第1話
まず鼓膜をかき鳴らしたのは、押し寄せては跳ねる波の音だった。そこに混じる砂が擦れ合って、頭の芯をくすぐる。
「……っぅ」
うつ伏せだった彼はゆっくりと寝返りを打って、目を開いた。瞼越しにも感じられる日の光の眩しさに網膜を焼かれて思わず腕を翳す。
息を吸えば容赦なく鼻腔を駆け上ってくる独特の臭気が脳髄すら侵し尽くすようだった。どこかで朽ち果てた魚たちの死骸から溢れ出した腐臭だ。
つまりは大変に磯臭い。
寝たまま左右を見渡すと案の定、そこは日の光を集めて注いだような砂浜だった。
こんな景色がまだ残っていたのかと見惚れること数秒、その意識は水が染みた布切れよりも鈍重な自分の体に引き戻される。
草臥れきった上体を何とか持ち上げたら、着崩れた紺の礼服が腰元まで海に浸っていた。そこでふと気になって自らの袖に鼻を寄せる。
一息も吸い込み切らない間に彼は後悔させられた。
「くっ……せぇっ!!」
いがらっぽい声を吐き散らしながら、顔をしかめて腕を遠ざける。
腐臭の大半は着衣に染み着いていのだ。おまけにその所々が裂けていて、如何に長らく波に揺られていたのかを思い知らされる。
そんな有り様だから期待はせずに礼服中を探ってみた。けれども、というよりはやはり、身分を証明する物品は出てこなくて、重たい溜め息が口から零れた。
無論、そうしてもいられずに彼は体の調子を確かめてみる。
「あ。あー、あぁ」
手始めに声を出してみたら、最初だけは声未満の雑音が漏れ出たものの次第に喉が発声のやり方を思い出してくる。
それに満足して今度は慎重に膝をつき、そこから砂浜に靴底を静めて体を持ち上げていった。三半規管が死んでいやしないかと案じていたが、杞憂に終わる。立ち上がりその場で跳ねてみても彼の感覚は異常を訴えなかった。袖口から塩辛い滴と小さな蟹が飛び出すのみである。
身体は概ね正常、エネルギー不足の主張が甚だしい腹を除けば異常なし。
だったら食料を探しに行けば良いだけにも思えるのだが、一つだけ立ちはだかる問題の大きさが彼の足を縫いつけていた。
辺りを見回してまず呟く。
「……どこだ、ここは」
彼の頭には世界中の地理が叩き込まれているはずなのだが、思い当たる場所がない。気を失っている間に天変地異でも起きたのかとあり得ない可能性を疑ってしまう。
だが今はそれさえも些細な問題でしかなかった。
「誰なんだ俺は……?」
何一つ、思い出せない。汚泥のように頭の底に溜まった記憶を漁ろうするのに何も拾い出せず、虚しく時間と体力ばかりが費やされていく。
「参ったな……」
途方に暮れるしかなかった。辺りに人の気配もなく、どちらへと歩き出せば良いのかも分からない。
かと言ってここでじっともしているわけにもいかずに周囲を見回した。
海には青い沖が茫洋と続き、海岸には砂浜が果てることなく波打ち際に寄り添っている。そしてそこから広がる陸地には背の高い草が群れるばかりで防砂林すら整備されていない。
「別天地って感じだな……」
記憶の中に欠片だけが残る、荒れ果て退廃した風景とかけ離れ過ぎている。
その孤独に耐え切れず落胆も通り越して呆然としていた、彼の意識に稲光が走った。
草藪を揺らす潮風の音に、異質な響きが紛れ込んでいる。
――てっ!
耳を澄ませば、それは確かに人の声だった。そこに鬼気迫ったものを感じ取ると彼の体は決断するより早く駆け出している。
踏み出すたび足に纏わりつく細かな砂も、逆風も大した障害にはならなかった。彼はそれらを蹴り散らし、浜辺との境界にある草むらの途切れ目を飛び越えて藪に突っ込む。腕で顔だけを庇いながら駆け抜けていくと程なくして森林との境目にある小道に出た。
「なっ、な、何でこの時期に!?」
叫ぶ声は彼に向けられたものではなく、また彼が発したものでもない。
声がした方角に目を向ければ、初老と思しき軽装の男がこちらに背を向けて尻餅をついていた。しかし彼はそれよりも、その頭越しに見えてしまった黒い影に目が引きつけられる。
「熊……じゃないな」
人を遙かに越すその巨躯は黒い体毛に覆われていた。
「あれは爪、なのか?」
太い腕に一本ずつ備わったその爪は、しかし外見の上だとぎらぎらと黒光りする刃にしか見えない。
それを証明するように道の右手には首の切断面を晒した馬が木にもたれ掛かっていて、その向かいには主を失った馬車が藪に突っ込んでいた。
化け物のずんぐりとした胴は細く強靱な足に支えられ、三本の爪を地べたに突き立てて男に迫る。
「こ、ここで死ぬのか、私は……」
後ろ向きに這いずっていた男の腕が止まった。諦めたせいか震えも収まり、目を閉じて迫る死の息遣いを受け入れてしまう。
ここを好機と見た化け物は、人が駆けても二、三秒はかかる距離を一跳びで詰めて男に肉薄した。その大鎌が如き爪が振り上げられたとき、しかし背後からも小柄な人影が飛び込んでくる。
男を挟んで等距離になるまで、彼は魔物に接近し終えていた。
突如迫り来る少年の姿に注意が逸れ、化け物の動きは僅かに鈍る。
その黒い目が、深く身を落とし腰を沈めた態勢の少年を映し出した。
彼は駆けてきた勢いそのままに右足で地面を踏みしめ、そこから土がたわむまで力を込めて地面を蹴り飛ばして半歩前に出した左足を軸にしながら腰を捻る。
最後に力を爆発させる刹那、目と口しかない化け物の顔を彼は睨みつつ裂帛の雄叫びを上げて全力を放出した。
「――っうぉおおおオオオッ!!」
軸足で地べたを蹴って体ごと撃ち出し、男の頭上を一直線に越えた。反応し切れていない化け物の腹へと、脇の下に構えていた右の拳を撃ち込む。
――が、まだ終わりではない。
彼はそこから拳を捻ってめり込ませ、堅牢な鎧となっている体毛と皮膚を破った。腕の先が生々しい血と肉の感触に被われるにも構わず、拳を突き入れてその中を抉る。
「……っはぁ」
腹の奥にある堅いものを粉砕した彼は、威力を出し終えたその一瞬、中空で静止した。
それから腕を引き抜きつつ着地すると、軽い足音と共に指の先から血飛沫が尾を引く。それを追うように怪物の腹からも血が爆ぜ、だらだらと流れ出した。
その様を、化け物は変わらぬ表情のまま見下ろす。それから一歩、二歩と後退したところで口から血の泡ぶくを吹き出し、足がもつれて背後に倒れていった。
鈍い重たい音を立てて地に伏せたそいつが、動かないことを確かめてから彼は背後に振り返る。そこでは唖然とした男の顔が彼を見上げていた。
「いやぁ、しかし素手で魔物を倒せる御仁がいるとはね」
庇の下の影に入った男は、すっかり弛んだ表情で言う。それに遅れて、馬車を建物の物陰に横付けしてから男の隣に並んだ彼は、手を払いながら訊ねた。
「魔物?」
「何言ってるんだい? さっき君が倒したあいつだよ。あれは魔物だ」
頭髪に白色の混じる男は薄目を開けて彼の顔をまじまじと眺める。魔物なる生物を知らないことがそれだけで男には不可解に思えたからだった。
その心中を察しながら、彼は質問の仕方を考える。
「そうですか……ここではそう呼ばれているんですか」
そうやって、さも自分は別の呼び方をしていたように装って。
少なくとも彼に残された知識の限りでは、あのような生物は存在しない。部位ごとに分ければ幾らかは心当たりもあったが、生存に合理的な形質をしているとは思えない。
「まるで人を殺すためだけに生まれたような生物ですよね」
彼の呟きに男は何度も深く頷く。
「そうだ。その通りだよ。あれは災害も同然だ。定期的に数が増えては人を食らっていくのだからね」
うなだれて男は苦々しく呟く。その暗い面持ちからは気持ちの良くない記憶が透けて見えた。
「私も今度ばかりは駄目かと思ったよ。この時期は数が少ないからと油断していたんだ」
油断していた、と男は言うがその目にはどことなく自棄的な色合いが見て取れる。そこで死ぬ運命なら死ねば良かった、とでも言い出しそうな危うさが覗いていた。
「あまり偉そうなことは言えませんけど、進んで死ぬのはどうかと思いますよ。少なくとも俺が見かけたら、また必ず助けますから」
そうすることしか彼にはできないから。
彼の根本には人を助けるようにと仕向けてくる何かが根付いていた。
彼の慰めに男は笑みに含ませた苦々しさを一度だけ深め、それから払拭する。再び男が顔を上げたときには、その目に幾らか明るい活気が戻っていた。
「そうだね。せっかく救われた命だ。君のおかげで積み荷も捨てずに済んだことだし」
肩を揺らして笑いかけながら、男は彼を労う。
「すまないね、大変だったろうに」
「いえ、お互い様ですよ」
ここまで荷馬車を運んできたのはおよそ人間とは思えない膂力を持った彼だった。首を跳ねられた馬に変わって、ここまで引っ張ってきたのである。
「それに俺の方も積み荷から食料を頂けましたし」
「いやいや。それくらいでは恩返しにもならんよ。ふむ、しかし、それにしても君は腕っ節が強いね」
「そう……なんですかね」
道中で度々された話なのだが、先ほどの魔物を武器も持たずに狩るなど人の為せる所業ではない。人の身で荷馬車を運ぶことも然りである。
「君のような者が通りがかったのも、『神』の思し召しか」
男は両手を重ねて胸の前に掲げて、小さく祈りの文言を捧げる。紡がれた言葉が形になって光を散らし、天へと昇っていった。
「さて」
祈祷を終えた男は目を開き彼に提案する。その手が指し示した先にあるのは、彼が馬車を停めた傍らにある建物の入り口だった。
「今日は……いいや、今日だけと言わず気が済むまで、私に君の宿代を支払わせもらいたい」
にこやかに言うが決して軽くない負担であることは想像に難くなかった。
「いや、さすがにそこまでは申し訳ありませんし」
「なら君には行く当てがあるのかい? 今は無一文なんだろう?」
「……それは、確かに」
その通りなのだが。
それでも彼が辛抱強く言い訳を考えようとすると、そんな彼よりも先に男が口を開いた。
「心配しないで良い。ここの宿主とは顔馴染みなんだ。多少はまけてくれるさ」
こうまで言われて拒絶できるような動機は思いつかなかった。あまり露骨に厚意を押しのけるのも失礼に感じられて、肩の力を抜く。
「すみません。しばらくの間、世話になります」
「これから、どうしようか……」
フソウから借りているなめし皮で装丁された書物を閉じて傍らに置いた。それから窓の方へと足を向けて腕を枕に体を横たえる。
その部屋は土間を上がると三畳ほどの居間になっていて、部屋の奥には丸く縁取られた採光窓があった。そこに取り付けられた木の格子が網目状の影を投げかける室内はやや薄暗いものの、気分を落ち着かせるには都合が良い。
昨日になってそんな寝床を得た彼は、ここまで後回しにしてきた頭の整理と状況の理解に勤めていた。
何を隠そう、未だに現在地さえ突き止められずにいるのだから。
「神様、か」
今し方まで読んでいた書物、フソウは聖書と呼んでいたそれを一瞥して彼は呟く。
この世界は遠い昔に一度滅んだ。
それでも生き残った数少ない人々に、手を差し伸べたのが『神』と称される存在である。人々はその助力を得て祈りと感謝を捧げながらこれまでを生きてきた。今の文明があるのはひとえにこの慈悲があってのものなのだ――。
斯様に概略できる歴史が聖書には記されていた。その信憑性については何とも言えない。
参考にはならなかった、というのが彼の本音である。
「仕事を探す手がかりにならないかって期待したんだけどな」
何はともあれ、今の彼には稼ぐ当てが必要だった。そしてそれが叶うのなら資金を貯めて、自分の正体を探す旅に出たい。
未だに彼は自分がどこで生まれ、何をして暮らしてきたのかも思い出せない。
それが溜まらなく不安で、焦燥が胸の底をちろちろと焦がした。
何かするべきことがあったはずなのに。自分はそのために生み出されたはずだというのに。何も思い出せなくて、こんなところで無為に時間を過ごしている。
そんな不安が繰り返し胸を駆り立てて焼き焦がし――
「――おい!! 今、いるのか?」
怒鳴り声が彼の思考を打ち消した。知らぬ間に頭を抱えていた彼は、我に返って身を起こす。部屋の戸が叩かれ、誰かが返事を求めていた。
「いるんなら返事をしてくれ!」
「あぁ、はい! いますっ! いますよ!!」
大きな相手の声に掻き消されないようにと彼も声を張り上げて返答する。すると扉の向こうから、男の嗄れた長い息の音が聞こえてきた。
「良かったよ。あんたが助けた行商から話を聞いたんだ。何でもあんた、素手で魔物を討ち取ったんだって?」
全て事実で、彼は相手を警戒すべきかと逡巡したが、意味のないことに思えてやめる。
「そうですよ。鎌のような爪を振るう化け物をしとめました」
すると今度は大音声の笑い声が返ってきた。
「そうかいそうかい。てことは、腕っ節には自信があるんだな?」
そこで薄々彼もこの会話の意味を感づいて「えぇ」となるべく大きく声を掛ける。
「なら良かった。あんたに頼みたいことがあるんだ。今、時間大丈夫か?」
彼が予想した通りに仕事の依頼だった。思わぬ幸運に喜ぶ気持ちと、自身を俯瞰する冷静さが入り交じる。
「えぇと、念のためにあなたがどこの誰で、どなたから俺の話を聞いたのか、教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
身元の提示はともかく、彼が警戒心を剥き出しにした質問しても、男の声の調子は落ちなかった。それどころか尚更楽しそうにしてこう言う。
「俺はこの村の自警団の団長を勤めていてな、一颯という。あんたの話は行商人の爺さんに聞いたんだ。あの爺さんには何度か世話になっていてな、確かな情報だろうと思ったのさ」
つまりは彼が助けた商人の信頼がこうして仕事を引き寄せたのだった。日溜まりに浸かったように少しだけ温かい気持ちが湧いて頬を弛ませながら、彼は告げる。
「分かりました。不躾なことを訊ねて申し訳ありません。それではどうぞ、中にお入りください」
そう声を掛けるよりも早く戸が横に開かれ、大柄な図体の男が片手を振り上げ踏み込んできた。
「よう。……あぁ? 思ってたよりちいせぇな」
確かに、男と比べたら彼の肩幅は半分程度しかない。背丈など近くから見上げれば首が痛くなるほどで、比較するのも馬鹿らしい。
しかしそれは、彼が小さいと言うよりは。
「あなたが大きすぎるだけなのでは? 大柄な方は珍しいでしょうに」
彼が居住まいを正しながら言うと、日に焼けた男の浅黒い頬がなぜか楽しそうににたりと歪んだ。
「魔物の、それもでけぇ奴を素手で倒したなんて聞いたら、誰だって馬鹿にでかい野郎を想像するんだよ」
そう語る男の顔は傷だらけで、羽織から露出する腕や首もとにも大きな切り傷の痕が残っていた。
「なるほど。例えばあなたのような方ですね?」
「あんたが倒したってのよりは、ちょっと格が落ちるがな」
それでも得意げな顔をする男にとってはそれが余程の誇りであり、勲章なのだと彼は悟らされた。
もしかしたらこの男はそうした勲章を持つ他の人間に興味があったのかもしれない。話を聞く限りでは珍しいことのようだし、などと考えていたら、男はいつの間にか下駄を脱ぎ散らかして隣に腰を下ろしていた。
「せっかく人が来たんだから考え事なんかしてねぇで、二人で話そうぜ」
そのまま遠慮もへったくれもなくどさりと座り込んで、彼の首に腕を回してくる。
「さすがに馴れ馴れしすぎませんかね?」
彼がどんな表情をして良いのか分からずにいても、男はお構いなしである。
「ホントにほっせぇな……これであの魔物を倒したってのか。あんた、何か『魔術』でも使えるのかい?」
「『魔術』ですか?」
またしても飛び出る聞き慣れない単語に、彼は素直に教えを請う。男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた表情を取り繕い語り出した。
「神様に願って奇跡を起こす『魔術』体系の総称だ。流派にもよるが、火を熾したり筋力を強化したりすることもできる」
「あなたも使えるんですか?」
彼が訊ねると男は苦笑しながら首を横に振る。
「いや、特定の血統の人間にしか使えねぇんだ。あいつらが言うには神聖な血っつぅのが必要らしい」
肩を竦めて言う男の口調はどこか馬鹿にした響きがした。少なくとも、特定の血族にしか使えないという話を男は信じていないのだ。
「まぁ俺みたいな凡俗でも、これくらいはできるんだがな」
言いながら男は人差し指を胸の前に掲げた。それから目を瞑って祈祷の文句を囁くと同時に、指の先に空気が破裂するようにして小さな炎が灯る。
「今のは……」
彼は瞬きすることもなく観察していたが、仕掛けの類は見当たらなかった。どうやら知識にない事象らしいとひとまずは事実を受け入れる。
男は指の先の火を吹き消して自嘲じみた笑みを浮かべた。
「こんなもん、実際の戦いでは何の役にもたたねぇよ。大人しく体を鍛えた方が建設的だ」
それから彼の腕や肩に目を向けた。顎の髭を撫でながら言う。
「その点、魔物を丸腰で倒せるんならこれ以上ない戦力なんだが……」
男は彼の実力を計りかねているらしい。本当にこれで倒せたのか、という疑問が顕著に顔に顕れていた。
「何も見せずに俺が信じろとは言いませんよ。だから適当な戦場に――」
「なんだこれ」
「聞けよ」
思わず彼が漏らした文句も男は気に留めない。興味深そうな顔をして彼の後ろ髪を摘み上げ、うなじにある何かを注視していた。
「文字が彫ってあんだけどよ、何て読むのか分かんねぇ」
「『紅之鬼若』」
我知らず口走っていたその単語に彼自身が自分の舌と頭を疑った。
「どういう意味だ?」
「俺の……個人名?」
自分のことなのに満足に応えられず、彼は苛立つ。
無意識の内に口にしていたが、その名は曖昧になっている記憶から転がり出たその一欠片だった。
「つまりは名前ってことで良いのか?」
無骨な眉を顰めた男の、大変に単純な解釈は的を射ている。反論する気力も湧かなかった彼は「そのようです」とだけ伝えた。
「なるほど。しかしそのままじゃあ、あんまりにも呼びづれぇな。適当にオニワカとでも略して良いか?」
さすがに非礼過ぎやしないだろうかと沸き立った怒りを深く息を吐くことで彼は鎮めた。
「勝手にしてください」
どうせ抗議しても受け入れられない気がして、早々に結論を投げる。
「そうかい。だったら俺のことは、イブキと呼んでくれ。それからくすぐったいから、その敬語は止してくれ」
それからまた大口を開けてイブキは笑い出す。その姿を見ていると悩んでいるのも馬鹿馬鹿しくて、オニワカは吐き出す溜め息ごと迷いを金繰り捨てた。
それから大まかな会話の流れを男に委ねることにして、話題を切り替える。
「分かったよ、イブキ。それで俺に頼みたいことってのは?」
イブキは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。オニワカから腕を離すとその背中を軽く叩いて話を切り出した。
「その話なんだがな、俺はオニワカに、一時的にこの村の自警団に加わってもらいたいんだよ」
ほぼ予想していた通りの話で、これにはオニワカも驚かない。問題はむしろその事情とやらである。
「わざわざ外部から人を雇うのか? 大勢が魔物にやられたとか?」
口に出してしまってから明け透け過ぎる物言いだったろうかとオニワカは自身を恥じる。しかしイブキはさほど気にした気色も見せずに声を出して笑った。
「馬鹿言え。そうそうウチのモンがやられるかよ。今回オニワカを雇いたいのは、それだけでかい仕事が待ってるからだ」
「この先に大きな戦いでもあるのか?」
訊ねたらイブキは無言で頷く。
「まだ確定したわけじゃねぇがな。まぁちょっと、話だけでも聞いてくれよ……」
イブキの口から語られたのは、それなりに衝撃的で、関係のない人間には聞かせられない事実だった。
夕暮れ時、世界が色褪せたように赤く染まる頃、オニワカは宿屋の食堂を訪れていた。ここは宿屋に泊まるものならば誰でも利用できる場所で、望めば朝昼晩と食事が提供される。
細長く、彼の部屋を二つ並べたほどの空間にカウンター席とテーブルが備え付けられていた。テーブル席の一番奥で窓から差し込む斜陽に照らされた壁や食卓の木の模様を眺めていたら、どんぶりの乗った盆が右斜め前に置かれた。
「それで、仕事を頼まれたんだって?」
「えぇ、まぁ」
「まぁ、君の実力なら傭兵としては文句なしだろう」
行商の男は言いながら、オニワカの隣に腰掛けた。それから「ふぅ」と一息ついて、出し汁の匂いの中に箸を突き入れる。
「あなたが宣伝してくれたおかげですよ」
オニワカの能力が容易に信用されたのはこの行商の信頼があってのものである、とオニワカ自身も自覚している。だから素直に礼を言ったのだが、男はくすぐったそうに小さく笑い声を上げた。
「私は君の……えぇと、オニワカくんの戦いっ振りを言いふらしていただけなんだがね。それが君のためになったのなら幸いだ」
自然な仕草でおどけたように見せかけて、男は謙遜する。和やかに微笑む男の顔は夕焼けを浴びて陰影を増し、いつもより重ねてきた年月の重さを感じさせた。
そこでオニワカはあることを思い出す。
「そう言えば、今更ですけど名前を伺ってもよろしいですか?」
「もちろんだよ」
男は懐から紙切れと万年筆を取り出し、素早く文字を書き連ねた。彼はそこに記された字の読みを確かめるため、口に出す。
「コウヤ……フソウ……?」
読み方に自身を持てずにいたのだが、男は朗らかな顔で頷いた。
「あぁ。そうだよ」
「浮き草と書いてフソウと読むんですね」
あまり見かけない読みであり、名前だった。字面だけを見ると不安定で、どこかに流されてしまいそうである。
「由来はあるですか?」
オニワカの質問にもフソウは穏やかな顔つきで「あぁ」と答えた。
「浮き草はね、水に流されながらも汚れを浄化しながら驚くほどの勢いで繁殖していく植物なんだ。そして私の一族は代々旅をしている。浮き草のようにね。その中での繁栄を願って私はこの名を与えられたのだよ」
語るフソウの目は昔懐かしむようで、深い郷愁を漂わせている。その名を与えてくれた両親と別れて、フソウはどれほどの月日を過ごしてきたのか。
オニワカには想像するしかないが、フソウは遠い過去にある両親と共に旅をしていた日々を思い出しているのだった。
「なるほど」
オニワカが納得というよりはむしろ感慨を得ている間もフソウはしばらく酒に酔ったように過去に微睡んでいた。オニワカが窓の外に目をやってフソウの気が済むのを待つ
それからさして間も経たぬ内にオニワカの肩が叩かれた。「どうかしましたか?」とオニワカが訊ね掛けしたら、フソウは答える。
「何、大したことじゃないんだがね。君の名前の由来はやはり、伝説に記された武者なのかい?」
さも知っている前提のように話を振られたものの、オニワカの記憶に思い当たるところはない。
「武者?」
訊ね返したらフソウは僅かに呆けた顔をして、それから痛恨の表情を浮かべた。
「あぁ、そうか。しまったな、またやってしまった。私のような旅人は物語の語り部もやっているんだがね、その中の一つにとある一族の隆盛と没落を描いたものがあるんだよ」
「その中に鬼若という武者が?」
「そうだよ。正確にはその武者の幼名が鬼若なのだがね。希代の戦の天才に仕えた武人で、大変武勇に優れ、忠義に厚い男なんだ」
武勇に優れ、か。
オニワカは自分の手の平を見下ろし、思う。
その手に宿った規格外の力は、恐らくそんな名前がつけられるような目的に由来するものだ。或いはこの力があるから、その名を与えられたのか。
いずれにせよ、彼には仕える相手というものに心当たりがない。
「この宿に来るまでに話したと思いますけど、俺には記憶がないんですよね」
「そうだったね。……うん? それじゃあ名前の由来も?」
「はい……どうにも、そうみたいです。何も記憶に引っかかるものがない。忘れていることの一部みたいです」
落ち込んでいたわけではないものの、自然とそこからオニワカの口数は減った。忘れた、とはいったが、どうしても思い出さねばならない気がしたのだ。
彼のその様を見て、フソウはしばらくどんぶりから麺を啜っていた。その音だけがしばらく静寂を支配し、やがてオニワカが溜め息をつく。
「駄目ですね、すみません。やっぱり思い出せそうにない」
オニワカが言うと、フソウは軽い調子で喉を鳴らした。
「まぁ、そんなこともあるだろうさ。それより、今度の仕事について聞かせてもらいたいのだが」
急な話題の転換だったが、気詰まりを正すには良い機会でもある。オニワカはイブキから語られた一つ一つを思い浮かべていった。
それからゆっくりと話を整理して語り始める。
「近頃、魔物の集団での大移動が観測されたそうなんです。俺が駆り出されたのは、そいつらの掃討作戦らしくて」
「なるほどね。『魔王』の軍勢も大きく動き出したわけだ」
さり気なくフソウの口から飛び出た初耳の単語をオニワカは聞き逃さない。
「『魔王』ですか?」
再三の彼の質問に、フソウは今更呆れるでも驚くでもなく応じる。
「そうだよ。『魔王』。それは我々の『神』と争い、唯一その存在を揺るがしうるものだ。魔物たちを統べているとも言われている。人類の敵だよ」
「人類の敵……」
語っていたフソウの口調も、使われたその単語も随分と物騒でオニワカの注意のほとんどはそちらに向かっていた。普段のフソウとはかけ離れた強い敵意と憎しみが感じられて、オニワカは戸惑いを隠せない。
「その敵ってのは……具体的に何をしたんですか?」
「何、だって? 魔物を統べているんだよ? 他にどんな理由がいる?」
「そう……だったんですか」
魔物が誰か操られていた、というのは確かに納得の行く話だった。
オニワカが考えるに、魔物は人造の生物である。
彼が目にしたあの姿は獲物の首を刈り取る大鎌ばかりが発達していて、なのに肉食獣にあるべき牙がその口になかった。おまけに人を好んで襲うなど自殺行為であり、餌が足りていれば人間など遠巻きにするのがあるべき獣の姿である。
まるで生存に適していないその有様は、殺人がために生み出されたようにさえ思えてしまった。
故にフソウの話を信じるなら、魔物は『魔王』が開発したものだと考えるのが妥当なのである。
これが全て真実だとしたら『魔王』は確かに恐ろしい存在だ、と言わざるを得なかった。
けれども。
「これまで、魔物に制圧された地域は存在するんですか?」
唐突な追加の質問にフソウは面食らった顔をした。けれどもすぐに、これまでよりも幾分が和らいだ表情で彼は答えてくれる。
「いいや。魔物はよく栄えた町や村しか襲わないんだ。だから犠牲が大きくなることはあっても防衛に失敗したことはない」
「なるほど。ありがとうございます」
などと口では礼を言いながらも、オニワカの疑念は深まっていくばかりだった。
どこかの町を占領するでも、辺り一帯を支配するでもなく。
そこまでのことをして、一体どれだけ『魔王』に利益があるというのか。
今までの話を考慮したら、まるで人類をいたぶることそのものを『魔王』が志しているように聞こえてしまった。だがそんなことをしても、まるで得たものが労力に見合わないのだ。
だとしたら、別の思惑がある? 或いは。
「俺は――」
『魔王』が本当は、と続けそうになって。
はっ、となりそこで、オニワカは口を閉ざす。その続きを語ればどんな目で見られるのか、少なくともフソウとの関係に亀裂が走ってしまうかは明白である。
「どうかしたのかい?」
フソウが不思議そうに問うてくるが、オニワカは誤魔化しの笑みを口元に浮かべて首を横に振った。
「いいえ、大したことではありません」
そこで言葉を切ろうとしていたオニワカだが、これではまだ追求されるかもしれないと思い至る。嘘もつきたくなかった彼は堪えかねていた疑問の一つをぶつようと決心した。
「ただ少し気になっていることがありまして」
オニワカが言うとフソウは人の良さそう笑みを浮かべて、オニワカが目論んだ通りこう言った。
「なんだね? 私に答えられることなら何でも答えよう」 フソウの人柄の良さが今だけはオニワカを苦しめる。強烈な罪悪感に胸を締め付けられながらも、彼は必死に笑顔を取り繕った。
そうした内心の動揺を気取られないように気を配りつつオニワカは訊ねる。
「どうして皆は、『魔王』が魔物の長だと思ってるんですか?」
この質問にフソウは少し困った顔をした。そのことにオニワカが緊張したのも束の間、やがてフソウは言葉を選びながら事情を説明してくれる。
「まそのことが伝説に記されているからだよ。『神』と敵対する『魔王』がその手駒として魔物を作り出したんだ」
フソウの説明は簡潔で分かりやすかったが、それが全てではないらしい。しばらくしてから、やがて申し訳程度に彼はこう付け加えた。
「もう一つ理由がある。魔物たちは長い道のりを辿った後に必ず『魔王』の城へは集まるんだ」
「……なるほど」
部外者のオニワカには、こちらの方により強い説得力を感じた。彼の考えと合致していたし、そうでなくとも神様からお告げなどよりは論理的に思える。
しかしこの一帯では伝説により人々の価値観が作られ、誰もそれを疑おうとはしないのだ。
だから、この疑問は自分一人の胸に納めておこうと思いつつ席を立ったら、オニワカは肩を叩かれた。
彼が振り返ると、崩れかけの笑みを浮かべたフソウがオニワカを見上げている。
「君は明日、魔物たちの群れと戦ってくるんだよね?」
「えぇ。確かに、そうですけど」
するとフソウは、そうか、と言わんばかりに頷きオニワカの目をじっと見てきた。
「良いかい? 君は一人でどこまでも戦えてしまえるだろう。けれどね、時には誰かに頼っても良いんだよ」
そんな唐突な忠言にオニワカが怪訝な顔をすると、フソウは苦笑をしながらもこう付け加えた。
「君なら私に言われるまでもないことだろうが、生死を懸けた戦いは甘くない。例え一度無傷で済んだとしても、繰り返せば必ず傷ついていくことになる」
語るフソウの目は伏せられている。
「そんなとき、君に助けられた誰かはきっと君のことを助けたいと思ってるんだ」
ちょうど、今の私のようにね。
そう笑って茶化すフソウにオニワカは胸の中が一杯になって礼の言葉さえ満足に返せなかった。
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