですよ! はっきりと今、こっらを見てましたよね!?」
オニワカの訴えに殊更苦々しそうな顔をしながら、彼女は一歩立ち退いた。その姿に一言だけでも文句をぶつけてやろうと考えた彼の、視界はしかし、塞がれていく。
「え!? あ、これ、蓋が閉まって……!?」
上から覆われて、徐々に見えなくなっていく少女の姿をオニワカは目で追いかけていた。しかし蓋が閉じ切ったところで視界が暗転する。
しばし分厚い暗闇が視界を覆っていたものの、中央から光る粒が散って、次第にその密度を増していった。やがて氾濫すると色づいて像を結び、一つの光景をオニワカの瞼の裏へ焼き付けてくる。
そして現れるのは、桶に漬けた衣類を洗濯板に擦り付ける、黒い長髪の美しい女性の姿だった。
二十代半ば程度と思しき彼女は、少女が着るローブを簡素にしたような洋服の上に前掛けをつけている。艶やかな黒髪は纏めて背中に下げられ、どことなく浮き世離れした雰囲気はあるものの物静かそうで落ち着いた佇まいをしている。
彼女は町にある民家の一部屋で、洗剤をつけて板で擦る課程の一つ一つを丁寧にこなしていった。女性は一言も声を発してはいなが、その手順がオニワカの頭にも流れ込んでくる。
そうなってようやくオニワカは、これが言葉を介さずに生活のための知恵を授ける映像なのだと悟った。
これが誰に向けたものなのか、をも考慮に入れれば疑うべくもなくなる。
そんな彼の予想を、それからも流れる幾つもの映像が裏付けた。そのどれもが、無言で家事の手取りを見せてくる女性の姿に終始している。
そうして動画の存在意義は分かったオニワカだが、それでも彼は映像に見入ったままだった。意識を背けようとさえ思えず、閉じ込めた心の内側から扉を叩く音がする。それが自身の鼓動と重なり合ってどうしようもなく引き込まれる。
強烈な既視感が、オニワカに改めて女性を注視させた。
目尻は垂れていて、一見すると柔和そうな瞳の奥に頑固なまでに強靱な意志が見え隠れしている。その長髪はあらゆる光を吸い込んでしまいそうな漆黒で、真白い肌とは正反対の色合いをしていた。華奢な腕は意外と明るい彼女の性格のために勢いよく振り回され、その感情を精一杯に表現している。
外見から読み取れる以上の情報が溢れ出す。
必ずどこかでこの女性を目にしたはずだと、記憶を探っていたら答えは存外手短なところにあった。
ちょうど『魔王』と称されているあの少女に似ているのだ。
女性の黒い髪と瞳に対して、『魔王』は白い髪と赤い瞳だから気づき辛かった。しかしじっと観察していれば、その容貌は同一人物かと見紛うほど似通っている。オニワカから見て現在は十三かそこらの年頃の『魔王』がちょうど歳を経れば映像の女性のように成長していくことは想像に難くなかった。
母親なのだろうか。
まず思いついたその可能性を否定できる材料はない。そもそも情報量が少な過ぎたこともある。
あと少しの観察を続けようとして、しかしオニワカの見る映像は精彩を失い始めた。色褪せて光は散らばり、そこかしこから黒く塗りつぶされていく。
「……っ!?」
目を開くと、血の色の透けた赤い瞳がオニワカを見つめていた。
その持ち主たる少女は、愕然として目を見開くオニワカに首を傾げながらも体を起こす。そのまま装置から退いた彼女の顔を、彼はまじまじと見つめていた。
「やっぱり、似てるよな……」
オニワカの呟きに少女が一層不可解そうにし出すので、彼は手を振って何でもないと誤魔化す。それでも少女はオニワカの内心を探ろうと目を覗き込んでくるものだから、彼は目を合わせないようにしながら上体を起こした。
体が軽い、驚くほど。
「あれ?」
腕を持ち上げて、感じた重みが錯覚でないことを確かめる。しかし何度上げ下げしても、これまでよりもずっと小さな力で体は反応してくれた。抜け落ちたのは疲れだけに留まらず、辺りの空気が急に澄んだような気がして息を吸い込んでみる。鼻孔を満たすそこには洗っても落ちなかった磯臭さも衣服に染み込んでいた返り血の名残だって欠片も感じられない。おまけに戦いが始まってから一食も口にしていないオニワカだったが、今は活力すら漲っていた。
そうさせた原因といえば当然ながら彼の座す装置しかなくて、オニワカはなんだか納得させられてしまった。
今までどこから食料を調達してきたのかも謎だった少女だが、この装置に眠っていれば肉体は健全な形で保たれる。生きていく上で他に必要となる物資は存在しないのだ。
「便利なもんだな……」
オニワカがしみじみ呟いていると、少女に服の肩口を引っ張られた。そちらへと顔を向けながら、通じないとは分かっていても彼は訊ねてしまう。
「どうかしましたか?」
言葉では理解されずとも、少女はオニワカの目つきからその問いの意味を察した。しかし結局はできるのは、彼の服を引っ張ることのみである。
「……そうですか」
オニワカの方も少女の考えを汲み、彼女に牽引されるまま装置から出て立ち上がった。改めて自身の体の軽さに驚きつつ、彼は少女に頷き掛けてこう伝える。
「では、行きましょうか」
少女はしばらくオニワカの目を見上げていたが、やがて身を翻して彼の袖を引き始めた。オニワカは少女の後に続いて部屋の出口をくぐり、玉座の間も通り過ぎてそびえ立つ扉の前まで歩いていく。
磨き抜かれた純白のそれは頑丈かつ重厚で、とても少女の細腕では開閉できそうになかった。だからオニワカが進み出て開こうとしたのだが、その前に少女の手の平が扉に触れる。
例のごとく波紋を起点として軋みを上げ、鈍重な扉は自ら動き出す。来たときとは反対に外側へと開かれていった。
そうして向こうに広がるのは、夕日が弾けて降り注いだように赤い世界だった。ここに訪れたのは白い朝日の眩しい早朝だったから、オニワカが体感していた以上の時が過ぎている。
彼が西日に目を細めていると、少女は一人駆け出していってしまった。それを追いかけようとしたオニワカは、だけど半端に手を伸ばした状態のまま足を止めてしまう。
「楽しそうだな」
走る彼女の足取りは一歩が大きく跳ねているようで、頬も明るく紅色に色づいている。階段の上からその笑みを眺めていたら、オニワカは水を差すのが気がかりに思えてきた。
だから彼は結局、耳だけは澄ましておきながらも、それ以上警戒せずにのんびりと歩いていく。
そのついでに、夕闇の陰りが深まっていく町並みを眺めた。
町の入り口から神殿までを一直線に繋ぐ大路の左右に民家が点在している。よく見ればその向こうに畑が見えたが、それほどの規模ではなかった。町の自給自足に使うのか、或いはその用途にしても面積が足りないかもしれない。
そんなことを思いつつ、丁寧に町の地理を把握して頭に入れておく。山の峰にあるこの町は周りが崖になっていて攻め辛くはあるものの、追い込まれれば逃げ場もない。
少なくとも戦闘だとか武力による争いに備えるよりは、誰にも在処を知られまいとする意図が見え隠れしている。
それがオニワカの見立てだった。
「まぁ、あの神殿の方は何とも言えないけど……」
あの神殿だけは世界が終わりを迎えても変わりなく聳えていそうだった。
なんて考えている内に、町の半ばよりやや入り口よりにある花壇が見えてくる。民家に挟まれたそこは等間隔に花々が整列しさせられていて。
「こんなところにいたのか」
どこからか持ってきたのか、如雨露を両手で持ち、肩から鞄を下げた『魔王』がオニワカのことを待っていた。裾が擦れるほどに長いローブやマントを纏い園芸に勤しむ姿はちぐはぐで、何かが噛み合っていない。
彼女はオニワカが来るを目にすると見ていろとばかりにこちらに頷き掛けてきた。それから花壇の方を向くと如雨露を抱え直して、家の敷地の半分もないそこへと均等になるように水を撒き始める。
小柄な少女ではやはりそれなり重労働となってしまうのか、その額を一筋の汗が伝い、やがてそれを幾多もの滴が追った。やがてその量が増えて夕焼け色に染め上げられた長髪が頬に付いてしまう。
「あの、無理をしなくても言ってくれれば俺が変わりますよ」
見かねたオニワカが手を出そうとして近づこうとしたら、触れるより先に肩越しに睨まれてしまった。
「邪魔はするな、と?」
その質問に当然ながら少女は言葉を返せず、ただ首肯だけをして足元に如雨露を置きマントを脱ぎ捨てた。フリルとリボンに飾られるローブに包まれる肢体は華奢で、やはり手を貸そうかとオニワカは思案する。
だけど、彼はそこで立ち止まった。
少女は艶めく長髪を払い、動きやすくなった体の軽さを確かめてから再び如雨露を手に取る。そうしてまた熱心に花壇へ視線と水とを注ぐ姿は自分の行いを苦労だとは感じておらずオニワカを安易に立ち入らせない。
無垢な色の髪を舞わせて、汗を拭う度に頬を土で汚していく様が何だか尊かった。
オニワカがそうして硬直している間に、少女は水やりを終えて土の様子を確かめながら液体肥料も注していく。雑草は根っこも残さずに抜き取って、その日の世話は完了となった。
一連の作業を終えた少女が振り返って、ようやくオニワカは我に返る。目を細めて怪訝そうにする彼女に彼は苦々しく笑いかけた。
そんなオニワカの不審極まりない挙動を少女は一通り眺めていたが、しばらくして肩に下げていた鞄の蓋を開いた。そこから一冊のスケッチブックを取り出してその始めの頁を開き、彼へと向けてくる。
そこに描かれているのは、花壇だった。それしか描かれていなかった。例えば、今目の前にある花壇で咲き誇っているような花々はどこにも見当たらない。
その殺風景さにオニワカがもの寂しさを感じていると、少女が次の頁を開く。しかしそこに描かれた花壇の様子も変わりなく――と、結論づけようとしていた彼は目を見張った。花壇の土の色に注視すれば小さな点ほどの緑が混じっている。オニワカが一歩、また一歩と近づき観察すると、そこには細やかな花の芽が子細も逃さず描写されていた。
次の頁にもその次の頁にも描かれているのはここにある花壇だった。土の中に芽吹く緑は少しずつ数を増し、やがてそれぞれが花開いていく。次第にそれらが花弁を落として実になり、それさえ崩れ去ると埋められていた次なる種が萌えて花壇はまた新しい緑に恵まれた。
少女は打ち捨てられ、廃れていった花壇をここまで再生させてきたのだ。そしてその経過を絵にして、オニワカに見せている。
これは自分が為したことなのだと主張してきている。
今の彼女にできることはそれほど多くない。けれども滅びに瀕したこの町で、少女はこんな一文字を託されたのだ。
すなわち、『希』と。
ここまで来てようやっとオニワカにも、少女の存在意義が見えてきた気がした。恐らくは、映像の中にしかいない彼女の両親より託された願いを、教えられた気がした。
「……そう、だったんですか」
オニワカを見上げてくる少女の瞳が秘めた力を知る。まだあどけなさが残る容貌をしていながらもその細い双肩には消えた人々の想いが背負われていた。
滅びゆくこの町を救え。途絶えようとしている血族を繋げ、と。
「分かりました」
通じないと知りながらもオニワカは言葉を繰り、既に果たしていた宣言を今一度改める。
「俺が力になりますから」
胸に手を当て、力強く少女に視線を返しながらそう告げた。それから彼女の傍まで歩み寄り、頭を垂れて白い少女の手を取る。
「どうか俺を側に置いてください」
これにはさすがに少女も赤い瞳を丸くして戸惑ったものの、その内に了解してくれたようだった。彼の大きくてかさついた手の甲を自身の手の平で挟んで重ね、胸元に書き抱くようにしてからにこやかに相好を崩す。
認めてくれたのだと、そのとき確かに実感させられた。
そんな二人だけの契約の儀式が終わると、オニワカもすぐに少女の作業を手伝いに加わった。尤も、残る作業といえば道具の片づけ程度しかなかったのだが。
片づけを終え、夕闇に呑まれつつある町を二人は連れ立って歩いていた。
「ところで、普段は何をしてるのですか?」
そう声に出してしまってから、しまったとオニワカは口を噤む。
前を歩いていた少女が赤い目を細めて、怪訝そうに彼へと振り返った。ただ当然ながらそれに返事が続くわけもなく、オニワカは密かに決心させられる。
この少女に言葉を覚えさせよう。
何をするにつけても言葉が通じないのは痛手としか言いようがない。仮にこの町の復興を目指すにしても、現にこうしてオニワカと意思の不通が生じているのだ。将来どこかで支障をきたすのは目に見えていた。
今になってオニワカは、あの棺桶のような装置にあんな映像を仕組んで教育を施そうとしていた所以を理解させられる。映像の中で実演してみせれば、言葉を介さずとも必要な知恵を与えられる。少女の弱点を補えるのだ。
しかし、そもそも最初に言葉を教えれば良い気もしてしまう。後々の苦労を思えば不合理なのは明らかだ。
結局分からないことばかりだと落胆もしたが、今はそれで納得しようと思った。
少女が言葉を覚えていないこの状況に変わりはないのだから。
そんなオニワカに彼女は、どうかしたのか、とでも言いたげな視線を向けてきた。彼はかぶりを振りながら「なんでもありませんよ」と意識して声に出す。
「それより、早く戻りましょう」
通じないと知った上で話しかけるのは、少しでも少女の言語能力に利することを狙ってのもの。意味の分からない彼女は首を傾げるばかりだったが、返事は曖昧に頷き返すのみに止めた。その代わりにオニワカは少女へと手を伸ばす。その身に纏う紫色のローブの白いフリルがあしらわれた袖に埋もれている、小さく白く、そして繊細な少女の手を取る。
そんな突然の暴挙に彼女が目を白黒させるのにも構わず、その手を引いて彼は神殿の許まで駆け出した。
オニワカが振り返って少女の夕日よりも赤い双眸を覗き込むと、そこに不安の色が見え隠れする。オニワカはしばらく彼女に見上げられて自身の立場に思い至った。
彼女が進んで自らのことを明かしてくれたから忘れていたけれども、少女がオニワカと出会ったのはまだこの日の内の出来事なのだ。突然現れて、わけの分からないことを喚くオニワカに彼女は恐怖だってしているはずだ。
オニワカが段々と歩を緩めて最後に立ち止まると、それに遅れて止まった少女の足音が響いた。少女は居たたまれなさそうに、山に沈んだ夕日の名残に照り映えた長髪の毛先を弄んでいる。オニワカは彼女を見つめて考え込んで、それから結論を出した。
せめて対等の位置に立たねばならない。
だからそのために、オニワカも少女がしてくれたように自分のことを教えていく必要があった。とは言っても、彼が伝えられることなど最初から限られているのだが。
その手始めにオニワカはまず少女の腕を掴んだ。
「……?」
声も言葉もなくとも、顔を上げた少女はあからさまに疑問を投げかけてくる。
その端正な表情にできる限りの彩りを与えようとオニワカは彼女を引き寄せた。分厚い衣類に守られただけの痩躯は何度かつんのめりながらあっさりと彼の懐まで引き込まれる。その僅かに慌てた顔が冷ややかに色を失って敵意さえ混じる視線を向けてくるようになっても、オニワカは止まらなかった。
素早く屈んで彼女の両足を抱え込み、そのまま片腕で持ち上げてしまう。
「……っ!?」
少女の方はと言えば、突然上昇した視点と足と尻を支える硬い腕や肩の感触に思考も視界もひたすら揺さぶられるばかりだった。我が身に起きた事態を掴めずに周囲を見やる。
その結果彼女はバランスを崩し、両肩が背後から引き寄せてくる重力に掴まれた。少女は咄嗟に腕を振り回し掴めるものを探して、重力に抗おうとする。
しかしながらそんなのは悪足掻きにもならず、彼女は頭から後ろに転倒し――損なって器用に重心をずらしたオニワカに支えられた。
頭を打ちつけるところまでを想像していた少女はぎゅっと目を瞑って衝撃に備えるのだが、想定していたものが片鱗も訪れない。仕方なく、恐る恐る瞼を開いて、それと同時に目に入ったオニワカの笑みに容赦なく平手をお見舞いした。
「――ってぇ……! そんなに怒ることないじゃないですか……」
オニワカは目と鼻頭を押さえて痛がったふりをして見せる。
しかしながら、これしきことで動じるはずのないオニワカの反応を演技だと見抜いた少女の視線がんはより一層温度を失っていった。
さすがに居心地が悪くなって少々反省するオニワカだが、本番はここからなのだ。
「ちゃんと掴まっていてくださいよ」
例の如く通じない前提での忠告をしてから嫌がる彼女の手を取ってしっかりと握る。こんな補助がなくとも決して彼女を落とさない自信はあるのだが、少女が少しでも安心感を抱けるようにとの配慮だった。
そもそもこんなことをしなければ良い、とは考えない。
準備を終えたオニワカは周囲を見回して近くの民家を観察した。どれも老朽はしていないから、最寄りにある平たい屋根の民家を適当に見繕って数歩下がる。
突然再開したオニワカの奇行に、少女は落ち着きなく彼の顔と、それから正面にある二階建ての民家を見やった。何をするつもりだと、そんな思いを込めて何度もオニワカに視線をやるのだが、彼は頬に白い長髪が触れてくすぐったそうにするだけだ。
そして次に瞬きをしたとき、大きく体が揺さぶれるのと同時に少女の表情が凍り付いていった。上下する視界、そのずっと下で高鳴る足音、それらに加えて迫り来る民家の壁。
オニワカが走り出していた。
「――っ!!」
声にならない甲高い悲鳴が響き渡る。
彼女は既にオニワカの手を筋が白く浮き上がるほど握りしめていた。だが一際揺れが強まった瞬間にそれでも耐えられなくなり、彼の頭へとしがみつく。先刻の作業のせいか汗臭い、短い髪はちくちくと頬を突くのだが気にしていられない。
オニワカは目と鼻を塞がれて、ローブの袖の隙間からくぐもった鼻息を漏らした。視界も満足に確保できていないのに、彼の足取りは緩まない。怯まない。
軽く屈んだ姿勢から両足で踏み切り、飛び上がるとまるで推進器でも取り付けられているように軽々と上昇していく。
目まぐるしく巡り、下方へ流れていく景色はまともな感性の少女が見られたものではない。彼女は目を瞑ってオニワカにしがみつき、必死にその時間をやり過ごした。
軽い衝撃の後、さらに始まる揺れ、それに続く強烈に響き渡る足音と吹き抜けていく風の冷たさが意識を掠めていく。
それを何度か繰り返し、最後に建物を打ち崩しそうなほどの靴が石を蹴る音が轟いた。二人は異次元の慣性に晒されてこのときばかりはオニワカも少女の腰と足を抱きしめた。
時間を計れば、ものの一分にも満たないほど。
だけど少女からすれば無限にも感じられる悪夢が過ぎ去り、ほとんど無音のままに揺れが収まる。頬に感じていた風も穏やかに緩んで、終わったのだと彼女は実感した。
それから少女は怖々と瞼を押し開く。
「……! ……っ」
遮るものの何一つない、ただ広い世界。儚げな夕暮れが夜闇に溶けて、徐々に塗り替えられていく宵の空。
仄明るい空の裾にはくっきりと黒い稜線が刻まれ、山からはやや不気味な薄暗い森が広がっている。その中に切り開かれた村からは焚かれた炎の暖かい光が溢れていた。
山の峰の、さらにその上に立つそこにいれば冷たく澄んだ空気のずっと彼方までを見通せる。
狭く小さな町に閉じこめられていた少女はその広さに、世界の果てしなさにただ翻弄されているしかなかった。
「案の定ですけど、ここに登るのは初めてですか」
言いながらオニワカは足下の、文字通り自分たちが今踏み締めている神殿を爪先で小突く。
そこは左右に緩やかな傾斜が続いていく屋根の頂点だった。他の建物を足がかりにオニワカはここまで跳んできたのだ。
山の頂にあるその町の最も高い神殿に登れば、遮るものなど何もない。自分にならそこまで連れて行く力があるのだと示したくて、オニワカは少女を連れてきたのだった。
「これが俺たちの住む世界です」
彼の呟きに少女はちらりと目線を落とすが、またすぐに全天に広がる遠景に意識を引きつけられてく。
と思ったら、気になるものがあったのかオニワカを二度見した。彼女は彼を見下ろしながら何か思案している様子だったが、やがてオニワカに指の一本を伸ばしてくる。
その指がオニワカの項に触れて、彼は思わず首を竦めた。その結果彼が体を揺らすのに怯えつつも、少女はまだオニワカの首の後ろ、そこに刻印された文字をなぞってくる。
「ちょっと、あの、やめてください」
それだけでは伝わらないから、オニワカが非難の目つきで少女の顔を見上げたら、彼女は少々申し訳なさそうにしながらも、やはり首もとの文字が気になる様子で彼に目線を投げかけてきた。
これは何だ?
と言葉にもならなくても、赤い瞳から彼女の意思が伝わってくる。だからオニワカは、ほとんど頭を抱き抱えられたままという窮屈な姿勢のまま自分のことを指さした。
そして口にする。
「『紅之鬼若』」
と、言うと少女は思慮深そうな目をしてオニワカを眺めていた。それから片腕でオニワカの頭を強く抱き抱えつつ彼を指さして首を傾げる。
オニワカはそれに何度も頷きながら言う。
「はい。『紅之鬼若』。それが俺の名前です。他からはオニワカと呼ばれています」
そんなことを言葉で説明しようとしても、通じない少女は困惑を深めるばかりだった。その困り顔を目にしたオニワカは少し考えてから改めてこう言い直す。
「オニワカ」
自分のことだと指で示し、もう一度繰り返す。
「オニワカです」
彼が二度そう伝えたら、少女は黙して彼のことを見つめた。それから軽く頷き、咳払いするように唸る。
その喉の調整が終わると、少女はさび付いた声帯に息を吹き込み必死に噛み分けて言葉を紡ぎ出した。
「おに……わか……?」
オニワカが初めて耳にする少女の声は、雪が溶けて崩れていくように繊細で澄み切っていた。どこまでも意識に染み込んできて、彼は溜まらず大きく首を振り動かしてしまう。
「はいっ! その通りです!」
「……っ? !?」
尤も彼女の方は、オニワカの体が揺れ動くせいで答えるどころではなかったのだが。
全力で少女に頭へとしがみつかれ、さすがに異変を感じたオニワカは動きを止める。それでも彼女はなかなか彼の頭を離そうとはしなかった。
額に触れる赤紫のリボンがついたローブの胸元から動悸が伝わらなくなってくる。分厚い布地とフリルの向こうに規則正しい鼓動しか聞き取れなくなったら少女は顔を上げた。絹糸のように白く滑らかな髪が幾筋かオニワカの鼻をくすぐる。
「おにわか」
先刻よりもずっと饒舌に名を呼ばれても、さすかがに今度は取り乱さなかった。オニワカは息の熱を感じるほど近くにある、大人びた表情をしたあどけない容貌の目を見返して答える。
「はい。オニワカです」
彼女は距離の近さに赤く大きな瞳を丸くした。しかしそれから気を取り直すと自分のことを指す。
「ん」
その意味を珍しく見抜けないオニワカに、少女は不満そうに眉根に皺を寄せながらも自分に向けていた指先を彼に向けた。それからもう一度彼に呼びかける。
「おにわか」
そこまでを言うと、今度は指先を自分に戻した。そして強調するように自分のことを指し示し直す。
「ん!」
そこまでされれば、鈍い方ではないオニワカだから言いたいことは理解できた。
つまりは少女も。
「名前が欲しいのですね?」
訊かれても彼女は答えられず、ただオニワカの目を見つめ返してくる。そこに若干の不機嫌と、それから期待を目にした気がしてオニワカは思わず飛び跳ねそうになった。
彼女がオニワカに自らの命名を委ねようとしてくれているのだから。
やや恐れ多くはあったが、どの道少女につける名前と言えば一つしか思いつかない。
だからオニワカは彼女の両親の思いを汲んで。
「希」
希望の一文字を少女に手渡す。
「ノゾミ、というのは?」
「のぞみ……?」
提案されたその名を、少女は目を伏せて口の中で反芻する。響きを何度も噛みしめ、顔を上げたら目が合った。
そんな彼女の表情を目にしたオニワカも思わず口元を綻ばせて、『魔王』と呼ばれた少女、ノゾミの笑顔に笑い返す。
「ノゾミ。……ん!」
頷きながらのその微笑は、年頃に見合った恥じらいと柔らかさを内包していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます